「ほら。セミマル行こ!」
「ふふ。
山から降り注ぐ花びらが梅から桜へと交代する頃。
昼の休憩だと言って、独神はセミマルを連れて傍の山へと向かった。山と言っても一刻で行き来出来る小規模のもので、本殿の喧騒に疲れた時にセミマルはよく足を運ぶ。慣れた場所だというのに、独神はわざわざセミマルの手を引き、足元の障害物を逐一伝えた。
セミマルは全盲である。光さえ感知できない。いつも闇の中にいる。
経験を重ね、日常生活から戦闘まで行えるとはいえ、健常者とは異なる反応を見せることもある。
独神に他意はないのだろうが、セミマルはどことなく自分が守られなければならない者と認定されているように思うことがしばしばあった。
そんな時、自分の指先に金属の輪が触れる。
独神の左手に着けられたそれを、気づけばよく撫でていた。
「今日はいい天気! 雲が全く……少しはあるかな。真っ青! 顔を上げただけで眩しい!」
独神は事細やかに周囲の情報を口にする。全盲者への配慮だろう。
申し訳なく思う。本人にふと零したこともあった。
だが独神はあっけらかんとして、
「自分が思ったことをなんでも話せて楽しいよ? 私こそごめんね、おしゃべりで」
と返した。
それからは気に病むことをやめた。
「この匂い、山に来たって感じる」
「木々の香りがいたしますね」
「でっしょー。この時期は山道を歩くだけで目の前にひらひら花びらが落ちるの。沢山。沢山ってえーっと……雨よりは少ないくらい? ちょっと待ってて」
独神は足元がいつも元気だ。
英傑達を連れ歩いていても一人だけ音を乱している。動きの少ないセミマルとは真逆だ。
だが見えない自分にとっては飽きがなくてつい〝耳〟を奪われてしまう。
「花びら、いっぱい集まった。いくよ!」
ふわりと風を感じると髪や鼻、頬、左肩に湿った薄いものが乗った。
ひとつ摘まんで力を込めるとじわりと液体が滲んだ。木を離れた花びらにも体液はあるのだ。
「あと大きいイモムシ見つけた! 凄いよ! 触って!」
指先の感覚が敏感なセミマルは多足の生物が苦手である。
だが独神は平気で持ってくるので、まさか怖いとは言えず勇気を振り絞って手を差し出した。
手のひらで小さな粒がまばらに動きまわられ背中がぞっとした。
「……これは……随分……大柄な方ですね」
「でしょ!」
虫が消えるとまた気配が離れて、布と地が擦れた音がする。逃がしているのだろう。
すぐに帰ってきた。
「
「いいよ」
確認をとってから独神の方へ、少し上に向かって手を伸ばした。
大抵そこに顔がある。
肌の表面を指の腹でなぞりながら輪郭を捉えていく。
「……どんな顔だった?」
「柔らかな表情でした。ただ少しだけ緊張していましたね。どうかなさいましたか。心配事でも?」
「心配してることはないよ。セミマルの顔が近づくからちょっと緊張しちゃった」
独神はセミマルの手を握ると自身の手首を触らせた。
皮膚が速い速度で指を押し上げている。
「これは……すみません」
「謝ることじゃないって! ……慣れてても好きな人相手だと緊張するんだよ」
素直な言葉にセミマルの顔が引き締まった。
盲人のセミマルでは相手の様子を察せないことも多い。聴覚が鋭いので声の震えで多少の感情は読めるが、それでも五感の一つが失われていることで見落とすものは多々ある。
だから独神は、隠し事をしないと宣言していた。
「どうしても恥ずかしい時は言えないと思う。でも、出来るだけ言うから。不安にさせないよ」と。
全盲を相手にするのは手間だろうに、まめに情報を伝えた。
その優しさを負担に思うこともあるが、共にいて大きく困る事がないのは事実だった。
「
「なに?」
「お手に触れてもよろしいですか?」
「はい。あげる」
自分の手に手を重ねられる。セミマルの手は与えられたそれに沿って触れていく。
──手を取る。
そんな簡単な事が盲人には簡単ではない。
相手の動きが何割察せられているかは本当のところは判らない。
間違えて身体の方に触れてしまうこともある。
「気を遣わなくて大丈夫だよ。触り方で、間違えたんだなーって判るから」と独神は言うが、仮にも主に粗相は出来ない。セミマルは独神が絡むと過剰なまでに自分を律した。
「独神は壊れ物じゃないの。もっと普通にして。セミマルだってそうでしょ」
互いに特別扱いを嫌った。
他と見えない一線が引かれる感覚は苦しい。
それを寂しいと思っていた時期もあったが、成長するにつれて盲人としての自覚を持ち、何も思わなくなった。
再び抱くようになったのは、独神が心に住まうようになって。
置いていかれないだろうか。
独神は素敵なひとだから。
種族を問わず好かれる独神は引く手数多だった。
ある時、独神へ指輪を贈る話が本殿に流れた時、自分ならばと歌を送った。形のない指輪を。自分をありのままに表現した。
独神は泣いて喜んでくれた。誰のものよりも一番素敵だと褒めた。
それで満足した。はずだったのに。
セミマルの中から不安が消え去る事はなかった。
もしも。
独神の指に、もしも、指輪があったらと。
確かな形が必要ではないかと弱さに負けたセミマルは鍛冶屋に足を運んだ。
見て確かめることの出来ないセミマルは何度も試作を頼み感触を確かめた。
指を包む曲線、綺麗だと言われている鉱石、指でも判る彫刻。
何度も調整したことで何ヵ月も経ったが、独神へと贈った。
着けるものはこれだけにして欲しいと出過ぎた願いも伝えた。
玉砕覚悟だったので、独神が二つ返事で受け取ったことには驚きを隠せなかった。
独神の指に自分の物以外があったことは一度もない。
「
「可愛くて好き! 石も光の加減でキラキラしてて綺麗なんだよ」
きらきら。
とは、どんなものだろう。
職人と会話を重ね、鉱石の中でも一番の輝きをもつ硬い鉱石を指輪に用いた。
征服されざるものという意味が独神に一番相応しいと考えたからだ。
太陽光を受けて眩く輝くという鉱石は、想像する独神そのものだった。
「喜んで頂けて幸いです」
「最初は指に金属がついてるって慣れなかったんだよね。でもだんだんその違和感が楽しくなったの。セミマルがくれたんだよなーって嬉しくなっちゃって。今も暇な時はよく見るよ。机の上でいつも視界に入ってて良いんだ」
贈って良かった。弾む声を聞いているとそう思う。
「そういえばトール言ってたよ。視界に指輪があると他人の物と思い知らされるって」
「……トールさんが」
見えない自分には判らない感覚だった。
「判るのって悪くないよね」
と楽しそうに言う。
「私は浅ましい人間です……」
「なになにどして? 指輪のこと? 私は満足してるけど?」
セミマルは首を振った。
「他の方が
多くの愛を受ける権利のある独神を自分が閉じ込めてはいけない。
それでも証を常に身につける彼女を愛しく思ってしまう。
見える者達の世界にも、自分が在り続けることに悦に入る自分は愚か者だ。
「良いんじゃない?」
あまりの軽さに気が削がれてしまう。
「私もね、セミマルが慕われてることにたまーに嫌な気持ちになるよ。歌と演奏が好きって、うっとりする姿にもやもやする。でもそんな時に指輪を撫でてると落ち着くよ。私はセミマルの特別なんだってちゃんと教えてくれるの」
きっと無上の笑顔を浮かべているに違いない。
闇の中で想像した。
「すっごくいいものだからセミマルにもあげたいな。琵琶の邪魔かな」
「違和感はあるでしょうね」
重くなる空気の中でセミマルははっきりと伝えた。
「その違和感こそ貴方が私の一部になったとの証明です」
世間では照れることを顔を赤らめると言う。
だが盲人には見えない。赤の色さえ知らない。
独神は手が素直だ。
震えたり、手汗をかいたり、冷えたり。
表情が豊かである。
足音と同じく目まぐるしい感情の動きに惹かれる。
盲人の不利を感じさせない。出遅れて一時一人残される感覚を味わう事がない。
温かくなっていく独神の手を余すことなく撫でた。
この世で一番硬い石が爪の先にいる。今も太陽の光を浴びて輝いているのだろう。
「……
セミマルから逃げた手が衣服を下へ下へと引っ張るのでその通りに動くと地面へ腰を下ろすことになった。次の指示を待っていると、後頭部と背中が地面へと落とされた。
押し倒されていると気づいた。
覆いかぶさっている身体からは熱が発せられ、呼気の乱れを感じる。
たっぷり時間をとって独神が言った。
「今少しだけ意地悪したい」
「私は力で押さえつけることは好みません」
手を前に伸ばすと独神の身体にすんなり当たった。線をなぞって肩へ滑らせそっと押した。抵抗はなく寧ろ望んだ通りに動いていき、位置関係が真逆になった。
「盲目にも貴方が今どんな表情でいらっしゃるのか判りますよ」
熱っぽい息が顔を撫でた。
「触って確かめてよ」
息を呑んだ。
言われた通りそっと顔に触れて確かめていく。
硬い。熱い。鼓動が激しい。
「ごめん」
独神の気配が近づくと、唇に小さな音が響いた。
湿っぽいその響きはセミマルの身体を熱くさせる。
「ごめん。したくなって。……ごめん」
同意もなくと言う意味だろう。
だからセミマルも同じことをした。
「これでおあいこですね」
おしゃべりが大好きな独神が黙り込んだ。
発せられる温度で悪く思っていないことは判る。
だがあまりにも反応がないので、手で独神の様子を探った。
横を向いている感触がする。
ふと手を握られた。
「たまにとんでもなくずるいよね」
ぬるっとした両手がセミマルの手を包んだ。
「私からしたのに、負けちゃうんだ」
「お嫌でしたか……?」
「本気でそう思ってる?」
うらめしそうな声だった。
「実の所、さようなことは思っておりません」
大きな溜息が吐きだされた。
「そういうとこなんだよなあ」と手慰みにセミマルの手を捏ねている。
「困るなあ。好きになり過ぎるんだよなあ」
それはセミマルも同様だった。
声色の中に甘さが混じると動揺が止まらない。舞い上がってしまう。
理性を呼び戻し、手を返してもらうと独神の上から退いた。
「そろそろ帰りましょう」
「……うん」
名残惜しさはお互い口にしなかった。
手を繋いで帰路につく。
「帰ったら琵琶聞かせて」
「承知致しました。全身全霊をかけて弾かせて頂きます」
何も見えない。光さえもこの身には届かない。
だが自分の中にはこの世に二つとない輝きがある。
繋がれた手に飾られた鈍色がそれを証明していた。
(2022/04/02)