キスの日-ヌラリヒョンの場合-


 ──三日間だけ恋人になって欲しい。
 私はヌラリヒョンに頼んだ。いや命令した。
 彼は「構わぬよ」と、まるでお遣いを頼まれたかのように涼しい顔をして了承した。

 あまりの軽さに当然不安はあったが、次の日からお伽番を担当し(私は指示していない)、執務時は勿論、食事時も傍に控え、入浴後も外で待っていてくれた事には大層驚いた。

「わ、私、ごめ、何も考えてなくて、長風呂で」
「はっはっはっ。何を言う。儂も今出てきたばかりだ。気が合うなあ」
 するりと絡んだ指先は私よりも冷たくて、出たばかりとはとても言い難い。
「年寄りの体温なんぞ、冷たいものさ。儂は特にな」
 思考を先回りしたかのような言葉で私の不安を払拭する。本当に恋人だったらこんな風に優しいのだと、私は嬉しいくせに少し俯瞰して自分と期間限定の恋人を眺めた。
 当然のように部屋まで送ってもらい、去り際には頬に口付けられた。
「おやすみ。良い夢を」
 私は興奮のあまり朝方まで眠れなかった。夢を見ているのは、今だ。

 恋人生活二日目。
 一日目と殆ど変わらない。というのも、日中は執務が忙しく独神としての時間しか取れないからだ。
「しまった。西方の討伐頼んでない」
「既に指示しておいた。ビャッコと朝に話を通しておる。必要な人員を好きに選ぶようにも伝えている、……そうだな、帰還は夕刻よりも早いだろう」
 言葉通り、ビャッコはお茶の時間の頃に帰還し、無事に悪霊を殲滅したとの報告を受けた。
「手を煩わせてごめんなさい。もっと気をつ、」
 ヌラリヒョンはそっと私の足を撫でた。決していやらしくはないが突然の接触に息を呑む。
「そこは礼だけで良い。恋人を助けるのは当然の事であろう」
 彼の口から飛び出した〝恋人〟の二文字に、私は何も言えなくなって、
「……ありがとうございます」
 と、真っ赤な顔で呟いた。耳に届く彼の笑い声は幸せの音がした。

 夜には昨日と同様に部屋まで送ってもらった。去り際に視線で欲しがって見せると、唇に口付けられた。
「……可愛い顔をしておるからつい奪ってしまった。おやすみ」
 私は一生顔を洗わないと蒲団の中で誓った。だが、そんな興奮も長くは続かない。
 三日間の期間限定の恋人は、明日で終わり。
 自由に手を繋いで、可能な限り傍で過ごして、一日の終わりに口付けてもらえる生活も、明日までだ。
 終わって欲しくない。
 涙が滲む一方、期待もあった。
 頬、唇ときて、次は────?
 最後がどのように飾られるのか、不安と期待を抱えながら目を閉じた。

 恋人生活三日目。
 日中の執務の合間には、彼に膝枕をしたり、膝の上に乗って抱きしめられたり、私が望む恋人らしい触れ合いをした。
 私が見つめれば、それに気づいた彼が優しく微笑んだ。
 それは普段では見られない柔らかな表情で、彼の特別になった自分を実感した。
「真っ赤になっておるのは良いが、他の者に見せてはならぬぞ」
 我欲丸出しの言葉が似合っていなくて、少し笑ってしまう。
「本当に? どうせ自分の元に帰ってくるだろうって、焦ったりなんてしないでしょう」
 そもそも偽物の恋人なのだから。
 そうやって軽んじていた。だが、彼は私の顎を強引に掬うと宝石の様な瞳で真っ直ぐ捉えた。
「……何故儂が其方を独占したいと願わぬと、そう言えるのか」
 背筋がしんと冷え、血液が凍り付いた。怖いと思うのに、目線を外せない。だが言い訳も口から出てこない。
 しばらく見つめ合った後、ヌラリヒョンは口を開いた。諫めるように言う。
「其方はもっと自覚すべきだ。自分がどれほど他人を惹きつけているかを。隙を見せれば食われる。其方のたおやかな身体では力でねじ伏せられる事も十分考えられる。儂の目が届く間は良い。だが、すぐに駆け付けられぬ時があるのが現実。其方が弱味を見せるのは儂の前だけで十分だ」
 言い終えると、ふんわりと笑みをたたえて、私を優しく撫でた。
「怖がらせてしまってすまぬ。其方が可愛くてつい口煩く言ってしまうのも爺の悪い癖だ」
 私は「ごめんなさい」と謝りながらも、怒られた事による衝撃と思いもよらぬ独占欲で平静とは程遠かった。
 ヌラリヒョンの恋人になると、このような執着心を惜しげもなく見せてくれるのか。
 反省すべき場面だというのに私は心が騒いで仕方がなかった。
 恋人って、いいな。と思った。

 楽しかった時間が飛ぶように過ぎていき、就寝の時間が迫ってきた。
 この時間を終わらせたくなくて、夕食をゆっくりと食べたり、風呂を長めに浸かったりと小細工したが、もう終わりである。
 一昨日、昨日と同じように部屋に送ってもらい、私は。
 ヌラリヒョンの服を掴んだ。
 最後だから、綺麗に終わらせて欲しかった。夢を見たまま眠らせて欲しくて、目を瞑った。
 衣擦れの音がして、私は息を止めてじっと待った。
 しかし何もなくて、堪らず目を開けると、ヌラリヒョンは私の髪を手に取り口付けた。
「おやすみ、ぬし。さらば、儂の可愛い恋人よ」
 ヌラリヒョンは一度も振り返ることなく、廊下を歩いて行った。

 私は蒲団に潜った。
 天井に向かって「馬鹿」と呟いた。何度も、何度も。
 ヌラリヒョンは大馬鹿者だ。
 どうして最後に口付けるのが髪なのか。素直に唇にしてくれればそれで良かったのに。
 そうすれば綺麗な思い出として、この恋を終わらせることが出来た。
 中途半端な事をしてくれたせいで、私はもう得る事の出来ない温もりを唇に願ってしまうのだ。

 明日、ヌラリヒョンはこの三日間の事なんてなかったかのように振舞うだろう。
 私だけが存在し得ない〝四日目〟を願い、またヌラリヒョンを目で追ってしまうのだ。

 どうして、私の心を放してくれなかったの──





(20220320)
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【あとがき】

 これもツイと支部。
 がっつり自分の趣味が入ったものですね。
 ヌラはわざと独神の心に巣食うように振る舞っているのです。
 途中の説教も嘘ではなく本音。
 そういう策士なところがめちゃんこ好き。