友人

彼女のように邪気が全くない子に会う事は今後一度も無い事だろう。

「は、初めまして。今日からここでお世話になります、です」

転入の時期とは大きく外れた頃に、彼女はやってきた。
教卓がやけに大きく見えるくらいに小さな子。
一目で判った。彼女が普通とは一線を画す子だって。
少女的で可愛らしい彼女は窓から射す光を受けて輝いていた。

「席はその辺で。サユリ、任せた」

突然の指名に驚いたと同時に、彼女と目が合った。が、すぐに目を伏せられた。
ぎこちない動きで横を通り過ぎる彼女からはふわりと不思議な香りが舞い思わず目を細める。
香水とは違って鼻を刺すようなものではない。
そういうものをあまり詳しくは知らないので、何かは判らないが不快感は無かった。
隣にちらりと視線をやると彼女は小さな身体をうんと小さくしていて、
私は出来るだけ優しく声をかけた。

「あのさん」
「は、はいぃ!」
「驚かせてごめんなさい。あの、分からないことがあったら言ってね」
「だ、大丈夫です」

言葉通り大丈夫とは全く思えなかった。
初めてらしい学校に来てなかなか緊張は拭えないだろう。
怖がらせないように、焦らず教えていこうと思った。

それが、彼女と出会った最初の日。



様々な要因が絡み合い、周囲とはあまり馴染めなかった彼女だが、
何度か話かけて行動を共にするうちに心を許してもらえるようになった。

「そうなんだ。サユリはいっぱい知ってるんだね。黒ちゃんみたい」

何も知らない彼女は平凡な私とは違ってとても可愛らしかった。
何に対しても素直な反応を見せて、無邪気ににこりと笑う。
とても良い子だと思う。きっと、ここにいる誰よりも。

けれど、そんな彼女を私は少し苦手に思った。
これが幼稚園児ならば素直に可愛いと撫でられたのに、私と同年代である彼女にはそう出来る筈がなく、どう扱って良いのか判らなかったのだ。
それに、あまりにも前例がなさすぎる彼女の無垢さに、
何の反応が正解で、どんな反応が間違いなのか、コミュニケーションの全てが探り探りだった。

自分と同じだけ生きていて、こんなにも違う人間になるのかと、私は不思議でしょうがなかった。
年齢に間違いがあるのではないかと、失礼ながらも思った私はさりげなく先生に尋ねてみた。
「ああ、本当だ。俺も驚いたぜ」
とあっさりと肯定され、私は益々彼女に対する感情の形成に頭を抱えた。

私が抱える苦悩を知る術を持ち合わせていない彼女は、毎日私に笑顔を見せた。
嫌いじゃない。寧ろ裏表のないそれは心地よかった。
それでも、言いようのない感情が渦を巻く事は止まらない。

嫉妬、とは違うように思う。羨望、は少しある。
自分でも判らない。判らないと言う言葉でしか表現出来なかった。
これは決して語彙の貧困さが原因ではないだろう。
未知の領域。経験にない何か。兎に角何度も言うが、<判らない>のだ。

もやもやとしたものを抱えつつも、味方のいない彼女が可哀想で、それに先生からの言葉もあり、毎日関わり続けていた。
よく話していた友人からは、そんなに気を使う必要はない放っておけと助言されたが、私は「大丈夫」としか返さなかった。
意地だったのだろうか。今でもよく判らない。

ここまで彼女のマイナスイメージを植え付けるような事ばかり言ってしまったが、私は彼女の事を決して嫌っていた訳ではない。
彼女の近くは心地よかった。
彼女は何も知らなかったから。
特にこの世界が決して優しさに溢れた場所では無い事を、知らない。
だから彼女が話す誰かはいつも優しかった。
温かくて、心地よくて、楽しかった。
そんな方とだけ触れ合ってきたという彼女もまた、底抜けに優しかった。



「本人がいない時にそういう事を言うの、良くないと思います」



学校という集団に属していれば、必ず非難や雑言を放たれる事があるだろう。
度を過ぎていれば別であるが、相手にしなければいい事。
いじめという言葉が取りざたされているが、それくらい当たり前の事である。
勿論良い気はしないが、それに対して騒いでもしょうがない事。
寧ろ騒ぐ方が悪と見なされる為、誰もが黙殺していくのが殆どである。
みんな、巧妙に周囲の気配や言葉を察して、上手に見えない波に乗るのだ。

「お友達なんだから直接言えば良いと思います。
 辛い時にその話題は嫌だって。
 相手は気付いていないだけですし、その一言で解決するじゃないですか」

優しくて、そして空気の読めない彼女は恐怖対象である<人間>に果敢にも立ち向かう。
きっと今いる誰もが思っているだろう。
黙っていればいいのにと。ここでは当たり前の、日常なのだから。

「なに……」
「突然言われても」
「シカトで」
「たっだいまー。なになに?なにしてんの?」
「あの人が変な事言ってきただけ」
「え、そうなの」

さっきまで誹り事を言っていた相手とも結託し、今度は彼女への口撃が始まる。
結局こうなってしまうのだ。だから、誰も言わない。日常の風景として気に留めないようにするのだ。
庇った筈の人間からも嘲罵を浴びせられた彼女は、何も言わずに席へと戻ってきた。
優しい彼女は、可哀相だ。

似た人間にサイバーがいる。
ヒーローオタクと称し称される彼もまた彼女と同じで正論をかざして他を律しようとする。
しかし、彼は腫れ者扱いされる事はなく、殆どの人に受け入れられている。
この差は何だろうと思う。
性別の違い。キャラとしての受け入れ。背後の神の存在。
同じ言葉であっても、取り巻く環境や彼女自身の要素によってこんなにも違う。

「大丈夫?」

明らかに落ち込んでいる彼女は「大丈夫」と返答した。
場の空気を読むには経験を積む必要がある。
可哀相ではあるが、これで彼女も同じ轍は踏まなくなるだろう。
そうすれば、少しずつでも平和な日常を送ることが出来る。
悪意に慣れていない彼女は日常の諍いには触れないべきなのだ。
優しい人は小さな棘が大きな傷になってしまうから。



その日の帰り、少し用があって英語科教室へと行ってみた。
扉に手をかけると、中からすすり泣きの声が聞こえて思わず手を引いた。

「っぐ、ひう、ずず、すん、じゅる」
「よしよし。あ、DTOティッシュ」
「はいよ」

MZDと先生、それにさんの声がする。

「ねえ、何が駄目だったの?」
「駄目じゃないさ。ただ、には難しかったな」

何の事を言っているかは容易に判る。きっと今日のあれだ。
泣いてしまうくらい、彼女には辛かったんだ。

「どうすれば良かった?」
が辛くないようにすればいいさ」
「それって?何をするの?」
「さあ。の気持ちはが決める事だからな」
「……どうして意地悪するの?」

具体的な方策を言わないMZDに彼女は焦れているようだ。
私もそうだ。はしたなくも聞き耳を立ててしまっている。

「っでもなー正解がある事じゃ無いからな。
 だから、がやりたいようにすればいいのさ。
 ……って、なんでそんな顔してんだ!?神を疑うのか!?」
「だーって……」

いくらさんが何を言っても、MZDは何も言わなかった。
話を振られた先生もまた「色々頑張ってみな!」と言うだけである。
私はその場からそっと離れた。

あの場面で、私はどうすれば良かっただろう。
何をしていたらこんなに嫌な気持ちにならずに済んだのだろうか。
MZDが言う、私が辛くならないで済むのはどんな行動だったのだろう。



数日経って、さんはまた慣れない相手に注意をしていた。
彼女の心にとって最も被害が少ないのが、それなのか──。

「そういうズルは良くないと思う……」
「じゃあ代わりにやってよ。宜しく」
「判った」

そう言って、さんは彼女らに代わってクラスに配布する資料の紙をまとめだした。
作業自体は紙をまとめるだけの簡単なものだがきっと一人では時間がかかるだろう。
作業を押し付けた彼女らは談笑を始めている。さんは黙々と作業に取り掛かる。
そんな場面を見ていると胸が苦しくなってくる。
この辛さを解消する為に、私は。

「じゃあ一緒にしようかさん」

少し、声が震えていたかもしれない。
慣れない事をしたせいで変な顔になっているかもしれない。
でも私からは私の顔なんて見えないんだ。
考えない。考えない。考えない。

「で、でも私みたいに何か言われるよ?」

後に引けないように追い込む為に席に座った私に彼女はおずおずと話しかけてきた。
そんな風に言われると、私の決心が揺らぐ。
私は羞恥や戸惑いをぐっと堪えて、努めて平静を装った。

「どうして?だってあちらには何の実害も与えて無いでしょう?
 だったら悪く言う必要がないじゃない。ね?」

私の行動をぽかんと見ていた方たちに目を向けて同意を求めた。

「まぁ、正直そうだけど。……でもわざわざ手伝う必要なくない?」

彼女たちの言いたい事はよく判る。
手出ししなければ何の問題も発生しないのだ。
私には関係のない事なのだから。

「ううん、私が好きでしてる事だから」
「そう……」

理解不能と言いたげな目をして去って行った。
彼女らにデメリットは無いので特に困る事はないだろう。

「あの……いいの?」

小さな彼女は不安げな顔をして私の出方を窺った。
だから、私はうんと明るい表情を浮かべた。

「良いんだよ」

だってこっちの方が辛くない。











「うわー、サイバーが私よりも一点高かった!」
「ヒーローだからな!当然、に勝っちゃうぜ!」
「二点で誇るなよ。浅いヒーローだな」

少しずつ、彼女は学校と言う世界に馴染んできた。
一部の人間以外とはそれほどでもないが、程良い距離感を得たように思う。
私たち以外と日常会話を交わす姿も極偶に見るし、そうそう人に頼らなくて済むくらいには学校のシステムを理解した。
だがこのままここにいて、彼女は幸せなのかと思うと、甚だ疑問である。

日に日に、彼女は変わっていく。
人の世に馴染もうとした結果、初めて見た時に持っていた澄んだガラス玉のような瞳は彼女から消えてしまった。
優しくない世界を知ってしまった彼女の瞳は、他の者と同じように排水溝へと吸い込まれる汚水のように濁る事を知った。
それを見て残念だという気持ちもあるが、少しだけほっとしている面があるのも事実だ。
漸く彼女が私と同じものとして見る事が出来る。
上からでも、下からでもなく、対等な目線で彼女を追える。

「サユリはどう思う!」

もう可哀相とは思わない。羨ましいとはやっぱり少し思う。
でも今は。

「二人とも五点以上取ってから勝負しよっか」

彼女を。さんを。友人の一人として想っている。

「キツイお言葉を頂きましたです……」
が一点なんてしょぼい点数だから」
「サイバーだって十点満点中の二点じゃん!」
「でも一点が二点に勝つことはねぇ!」
「はいはい、二人とも再テストの勉強をしようねー」





fin.
(14/05/30)