異郷の家


 ~前回までのあらすじ~

 ある日起床した私がリビングへ行くと、黒ずくめの男がいた。
 キャ―通報よーとスマホで11まで押した所で手首を捻られ拘束された。
「状況が判らぬのはこちらも同じ。すまぬ、ここがどこか教えてくれ」
 意味不明な事を言い出し、すったもんだあり、男がサービスの終わったソーシャルゲームのキャラクターという事が判明した。
 いやおかしいだろう。
 まず、ゲームのキャラが現実にいるはずがない。
 私はそのゲーム(『一血卍傑』)をしたことがない。
 色々と疑問は尽きないが、とにかく私はこのヌラリヒョンとかいう男と一緒に住むことになった。
 ……え゛ぇ゛!?

 ~嘘あらすじ終わり~


 起床してすぐにスーツに着替える。
 それからリビングへの扉を開けて壁際のソファーを見ると、やっぱりいるいる。
 白髪の青年が。
 実際は高齢らしいがゲームキャラなので若々しい。おじいさん設定は必要なのだろうか。
 ゲームキャラであるこの人はプータローなので、私と違って早朝には起きない。客用布団から顔だけ出してすーすーと寝息を立てている。
 私は一人オーブントースターにパンを入れ、洗面所で歯磨きを済ませ、身支度を整える。化粧もある程度はここで終わらせてしまう。
 化粧が済んだらリビングへ戻ってトーストを回収、コーヒーを淹れる。
 狙いすましたかのようにこの男──ヌラリヒョンは起床する。

「おはよう」
「おはよ」

 彼は寝ぐせで爆発した頭のままでキッチンに入ると、茶碗(100円ショップ)を持って炊飯器の前に立ち、白い湯気を浴びながら米をよそう。
 冷蔵庫から梅干しを取り出すと白山の頂点に乗せてテーブルに置き、お茶を淹れて座った。
 小さなテーブルで向き合って食べることになる。不本意だが。

 この男、ゲームのキャラのくせに食事をする。当然排泄も行う。汗もかくし風呂にも入る。
 私たち人間と似通っている。
 そうなると問題は、私が自分と無職を養わなければならないという事実。
 私は反対した。
 絶対に養ってやるものか。まずは警察に行ってくれ。私を巻き込まないでくれと。
 彼は何故かそれをとても嫌がった。私が懇切丁寧にこの世の常識を説いていくと、今度はそれを根拠に私を言い負かそうとする。とんでもない奴である。
 ……察して欲しい。ここに彼が住んでいると言う事は私は口で負けたのだ。

「やば。行ってくる。いつも言ってるけど、絶対に外に出ないでよ」
「そう毎日言わずとも良い。あと明日の食べ物がなかったぞ」
「判ったってば。スーパー寄るから帰りは遅くなるからね」

 私は古びた階段をカンカンと下り、駐車場で野ざらしになっている自家用車で出社する。
 朝から疲れてしょうがない。会社の方がほっとするなんて社畜だけだと思ってた。
 他人が家にいるのは落ち着かない。少しだけ背筋をぴんと伸ばすその少しが果てしなく疲れる。だらしない姿を見せられない。落ちた物を足の指で拾うなんてもう二度と出来ないだろう。

 ましてや、会って数日の他人(男)である。

 憂鬱。そんな男の為にも仕事して帰りにはスーパーへ寄らなければならない。
 私は元々料理を殆どしない。食べた後の掃除が面倒で。たまの休日だけ作って材料を余らせて持て余すのも苦手だ。野菜たちは腐海へ帰り、きのこはひょろひょろと背を伸ばす。
 男が現れた当初は、出来合いばかり食べさせては悪いと思って毎食作った。シンクは常にものがないように男の食事中に必ず洗った。掃除も毎日した。
 そうこうしていると自由時間がどんどん消え失せ、男への忌々しさが増えるばかりだった。
 生活の世話を焼いておきながら、さっさと消えてくれないかと願っていた。
 ある日、男が言った。

「儂は客ではなく、ただの厄介者だ。家主の其方が無理をする事はないのだぞ」

 そもそも私の部屋に現れさえしなければ無理することもなかったのだが。

「……そうだな。うむ、其方明日からは儂に関する一切の手を焼くな。必ずだぞ」

 勝手に仕切られ、勝手に命令され。
 でも私は少し気が楽になった。
 出来合いのものだったり、冷凍だったりは用意して、あと米の炊き方も教えた。
 それなりには、肩の荷が下りた。
 それからは男に構うのをやめた。
 掃除は今まで通り、汚いと思えばする。
 料理は余裕がある時だけ。

 だが、料理についてだけは男がいる事を少しだけありがたいと思っている。
 自炊で一人分を作るのは難しい。仕方なく二人分作れば、また別の日にも食べなければならなくなる。ものによっては連続で食べる必要も出てくる。それが苦痛なのだ。私が料理から遠ざかる理由の一つでもある。
 だが男がいてくれると上手いこと一回で済ませる事が出来る。余っても次の日にちゃんと食べてくれる。
 下手なものを渡すのは気を遣うが、世話をしないと決めたのだから出来も気にしないようにと自分に言い聞かせている。
 男は居候としての自覚があるのか文句は一切言わない。嫌な顔一つしない。
 私が食料補給を忘れていた時も黙って塩ごはんで過ごしていた。私は怒鳴った。

「なんで言わないの! 気にしないって言っても最低限の生活をさせるつもりはあるんだからね!」

 完全に悪いのは私だった。勝手に責められた気になって責め返した。
 その時彼はおかしそうに笑い飛ばした。

「ははっ。すまぬすまぬ。年寄りなものでな。空腹はあまり感じぬのだよ」

 本当か嘘か判らない事を言っていた。ばつが悪い。
 それから男は事前に言ってくれるようになった。茶葉がないとか、米がないとか、漬物が欲しいとか。
 贅沢な物を強請るわけではないので、言われたものは全部用意した。どうせ私の口にも入るものだから問題ない。

 とまぁ、一応会った時よりかはマシになっている。
 それでもやはり他人は他人で、家に居づらくてしょうがない。
 だが夜間にプラプラするにも居場所がない。仕方なく帰宅する。

「おかえり」
「ただいま」

 私が帰ると男は私の動向を観察して移動する。
 私が食事をするならソファーへ、私がソファーでスマホをするならダイニングチェアへと移動する。気を遣ってくれているのは判るのだが、それがまた罪悪感を募らせる。私に振り回されないで欲しい。でも私に気を遣わせないで欲しい。
 全くどうしようもない……。
 今日の私はソファーでダンゴムシのように丸まった。
 いつもなら足を伸ばして寝転んで天井に向かって大きな溜息の一つでも吐くところだ。男が来てからはソファーで寝転ぶことに抵抗が生まれて一度も出来ていない。
 私の部屋なのに。
 疲労で動けずにいると足音が近づいた。

「今宵は湯に浸かる方が良かろう。溜めてくるぞ」
「……うん」

 私が関心を持たないようにしているのと同様、気を遣ってくれなくて良いのだが、実際に気を回されると少しだけ楽になることもある。
 以前こういうのも言われた。

「其方が儂に飯を与えて、生活の場を貸しているというのだから、もっと儂をこき使うと良い」

 そう言われても基本的には頼まない。頼みづらい。
 するとヌラリヒョンは自分から、それも私が断らないであろうタイミングで手を貸してくれる。
 丁度今みたいに。
 ずっと私の動向を探っているのだろう。ここに来てから。
 最初は噛み合わない事もあったが、今は私の思考が鈍い時にするりと入り込んでくる。
 気が利く人。だからこそ私の警戒心が薄れない。
 私たちはお互いに観察している。
 相手の一挙手一投足。
 相手が知りたくて探っているのではない。
 自分を知られたくないから探っているのだ。
 男の真意は未だに不明だ。
 いったいいつまでいるのか。

「あのさ、ヌラリヒョンはいつゲームの世界に帰るの?」
「と言われてもなあ……。儂とて今の状況は理解が追い付かぬ。普通に生活していたはずが全く知らぬ場所へと連れてこられ、当然帰り方など知る由もない」

 可哀想だ。こう聞くと。

「其方にも迷惑をかけているしな」
「しょうがないよ」

 早く帰って欲しいのは山々だが、殊勝な態度でこられると反射的に否定してしまう。
 生きる上で適度に必要になるスキルだ。
 明らかに慰め待ちなのだから、面倒でも敢えてのってあげるのだ。
 それを男にする必要はないのだろうけれど、もう癖になっている。

「でもほんと、警察に行った方がよくない? だって現状、戸籍のないただの危ない人だよ?」
「人ではなく妖なのだが。……まあ、言いたいことは判る」
「だったら」
「行かぬ」

 頑なで。面倒くさい。

「私に迷惑をかけてる自覚があるのに?」
「……すまぬ」

 謝罪はいいから早く行ってくれればいいのに。

「だって私の所にいるより、ずっとマシかもよ?」
「その保障はない」

 簡単に口車には乗ってくれない。

「今は外にも行けないでしょ。つまんなくない?」
「ここには良い暇潰しが沢山ある。あまり苦痛はないさ」

 早々に手札を失った私は、追い出す事を諦めた。

 こんな生活が一日、また一日と続く。
 解決策は見つからない。
 ネットでいくら探したって「ゲームのキャラが現実に来たらどうすればいいですか?」なんて質問はない。答えもない。

 こうして同じ部屋で数日過ごしたが、男が悪い人ではないと思うようになっていた。
 だがなんとなく底が見えない。
 全ての行動に感情が乗っていなくて、正直怖いのだ。
 この男は裏と表を使い分けている。得体が知れない。
 絶対に心は許してはならない。

 休日、私は積極的に外出する。
 家にはいたくない。
 部屋に閉じ込めている事に罪悪感はあるけれど、ゲームキャラを外で歩かせる勇気はない。
 目的はないので、目についた店に入って時間を潰す。
 今日は本屋に立ち寄ってみた。売れ残りのくじがレジ前に大量に並んでいて、こういう産業も大変だなあと他人事のように思った。
 その中に覚えのあるロゴを見つけ、私はなんとなくその半額以下になったくじを一回だけ引いた。
 夕方、エコバックを下げて帰宅した。昼食は外で済ませるが、夜は流石に家で食べる。突然二人分養うことになったので、あまり贅沢は出来ないのだ。

「おかえり」

 出迎えてくれた男にビニール袋ごと渡した。

「……なんだ?」
「中見て」

 言われた通り中を見た。

「……ああ………………」

 それだけ言った。他に口は開かなかった。
 言わないならと無理に聞いた。

「これ、知ってる人?」
「一応、な」

 それだけ。

「……それでこれを儂にどうしろと?」
「いや、まあ、……いらないなら回収するけど」

 渡したままの状態に戻されて突き返された。
 男は喋らなくなった。
 気まずくてしょうがないので寝室に入り袋は無造作に引き出しに押し込んだ。
 もしかしたら喜ぶのかとも思ったが、全くそうではなかった。
 故郷であるそのゲームの世界に帰りたいと思っているのだろうか。変えれない事実を押し付けられたように感じただろうか。
 もしそうだとしたら悪い事をした。
 深く考えていなかった。勝手に出現した男なんて乱雑に扱っても構わないような気になっていた。
 同じ人間だと認めていなかった。
 だから機嫌が悪くなる所を見てほっとしたし、良心が痛んだ。
 ゲームキャラとして、人間によって作られた存在なのに、ちゃんと私みたいに感情がある。
 その日は気まずいままで、それ以上の会話はなかった。
 勿論、謝罪なんてしていない。

 次の日も休日で、私はいつも通り朝食だけ食べて外出した。
 適当に車を走らせて、これまた適当にショッピングモール内を歩き回る。
 都会とは違って目新しいものは何もない。
 それでももしかしたら、と半ばルーチンワーク化した”新しい”もの探しをする。
 つまらない時は普段と違う行動をとるのが良い。
 私はフードコートをぐるりと回ってみた。家族連れで込んでいるので普段は立ち寄らない。
 ラーメンやうどんや、万人受けしそうな店が立ち並ぶ中、異彩を放っている店があった。
 和菓子屋だ。
 クレープではない。繰り返すが和菓子だ。
 案内板を見ると新しく出来たばかりのようだが、多分数ヵ月で潰れるだろう。
 冷やかし気分で見てみると、わらび餅、塩豆大福、みたらし団子と種類豊富に取り揃えられていた。
 その分味のバリエーションはないが、思わず「へ~」と声が出そうになる程度には珍しいものも見られた。
 そういえば、男は緑茶を好んでいるが和菓子も食べるのだろうか。
 昨日の詫びとまでは言わないが、少し買っていこう。
 断られる事も考慮して、今日中に私が食べ切れる分だけを買った。
 
 私はすぐに帰宅した。男は私の姿を見つけるとソファーから腰を浮かせた。
 そこにずかずかと近づいて、茶色の紙袋を差し出した。

「あげる」

 男は言われた通りに受け取った。

「……今見た方が良いのか?」
「すぐ見て。いらないなら私が貰うから」

 中から出てきた和菓子を見て、男は少し目の色を変えた。

「まんじゅうが好きだと伝えていなかったろう。よく判ったものだ」
「偶然だよ」

 甘いものが平気なのは知っていた。私が上司から貰った土産の菓子を分け与えた時の嬉しそうな顔を覚えている。観察で得たオマケだ。

「そうかそうか。礼を言う。今日は良い日だな」

 もう夕方だと言うのにお茶を淹れだした。そしてダイニングテーブルに和菓子を広げて、一番にまんじゅうを食べ始めた。
 頬張る様子はいつもより朗らかに見えた。少し、知りたくなった。

「おまんじゅう以外好きなものってある?」
「菓子の類は大体好きだ。岌希けーきとやらも食べられるぞ」
「和風のゲームじゃなかったっけ?」
「和風というのは判らぬが、昔はなかった菓子が急に世に広まったのだよ」

 なにそれ。
 ちょっと攻略wikiとやらにアクセスして調べてみた。

「……あ、これ? 岌希って何。茶碗蒸菓子って……。へー全部無理やりなんだね」
「ここにあるものはどれも食べられるぞ。一番はまんじゅうだがな」

 雑食妖怪。

「甘いのがいいの?」
「そうだ」

 満面の笑みだった。ふいを突かれて面食らった。動揺を知られないように慎重に言った。

「……まあ、私も甘いものは人並みに好きだし、良さそうなのあったら買ってくるよ」
「それはありがたいな」

 結局私の口には一つも入ることはなかった。
 あんまりにも美味しそうに食べるものだから、見ているだけで満足だけれど。
 こんなに喜ぶなら、もっと早く買ってきてあげれば良かった。
 ……いや、居候にわざわざ買ってあげる必要なんてない。
 それも架空のキャラクターなんかに。

「ごちそうさま。美味しく頂いたぞ」

 たまには買ってきてあげてもいっか。

 家より安心できるはずの会社で私は業務上大きなミスを犯した。
 そのミスをなんとかしていたら深夜近くになった。こんなに残業しては怒られるので自主的に偽装した。残ったお陰で明日からは謝罪行脚だけで済むはずだ。
 疲れた。
 仕事は仕事だ。ミス一つで多くの人間に損害を与える。今まで積み上げてきた信頼も壊れ、人間関係も変化する。遊びではないのだ。私も気を抜いたつもりはなかったが、結果としてミスは出た。明日からもっと気を引き締めないと。
 気分が下がって帰ると、玄関には明かりが点いていた。靴を脱いでいると奥から男がやってくる。

「遅いから探しに行くことも考えたぞ」

 男は険しい顔をしていたが、ぱっと笑顔になると

「疲れたろう。風呂も夕餉も用意している。と言っても夕餉の方はあまり期待しない方が良いがな」
「……お風呂」
「ゆっくりしてくると良い」

 寝室で服を無造作に掴んで風呂場へ向かう。ぼんやりと身体を洗い髪を洗った。そして湯船に身体を沈める。
 じんわりと身体が温まってくると、考える余裕が出てくる。
 さっきはそっけない態度をとってしまった。
 あまりに突然の事でうまく反応できなかった。
 疲れもある。頭が回らなかった。
 大きな溜息をつく。
 白い湯気で前が見えなくなると、視界が歪み始めた。
 風呂場の反響で鼻水をすする音がひびく。
 熱くなった目頭から流れていく。
 私、なんだかほっとしてる。

 風呂から出てまず鏡で顔をチェックする。大丈夫、問題ない。
 私がリビングに行ったタイミングで料理が温められていた。
 机の上に野菜と肉と切って炒めたものが乗っている。

「すまぬなあ。こんな事なら普段からもっと見ておけば良かった」

 店とは違う、不揃いな野菜。
 塩とこしょうの簡単な味付け。
 私とどっこいどっこいだ。

「……其方がいつも使っているものが見当たらなんでな」
「焼き肉のタレ切れてたんだっけ。忘れてた」
「味が決まるのでアテにしていたのだが、見つけてから調理に移るべきだった」

 渋い顔をしている。
 要領の悪さに、普段やっていないことが現れている。
 慣れないことをわざわざやってくれたのだ。
 食後はぼんやりとソファーに座った。
 ヌラリヒョンはダイニングチェアに座っている。
 じっと見ていると、「何かあるのか?」と聞かれて、私は言わざるを得なくなった。

「そっち。冷たいでしょ。椅子。座布団とかまだ置いてないし。ソファーの方がまだマシだから。風邪ひいたって困るし」

 子供みたいな言い訳の羅列。ダサイ。
 ヌラリヒョンは「なら、失礼しよう」と言ってソファーへ腰を下ろした。
 端と端。
 三人掛けのソファーの真ん中に空いた広い空間がおかしいのは判っていても振る舞い方が判らない。

「今日はてれびは良いのか」

 テレビで各動画サービスが見られるようになってから、もっぱらテレビをつけっぱなしにするようになった。
 スマホと違って画面が大きいし、わざわざ持たずともリビング内ならどこでも見えるのが良い。
 それに無関係な音を流し続ければ他人といる気まずさを忘れられる。
 今こそテレビを付けてヌラリヒョンの存在をうやむやにすればいい。

「……いい。今日は疲れちゃった」
「今宵は特に遅かったからなあ」

 ────静かすぎて気まずい。
 冷蔵庫の音までも聞こえる。
 この距離では呼吸さえも聞こえてしまうのではないだろうか。
 ずっと見られない。話しかけることも出来ない。近くには呼べたのに。その先が出来ない。
 お風呂に入ったばかりなのに汗をかきそうだ。

「や、やっぱり今日は寝る」

 立ち上がった私はロボットのような動きで洗面所へ行って寝る準備を終えると、そのまま寝室へと向かう。
 扉の前で目だけヌラリヒョンに向けて言った。

「おやすみ」

 パタンと扉をしめると小さく息を吐いた。
 ベッドに腰かけている間にリビングから物音が聞こえ、やがてシーリングライトが消える音が聞こえた。
 私は布団に入ったままリモコンでライトを消した。
 自分が落ち着く寝相をとって目を瞑る。が、眠れない。
 何度も寝返りを繰り返す。
 やがて諦めた私は部屋の扉を開けた。リビングは真っ暗だがもう目は夜に馴染んでいたのである程度の陰影はつかめた。足音を立てないよう慎重に歩くと、ソファーの前に立つ。
 多分ヌラリヒョンは寝ているのだろう。こんな怪しい行動をとる私が傍に寄っても反応しないのだから。
 だが念の為暫く立ちっぱなしで彼の様子を見続けた。動かない事を確認し、言った。

「ありがと」

 さっき言えなかった事をわざわざ言うなんて馬鹿みたい。寝ている人間に話しかけるなんて。
 でも何故だか、そこから堰を切ったように言葉がするすると流れ出た。

「帰ってきた時、電気がついてたの。それが嬉しかった。落ち着いたの。灯りがあるだけで。お風呂もご飯もそう。何もしてないのに、もう用意されてて。凄く、ほっとした。
 今まで、ヌラリヒョンをどうしていいか判らなかった。所詮二次元のキャラクターなのに、接し方なんて判るわけない。得体の知れないものを家に置いておきたくなかった。でも結構普通なんだね。私と同じなんだよね。……いてくれてありがとう」

 本格的に恥ずかしくなってきたところで私は踵を返した。すると手を掴まれた。

「……なに?」

 振り払う気にはならなかった。
 闇の中でも近づいてきているのが判った。
 私はただ、目を瞑った。
 想像通りの柔らかさが触れる。頬に。

「……おやすみ」

 囁くと熊のようにのっそりとソファーへ帰って行った。私も部屋へと帰りベッドに寝転んだ。
 キス程度で動揺するような歳ではない。舌が入ってきたわけでもなく、たかが頬だ。
 取るに足らない。簡単なボディタッチ。挨拶だ。
 何も気にする事はない。
 なんでもない。
 ……さっきから時計の音がやけに煩い。
 疲れているはずなのに目が冴えて眠れない。
 おかしい。そんなはずない。今日はあれだけ仕事をしたんだから。
 いつもみたいに明日取り掛かる作業について考えていればすぐに寝られるはずだ。
 ……仕事、ってどう考えるんだっけ。
 藤紫のふんわりとした髪の毛が頭を過る。過る。埋め尽くす。
 ばかみたい。
 扉の向こうのあの人のことが離れない。



 ◇



 次の日。いつもと変わらなかった。
 帰ってきたって同じ。
 だらりと適当に過ごして終わり。
 寝る時にも何もない。

 ただただ平坦で代り映えのない日々が続く。
 いや、少しだけ変わったかもしれない。
 少しだけ家の空気が柔らかくなった。
 帰宅が憂鬱ではなくなり、休日に家で過ごす気になった。
 会社で酒を貰った時も、まず私が思ったのはヌラリヒョンと飲めるだろうか、だった。

「飲めるぞ。これでも若い時には皆と樽酒に落とし落されて飲んでいたのだぞ」
「……へー。家では上品に飲んでね」

 和風ファンタジー出身者なのでウイスキーは口に合わないかと危惧したが意外にもヌラリヒョンは平気だった。最初はハイボールで、次は水割り、ロック、最終的にはストレートでもいけた。
 白い肌にうっすらと赤味が差していたが、意識は始終しっかりしていて呂律も回っていたので、アルコールには強いのかもしれない。一緒になって飲んでいると私の方が先にダウンしそうだった。

「今宵の晩酌はここまでにしよう。水で良いな?」
「えー。私が貰ってきたのにー?」
「水で良いな?」
「……わかった」

 私の気分が高揚し始めると容赦なく瓶を仕舞われた。
 寝る前までには何度も水を飲まされ、更になかなか寝させてくれなかった。酔いが落ち着くまでは身体を起こしておけということらしい。

「ほれ、其方がよく見る……なんだったか忘れたが、りもこんは置いておくぞ」

 ソファーに連行され、普段ヌラリヒョンが使用する蒲団を半身に掛けられ、手元にはリモコンと、至れり尽くせりというか、完全に手を焼き過ぎるお母さんだった。
 私を座らせておいて、自分は使ったグラスを洗ったり、炊飯器をセットしている。一通り作業が終わったあとはダイニングチェアに腰を下ろして私が見ているテレビを眺めていた。
 見たいものがあるなら変えるけれど、と以前言ったがヌラリヒョンはテレビには興味がないとの事だった。朝や夕方のニュース、後は将棋や相撲で十分だと。こういうのを聞かされると中身が老人なのは本当なのだと思わせてくれる。
 一応私は嫌いなものも聞いた。見たくないものを流されるのは苦痛だろうからと。だがそういうのもないらしい。
 と言う事なので、私は好きなものを好きなように見ることが出来る。今は少し気になったMVを見ている。

「ヌラリヒョンってゲームの人でしょ? 歌ったり踊ったりしないの?」
「そういえば天狗や腹に傷のある者がそんな事をしていたような……。儂自身はないな」

 脛に傷じゃなくて、腹なんだ……。何をやらかしたらそうなるの。

「よくCMでも可愛い女の子や男の子がアイドルやってるんだから、ヌラリヒョンもやってよ」
「気が向けばな。ぬしが命ずるならばやぶさかでないが」

 ふうん。ぬしって人が言うなら喜んでしちゃうんだ。
 浮かんだ嫌味はすぐに仕舞った。酒で口の滑りは良かったが言わないだけの理性はある。
 ヌラリヒョンが言う『ぬし』とは、ゲームプレイヤーのことだ。
 キャラクターの彼が、プレイヤーに従うのは当然。そう作られた存在なのだから。
 いくら私が突如現れた『ぬし』とやらに嫉妬したとしても口にしてはならない。
 
「……少し、変な話をしても良いか?」

 この流れではあまり聞きたくはなかったが、私は平気なふりして了承した。

「さっき、儂は”主”と口にしていたな?」
「そうだよ。主が命ずるならやぶさかでないってさ」

 馬鹿だ。折角耐えたのに棘のある言い方なんてして。

「うむ。そうなのだ」

 ヌラリヒョンは気にした様子は全くなく頷いた。

「だが、主とは誰だ?」
「……はい?」

 ヌラリヒョンの瞳は私を真っ直ぐに見ていた。それを見る限り揶揄ってはなさそうで、寧ろ困惑しているように見える。

「この儂が喜んでするとなると、それなりの信頼関係にあるはず。それなのに相手の顏すら思い出せない、とはいかに」

 眉を顰めて首を傾げている。
 彼をゲームキャラと認識している私は仮説を立てる事が出来る。だからこそ聞いているのだろう。

「……あのね、あなたがぬしと呼ぶ人はプレイヤーが投影する為のキャラクターなの。あなたやあなたの知り合いたちとは違って、プレイヤーの投影先である主人公には姿がないの。ほら、ゲームをする人って私みたいな社会人女とか高齢のおじいさんとか小さな子供とかいろいろな人がいるからさ。外見を一つに決めない方が自己投影しやすいの。だから多分、ヌラリヒョンは思い出せないんだと思う。……外見は思い出せなくてもプレイヤーとのやり取りは思い出せそうだけど、……何かある?」

 ヌラリヒョンは目を瞑った。

「……まんじゅうを作った」
「うん」
「にゃーにゃーらんどの観覧車に主と乗るのだと他の英傑と張りあった」
「……うん?」
「あとは……儂は……主……独神を襲っている…………」
「……え?」
「だが計画は失敗して、儂は死ぬつもりだった、それを救われた。率いた妖たちに対して責任をとるように諭されて……」

 話が重いのはきっと、この一血卍傑というゲームがほのぼのサウンドノベルゲームではなく、敵を倒すシミュレーションゲームだからだ。
 ヌラリヒョンはプレイアブルキャラながらも、最初は悪役だったのかもしれない。詳しくは攻略wikiに書いてあるだろうが……。

「お菓子作れるなんて初耳なんだけど。だったらおまんじゅう作ってみてよ。材料は買ってくるから」

 苦悶の表情へと移り変わろうとしていたヌラリヒョンの気を逸らす為に明るく言った。

「……いやあれは確か血代固を作ろうとして……それが何故かまんじゅうへと」
「チョコ饅頭なら巨大トリュフじゃん。大丈夫だって。チョコを溶かしただけのものなら味は不味くならないし。見た目だって食べれば問題ない。てか、ヌラリヒョンは火の通りも厚さも不揃いの私の料理食べたでしょ。私ばっかり不味いの食べさせるのズルくない? ヌラリヒョンだって不味いの作ってよ」
「血代固を溶かすだけなら不味くはならぬと先程其方が申していたではないか」

 私が適当なことを言っているのがバレバレだ。

「だがそうだ。儂も普段の礼がてら血代固まんじゅうを贈ろう。好きなだけ貶めてくれて良いぞ」
「馬鹿にしないから私が作ったのも馬鹿にしないでよね。不味いって口にも顔にも雰囲気にも出さないでよ」
「はいはい。判った判った」

 腕によりをかけて作ると言って、大きな血代固まんじゅうへの意欲を語るヌラリヒョンにほっとしながら、私はその現実離れしたお菓子がはたして実際に作れるものなのだろうかと疑問に思っていた。
 ヌラリヒョンはゲームのキャラクターだ。だが意思を持った人間(妖怪)である。
 人として接すれば良い……はずだ、きっと。
 もう少し、優しくしてあげよう。


「あのさ、外に出たい?」

 木曜の夜、日付が変わる前。
 私は会社で何度も練習した言葉をようやく言えた。

「其方にこれ以上負担を強いることは出来ぬよ」
「行きたいかって聞いてるの」

 謙虚な態度は想定内。その場合の台詞もつっけんどんながら言うことが出来た。

「……そうだな。べらんだから眺める景色もそろそろ飽きた」

 私が会社にいる間、一人黄昏て外を見ていたりするのだろうか。もしそうなら。

「じゃあ、服買おうよ」
「だが儂は……。ああ、其方が買ってくるのか」
「違うよ。一緒に見るの」

 不思議そうにしている年寄りの前でノートパソコンを開いた。
 ブラウザを立ち上げカチカチとクリックで進めていけば。

「おお。多くの衣服が並んでいる。ここから選んで店舗に向かえば良いのだな。書簡も使えるのか?」
「ここ押せば数日で家に届くよ」
「はあ……面妖な……」

 メールでも電話でもなく、『書簡」なんて言う老人には仰天だろう。現代のネット通販は。
 画面をしげしげと眺めて方向キーでスクロールしている。マウスホイールを使って見せると、真似て爪先で恐る恐る転がした。画面がコココと動くことに小さく息を漏らし、今度は指の腹を使って大胆に転がす。画面がホイールによって上下することを即座に覚えた老人は思うまま自在にマウスを操る。
 老人向けのパソコン教室ってこんな感じなんだろうな。

「このへん安いね……怪しいよね。通販ってびっくりするくらい布がうっすいのがあるの。仕立て方が変とか。今回は冒険したくないからブランドで縛るよ」

 物価も判らないヌラリヒョンには、私がいくつかブランドを指定して、その範囲内で見るように伝えた。
 顔を前に出して一生懸命見ている。私はそんなヌラリヒョンをソファーにもたれながら見ていた。興味関心が乏しいと思っていたが、人並みにはあったようだ。少しは自分を出せているだろうか。私と同じように。

「其方は何が良いと思う?」

 気になったものをいくつかクリックしていたので、ある程度候補は自分の中で絞れているだろう。どれもヌラリヒョンが着ておかしいと思われるものはなかった。

「なんでもいいよ。サイズが合ってれば。なんでも」

 と言ったが、なんとなく私の好みでヌラリヒョンに似合いそうなものは見つけた。ページアップキーで上昇し、それを指した。

「さっき見てたのとどっちがいい?」
「これは良さそうだ。儂が着る事を想像すると胸が躍るなあ」

 弾んだ声で。

「着る本人がそう言うならもう買っちゃうね」

 心が変わる前にさっさと購入ボタンを押して決済してしまう。

「楽しいな」

 私もだとは答えなかった。
 私が良いと思ったものを、同じく良いと思ってくれた。
 それを着た姿を見るのが今から楽しみだ。

「最近お世話になってるからプレゼントって事で」
「すまぬ。ありがたく受け取らせてもらう」

 少し夜更かしし過ぎた。すぐに決まったと思っていたが、現実の流れは違ったようだ。

「じゃ、もう寝よう。日付も変わっちゃった」
「そうだな。其方明日はいつも通りか?」
「そう。暫く早出はないよ。大丈夫」

 リビングの電気を消して部屋に戻る……素振りをする。
 少しだけその場で佇んでいると、闇の中から声が響いた。

「其方には感謝している。何もかも。そして浮かれている。
 其方の生活圏内へ共に足を踏み出せることをな」

 声は私の中をそっと撫でた。
 浮かれているのは私も同じだ。

「これほど気分が高揚する事など、八百万界にはなかった」

 床がひたりと音を立てた。ひたひたひたと私の傍までやってくる。

「……拒否してくれて良いのだからな」

 肩を軽く掴まれ、顎に手を添えられる。
 胸が大きく上下する。怖い。でも私は目を瞑った。
 唇に、触れた。

「……」

 離れても、少し、そのままでいた。

「……おやすみ」

 手を離し巣穴へと帰っていく。

「おやすみ」

 私もまた寝室へ行ってベッドに入り込んだ。
 まだ冷たいシーツにつつまれ、ぼんやりとする頭を冷やした。
 まただ。
 また眠れない。
 身体を丸めて、私の中に産まれた小さな熱を持て余した。
 落ち着かない。でも、嫌じゃない。

 次の日、寝不足の私はバタバタと出勤した以外は普通だった。
 その次の日、荷物がきた。ヌラリヒョンは無事に受け取れたようだ。サインレスで助かった。そこでヌラリヒョン丸、なんて書かれた日には羞恥心で悶えていたところだ。
 一応プレゼントの体なので開封は任せ、早速着てもらった。

「サイズギリギリだったね。足長かったんだ」
「そうらしいな」

 現実と二次元の違いだろう。二次元は八頭身、九頭身もあり得るのだから、着れただけで良しとすべきだ。
 届いた服はドラム洗濯機に入れて、乾燥までのモードで回した。

「明日は休みだからこれで外行ってみようよ。でも私の言う事は絶対に聞いてね。絶対だから。あと知り合いに会った時の対処も決めないと」

 ただ注意事項を伝えて対処法を考えるだけなのに胸が弾む。ヌラリヒョンもまた机に肘をつきながら楽しそうにしている。それがまた私を喜ばせた。
 少しでも喜んでもらえるなら、プレゼントの甲斐がある。世話された分の感謝が伝わればいい。
 寝る前。私はリビングの電気を消す。こんなのヌラリヒョンにやらせればいい。ここで寝る人の好きなタイミングで消させてあげるのが普通だ。
 なのにわざわざ私が消す。
 テーブルにリモコンを置いて、見えない中寝室の扉へ向かう。
 ヌラリヒョンはわざわざソファーから立ち上がって、私に近づく。
 私はヌラリヒョンの方へ向き直り、それを待った。
 唇に触れた唇は少し乾いていた。

「おやすみ」
「おやすみ」

 そして私は寝室へと行き、ベッドで寝る。
 口紅を塗った後のように上唇と下唇で擦った。少し引っかかる。最近気温が低くなって乾燥してきたからだろう。保湿してケアしていかないと次する時にひび割れた唇でキスなんてそんな……
 ……次も、するつもりでいるの?
 毎日すっぴんを見せている相手に、そんな取り繕わなくたって。そもそもしなければいいのに。
 そう思いながらスマホで新作リップを調べている。
 可愛くなりたい。綺麗になりたい。
 もう遅いのだけれど、怪しまれない範囲で装いたい。
 このむず痒い感覚には覚えがある。
 
 外出の日。会社の人に見られると言い訳出来ないので、少し遠くまで車を走らせた。

「運転についての文句はやめてね。私、横から言われてパニクって事故ったことあるから」
「黙っているから、年寄りを殺さぬよう頼むぞ」
「喋っても良いけど、返事しなくなったら静かにしといて」
「注文が多いのう……」

 自分が運転手で横に男を乗せたのは会社関連を除いて数度しかない。
 付き合った人はいつも私を助手席に乗せてくれた。私の運転が怖かったのもあるだろうが、役割分担についての共通認識がそうだった。
 ヌラリヒョンはノー免許なので当然助手席にいるしかない。それにこの地域の事を一切知らないのだから当然だ。
 ナビがあるから助手をする必要はない。何も考えず見て欲しかった。八百万界ではない、私の現実を。

「どこに行きたい? 食べたいとか、見たいとか、したいこと言ってくれれば考えるよ」
「こうして其方と二人でいられる方が良いな。この地での振る舞い方はまだ判らぬから」

 じゃああまりガヤガヤしていない方が良いか。

「了解。じゃあ辺りを回るよ」

 ヌラリヒョンはよく聞いた。あれは何かこれは何か。
 私も出来るだけ答えた。中には私にも判らないものもあった。
 
「結構判るんだね。これなら外でもそんなに困らないかもよ」
「てれびで覚えた甲斐があった」

 私たちは適当な所で昼食を食べ、またふらりと車を走らせ、気になった場所で降りた。
 特別な事は何もしなかった。ただよく語り合った。
 どうでもいい事を沢山聞いた。海より山が好きだとか。盆栽には興味がないとか。すっぱい蜜柑も甘い蜜柑も同じくらい好きだとか。林檎はもりもり食べるとか。人と話すことが好きだとか。インドア派ではないだとか。細かい作業は得意ではないとか。
 夕食の用意が面倒だったので、安い店で済ませて私たちは帰宅した。

「事故らなくて良かった……」
「其方運転に向いてないのでないか」
「ここで生きるには免許は必須なの!」

 隣にヌラリヒョンがずっといることに緊張してぶつけてしまうんじゃないかと思っていた。多少沈黙が気まずい時もあったが、後半になるにつれて慣れた。
 現代人とは違ってヌラリヒョンはのんびりしている。私もその空気に少し当てられて、一生懸命どうこうせずだらっとしていようと思えた。

「お風呂どっちが先?」
「今宵は肩まで浸かりたいものだなあ」
「じゃあ私が先ね。ちょっと溜めてくる」
「其方は十分働いたろう。座って休むといい」

 私を座らせて溜めに行ってくれた。
 私は当然のことというようにソファーに寝転んだ。足を投げ出すのは気持ちいい。ここで寝てしまいそう。

「起きたか」

 何気なく時計を見ると十時を過ぎていた。

「嘘。寝てた? ごめん」
「悪いが先に入らせてもらったぞ。どうする? 面倒なら栓を抜くが」
「いくいく」

 湿気が充満した脱衣所を通って、身体も洗わず入浴した。湯は少しぬるくなっていたので熱湯を足した。
 溜めるのなんて面倒だし、自分一人なんだから勿体ないと思ってたけれど、案外良いものだ。シャワーと違って芯まであったまる。
 心地よい。だが今度は寝てしまわないようにさっさと出て身体や髪を洗った。
 風呂から出てすぐに髪を乾かし、歯磨きも終わらせた。少し寝たとはいえ、ベッドに入ればまたすぐに眠れそうだ。
 リビングではヌラリヒョンがソファーにいた。私を見た。

「溜めておいて正解だったろう」
「気持ち良かったよ」

 私は端に座った。テレビがついている。

「珍しいね。なんか見たいものでもあった?」
「もっと学びが必要だと思ってな」

 映っているのはお笑いのネタ番組で、それは学習先としては相応しくないと思った。

「ドラマ……だと演技が過ぎるか。ドキュメンタリー……も違うような。満遍なく見よっか」

 チャンネルをころころと変えてみたが、良さそうなものはなかった。

「日中の番組の方が良いかも。主婦向けのものを見ると日常の出来事が判りやすい、かな」
「そういえば、ここの者達は何かと青汁を飲む習慣があるのだな」

 そうだけど、そうじゃない。
 CMのカラクリを伝えていくと、「ほお」と気の抜ける相槌を打ちながら、懸命に耳を傾けてくれていた。私は教壇に立ったような気分で色々なことを教えた。なんでこんなことやっているんだと思ったが、ヌラリヒョンが真面目な表情で目を向けるので、私も気を抜けなかった。

「もう十二時来ちゃうよ。そろそろ寝よ?」
「うむ。そうするか」

 突然電気が消えた。
 停電ではない。シーリングライトのリモコンの音が鳴っていたから手動で消されたのだ。
 まだ目が慣れない中手探りでリモコンを探していると、四角いプラスチックに指が触れた。
 だがそれは何かに弾かれて、また行方が判らなくなる。 
 今何が起ころうとしているのか、撫でられた手の甲で察した。

「其方も初めてというわけではあるまい」

 そうだ。
 今はいないが、彼氏がいたことはある。

「儂も随分昔にいたくらいで沙汰がなくてな。だがしているうちに思い出すだろう」

 手の甲から腕へと上がっていき肩を撫でた。私が少し強張ると頭を撫でられた。

「……無理を通すつもりはない。其方が望まぬのであれば手を引く」

 どうしようか。
 このまま、二次元出身の人とそういう事をするのか、お断りするのか。
 じっとして黙っていた。すると穏やかな口調で言った。

「迷う余地があるのはありがたいなあ」
「なんで?」

 気になってつい尋ねた。

「嫌われているわけではないと安心したぞ」

 随分前向きな解釈だ。
 まあ、本当にそうなのだけれど。

「否定しないのか?」
「……まあ。そう」

 笑っている。

「それが聞けただけで十分だ。今宵は気分が良い。引き留めてすまなかったな」

 そう言って電気をつけようとするので、私はその腕を掴んだ。
 そうする事が何を意味するのか判っていないわけじゃない。
 まだ心の準備だって出来ていないのに。

「……ならば、少し話そうか」

 そう言ったがヌラリヒョンは話題を投げてこなかった。
 その代わり、頭を撫でてくれる。いやらしげな手つきではない。
 宥めるような優しいものだった。手も繋いでくれた。
 悩んだ末に、私は言った。

「もうちょっとここにいて大丈夫?」
「勿論。気が済むまでいてくれて良い」

 私は一度立ち上がって、ヌラリヒョンの隣へと座り直した。身体が少しだけ触れる。
 ヌラリヒョンは私の手を握り、それ以上は触れてこない。
 不思議だ。
 初めてキスした時なんていきなりだったのに。
 だが改めて思い出すと、あの時もちゃんと待ってくれていたような気がする。
 私が受け入れるサインを見せたからしてきたのだろう。
 今手を出さないということは、私がまだ心を決め切れていないことを察しているのだ。
 だから私が動かないと多分何もしてこない。
 待ってくれるのはありがたいが、少し恥ずかしい。

「……あのさ」
「うん?」
「……あの……。少しくらいならしていいよ……?」

 笑われた。中途半端な言い方なのは私も判っている。

「お言葉に甘えて少しだけ……」

 頬にキス。それだけで緊張してヌラリヒョンの手を強く握った。
 唇を指がなぞる。私が指を一本一本絡ませるように手を握り直すとヌラリヒョンもそれに合わせた。
 口付けが頬から唇にうつった。離れてもじっとヌラリヒョンの方を見た。
 やっぱり嫌じゃなかった。

「其方はどうされるのが好い?」

 言わない。なんだっけ。元カレとどんなことをしてたっけ。
 私何が好きだっけ。何が気持ち良かったのか。もう忘れてる。
 当時あれだけ好きだったのに。薄情なくらい、忘れてる。

「少しだけ好きにするぞ」

 唇を少しだけ噛んだキスをする。嫌じゃない。
 離れても、少し唇を突きだせばまたしてくれる。
 好きにするなんて嘘。
 私の望むことばかりしてもらっている。
 向こうにもしてあげないと。
 何すればいいんだっけ。
 過去の行為を思い起こす。
 そういえば元カレは舐められるのが好きで、よく全身を舐めさせられた。余裕がある時は良いが、次の日が仕事の時に求められると面倒だったことを思い出す。扱くだけでいくんだから、もうここだけでいいじゃん。ああでもそこもまた口でして舐めてくれと懇願して、私は何度か顎を痛めた。するのは面倒だと億劫になった。夜に誘われる度に、仕事が一つ増えたと感じた。
 それが原因で別れた──と言うわけではないが、多分理由の一つだ。会う日を書くためにろくに使わないスケジュール帳を買って、印を書いて、心待ちにしていたのに、いつの間にか印を見るだけで気分が下がって、気づけばスケジュール帳すら書かなくなり、最終的には予定は一切なくなった。
 他人は面倒だ。収入も人並みにある今、友人や職場の者がいればそれで良いじゃないか。幸い私は全部満たしている。
 そう、思ってた。
 あの夜、少しだけ寂しいと思った。誰かに聞いてもらいたいと思った。いて欲しいと思った。
 そんな時、傍にいてくれた事が思いのほか嬉しかった。
 特別なことなんてしていない、ただの平凡な日常にちょこんと存在するのが、不思議と心地が良かった。
 いつの間にか私は、この人を受け入れ始めていた。

「して欲しい事言って? 大抵の事はするよ」

 特殊な道具が必要なこと以外ならば経験もあるし、ちょっと嫌でも別の事を考えていればそのうち終わるものだ。作業には慣れている。
 この人は何を好み、何を求めるのかと構えていると、ただ抱きしめられた。

「わ、私がされたい事じゃなくて、そっちがされたい事だってば!」
「言われた通り、儂がしたいようにしているだけだが?」

 困惑の声に私の方が、あれと困惑する。するとこともなげに、

「一石二鳥だな」

 と言う。
 いっせきにちょう。私もヌラリヒョンも鳥? などとぼんやり思う。
 ぼんやりついでに、腕を回した。
 広い背中は女にはないものだ。
 私とは違う身体。
 今まで付き合ってきた男とも違う。
 あまりこういうことはしなかった。
 筋肉が程よくついた背中を手のひらで確認する。
 こんな時、他人の歪さがひどく安心する。
 歪みが大きい程刺激的で、夢中になって、最終的には疲れる。
 前の人は良い人だったし、夜のあれこれも正常の範囲だった。
 そもそもしたがるのは私を好いてのことだった。
 嬉しかった。求められるのが。与えられるのが。
 でも彼が与えてくれるものは、私にとっては過剰だったし、求められるものは、私にとっては負担だった。
 だから上手くいかなかった。悪者は誰もいない。ただ相性が良くなかった。

「口付けても?」
「……別に。いいけど」
「ははっ、しない方が良さそうか」
「違うって。わざわざ聞かれると恥ずかしいでしょ!」
「おや、まだ若い娘だったか」

 言い返す前に口付けられた。軽いものだ。
 頻度も高くなくて、一度しては待ち、一度しては待ち。
 遅い。中学生みたい。じれったい。

「……ねえ」
「ああ。ようやく許されたか」

 また同じように口付けられた。……いや違う、深い。
 舌が私の中に入ってくる。それだけじゃない。口内を動く舌の動きが全身に響いてくる。
 今までのおままごとが嘘みたい。一気にギアを上げられた。
 無理だ。私はついていけない。おかしくなる。身体が持っていかれる。
 本能的に押しのけると素直に引いてくれた。
 笑っている。してやったりということなのだろう。

「いい性格してるよ」
「褒めても何も出ぬよ」

 また優しい軽いものになった。じゃれ合うような触れ合いは落ち着く。たまには深い口付けをされても、さっきと違ってそこまででもない。ほんの少し物足りないくらい。でもだからこそもっとしたくなる。満たされたくて、追い求める。油断すると「もっとして」と口を滑らしそうになる。
 私、すっかり手の上で転がされている。決していい気分じゃないはずなのに、踊らされているのが気持ちいい。何も考えなくていい。全部任せて従っていれば、私が考えるよりずっと好くって。
 いつの間にかパジャマがはだけていて、身体の至る所をまるで検品でもする様に隅々まで撫で回された。敏感な部分に触れる時は慎重に、私の顔を伺った。
 やさしい人だと思った。
 途中からだ。私の反応を見て楽しんでいるだけなのではと気付いたのは。
 
「さあ? 儂はただ其方に無理強いをしたくないだけだ」

 嘘くさい。

「確かめていくのも必要さ。儂らはお互いに何も知らぬのだから」

 そうしてゆっくりと、私に触れる度に、私は作り変えられていく。言われれば従った。声を出す事が嫌じゃない。欲しいと強請ることが出来る。してあげたいと義務感以外で思うようになる。

 皮肉な話だ。
 空気が合う相手に会ったと思えば、そもそも現実の人じゃないなんて。
 歪さで言うなら、彼がこの世の誰よりも歪で異質だ。
 あうはずない。
 会うはずがない。
 合うなんてうそだ。
 きっと夢だ。
 最後にこうして幸福な嘘を私に見せているに違いない。

「少々手狭だがまあ良い。負担にならぬようにするが協力はしてもらうぞ」
「……ベッドでいい」

 私の寝室を指さした。

「シングルだけどソファーより断然マシだから」
「……判った」

 当たり前のように抱き上げられて、やっぱりゲームキャラクターは違うなと思った。下から見上げても整った顔は変わらず。一部の隙もない。
 ベッドの上に丁寧に降ろされた。すぐにベッドが軋む音がして、ヌラリヒョンが入ってきた。布団の隙間に足の指先を入れて、すいーっと。私の心の隙間に入ってきた時のように。

「其方はここで毎晩夜を明かすのだな」

 真っ暗な部屋をしげしげと眺めている。

「あまり変わらないよ。寝るだけだから物もろくにないのに」
「そうか? 儂は妖故に夜の方が身体が軽い。だからこそ夜の過ごし方には少々拘りと興味があるのだよ」

 夜行性だったんだ。あとそういえば妖怪設定だっけ。すぐ忘れてしまう。今までそんな素振りなかったから。
 急に手を繋がれた。

「何も聞かぬが良いのか。答える気はあるのだぞ」
「聞かない」

 どっちでも良い。
 嫌と思ってはいないし、一度するくらい構わない。
 知りたくないのかもしれない。
 逃げ道を置いておきたい。
 本気にはならない。
 もし本当にそうなら、失った事を嘆くようになる。
 知らなくて良い。
 一夜の夢で。
 行きずりの関係で、容易く忘れてしまいたい。

「判った」

 何を納得したのかヌラリヒョンは私の頭と背中を支えて寝かせた。

「明日は仕事だろう。手早く終わらせる」

 この期に及んでまだ気を遣ってくれている。おかしな人。

「いい。気にしないで」

 でも、と続けられる前に。

「風邪ひいたことにする。大丈夫、繁忙期じゃないから」

 暗い中でじっと見るので私も逸らさないでいた。

「加減はせぬが良いのだな?」

 大丈夫。今日だけだから。

「好きなだけして」

 もうヌラリヒョンは私を気遣わなかった。「待って」も「嫌」も全部聞き流された。
 だがこれ以上は本当に辛いと思った時には不思議と弱くなって、一息つけるだけの余裕を与えてくれた。
 相手が経験豊富過ぎるのか、私が態度に出やすいのか。
 どっちでもいい。
 私はカケラも残さず受け止めるだけ。
 この温もりを全部。身体に染み込ませて。
 声も息遣いも、脳に刻んで。
 凹凸を肌で皺の一つに至るまで記憶して。
 暗闇の中に浮かぶあなたをずっと見つめ続けて。
 明日にはすっぱり忘れるために。

 ────一夜の交わりを終えた頃にはとうに日が変わっていた。
 微睡の中、大きな手によって頭を撫でられた。
 その時ふと四文字の言葉が思い浮かんだ。
 ゆっくりと瞼が落ちる────……




 ◇





 スマホのアラームが鳴った。
 即座に会社に休みの連絡を入れる。
 最近は厄介な病気が流行っているので、熱咳鼻水と言うだけですぐに許可してくれた。
 病気とは異なる気怠い身体を引きずって、裸のまま風呂に行こうと扉を開けた。

「随分大胆な……いや構わぬよ。ちと爺には刺激が強すぎるがな」

 色々と足りないが急いで胸だけは隠した。

「……なんで?」
「儂も、少し変わろうと思ってな」

 台所に立ちながらそう言った。寝ぐせは今日も芸術的で鳥に大人気だろう。

「そうじゃなくて。……八百万界に帰ったとか」
「はて。其方夢でも見ておるのか?」

 呆れたように肩を竦めている。

「それとも、昨晩のあれが最期であれば其方は満足だったか?」

 感情を乗せずに淡々と尋ねてきた。
 それはまるで教師のように、私に答えを探させるような物言いだった。
 私は自分の心に目を向ける。

「最期だと思ってた。……だから全部しようって」

 後悔のないように。

「そもそも何故最期と思った?」

 なんとなくそう思っていた。
 いつからだっけ。
 今日いなくなるって確信を持ち始めたのは。きっかけ。
 それに気づいた時、私は自分の間抜けさと臆病さを自覚して顔が熱くなる。

「ごめん。勝手な思い込みなのは判った。それ以上は聞かないで」

 笑われてしまった。もう好きにしてくれ。本当のことを知られるよりはマシだ。

「さて風呂に行くなら行っておいで。その頃にはまあなんとか朝食らしきものが出来るだろう」

 ワークトップをチラッと見た。それっぽい材料が並んでいる。

「シャワーだけだからすぐだよ」
「ゆっくりすれば良いのに」

 少し時間を潰して欲しいんだろう。でも水道代がかかるからちょっとね。

「出たら一緒にすればいいでしょ。それまでは頑張って」

 判ったという声を受けて風呂へ行った。
 朝一番に浴びるシャワーは最初は少し肌寒いが全身にかかる温かな湯はやはり心地よい。
 あーあ、会社、サボっちゃった。
 でも清々しい気分。
 今日はみんなが働いている時間、家でのんびり過ごすんだ。
 台所で四苦八苦しているだろうあの人と。





(20211112)
 -------------------
【あとがき】


 『一番の幸せ』を感じたら、夢が覚めてオシマイ。
 そんな話にするつもりだった。
 なのに、今の私は『別れ』には少々敏感で、
 気付くと結末が変わっていた。

 せめて夢の中では、変わらない日々であって欲しい。
 飽きるくらい顔を見て、余所見して、また帰ってくる。
 帰る場所があるなら、何だって出来る。

 今は違う。
 世界は提供されるものではなく、己で管理し維持するもの。
 自分の意思一つで瓦礫の山に変わる程度のもの。
 儚い。幻と見紛うほどに。
 けれど、
 想い一つで復活するしぶとさがある。

 もう今となっては、独神様が何人いるかは判らない。
 看板を掲げていてもお留守かもしれない。
 本殿で毎日ドタバタ忙しいかもしれない。
 外部からの言葉に今まさに壊れそうかもしれない。

 原作は一つだが、八百万界は独神の数だけ、いいやそれ以上に存在する。

 自分の八百万界はたったひとつ。
 同じものは二つとしてない、あなただけのもの。

 守ったっていい。
 捨てたっていい。

 一度は心の内から薄れようとも、求めればまた再び形を成す。
 神頼みと同じ。
 必要な時だけ願えば良い。

 あなたの一声さえあれば、いつでもどこでも、
 彼らは笑顔を見せるだろう。