ヨルムンガンド襲来


「……なんだよ。おまえの顔ムカつくんだけど」
「私も、進んで貴方の顔を見たいとは思わないね」

 薄く笑みを浮かべるヘイムダルに、ロキは舌を打った。

「はっ、わざわざここまでごくろーさん。ゴシュジンの事か?」
「まあね。独神様の願いでなければ今すぐにでも燃やしてしまいたいくらいだ」

 細く折られた紙が一つの結び目を作っている。ロキはそれを奪い取ると、蛇腹状の紙を広げた。
 中には独神が書いたと思われる文字でさらさらと綴られていた。

「悪神ロキとは言ったものね。まさかアスガルズ界から来る人来る人、あなたに悪感情を抱いているなんて。
 そもそも向こうがそういう人選をしてるだけだとあなたは言うかもしれませんね。
 けれど流石に多くないでしょうか。溜息が止まりません。」

「……なんで、説教受けなきゃなんねえんだよ」

 腑に落ちないが読み進めていく。

「前置きはこれくらいにして、本題に入ります。
 先程ヨルムンガンドという方がいらっしゃいました。あなたに会いたいそうです。
 あなたは会いたくないのかもしれないけれど、一度本殿に帰ってきてお話しして頂けると嬉しいです。
 何卒平和的解決を。
 とはいえ、彼はどうやらお強いようですし、あなたも色々と準備が必要でしょう。
 ですから、私が時間を稼ぎます。
 彼にはあなたが一週間経つまでには帰ってくると伝えました。
 その間、彼を本殿敷地内に留めておきます。
 それと、あなたと少しでも冷静に言葉を交わせるように、彼を説得しておきます。
 だからこれを読んで、気が向いたのなら帰ってきて下さい。」

 手紙はここまで。ロキは鼻で笑った。

「筆跡も文の折り方の癖も確かにゴシュジンだ。けど、おまえが手を加えてないとは言えねえな」

 手の中の手紙が一瞬で塵と化した。ヘイムダルはため息をつく。

「そう言うだろうと、独神さんは予想していてね」

 今度は簡素に二つ折りにした紙を差し出した。訝しげながらも中身を見る。

「あなたのことだからヘイムダル経由では一切信じないかもしれませんね。
 だからこの写真を同封します。ご確認下さい。」

 写真の中で、愛用の机に向かった独神が満面の笑みで手を振っている。
 その横にはミズチがいて、反対側では蛇皮の袖口と赤毛が見切れていた。

「そうそう、ヨルムンガンドはオーディンから地上での器として、ひとの身体を手に入れたそうだよ」
「……で、この赤毛があの蛇だっていうのかよ」
「まあね。信じるか信じないかはロキ次第だよ」
「信じねえよ。当然だろ」

 吐き捨てながらも、徐に写真を上着の内側の物入れに差し込む。

「あ、写真は返してくれるかい」
「おれに渡したんだから、どうしようとおれの勝手だろ」

 ヘイムダルは肩をすくめる。

「それでもいいけれど。もう一度見た方が良い。独神様をね」
「うるせえな」

 はっきりと言わないヘイムダルに苛立ちながらも、もう一度写真を取り出した。
 写真の中の独神は、荒れているだろうヨルムンガンドの隣にいるというのに楽しそうだ。
 顔ばかりに注目していたが、よく見ると首の部分……着物に隠れているが包帯が巻かれている。

「またあいつ馬鹿やったのかよ。大将のくせに怪我しすぎ」
「さて、どんな"馬鹿"だと思う?」
「……あ? いちいち煽ってくるじゃねえの」

 独神ばかりを見ていたが、その横で、お伽番と思われるミズチから毒霧が漏れている。
 確か苛立ったり、精神的な抑圧で漏れるとかなんとか。
 ぽっとでのヨルムンガンドが独神と仲良くしているのが気に入らないのかもしれない。

「…………いや、まさかとは思うが。いや、いくらゴシュジンが馬鹿でも……いや、あいつマジで馬鹿だからな……」
「ふふ。一般的に見れば独神様の行動はひどく愚かだ。周囲の英傑たちも随分振り回される」

 ロキの頭に浮かんだ一つの想像に総毛立つ。

「──ヨルムンガンドに噛まれやがったな」
「ふふ、ご名答」

 ロキはヘイムダルの胸ぐらを掴んだ。

「こんなもんが撮れるってことは遅効性だな。期限は」
「七日後、太陽が一番高く上がる時に。ロキが期限内にくれば解毒するって」
「ゴシュジンめ。おれを逃がさねぇつもりだな。策士め」
「おや、不思議な事を言う。逃げてもいいんだよ。
 ヨルムンガンドも八百万界のことも関係ないだろう。
 独神様が死んだってアスガルズの私たちには関係ない」

 おかしそうに笑うヘイムダルには何も答えず、ロキはその場を離れた。



 ◇



「ヨルムンガンド……。そろそろ話しかけてもいい?」
「駄目に決まってんだろ」

 執務室で独神は忙しなく筆を滑らせている。
 冷たく突き放した巨大な赤毛の男は部屋の隅でじっと座っていた。

「そこ寒くないの?」
「寒くねえ。……いちいちうるせえな」
「ごめんなさいね。蛇に関わる英傑のみんなは、今の寒い時期を嫌がるから。
 ……あ、ゲンブは元気なんだけれどね。ほら、蛇と亀っぽい静かな感じの」
「判るかよ。……確かに、蛇の気配がする奴はいた気がするが」
「じゃあ多分それよ」

 手を一つ打つ独神であるが、ヨルムンガンドは耳障りだとしか思わなかった。

「むむむむ……」

 蛟という、竜であり、蛇でもある者から、もうもうと毒気が這いだしていた。
 独神は扇子でそれらを散らしながら、ミズチを諫める。

「威嚇は止めなさいな」
「だって、ヨルムンガンドは主さまに冷たすぎるんだよ」
「あ? 壊してねえだけマシだろ。それともロキの前にオマエから壊してやろうか?」
「むむむ! そういう事は人に言っちゃ駄目なんだよ」

 より濃い色の霧が吹きだし、独神は後ずさった。

「み、ミズチ。落ち着いて落ち着いて。
 見回りに行ってきてくれる? 町の人もミズチを待っているはずよ」
「うん! そうだね! 今から行ってくるから、お土産待ってておくれよ!」

 毒霧はぴたりと止み、子供のように駆けていった。
 独神は一生懸命毒霧を外へ追い出していく。

「……ふん、つまんねえな」

 少し浮かせた腰を下ろし、壁に頭を置いた。
 壁からはどかどかどかどかと振動が響いていて、落ち着かない。

「あなたは甘い物平気? 多分ミズチが帰ってきたらお土産を持って帰るだろうから、一緒に食べましょうね」
「は? なんでオレ様のまで」
「あなたの分があったらおかしいの?」

 呑気な事を言う独神に、ヨルムンガンドは耐えていたものを破裂させた。

「オレ様はオマエに噛み付いたんだぞ!
 今はなんともねえだろうが、明日までには全身が痺れだす。その後は五感すらなくなる。
 ここのヤツらにとってオマエはなくてはならねえもんなんだろ? 何故オレ様を壊さない?
 いくらオレ様が最強だろうが、数で攻めれば万に一つくらいは可能性があるかもしれねえ。
 オマエの命令だからと言って、ヤツらは何故従う? 何故オマエは動揺しない?」

 一気に怒鳴り散らしたヨルムンガンド。独神はふふと笑った。

「今日一番話してくれたわね」
「ああ?」

 見当違いの返答に、無い牙で頭を引きちぎってやろうと思った。

「私が求めた一週間の期日の代償は大きいわ。
 神経毒なんて貰っちゃうと仕事にならないもの。
 後でそのツケを払う事を考えると、今から気が重いわ……」
「そうじゃねえだろ! オマエは一週間後死ぬって言ってんだ! なんだその余裕は」
「だってロキは必ず帰ってくるもの。数日我慢するだけなら平気よ」
「それはオレ様の毒を舐めてんのか? 数日の我慢が余裕だと? いいぜ。好きなだけ苦しめよ」
「ええ。アスガルズ界を飲み込む大蛇様の毒を堪能させてもらうわ」

 涼しい顔で返してくる独神だが、果たしていつまでそうしていられるか。
 明日に見せるであろう情けない泣き面が楽しみで仕方がなかった。

「それはそれとして。そんな隅っこじゃなくてこっちに来て。見て欲しいものがあるの」
「オマエが来ればいいだろ」
「あなたがそれでいいならいいわよ」

 躊躇なく近づいてきた独神は、ヨルムンガンドの顔をちらっと見上げた。

「毒に侵された私如きを警戒する必要なかったでしょ?」
「っオマエ!」

 殴ろうと拳を振り上げるが、何かに弾かれた。青白い球体が壁にくっ付いている。

主人あるじびとに触れるな」

 部屋に入ってきた男は早足で独神に近づくと、額を指先で弾いた。

「全く。毒を受けるだけでなく、拳まで受ける気か。主人の嗜虐趣味は底なしだな」
「そんな趣味ないわ」
「いや、オレはそんな主人でも受け入れよう。
 壊れ物のように扱いながら抱くのも、傷つけて辱めて抱くのも得意だ」
「……聞いて」

 止まることなく一方的に捲し立てるアシヤドウマンを適当な相槌で流し、適度に反論しながらも、独神の表情は柔らかだ。
 突如始まった二人の会話を聞き流していたヨルムンガンドであったが、終わりの見えないやり取りに痺れを切らした。

「オマエ。オレ様への用が先だろうが」

 その言葉に弾かれたように、独神はヨルムンガンドに目を向けた。
 目尻を下がり、口元が緩んでいく。

「主人を傷物にした貴様がそれ以上好き勝手にするのは許」
「はい、これが本殿周辺の地図。あと、八百万界全体の地図よ」
「おい、主人。オレの話を」

 聞いていない。独神もヨルムンガンドも。

「ロキを追うなら界全体の地理は把握している方が良いわ」
「てことは、結局ロキが来ねえと思ってんじゃねえか」
「まさか。ロキがどんな神かは知っているでしょう? 一度顔を見せたら十中八九逃げ出すわ。
 本殿を始点として逃亡するのが判っていれば行先は限定出来る。捕まえたいなら、周囲の環境を覚えておいて損はないと思うけれど」
「んな面倒くせえことしなくても、オマエを使って脅せばいいだろ」
「あら、私がちゃんとロキにとって餌になると信じる気になったのね」

 嬉しそうに笑う独神に、一瞬言葉を詰まらせた。

「んなわけあるか」
「そうだぞ、主人。アスガルズの奴らなんぞ信用できん。八百万界の奴らも同様だ。
 だからオレにしておけ、そうだろう?」
「脈絡ねえなオマエ」

 一貫して自分が話したい事しか言わないアシヤドウマンに呆れた。

「おい、貴様。御託を並べる暇があるなら、雪辱を遂げる為の準備を怠るな」
「オレ様を信用できないと言うヤツが何を偉そうに。敵のオレ様を壊そうとしねえオマエこそ信用できねえな」

 ヨルムンガンドは鼻で笑う。

「なんだオレとやり合いたいのか? オレとしては大歓迎だがな。その方が主人を苦しめずに済む」
「やる気も理由もありゃ十分だろ」

 殺意を滲ませるが、アシヤドウマンは肩をすくめる。

「生憎、その主人が戦うなと言うから貴様に手はださん。
 まあ、そんな命令を下す主人はつける薬がないほどの大馬鹿者だ。
 それでも、このオレが認めた者だからな。大抵の事は従うさ」
「馬鹿か」
「主人よりはマシだ」

 ぽんぽんと独神の頭を撫でた。

「ソイツ、納得いかねえって顔してるぞ」
「じゃあ、はい、地図の解説よろしく」
「……ん? オレがか?」

 嫌々ながらも独神に言われた通りに八百万界の特徴、周辺の地理について解説を始めた。
 陰陽師であるアシヤドウマンは、術の特性上、土地の気の流れや方角を常に意識する必要があり、地理には詳しい。
 勉強熱心な彼は教えるのも上手く、既に土地を知る独神でさえも新たな観点に感心していた。
 ヨルムンガンドはと言うと、途中何度か毒づきはするものの、中座することなくその場に留まり続けた。

「──では、オレは失礼するぞ。セイメイを苦しめる良い策が浮かんだからな。術の構築が終わったら特別に主人には教えてやる」

 去り際に目配せしながらアシヤドウマンは退室した。
 二人になり、部屋は静けさを取り戻した。
 独神が黙ってお茶を淹れてくると、ヨルムンガンドの傍に湯呑を置いて、自身は机に向かった。
 墨を磨り、流れるように筆を滑らせていく。
 山積みになった紙が一枚、二枚と手に取られるが、山の高さは変わらない。
 暫くするとヨルムンガンドが立ち上がった。独神は顔をあげ、声をかけた。

「暗くなる頃には夕食なのだけれど、嫌いなものはある?」
「いらねえよ。オレ様に世話焼いてんじゃねえ」
「判ったわ。いってらっしゃい」

 見送りの言葉を与えられ、気にせず本殿の外に出た。
 その間誰にも呼び止められなかった。独神の傍から離れ、一人で出歩いている所を目撃しているというのに。
 誰一人として、ヨルムンガンドの行く手を阻まなかった。
 ──いや、一人だけ、ヨルムンガンドの足を止めた者がいた。

「あ、君、これからお出かけするの? 羊羹もらったから主と一緒に食べようよ」

 見回りに行っていたミズチである。
 竹の皮に包まれた羊羹を大事そうに両手で包んでいる。
「構うな」と言い捨て、ヨルムンガンドは背を向けた。

「……どうなってんだここのヤツらは」

 八百万界に着いた時の海岸まで足を運び、砂浜に座り込んだ。
 踊る波を見ながら、自身がいたアスガルズ界に想いを馳せる。
 神々に恐れられ、海に捨てられた自分。静かな海の底で過ごした半生。
 違う界であっても海は同じく、ヨルムンガンドの心を静めていく。

「アイツと二人だと息が詰まる。やっぱり海は良いな」

 毒牙にかけた獲物に対し「気まずい」と感じることのがおかしさには気づいている。
 故に処理できない感情は心地が悪く、誰もいない場所を求めた。

「あのロキが、なんでアイツの命令を聞くのかまるでわからねえ」

 邪神ロキは享楽主義者で、誰かの為には動かない。

「ヘイムダルやブリュンヒルデ、あとトールもだ。フレイヤは……元々いかれてるからな」

 オーディンの命令で八百万界に送られた神々は揃って任務を果たさず、独神の下で八百万界の戦に手を貸している。
 オーディンとは無関係にやってきた神々もまた、独神に従い悪霊を滅ぼしている。
 故郷であるアスガルズ界がロキのせいで危機に陥っているというのに、誰も帰ってこない。

「オーディンの命令はどうでもいいが、ロキはオレ様の手で確実に壊してやんねえとな」

 その近道が独神を餌にロキをおびき寄せる事だ、と提案したのは独神だった。
 信用出来ないのなら毒蛇らしく噛めばいい、と言い出したのも独神だ。
 周囲の者たちは大反対で、ヨルムンガンド自身の排除を要求したが、独神は首を縦には振らなかった。
 悪霊に侵攻された八百万界を救える存在であるらしい独神が、ヨルムンガンドに臆さずあまつさえ神々すら屠る毒をも恐れぬ態度が不快だった。
 望み通りじわじわ苦しめてやろうと、独神の指に七日後に事切れるように調節した毒を流しこんだ。
 独神の笑みは、皮膚から血が流れても途切れなかったのが印象的で、今思い出しても言いようのない感情が渦巻く。

「オレ様がアイツの言う事を聞く義理はねえが、ロキとすれ違いになると二度手間になる……って言われるのが目に見えるぜ。
 あの言い回しはいちいち腹立つが、間違ってはねえ」

 独神の思惑通りに動くのは気に食わないが、明るくない八百万界でロキと接触するには効率が良い。
 だから本殿に戻るのも、その為だ。

「おかえりなさい」

 日はすっかり沈み、闇が立ち込めているというのに、独神はまだ机に向かっていた。
 山積みの紙は出ていく前と殆ど変わらない。

「何か食べるなら用意するけれど、どうする?」
「しつけえな。オレ様の事は放っておけ」
「わかったわ。……あと、そこに置いてあるものはご自由に召し上がって」

 ヨルムンガンドがいた隅には、小机が置かれその上の皿には白くて丸い物が置かれていた。

「……なんだこれは」
「おにぎり。えっと、フレイヤがライスボールと言えば判るって言っていた気がするわ」
「わかんねえよ」
「え!? ……八百万界の主食、です。米という穀物をぎゅっと丸めたもので、中には肉を入れておいたわ。好きかなって」
「なら肉と草混ぜんなよ」
「草!? ……た、確かにあなたが知らない物の中に入れて隠してしまうのは悪手だったわ……。
 ご、ごめんなさい……でも……草はちょっと違う。植物だけれど……草って……」

 余程、米を草呼ばわりした事が納得できないのか、ぶつぶつと呟く。
 そもそも、敵である立ち位置のヨルムンガルドが食べるわけがないと言いたいところだが、すっかりその気が失せた。

「……オマエが作ったのかよ」
「そうよ。……あ! ぱんに挟めば良かったんだわ! さんどいっちってヘイムダルから聞いた事あったわ。
 ごめんなさい、アスガルズ界の文化に疎くて」
「(そういう問題かよ)」
「今から作ってくる。ちょっと待ってて!」
「おい! オレ様はオマエなんかが作ったもんを食うなんて……って全然聞いてねえな」

 兎のように飛び出していったせいで、部屋に取り残されてしまった。
 白い物体と共に。

「……」

 徐に、謎の白い塊を鷲掴みにする。指先に米粒がベタベタとくっ付いた。

「この周りのぶつぶついらねえな」

 蛇の身体の時と同じく、殆ど噛まずに丸呑みした。



 ◇



「おはよう、ヨルムンガンド」

 独神が自室から出てきたその瞬間、ヨルムンガンドはぱちっと目を覚ました。
 障子を開け放ち、空気を入れ替える様子をじっと観察する。

「オマエ、まだ歩けるのか?」

 独神は苦笑いした。

「実は結構辛い。身体の自由が利かないってこんなに苦しいものなのね」
「薄めたとはいえ、オレ様の毒だ。ここからだぜ、苦しみの始まりは」

 と、嘲り笑うが、独神は昨日と変わらず強気だった。

「あと六日よね。いいわ、耐えましょう」

 未だ笑う事が出来る独神に、少なからずヨルムンガンドの矜持が傷つく。
 本来の姿であれば、一飲みで殺せる取るに足らない存在が、大きな顔でのさばっている事が気に食わない。

「朝ご飯用意するから、少し待っててね」
「もうオレ様に余計な雑草食わすなよ」
「ざっ……まあ、お米が食べられたなら大丈夫よね」

 一貫していけ好かないと思っているが、差し出された物に対する警戒心は弱まっていった。
 文句は言うが食事は完食し、食後に拷問の様に熱い茶が出される事にも慣れてきた。
 食事休憩が終わると、独神の書き仕事が始まる。その間はどちらも口を開かない。
 ヨルムンガンドにとって沈黙は苦ではない。関わる必要がないのは楽だ。
 特に気を許していない相手など──。

「……オマエ、そろそろ何か間抜けな事言えよ」
「じゃあそろそろ休憩にしましょうか」

 独神が二人分のお茶を淹れ、ヨルムンガンドの傍の小机に湯呑を置こうとすると、つるりと手を滑らせた。
 空中落下する湯呑を、ヨルムンガルドはがしっと受け止めた。掌にじわじわと熱が伝わる。

「ごめんなさい! 火傷していない? 大丈夫?」
「そんなウスノロじゃねえよ。零れてねえだろうが」
「ごめんなさい。もっと気を付けるわ」

 両手が小刻みに震えているのが見えた。勿論、ヨルムンガンドに対する恐怖によるものではない。

「他にも何かあんのかよ」
「ええ。お茶菓子が沢山あるからそれも持ってくるわ。何があなたの口に合うか判らないから、色々試してみましょう」
「で、どこに置いてんだよ」
「こっち」

 茶箪笥には色とりどり、大小異なる食べ物がぎっしりと並べられていた。
 その中で、千代紙が張られた箱を指さすと、ヨルムンガンドは独神を横へ押しやり、箱を取り出した。

「落とされたらたまんねえからな。他意はねえよ」
「ありが」
「オレ様の為にやってんだ。見当違いの礼なんて言うんじゃねえよ」
「うん、あり」
「いらねえよ!」

 二人は茶と茶菓子を囲んだ。
 独神が熱弁する茶菓子解説を、ヨルムンガンドはほぼ全て聞き流した。
 甘味を食べる習慣はなく、味見もしたが好んで食べようと思うほどの物はなかった。
 嗜好品は不必要。生きるための食事だけで十分である。
 よって独神の無駄解説など制止してしまえば良いのだが、放っておくことにした。
 濁流のように声を浴びせかけられるのも、そう嫌いではないと思えたのだ。

「……こんなに話し続けたの、久しくなかったわ。とてもすっきりした。ありがとう」
「別に。聞いてなかったしな」
「そんな気はしてたわ」

 独神はまた机に戻り、今度は書物を読み漁り始めた。
 ヨルムンガンドは時折その様子を横目で見ながら、海底で佇んでいた毎日を思い出していた。
 その日の夕食は他の英傑が作ったという、一見しただけで美味しそうなものが出された。
 独神は食べなかった。理由を尋ねると「調子に乗ってお菓子を食べすぎちゃった」と笑っていた。

 そして次の日。
 独神はヨルムンガンドに声をかける事はなかった。
 神経麻痺により、会話が困難になっていた。身体と表情で訴えようにも身体の自由が利かず、思うようにはいかないようだった。
 仕方なく、ヨルムンガンドが言葉を投げ、それに対して独神ははい、いいえを表現した。
 その日、独神は書き物もせず、読み物もせず、ただぼうっと床に転がっていた。

 四日目の朝、独神は起きてこなかった。
 声もかけずに部屋に入り込むと、布団の上に転がった独神は呼吸が途切れ途切れで、声をかけても反応しなかった。運動神経の障害が、とうとう呼吸筋にまで及んだのだろう。
 このまま筋肉が壊死し、同時に感覚神経、自律神経も狂っていき、事切れるに違いない。
 ヨルムンガンドの毒は即効性があり、通常なら一噛みで対象が死ぬので、経過をまじまじと見るのはこれが初めてである。だが、独神の様子を見ると、とても七日持つとは思えない。
 毒を薄めた事がなかったので、分量を多少間違えたのだろう。

「(コイツが死んだ所で、何も聞かされていないロキは指示通り七日以内に来る。来る気がないならそもそもオレ様がここで待つ意味がねえ)」

 部屋ではヨルムンガンドを認識出来なくなった独神の手足が歪に折曲がっており、まるでガラクタのようだ。
 ほんの数日前に、ヨルムンガンドに臆さず言い返してきた事が嘘のように思える。
 神経をやられた醜い姿は見ていて吐き気がした。こんな気色の悪い物捨ておいてしまいたい。

「(オレ様の毒で、一つの界の指導者が消えるってのは悪くねえ。オレ様が最強である事の裏付けになる)」

 この勢いのままロキを壊し、アスガルズ界の神々や巨人たちを呑み、毒で苦しませるのも悪くない。

「(オレ様は捨てられただけの蛇じゃねえ。無敵で、最強で、だから勝手に向こうが慄いただけだ)」

 ふつふつと燃え上がる己の存在を取り戻す為の復讐心に、ぽつっと異物が混じる。
 異物は少しずつ色づくと、っ、っ、と音なく笑った。
 ──我に返ると、足元の独神が頭を揺らしていた。気道が潰れているのだろうか。
 人型のことなど蛇には判らない。自分以外の生命のことなど、今まで否定の対象でしかなかったのだ。
 知る機会なんてものはなかった。昏い深海は己と向き合う事には積極的だったが、他を見つめる事には消極的だった。

「(わっかんねえよ!)」

 ヨルムンガンドは独神の部屋の扉を殴り倒し、執務室の障子も蹴り倒した。
 眩しい朝日が目を突き刺す中、大きく息を吸い、一気に外に放った。

「おい!!! 英傑ども!!!」



 ◇



「頭領さんもあんたも大馬鹿野郎だ」

 顎髭を貯えた男は叱責した。一蹴して武力に訴えるところだが、この獰猛そうな顔をした男は医者だというので、ヨルムンガンドは牙を抑えた。

「皆の命を大事にする癖に、その"皆"にはいつだって、自分が入ってねえ。
 いつもいつも自分勝手で、おれたちの気持ちなんざまるで無視だ!
 あんたはあんたで、頭領さんをこんな目に合わせた張本人だしよ。
 おれの矢で射貫いちまいたい所だが、頭領さんをここに連れて来てくれたのもあんただしな。
 全く、頭領さんもあんたも、でもっておれも、いったい何やってんだかさっぱりわからねぇな!」

 ヨルムンガンドが英傑たちに独神の事を伝えると、アカヒゲの下へ連れて行くように促された。
 アカヒゲは人族の医者で、人族ではない独神は専門外らしいが、そもそも独神が八百万界に住まう三種族とは異なる生物であることから、専門医は世に存在していないようだ。
 普段から独神の身体について記録をとっている事から、何かあった時はこの男にまず診せているのだと他の英傑が言っていた。

「呼吸は出来るように処置した。けど、このままじゃあんたと頭領さんが約束した日より前に死んじまうだろう」
「そうだろうな」

 見立てに肯定すると、アカヒゲは額に青筋が立ち、目じりを吊り上げ、それでも必死に怒りを押し殺して言う。

「あんたは、どうしたいんだ。おれたちに頭領さんの事をでっけー声で教えたのは、助けたいからじゃねえのか」
「はっ。オレ様がこんなヤツの生き死にについて気に掛けるわけねえだろ。ロキの誘き寄せる餌でしかねえんだよ」

 血管が切れた音がした。

「よそ者が好き勝手いいやがって! 普段から苦しんでる人をこれ以上苦しめてんじゃねえ!」
「神経がぶっ壊れたのはオレ様のせいだが、そもそも受け入れたのはドクシンだ。
 普段から苦しんでいる? その原因はオマエら英傑を含んだ八百万界のヤツらだろ。
 ドクシンの痛みの全ての原因をオレ様にすり替えてんじゃねえ」
「止めの一手はあんたの毒だろうが! 頭領さんの治療法を知ってる唯一のあんたが何故助けの声をあげた? 無理やり七日生き延びさせて、無駄な痛みを与える気か!
 そうやって命を弄ぶ真似するやつはな、おれは大嫌いなんだよ!」
「ならオレ様を壊すか? かかってこいよ」
「うるせえ! 頭領さんがやるなつったら、やらねえんだよ!!」

 ヨルムンガンドに背を向け、荒々しく襖を開けたアカヒゲはそのまま足を踏み鳴らして行った。

「……ドクシンの命令が絶対か。本当に、ここのヤツらは理解できねえ」

 真っ白な布団に横たわる独神を見た。

「……ま、今回ばかりは、オレ様も理解できねえけどな」



 ◇



 六日目の昼、本殿敷地内の森で大きな爆発が起きた。
 爆心地に立っていたのは、白いフードを被った者だった。

「ヨルムンガンド!! 出てきやがれ、この捨て蛇野郎!!!」

 息を吐き、ロキは武器を持つ手に力をこめ、辺りを注意深く観察した。
 複数の気配が動いているのが判る。悪霊を警戒した英傑たちだろう。
 そして、その中の一つは────。

「ロキ!!! ははっ、本当に来やがったな!」

 赤銅色の長い髪を靡かせ、蛇革上着を羽織った者が真っ先に、ロキと対峙した。

「来る気なんてなかったっつの。それより、ゴシュジンはまだ生きてんだろうな!」
「知るか。オレ様の目的はオマエだけだ、ロキ!!!」

 人の形をしているが大蛇の覇気を感じた。
 ああこいつはヨルムンガンドに違いないとロキは瞬時に思った。
 ならば、──と、ロキはヘルヘイムを持つ手に力を込めた。

「……さっさと潰してゴシュジン助けてやんねえとな」

 人型になったヨルムンガンドと対峙するのは初めてである。
 今の器での戦闘は不慣れと予測し、ロキはヨルムンガンドの攻撃を受ける事に集中した。
 人型のヨルムンガンドは牙を捨て、拳を振るっている。
 一発毎の拳が重く、器の筋力だけで繰り出されたの物とは思えない。元の体躯が関係しているのか。

「(妙な器与えやがったな。馬鹿オーディンめ)」

 知略を主軸とするロキでは、ヨルムンガンドの拳は受けきれず、身体を横殴りにされた。
 受け身は取れたが、全身の骨が軋む。

「っ、くそったれ。おまえ! 解毒剤持ってんだろうな!」
「毒蛇がご丁寧に血清なんて持ってるわけねえだろ」
「だろうな。くそくそ」

 自業自得とはいえ、独神の危機であり、本来ならばロキは即本殿に戻っていた。
 しかし、現れたのは六日も経過してからの事だ。
 理由は解毒剤がない事であった。
 ヨルムンガンドを倒す自信はあったが、解毒については自信がない。しくじれば独神は命を失う。それだけは避けたかった。
 解毒する薬を作る事も考えたが、時間が短すぎてどうにかなるものではなかった。それで一日は経過した。焦りで冷静ではなかったのだ。
 ヨルムンガンドの恐ろしさを一番知っているのは、八百万界の中ではロキだった故に。
 一度寝て、頭を整理した後、思ったのは"ヘイムダルが動いていないこと"だった。
 未来視が出来るヘイムダルはこの騒動の結果は既に知っている事だろう。
 ヘイムダルが何を考えているかは知らないが、それに独神の存在が必要なのは察している。
 独神が失われる事態は避けるはず。それなのに大人しくしているという事は、未来で独神は生きている。
 勿論、ヘイムダルの事なので楽観視は出来ないが。

「(ヘイムダルの見た未来でおれがどう動いてんのかはわからねえが、
 数日でおれが可能な事と言えばヨルムンガンドを痛めつける算段をつける事。
 多分、それがヘイムダルの未来に対する"正解"だ)」

 今のところ、ヨルムンガンドの動きはロキの予測の範囲内だ。
 これならヨルムンガンドの無力化は可能である。

「(解せねえのは、ゴシュジンの周りの奴らが動いてるように見えねえ事だ。
 手を出すなと言われたにしろ、んなもん聞く必要ねえだろうが)」

 ヨルムンガンドの追撃を受け流しながら、ロキは所定の位置へと誘いこんでいく。
 森には沢山の術式を仕込んでおり、状況に応じて発動させていくつもりなのだが──。

「……なかなか派手な登場ね」

 視界の端で能天気な事を言う、本来ならここにいないはずの者がそこにいた。

「……は? ゴシュジ──」
「余所見してる余裕があんのか!!」

 一直線に飛び出してくるヨルムンガンドを寸前で躱すと、
 魔力を球体状にに編んだ物を地面に向かって叩きつけた。土砂が飛び上がり、視界は砂埃で霞む。
 術の一つを発動して、幻惑を映し出す。その間に独神を抱えて、森の奥へ走った。
 後ろで地鳴りがする中、ぽいっと独神を捨てた。

「おかえり。ちゃんと手紙読んでくれたのね。ありがとう」

 笑う様子がいつもと同じだった。

「そうじゃねえだろ! なんで無事、って噛まれたなんて嘘かよ!」
「噛まれたわよ。指先をちょこっとね。少量の毒を入れるのって難しいらしくて、結構苦労したみたい」
「結局噛まれてんのかよ。ばっかじゃねえの! なんで平気なんだよ!」
「噛まれる時にね、ヨルムンガンドの毒を頂いて、本殿の皆に解毒薬を作ってもらってたの」
「だったら、おれ帰ってこなくて良かったんじゃねえか。あーあ、来て損したぜ」

 トリックスターの二つ名が泣く。ロキは無意味に振り回された事が悔しかった。

「そんなことないわ。だって、間に合うかどうかは判らなかったもの。実際、間に合わなかったしね」
「……は?」

 開いた瞳孔には、口元を弓のように釣り上げた独神が映っている。

「びっくりしている所悪いけれど、惚けてていいの?」

 独神の背中から飛び出してきたヨルムンガンド。思わず独神を置いて避けるロキ。

「敷地からオマエを出しちまえば、邪魔は入らねえ。思う存分ぶっ壊してやるからな!!!」
「馬鹿蛇め。おれだって、おまえをかば焼きにしてやる準備は出来てんだよ!!」

 独神が手を振っているのが見えた。相手はロキ。そしてきっと──。
 そこで、現状を理解した。
 結局、独神の掌で踊り狂っただけだったのだ。

「このイライラはおまえで発散してやるぜ、ヨルムンガンド!!!!」



 ◇



 ──ヨルムンガンド来訪四日目の夕方。アカヒゲの診察室にて。

「……ドクシン。オマエもオーディンみたいなもんかと思ったけど、違ったな」

 アカヒゲの処置で気道を確保された独神の口からは管が飛び出し、生物として異形の物になりつつある。
 瞼も自由に動かせないのだろう。意識が覚醒しているのかぱっと見は判らない。
 人型になっても熱察知能力を保持しているヨルムンガンドは、体温から独神が覚醒している事が判っていた。

「オレ様は静かなのが好きなんだつったろ。
 ……だから、今みてえに呻き声でうるせえのも、だからって静かすぎるのも鬱陶しいんだよ」

 上着から小さな紙の包みを取り出し、独神の口から管を引き抜く代わりに中身を喉の奥へと突っ込んだ。
 ヒキガエルが喉を鳴らすような耳障りな音が少しずつなくなり、規則正しい呼吸が徐々に戻ってきた。

「こんくらいの音なら、海底のあぶくみてえなもんだろ」

 体温が下がっていく独神の傍らで、ヨルムンガンドは目を閉じた。
 次に目を開けた時には、じっと自分に向けられた視線を横から感じた。

「……ヨルムンガンド、おはよう」
「……おう。起きたか、ドクシンさん」







(20220318)
 -------------------
【あとがき】

 支部にのせたもの。
 結局絆されちゃう感じは原作的展開。