人の気も知らないで


 お茶のふくよかな香りを楽しむ独神……の周囲は酷い有様だった。
 板敷の床にはいくつも穴が開き、焦げた板材が天を貫き、隠れているはずの床下が丸見えであった。

「(昼前に雑巾掛けをした矢先に……か)」

 大体いつもそうである。
 掃除をすれば生首が並べられ、床板を塗装すれば即座に踏み抜かれるのだ。

「独神さん大丈夫かい!?」

 半壊した表廊下から流れるような跳躍。
 外套をはためかせながら助けに現れたイイナオトラは凛々しく美しい。
 お茶の入った湯呑ごと独神を抱き上げ、表廊下まで再度跳躍しても、淵から茶が零れぬのは流石である。
 無傷な廊下へ恭しく下ろされると、独神は「どうもありがとう」と礼を言った。

「まったく、ここの英傑たちは"おいた"が過ぎるな。独神さんに怪我がなかったから良いものの」
「元気な証拠よ。……ただ、私の自室は一日中空が見えるお洒落空間になってしまったけれど」
「え、独神さんはそういう部屋が好きなのかい?」
「いえ、ただの皮肉だから本気にしないで」

 イイナオトラはなんだ、と心底ほっとしたような様子を見せた。独神もまた、違う意味で胸を撫で下した。
 井伊家の当主様は素直過ぎるので、ややどきりとする。

「……さて、とりあえず、湯呑を洗いに行ってくるわ」
「僕もついていくよ。誰かに君を傷つけさせない為にも守らせてもらえないかな」

 独神は頷いた。
 隣を歩くイイナオトラから発せられる少女性と、同居する勇猛さに心が揺り動かされ、つい厨へ向かう足が速まる。

「僕に気なんて使わなくて良いんだよ。君の歩みに合わせるから」
「(人誑し……)」

 羞恥を覚える自分がおかしいのかと自問自答しているとすぐに着いた。
 昼食の片付けは既に終わっていたようで、誰もいない。
 静まり返った空間に寂しさを覚えながら、空いた洗い場で湯呑をじゃぶじゃぶと洗った。

「……はぁ」
「ため息なんて君には似合わないよ。ねえ、良ければ僕に話してもらえないかな」

 純然たる善意が眩しく光り、悪霊討伐で澱み続ける心が明るくなる。
 身も心も美しいとはこういう事を言うのだ、と関係ない感想を抱きながら独神は話し出した。

「ほら、部屋が壊れちゃったでしょう。オオクニヌシに修理を頼むの言いづらいなって」
「そういえば、彼は大工の神と錯覚するほど、日夜本殿を直しているね」
「スクナヒコにも、ちくっと言われてるのよね……。相棒は便利屋じゃないって」
「相手を思いやる美しい友情だね。じゃあ、ショウトクタイシさんに頼むのはどうかな? 彼は政のみならず建築にも詳しかったはずだよ」

 初耳である。幅広い知識を持っていると知っていたが、隙の無いことだ。
 しかし何故、自分も知らないショウトクタイシの事をイイナオトラが知っているのか。
 そんな不必要な事に気づいて鳩尾の辺りがきゅっと鈍く傷んだが、"独神"らしく笑顔を作った。

「じゃあ、知恵を借りに……いえ、駄目よ。今朝遠征をお願いしたから本殿にいないわ」

 町での交渉を頼んだので、帰還にはそれなりの日数がかかる。
 ならば誰を頼りにすれば良いだろう。……と、少し考えたが、そうこうしている時間が勿体なく思えてきた。

「ま、いっか。部屋がないくらい」
「軽いね!?」

 イイナオトラはいたく驚いた。

「でもこの時期野宿は寒いのよね。……そうだ、もし迷惑じゃなければ、イイナオトラの部屋に泊めてくれないかしら。隅で良いから」
「ええ!? も、勿論さ! 大丈夫さ! 大歓迎さ! 真ん中で寝てくれて構わないよ???!?」

 先ほどの爽やかさはどこへやら、声は裏返り耳まですっかり赤くなっている。

「ありがとう。ならお風呂が終わったらお蒲団持ってお邪魔しに行くわね」

 楽しくなりそうだと笑みを浮かべれば、イイナオトラはふいに目を逸らした。

「君って……時々とても大胆だよね」
「大胆とは。具体的には何を考えたの?」
「えぇえ!? そ、それは……いや……君! 判って言ってないかい?」
「なら答え合わせをしましょう。今夜、あなたの部屋で」

 いつも自分ばかりがどきまぎさせられるのは少し面白くない。
 こうやって偶にやり返すくらい、ばちはあたらないだろう。
 すっかり挙動不審になってしまったイイナオトラを連れ歩くのは、とても気分がいい。




(20220314)
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【あとがき】

 pixivに上げていたものです。
 ナオトラと独神で、お互いにドキドキしたり、ドキドキさせたり。
 そういうの、可愛いなと思いました。