「やっと着いたぁ……」
私は肩幅以上に開いた両膝に手をつき、大きく息を吐いた。
道中、悪霊が夏のキッチンのコバエの如くぽんぽん現れたせいで町に着くのが予定より大幅に遅れてしまった。もう殆ど日が沈んで辺りは暗くなっている。
「休んでる場合? 早く宿探すよ!」
悪霊と切った張ったを繰り返したモモタロウくんとヌラリヒョンさんは私よりも元気で、へこたれている自分が情けなくもあり、別世界の人間だと遠目で見てしまう。実際別世界だし、片方は人間でもないが。
「儂が抱き上げてやっても良いのだがどうする」
「いえ大丈夫です」
冗談なのか本気なのか判らないが勿論遠慮しておく。
「そこ! ダラダラしない!」
鬼教官モモタロウくんに言われて、私たちはそこそこの速度で追いかけた。
空部屋のある宿屋はいくつかあったのだが、木賃宿であったり、見るからにガラの悪い人の溜まり場の宿もあって、選択肢は一つしかなかった。そこだけは値段もそれほど高くなく何ら文句は
「混浴ぅ!?」
固まる私を不思議そうにモモタロウくんは見てきた。
「別に良いでしょ。それじゃあ二部屋用意して」
界貨も払ってしまった。あわあわする私に、ヌラリヒョンさんが耳打ちしてきた。
「どうする。儂らだけ別の宿にするのも手だぞ」
部屋割りは、モモタロウくん、私とヌラリヒョンさんになっている。よって私たちだけ別の宿に行くことに問題はない。料金もモモタロウくんは自分の分を支払っただけだ。
「だ、ダイジョウブですよ。あはは」
私は頑張って笑ってみせた。
「……判った。では支払うぞ」
他の所で寝るくらいならここに泊まる方がマシ。そう思いながらも支払われる界貨を見て、あぁあ……と後戻りできない事実を嘆いてしまうのであった。
隣同士で部屋を取り、寝る時以外は襖を開けるのが私たちの宿泊スタイルだ。各自入浴の準備をしていると、私から陰気な雰囲気が漏れていたのだろう、モモタロウくんが「何か文句あるの」と不満げに聞いてきた。
「宿に不満はないけど。……混浴が苦手なだけ」
「はあ? 入れるだけありがたいんだから、贅沢言わないの」
「判ってるよ……」
あ~~~、八百万界のひとたちに日本の常識押し付けてやりたい~~~。
さてここで、私が知る、八百万界の宿泊施設の風呂事情について。
高級な旅籠屋は現代と同じく個人風呂が用意されている。
安くなるほど集団風呂の割合が高くなり、混浴風呂も同じように増加する。
現代の日本では性別が入り混じる混浴風呂は殆どなく、あっても水着着用が義務付けられている。少なくとも私が知る限りでは。
しかし八百万界は違う。
本当に何もかも一切纏わなくても良い純粋な混浴風呂が存在する。
湯文字すらなくても良い。すっぽぽぽっぽっぽーんなものだ。
その存在を初めて聞かされた時は、八百万界は時代遅れの未開の地だと思った。ヌラリヒョンさんとモモタロウくんの世界をこき下ろすのは良くないと判っていても、最初はドン引きした。理解不能だった。江戸期に外国人が日本の風呂を見て「この町の住民の道徳心に疑いをはさまざるを得ない」などとカルチャーショックを受けたのも今なら判る。
見ず知らずの異性と入浴なんて、普通恥ずかしくない? ヌラリヒョンさんとでさえ平気とは言えないのに……。
混浴は入口が一つなので、脱衣所も男女共通の空間である。
「はぁ……」
憂鬱。
それでも私は学校生活で培ってきた技術で裸体を晒すことなくバスタオルを巻いた。
そうそう、八百万界にタオルは存在してくれて良かった。
襦袢のような素材だと肌にぺっとりとくっついて……その……身体のラインが見えすぎるなあ……って思っていたから。
タオルを装備したので二人と合流しよう。
二人は入りの時間をズラして後から来ているはずだが、ただ脱ぐだけなら既に準備を終えているだろう。
きょろきょろと見回すとすぐに二人を見つけられた。
揉め事に目を向けてみると、なんとそれがモモタロウくんだったのだ。
「二人ともどうしたんです?」
手拭い一枚で下半身を隠しただけのヌラリヒョンさんに話しかけた。身体を出来るだけ視界に入れないようにして。
「ああ、其方か。実は彼奴が刀を持ち込むと言って聞かなくてな……。丁度女将の説得が終わった所だ」
女将さんが帰っていくが、モモタロウくんはまだ納得出来ていないようだ。
「別に誰かを斬ろうってわけじゃないって言ってんのにさ。ほんと頭硬いよね!」
流石女将。正しい対処である。
「まぁまぁ。今日も疲れたし早くお風呂入ろうよ」
「はいはい。そんなに入りたいなら行ってあげる」
風呂に入る気になってくれたモモタロウくんと、入りたくてそわそわしていたヌラリヒョンさんとで浴場へ入った。
中には温泉がいくつかあって、話が盛り上がっている湯、汗を拭きだしながら黙って入っている湯、泳いでいる湯と場所ごとに様子が違った。
私は無人の湯を求めて端へ向かうと二人もついてきた。
ヌラリヒョンさんはともかく、モモタロウくんは一応私たちと一緒に行動する気がある事が意外に思った。
「はぁ~。気持ちいい~」
「……ふう、少々ぬるいがこれはこれで良いものだな」
「…………はぁ」
小さな風呂に私、そこから距離をとって二人が入っている。タオルのみの無防備な姿を見られるのは憂鬱だったが、二人が気を回してくれているのは明らかだったので不思議と嫌悪感はなかった。それに首まで入ってしまえば殆ど見えなくて、心配していたほどでもなかった。
それにタオルは力いっぱい巻いておいたし、もしもの事故など起こるはずなく。
入ってすぐは、全員黙りこんで活発になっていく血流を感じながら「ふう」やら「はあ」やら各自声を漏らした。
ある程度満喫すると、会話をする気になってくる。
「今日さ、ヌラリヒョンさん仕損じたよね」
最初の会話は反省会だった。って、えーー!!!
のっけから気分下がるなあ……。
「あれはわざとだ。生き残りが何処へ向かうか泳がせるつもりでな。……それを其方はさっさと斬り殺してしまって」
「なら最初から言ってよ。言わなきゃ判らないでしょ。妖の考えなんてまともじゃないんだから判るわけないじゃん」
うわあ……。なんですぐ喧嘩売るかなあ……。
「すまぬな。伝える努力はしよう」
ヌラリヒョンさんは毎度受け流すから大事にならないけれど、本当は気分悪いだろうなあ。
代わりに私が諫める事にした。
「あのさ、そういう言い方しなくて良くない? 人族だって全員まともなわけでもないでしょ?」
「まともじゃない奴は人族じゃなくて、ただのクズだよ」
またそうやって選民しちゃって……。
「そもそも君が一番悪いんだからね。君がフラフラしてなきゃさっさと斬れたんだから」
「え。ご、ごめん……すみませんでした」
飛び火したあげく謝らされてしまった。モモタロウくんはこと戦闘になると異常に厳しいのだ。
私とヌラリヒョンさんが黙り込むと、次第にモモタロウくんはそわそわし始めた。
「な、何か話しなよ」
この雰囲気を作った張本人がそれを言うのかと詰りたくなるが、言ってもしょうがない。
モモタロウくんの中では、人と妖と神には大きな線引きがあって、三種族を全く違う生物として見ている。
特に鬼が属する妖族については、悪感情を募らせているので当たりがきつい。
せめてヌラリヒョンさんの事は悪く言わないでと怒った時もあって、これでも少しは控えてくれるようにはなったのだ。
「じゃあ、モモタロウくんが何か話題振ってよ」
何事もなかったかのように許すのは癪で意地悪を言った。
「え、えっと……」
黙って考えていたモモタロウくんが、じゃあと言った。
「君ってなんで混浴が駄目なの?」
「……」
ヌラリヒョンさんもこちらに視線を向けている。
「男女の考えが八百万界と日本じゃ違うから、聞いてもよく判んないと思うんだけど……」
私が定義すると男女とは、陰茎と精巣を持つのが男性で、ふくよかな乳房と卵巣と子宮を持つのが女性だ。
子供を産むには男性の精子と女性の卵子が必要で、男女が一緒になってアレコレする必要がある。
そのアレコレに導く為の仕様で、異性の裸体を見ることで性的興奮が沸き上がってしまうとかなんとか。
だから、風紀が乱れないように風呂では男女を分けているのだ。
これが日本。
で、八百万界はというと、男女と言うのは大まかな身体の違いだけであり、子を産むのに男女のペアである必要がない。
私もきちんと理解出来ていないのだが、男と男、女と女の組み合わせでも子供が出来るそうだ。
身体に関しても、男性器と女性器の両方持つ者や、どちらも持たない者、男女パーツの組み合わせがバラバラだったりと、厳密に男と女に分ける事が出来ない。
宿泊施設の視点なら、男女で風呂を分けた造りよりも、一つだけの方が安上がりで好都合。
これらのことから、八百万界で混浴をなくす動きがないのだろう。
混浴が当たり前の環境下では、自分と異なる身体を見る機会が多く、身体的異形は物珍しいものでも隠すべき淫靡なものという認識はないだろう。性的興奮がわかないのであれば同じ風呂に問題はない。
……あ、でも、モモタロウくんを見ていると、物珍しくないからと言って不躾に女性の身体を見ることはなく、なんとなく視線を泳がせている。”照れ“は彼らの中にも存在しているようだ。
「……二人にわかりやーすく言うと、日本では裸を見せる相手というのは身内を除くと、同性か将来結婚する相手だけなんです」
「!」
「なるほど」
ヌラリヒョンさんは軽く頷いている。
「其方の言う同性とはこの場合女という事になるのだな」
「そうです。だから…………ちょっと……」
言ってて恥ずかしくなる。今ここにいる二人はどちらも男性だ。
ヌラリヒョンさんは私をそういう目で見ていないからノーカンにしても、歳が近いモモタロウくんに見られるのはより一層恥ずかしい。
混浴風呂にいる自分が猛烈に恥ずかしくなって、唇の下までお湯に浸かった。
微細に揺れる波紋に目を落としていると、モモタロウくんが言った。
「そんな考え、八百万界じゃ通用しないけどね。さっさと慣れなよ」
「はは……」
全く持ってその通りなのだが、こうも言い切られると腹が立つ。
八百万界に馴染んできたとはいえ、たかが数ヵ月レベルでしかなく、意識は未だに日本のまま。
────私は異邦人だ。
どれだけここにいたって、私は八百万界の人には決してなれない。
それなのに。
「……もし刀を持ち込んでいたら私の方がモモタロウくんのこと斬ってたかもね」
苛立ちをぶつけると、モモタロウくんはせせら笑った。
「そもそも持ち上げられないくせに」
その通り、モモタロウくんの刀は重すぎて持ち上がらない。
馬上で戦う事を想定している太刀が大体刃長が八十センチくらいだが、それよりも長い。
だがそれは関係なくて。
「……気分の問題だよ」
ぶくぶく
鼻の下まで湯に入って、息を吐いた。消化できないもやもやを誤魔化す。
すると今まで黙っていたヌラリヒョンさんが僅かに笑って、モモタロウくんに目を向けた。
「面白いなあ。心配しておるなら素直に言えば良いものを」
なんのこと。と、目で問うとヌラリヒョンさんは言った。
「戻れぬ故郷を想うのは辛かろう。ならいっそ今は忘れて八百万界に慣れた方が今以上に傷付かずに済む。……とそこの不器用な若造は思い遣っているのだよ」
「そうだったの?」
モモタロウくんはみるみるうちに赤くなって、
「違うから! 別に僕にはどうでもいいよ、そんなどこにあるかも判らない世界なんて。……君にとっては大事なんだろうけど、僕には想像もできないよ。鬼のいない、人だけの世界なんて」
────全ての鬼を殺す
そう言っていたモモタロウくん。
朝起きたら鬼がいない世界だったのなら、どうなってしまうのだろう。
「……まぁ、だから。……大変だろうとは思ってるよ」
ふうん。
一応は、そう思ってくれているんだ。
私はぶくぶくするのを止めた。
「言われなくても、八百万界に早く慣れようとしてるよ。だから……もう少し大目に見てよ」
モモタロウくんの赤い目を見て言った。
モモタロウくんは、「そう」と短く言った。
再度沈黙が流れた。
非常に気まずい。
ヌラリヒョンさんに視線で助けを求めたが、ふふと笑うだけで何もしてくれなかった。
なら自分で何とか、何とか……。
とりあえず何も考えずに口を動かした。
「普通って、言う程普通じゃないですよね。時代や住む場所や世界でそれぞれの普通があるんですもん」
モモタロウくんは黙っている。
「其方の普通とは、どのようなものか」
「まず! 男女でお風呂はぜーったい! 入りません!!
この男女というのも明確な分類が────」
相変わらずモモタロウくんは私の話に興味はなく、湯船を満喫している。
ヌラリヒョンさんは相槌を打ちつつ、時折質問を飛ばしてきて私が話しやすいようにしてくれている。
……と、見えるが、実はモモタロウくんは真剣に耳を傾けているかもしれないし、ヌラリヒョンさんは全く興味がないかもしれない。
私が感じた何もかもが、必ずしも真実ではない。
「普通」もそうだ。
私の感じる普通は、彼らにとっては普通ではない。
彼らの感じる普通は、私にとっては普通ではない。
モモタロウくんの言う通り、私もさっさと慣れないといけない。このまま馴染まずにいることは、彼らが今まで築き上げてきた風習や思想の否定と捉えられてしまうかもしれない。
郷に入らば郷に従えとは、全くもってその通りだ。実践するのは骨だが。
「もう十分温まったので先に出ますね」
長風呂のヌラリヒョンさんを置いて、身体を洗いに立ち上がろうとすると何かによって邪魔され体勢を崩した。
反射で体勢を戻すが胸元で留めていたタオルがするっと解けていく。
が、認識が出来ても私の反応速度ではどうすることも出来ない。
「っ……」
無事、お湯の中で直立出来た。
そして何故か、タオルも無事だった。
視線を落とすと、解けていったタオルの重なりを握って抑えている誰かがいた。
赤い瞳と目が合う。
「……っあ、ありがと……」
そのまま引継ぎ、タオルを手早く留めていくとモモタロウくんが真っ赤になりながら怒って、
「ほんと、君がいると落ち着けないんだけど! 僕向こう行くから!!」
怒鳴り散らして向こうへ行ってしまった。私は中途半端に立ち上がっていたヌラリヒョンさんに向かって取り繕った。
「あはは、怒らせちゃいました。はは。……」
やってしまった。
どうやら風呂の縁の石にタオルを引っかけてしまったようだ。
あれだけ見られたくないと言っておきながら、間抜けを晒して余計な手間をかけさせてしまった。
「……ちょっと謝ってきます」
縁の石に注意しながら、風呂から出た。
「ならぬ。今はまだその時ではない」
ヌラリヒョンさんは制止した。
「ならぬぞ」
重ねて強い口調で言うものだから、私も気持ちが揺らいでしまい、
「……まぁ、ヌラリヒョンさんがそう言うなら」
風呂に入り直した。
謝るのは部屋に帰ってからにしよう。
「(これで其方の面子は保たれたぞ、モモタロウ)」
ヌラリヒョンさんは何を考えているんだか。
「そうそうさっきの話だがニホンとやらは婚姻について厳しい考えを持っているのだな」
雑談を振られたので、モモタロウくんのことは一旦置いて返事をした。
「当たり前の事だったので、厳しいとは思っていないのですが……。婚姻か……。
……あ、例えばですね、大人が子供と性的関係を持ったらお縄にかかりますよ」
「!」
「児童が大人の欲求を満たすだけに使われるとか、誘惑され騙されるとか、そういうところが駄目って事で、性を伴う関係が一律禁止と言う訳ではないんですがって、ヌラリヒョンさんどうしたんです?」
「……いいや。社会において未熟な子らを守る為の法を定めておるのだな」
「そうですね」
守られている実感はない。しかし今まで何もなかったのだから、それなりには効果があるのかもしれない。
……それにしても、ヌラリヒョンさんが黙り込んでしまった。
ひとをまとめる立場だから、私の言葉に何か引っかかるものでもあったのかも。
「(儂ほどの爺になると、殆どの者が子供なのだがなあ)」
あんなに口元を引き締めるなんて、私には考え付かないような難しいことを考えているに違いない。
「(まあ儂は八百万界の生まれで良かった。ここでなら娘を可愛いと思う事も、撫でてやる事も許される)」
今まで黙っていたヌラリヒョンさんに撫でられた。
脈絡なくされることにも最近は慣れてきた。
だって、この手は私が望まないことはしないから。
「お邪魔しても良いかな」
背後から男性の声で尋ねられ、私は意味も分からず「はい!」と言った。
私たちのお風呂に入ってくるおじいさんを見て、自分の過ちに後悔し始めたが後の祭り。とりあえずおじいさん用にスペースを空け、私はヌラリヒョンさんの方へと移動した。
うーん……。
ここは混浴だからおじいさんに一切の非はないけれど、とてつもなく気まずいなあ……。知らない男性というのもあるが、おじいさんには左腕がなかった。欠損が目に入ると居たたまれない気持ちになる。
「お二人はどこから」
「遠野だ。こちらの娘も」
「おれは諏訪だ」
「諏訪ってどこです?」
こそっとヌラリヒョンさんに聞くと、
「諏訪は信濃の南で甲斐に隣接しているんだ」
と、代わりにおじいさんが答えてくれた。
「諏訪は風に護られた土地なんだ。神族のタケミナカタ様やシナツヒコノミコト様が、いやいやフウジンちゃんと呼ばねば、怒られてしまうな」
おじいさんが知らない神様《ひと》の名を呼んだ。皺が深く刻まれた顔を綻ばせて笑うので興味がわいてきた。
「タケミナカタさまやフウジンちゃんさまはどんな方なんですか?」
「そうだな……。タケミナカタ様はとても真面目で、我々の事を大切に考えてくれる方だ。緑を愛し、動物を愛し、そして我々を愛してくれる」
「フウジンちゃんさまは?」
「シナツ……、フウジンちゃんは可愛い女の子で悪戯が好きだな。洗濯物をよく飛ばすもんだから、村の奴らはしょっちゅう誰のか判らないモン着てるな。外歩いてると、おれの着物だ! ってな」
はっはっはっ……と笑っているが、それ、すっごく迷惑だよね。
「あの子は風の神様だから諏訪にずっといることはない。探せば見つからないが、忘れた頃に現れる」
かなり気紛れな神さまなんだろうな。
「遠野はどんな土地なんだ?」
「遠野は────」
遠野の大妖怪の横で、私は自分が知っている遠野について説明した。おじいさんは頷きながら聞いてくれて、気分が良かった。
「遠野には行った事はないが、蝦夷地には行ったよ」
「へえ。蝦夷で何かあったんですか?」
「ああ。湯治にな」
一瞬私が左腕を見た事に気付いたのか、左肩を撫でた。やっちゃたな、と後悔した。
「……すみません」
「良いんだよ。そりゃ無いもんは気になるに決まってる」
豪快に笑ってくれたお陰で少し罪悪感が薄れた。
「蝦夷の湯治場はどんなものだ」
と、若干前のめりになってヌラリヒョンさんが聞くとおじいさんは嬉々として語り出した。
「これがとんでもなく楽しかった。痛みはなくなるし、湯治客は愉快なもんばっかりで」
思い出しているのだろう、おじいさんは言葉を切っても口元が緩み続けていた。
「悪霊に左腕を持ってかれちまってからなあ、夜な夜な痛むんだ」
おじいさんが左肩をさする。
「そしたら蝦夷地にいい湯があるって聞いて、じゃあ湯治の旅でもってなあ。やっとこさ海を越えて着いたはいいが、湯治場なんて初めてで右往左往してな、そんなおれを見かねて他の奴が色々と教えてくれたんだ。どいつもこいつも身体が無かったり、病気持ちでな、気分が楽になった。苦しいのはおれだけじゃない。夜中にない左腕を探しちまうことを言ったのも、初めてだった。みんなおれもおれもって笑ってくれたよ。おれも大笑いした。なぁんだ、大したことないってな」
おじいさんは始終晴れやかな顔をしていた。
「部屋も少ないから相部屋でな、こっちこいこっちこいって、どこも雑魚寝だったよ」
「ざ、雑魚寝ですか」
「その辺の押し入れひっぺがして」
「ひっぺがし!?(って何?)」
湯治とは温泉旅館に泊まるものだと思っていたが、随分アットホームというか適当というか。
「そうそう肝心の湯だが、錆色の湯だ。傷に効くだけじゃなく病気にも良いってな。心臓の病が治ったとも聞いたな」
なんでもありだ。
「湯の華の結晶の山の上にその湯はあった。この湯の華ってのがまた大きなもんで、おれはてっきり狐に化かされてどっかへ連れ込まれたのかと思ったな」
随分不思議な光景だったらしい。
「湯治の効果もあったろうが、ほんとうにどいつも温かくてな。男も女も年寄りも子供も、同じ風呂に入ったら家族みたいなもんだった。傷モン同士で気が楽でな。腕をなくしたおれには前のように農具は振るえない、村のお荷物でしかないから山奥で動物に食われちまおうとも思ってた。けど、そこで腕がないなりにどうしてるか聞いて、馬鹿話聞いて、がーっと笑ってたら、諏訪に戻ってもう一度やり直そうって思えた」
おじいさんは私をじっと見た。
「あんたは綺麗な身体をしてるなあ」
おじいさんの視線が私の肌を撫でる。後ろめたさにタオル下の皮膚がざわついた。
「本当に、綺麗だ」
私はどうしていいか判らず、ただ曖昧に笑みを浮かべた。
おじいさんの目が左腕で止まった事に気づいたが、隠さず、晒さず、ただそのままでい続けた。
その後はおじいさんとヌラリヒョンさんが、年寄りトークに花を咲かせていた。何が腰痛に良いとか、どこの名物が旨いとか、漬物の漬け方とか。
私は時折相槌を打ちつつ楽しそうに話すおじいさんの様子を見ていた。
「そろそろ失礼するよ。他の客にも声かけないとな」
まだ浸かる体力があるおじいさんはそう言って、温泉から出ていった。
さようならと言って、少し手を振ってみると、おじいさんの左手がばいばいと返してくれたような気がした。
二人に戻った温泉は、なんだか寂しく感じた。
私は誰に言うでもなく、独り言をつぶやいた。
「きっと、一緒にお風呂に入っていなかったら、あんな話を聞く事はなかったんだろうな」
ヌラリヒョンさんは頷いた。
「隠す事ばっかり気にしてたけど、案外晒される場というのも必要なのかな」
ヌラリヒョンさんの身体を今日初めてまじまじと見た。
老人とはとても思えない精悍な身体つきで、二の腕もしっかりと筋肉がついていた。
剣を振るうのに必要な筋肉量が備わっている。
普段服で隠れている場所には幾つもの傷があった。私と会う前についた古い傷だ。
私にはそんなものひとつもない。たった十数年生きただけの歴史のない人間だ。
私もこれから先、おじいさんやヌラリヒョンさんみたいに消えない傷を負うようになるのだろうか。
まだ見ぬ傷を想って、私は目を瞑った。
────一方、モモタロウは。
「(あ~、もう! 独神さんは何なの! 僕がこんなに見ないように気を遣ってあげたってのにさ!)」
ぶくぶくぶくぶく
「(裸見ただけで夫婦って何なのさ。変な事言わないでよね……。別に僕は……見て、ないし)」
ぶくぶくぶくぶく
「(結婚なんて、まだおじいさんとおばあさんに会わせてもないのに)」
ぶくぶくぶくぶく
「(独神さんが変なこと言うから、僕まで恥ずかしくなっ……)」
…………
「おい!! 子供が溺れてるぞ!!!」
「あらら、お子様がのぼせたんですって。……えっ!? モモタロウくん!?」
あの黒髪と身体つきは間違いない。鬼斬りのモモタロウくんである。
今は顔も身体も真っ赤になって口を半開きにしている。急いで冷やさないと。
「私たちも上がりましょう! って、ヌラリヒョンさんなんで笑ってるんですか!?」
「いや、のぼせてしまうとはとても心配でならぬなあ」
「嘘吐き! ずっとニヤニヤなんなの! ほんと笑いのツボ変なんだから!!」
「(こうも予想通りとは。やはり若者は面白いなあ)」
おわり。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
◆参考図書
・神崎宣武『江戸の旅文化』岩波書店、二〇〇四
・株式会社マガジントップ『湯治場を歩く~人がふれあう温泉の原風景を訪ねる~』山海堂、一九九〇
〇傷に効く湯
途中の傷に効く湯というのは「二股ラジウム温泉」です、北海道です。
「二股らぢうむ温泉」でググれば出ます。
(レビューはかなり低くて不安になる……。経営者もころころと代わっている……。行きたければ念入りな下調べと準備が必要だと思われる)
湯の華という結晶で山になっている写真が本にはありました。崖っぷちに建物があるように見えて不思議な光景。
陸軍の療養所として使われていたそうな。
〇混浴なんてもってのほかじゃい!
「道徳心に疑いを~」はペリーの二度目の来航に同行したハイネという方が述べています。(『世界周航日本への旅』より)
ハイネのあとに派遣されたアメリカ人ヘイバシャム大尉は「文明開化や純真の美しい目印である羞恥心がどこにも見えなくて、不快になった」(『My Last Cruise: Or, where We Went and what We Saw』より)
「日本人は自分たちの風習に非難さるべき一面があるなどとは、あきらかに誰一人疑っていなかった」はスイス人のアンベール(『幕末日本図絵』より)
このへんは、ボッコボコに言っていますね。
勿論そのような意見ばかりではなく、肯定的に見ている方もいらっしゃいます。
外国人旅行客が増えると、日光や箱根などでは個人風呂が備えられるようになったらしいです。
その辺を配慮すると言う事は、外国人旅行客が余程多かったんでしょう。商売する上で無視できないレベルで。
文化の違いに反射的に拒否して批判するのは簡単です。
風俗習慣を読み取るのは時間もかかりますし、なにより観察眼がなければなりません。
他文化を必ず受け入れろ! などとは思いません。
ですが、ぼーっと眺めたり、その地の人と話してみると最初に抱いていた印象が変化することもままありますよっていう。
〇そもそもどうして書いたの?
これはpictSQUARE内で行われた一血卍傑オンリーイベント「千紫卍紅~八百万の英傑祭~」(2021年6月25日21:00~翌26日(土) 20:50開催)の企画です。
6/26が露天風呂の日ということで、露天風呂テーマの創作を終日Twitter上で募集するとのことで、「二度目の夜を駆ける」の短編で書いてみました。
投稿される作品は明るい話99%だと踏んで、暗い題材で書きました(逆張りマン)
予定外の短編だったので色々不都合もあって、本編で出したい話題が一足先にチロッと顔を出しています。
なので本編でもう一度その話をしますね。
あと、モモタロウさん。
時間軸の関係で「三人」ではなく「二人+一人」なので、その心の距離がそこらに出ています。
本来なら短編には夢的サービスシーンを盛り盛りしたものを提供すべきですが、本編で出ていない関係を出すわけにはいかなかった……。
しゃーない。
以上、ここまで目を通していただきありがとうございました。
(2021.6.26)