二度目の夜を駆ける 一話-遠野壱-


「……ーい」

 リビングのテレビを付けたまま寝てしまったらしく、少し離れた場所から男の人の声が聞こえる。今日も朝から事件に事故に政治家の失言にと代わり映えしないニュースなのだろう。私はいつもそれらを聞き流し、dボタンで表示される天気を見るのが日課だ。さてそろそろ、登校準備をすべきなのだが、何故だか今日は身体全体が痛くてひどく億劫だ。寝不足だろうか。

「おい、其方。聞こえているなら返事をしろ」

 いちいちうっさいな。親でさえ私を好きなだけ寝かせてくれるというのに、最近のテレビはお節介すぎて困る。だが遅刻は避けたいので仕方なく身体を起こした。薄目を開けると日の光が目玉を抉ってくる。テレビだけでなくカーテンも閉め忘れたとは昨晩の私は随分怠惰だ。網膜を焼こうとする光に抗い、瞼をこじ開けた瞬間に映った一面の草原に思わず「……ここどこ?」と独り言を漏らした。

「遠野だ。其方見かけぬ顔だが、親はどうした」
「……おや……? 私、父と来てたんですか? 外に?」
「覚えておらぬのか?」

 覚えているも何もどうして原っぱなんかで寝ているのか。寝間着のジャージを着ていると言う事は蒲団の上にいたはずだが。

「しかも裸足だし……なんで……?」
「はあ。判らぬのはこちらなのだが」

 溜息を吐いている白っぽい髪の青年に今更ながら気づいて、手遅れだが余所行きモードへと切り替えた。

「あはははっ、驚かせてすみません。すぐに立ち去りますのでお気遣いなく~」
「ならこの後何処へ向かう。ここが何処かも判っておらぬ子供が。連れすらも覚えておらぬうっかり者が」

 全くもってその通りなので何も言えない。とりあえず知らない人にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかないからもうほっといて欲しい。

「まあ、適当になんとかなりますから。大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ございません」

 適当にペコペコしながらさっさとどっか行けと念じていると、急に肩を掴まれて顔を覗き込まれた。

「……その『適当』をどうするのかと尋ねている」

 だから私だって何も判らないんだから言えないんだって。私は何も悪いことしてないのに、寧ろ被害者だろうに見知らぬ他人に責められるのは釈然としない。出来る限り視界から青年を外して居心地の悪さに耐えていると、肩が軽くなった。

「すまぬ。怖がらせてしまったな。爺のお節介であって他意はないのだ」

 ジジイなんて、随分謙遜する人だ。どう見ても働き盛りの若者にしか見えない。私の父親より若いんじゃないの。

「其方、名は何という」
「……私は──です。──! ────!!!! ────!!!!! なんで!?」

 声が出ない。連呼しても名前の部分だけ音にならない。青年も首を傾げている。

「やはり訳ありか……。しかし名を封じるというだけでは何の術式かは絞れぬな」

 意味の判らない事を言っている青年を尻目に、私は何度も名前を口にするが一度も放たれる事はなかった。

「どうして!! 名前だけ出ないなんて意味判んないんだけど!」
「となると儂は、其方をどう呼ぼうか」

 名前以外の名前と言うと、あだ名やユーザーネーム、ハンドルネームとか?

「じゃあ、『どくしん』で。ええ!? 何それ!? 私そんなこと思ってないのに!」

 私は確かに、焼き鳥ベア(SNSでバズった店の名)と言った。それが何故『どくしん』とかいう可愛さの欠片のない名前になるのか。そもそも自分で神を自称するなんてかなり痛い奴である。

「独神……と。そう言うのだな」
「いやいやいやいや! そんな変な名前なんて今まで考えた事すらないです! ないですけど、勝手に口から出てきて。大体、一人身どくしんと呼んでくれ、なんて思うわけないじゃないですか! このまま一生彼氏出来ないみたいで不吉ですっ!」

「不吉と言えば不吉かもしれぬな。……なにせこの八百万界やをろずかいを救うとされる者の名だ」
「や、やおろずかい……? 日本でしょ、ここ」
「ニホン? いや、そのような地名は聞いたことがないが」

 なにそれ……。さっきからそうだけど、会話が絶妙に噛み合わない。相手も同じような事を思っているのか眉間に皺を寄せている。

「何一つ要領を得ぬな……。仕方がない、一先ず儂の屋敷に向かおう。ここでは落ち着かぬだろうからな」

 会ったばかりの人の家に行くとか嘘でしょ……。しかも靴なしかー……。でも、ここにいたってどうしようもない。
 いててと思いながら、青年の後を追った。途中背負おうかと言われたが丁重にお断りした。楽より、乙女的なプライドを優先した結果だ。だって、親しくない男性に足を触られるのも身体をくっつけるのも気持ち悪い。悪い人じゃないとは思うけど、だからと言って信じられない。
 野原をさくさく歩いて丘へ登ると、集落と思われる景色がわっと視界に飛び込んできた。感想を一言。

 ド 田 舎

 畑や田んぼが沢山敷き詰められている中にL字型の古臭い平屋が点在している。ビルや鉄塔等の高い建物はなく、あるのは木だけで空がいつもより広く感じる。よく見ると電柱がなくて電線もない。アスファルトもなければ車もない。「おらこんな村いやだ~」とハスキーな歌声が脳に響く。

 丘を越え集落に入っていくと、着物の住民が私たちの横を過ぎていく。農作業に汗を流し、子供たちは裸足で駆け回る。大正時代の田舎の文化レベルってこんなものなのだろうか。

 大正時代と目星をつけた理由は、青年の制服っぽい姿からだ。ほら、大正浪漫ってやつ。だが妙なのだ。上半身に身に着けているのは大鎧の部品で、足元はしっかりした革靴。大鎧とは平安から鎌倉あたりの鎧で騎馬戦が主体の頃。靴は坂本龍馬が有名だろうが、実際に庶民が履くようになったのは明治時代に徴兵令が施行されて軍に入るようになってからと言われている。

 一人の人間が纏うには少し時代が多すぎる。これはどういうことなのだろうかと真面目に考えていたが、急にはっと気づいたのだ。

 これは、夢か────と。

 そう考えれば辻褄が合う。なーんだ、驚かせないでよ。一気に力の抜けた私は、痛む足の指を丸めて懸命に歩いた。夢なのに痛いんだよなあ……。


 青年の家だという建物は、今まで見てきた茅葺き屋根の建物とは違い、どこかで資料館になっていそうな立派な門構えのある瓦葺きの屋敷だった。庭と思われる部分も広く、「……かこん」となる竹のアレもある。池もある。橋もある。灯篭もある。これは聞かなくても判る。

 OKANEMOCHI!

「儂の下駄を貸すから外で足を洗い流しておいで」

 蛇口どこ。ないし。庶民は池の水で洗えってこと? 水を求めてキョロキョロしていると、玄関のすぐ手前にある私の膝くらいある甕と柄杓を指さされた。青年が家の中に引っ込む間に、私は片方ずつ足を洗っては下駄の上に着地し、両足共に綺麗になった。しかし下駄もろともびしょびしょに濡れているので、家には上がれない。あ~、タオル貰ってから洗えば良かった~!!!

「……ああ、手拭いを忘れておった」

 青年は心の中で叫んでいる私を見て、もう一度奥に引っ込んでいった。多分あの人、最初から手拭いのこと考えてなかったっぽい。ちょっと気が利かない感じだなあ…………っていやいや、五億パーセント私の方が迷惑でダメダメだからね。夢だし適当でいっか~ってスタンスだったけど、流石にもうちょっと気を使おう。

「すまぬな。濡れたままにしてしまって。気持ち悪かろう」
「いいえ! そんな事はありませぬ! 私みたいな不審者を気にかけて下さり有難う御座います! 加えてご自宅にまで上げて下さり、更に更にお履き物まで貸して頂けるとは感謝感激光栄の極みで御座いまする! このご恩は一生忘れません!」
「其方……。ああ……いや、まあ……とにかく上がるといい」

 とてつもなく可哀想な人を見る目をされた気がする。が、言われた通りとにかく上がった。無駄に広い廊下を通って、先程見た庭が一望できる一室で待つように指示された。まるで料亭である。場違い過ぎて居心地が悪いので座布団の横で気を付けの姿勢を保っていると、青年は二人分のお茶とカステラを持って来てくれた。

「其方甘味は好きかな」
「大好きです!」
「ははっ。それは丁度良い。今日の茶菓子はなかなか良い物だぞ。遠慮せず座って食べるといい」

 素早く座布団に正座して、青年に会釈をしてからおカステラ様を頂いた。夢なのに美味しい。温かいお茶も美味い! 身体に染み渡る。そういえば朝食を食べてなかった事を思い出す。

「口に合ったようだな」
「っん! はい! とっても美味しいです」

 二切れ目も口にしたがやっぱり美味しい。次は三切れ目、……にいく前に、青年をちらっと見やる。頬に手をやり肘をついた青年は、私の事を楽しそうに見ていた。そんなガン見されていた中食べていたなんて恥ずかしい。名残惜しいが三切れ目から手を引いた。青年はふっと鼻で笑った。

「こ、子供みたいって思ってるんですね! そうですね!?」
「はははっ。儂から見れば大抵の者は子供にすぎぬ」

 すっごい馬鹿にされた気分。でもカステラは美味しいので三切れ目に手を出した。普段お菓子の類を食べ慣れていないせいか、心の底から美味しく思う。舌に感じる柔らかな甘味をいつまでも感じていたくて、ついつい手を伸ばしてしまう。

「ヌラリヒョンさん!」

 庭から現れた土っぽいオジサンが青年をそう呼んだ。へー、この人『ヌラリヒョン』って名前だったんだ。変な名前。……だって妖怪の名前じゃん。なのに作画が水木先生じゃないのは夢だからだろうか。服装も含めて適当な設定だなあ。
 私はオジサンとヌラリヒョンさんの話が終わるまでカステラをパクつき、お茶も勝手に入れて飲んだ。

「────すまなかった。客人そっちのけで」
「いえ。私はお客さんみたいな良いものじゃないですし。しいて言うなら疫病神?」
「ヤクビョウガミ……という割には一切神性を感じぬがな」
「しんせー?」
「いや、いい。それより、其方は何故あんなところへ転がっておったのだ。その加須底羅かすてら分くらいは話してもらうぞ」

 え、これってそういう意味だったの!? 全部食べちゃった……多分……ヌラリヒョンさんのおかわり分まで……。

「嘘偽りなく話します。だから何を言っても怒らないで下さいね……?」
「怒りはせぬよ。ただ、話を聞きたいだけだ」

 一応の予防線は張っておき、私は自分が判る範囲の事を話す事にした。

「私があそこで寝ていた理由は判りません。気づいたらあそこにいて寝間着で。裸足で」

 これはヌラリヒョンさんも知っている事でしかない。顔を盗み見たが特に表情の変化は見られなかった。続けよう。

「ジャージだから家で寝てたって事だと思うんです。でも寝る前に何をしたかは覚えていません。多分学校から帰ってご飯食べて、お風呂入って寝たんでしょうけど……。何食べたのかも覚えてないし、いつも通りならスマホで誰かと連絡してそうだけど覚えてないし。……本当に昨日の事も含めて何も判らないんです」

 これが私の知る全て。『知らない』事を知っているだけ。何の収穫もなく不服だろうけど。

「……ならば其方の個人的な情報を知りたい。どこに住んでいて、誰と生活していて、歳やらなにやら、覚えている事ならどんな事でも語ってくれ」

 一気に言われてもな。まずは。

「住所は────です。アパート暮らしで、父と住んでいます。母はいません。歳は──です。……住所や歳も言えなくなってる……」

 何の不都合があるというのか。この夢のルールがまだ理解出来ない。思い通りにいかないなんて腹が立ってくる。

「──月生まれ! ──の生徒! アパートの正式名は──! 父の名は──! 昨日の小テストは五点!」

 隠れてほしい部分だけ赤裸々に明かされてしまった。

「待て。次は儂の質問に首振りで答えてくれ。其方の名は三文字か」

 上手い。これなら。

「あっ、首動かなくなってる……」
「父上の名は其方から見て良い名か」

 これは頷ける。内容が主観的で曖昧だからだろう。

「其方が生まれたのは暑い季節か」

 動けない。絞る事すら許可しないのか。

「其方は……人族か」

 当然人間である。これなら頷け──なかった。

「な、なんで……。どこからどう見て人間でしかないのに。じゃあ、私は人族です! やっぱ人族じゃないです! ……これだと反応ありませんね?」

 違いが判らない。ヌラリヒョンさんは目を細めて考えている。

「……其方自身が判っておらぬからか? いやそれでも反応の可否は統一されているはず」

 夢の設定が複雑すぎる。世界観は雑なくせに、細部への拘りが異常だ。

「……これで茶菓子の分は終いだ。楽にして良いぞ」

 お言葉に甘えて足を崩した。でも、胸の奥では暗雲が渦を巻いていた。私の夢の、私が、私ではなく、遠ざかってしまったようで落ち着かない。
 これはそういう夢なんだ。深く考えたってしょうがない。と言い聞かせた。

「すみません。何も判らなくて」
「いや。己が判らず不安だろう。気にしなくて良い」

 他人に心配されるほど不安はない。だって所詮夢だもん。大丈夫。大丈夫……。

「しかし困ったな。其方をどうするか……。まさか外に放り出すわけにもいくまい」
「気にしないで下さい。適当にふらふらーっと」
「駄目だ」

 強い口調でヌラリヒョンさんは断言した。

「其方はこのまま儂の家で寝泊まりしてもらう」

 それ、私の意思関係なしってやつだよね? 知らない男の人の家で寝食を共にしろって? ええぇ……ヤダ。

「で、でも、お世話になるのは申し訳ないというか」
「心配せずとも子供に手を出すような外道ではないよ。それにこの地で子供に野垂れ死なれては遠野の評判が下がる」

 前半は信じられないが、後半は納得できる。でもそれだって私が夢から覚めちゃえば関係ないよね。死ぬ前には起きるだろうし。だったら、ヌラリヒョンさんの命令なんて突っぱねてしまえばいいだろうけど────。

「昼食は何が良い? 嫌いな物はあるか?」
「嫌いな物は苦いもの! あとは大体食べられます!」

 今日の夢は美味しいし、もうちょっとここにいてもいいかな。





「疲れておるなあ。昼食は口に合わなんだか?」
「昼食 は 美味しかったですよ」
「はっはっはっ」

 うっっっるさい昼食だった。

 私はてっきりヌラリヒョンさんが作ってくれるとか、奥さんが作ってくれると想像していた。なのに、昼になったらわらわらと知らない人たちがやってきて台所でご飯を作り始めたり、持ち込んできて、中には畑仕事をしていたような汚い人たちも来て、どうするんだろうと思ったら別の場所に土間があって、そっちでみんな食べる流れだったから、私は貰うもの貰ってどこか別室で食べようとしていたのに、さっさと手伝うように怒られて、よく判らないまま台所に立たされて給仕させられて、家主のヌラリヒョンさんはただダラダラ喋ってるだけで座ってるし、終わったら終わったでみんながいる所で食べる流れで、色々な人から質問責めされるしヌラリヒョンさんは一切助け舟を出してくれないしと散々だった。夕食は絶対この家で食べるものか。

「良かったな。これで其方は顔を覚えられた。どこへ出かけようと安全だ」
「あっそうですか。ふうん。別に。どうでもいいんじゃないんですかあ?」
「そう拗ねるな。顔を知ってもらう事は重要だ。特に、儂の囲いと知れば下手に手を出す者もいるまいよ」
「なんで?」
「これでも、そこそこ名が通った妖なのでな」

 自分の事を有名人って言うの恥ずかしくないのかな。

「ちょっと待って。あやかしって言いました?」
「ああ、言ったぞ」
「あやかしって妖怪の事ですよね?」
「妖怪と言う者もいるが、あやかしの方が通りが良いぞ」
「ヤオロズカイって人間……人族だけじゃないんですか?」

 するとヌラリヒョンさんはうんうんと頷いた。

「なるほど。そこから説明しなければならぬのだな」

 やおよろず……ではなく八百万界ヤヲロズカイは人族、妖族、神族の三種族が存在し、人口比率は二対一対一。遠野は妖族が若干多いが比率は前述したものとほぼ同じで、生活区域は人も神も同じらしい。さっき家に来た人たちも実は種族がバラバラだったんだとか。

「儂はここらの妖族を中心に統べている事から、妖の総大将とも言われておる。儂の知人に手を出す事は即ち、一帯の妖族全てを敵に回すという事に他ならぬ。だからあの賑やかな昼食には意味があったのだ。決して困っている其方を見て楽しんでいたわけではないぞ」

 そうだったんだ……。うーん……本当かな?

「その……まあ……気遣ってくれてありがとうございます」

 でもあんなに煩いのはもうごめんだ。いくら敵意がないとはいえ知らない人に囲まれるとどっと疲れてしまう。

「夕食は静かな時間にしよう。それなら良いか?」
「……それなら良いです」

 穏やかに笑うヌラリヒョンさんは、よく気を回してくれて怖いくらいだ。手のひらの上って感じは癪だけど、夢の間はこの人について行けば良い気がする。初対面でもそれほど嫌な感じはしないし、雰囲気が落ち着いているせいか私に何かを押し付けてくるような圧迫感がない。私に合わせて出方を変えている雰囲気は落ち着かないけど。

「さて、このままゆるりとするのも良いが、其方さえ良ければ周辺を案内しよう。どうする?」

 ここにいても暇潰し出来そうなものは見当たらないし、ヌラリヒョンさんと同じ部屋に居続けるのは息が詰まりそうだ。外なら話題が絶えても気まずさが少ないはず。

「行きます。お願いします!」
「ははっ。元気の良い若者は良いな」

 外出準備は特にない。ジャージなのでそのまま出て行けるし、履物は昼におばさんが娘のお下がりだと言って、つっかけをくれた。鼻緒擦れの心配がなく安心した。ヌラリヒョンさんも先程の服装のままで外出する。

「はぐれた際には必ず『ヌラリヒョン』の名を出すのだぞ」
「判りました。……迷子しないけど」
「ははっ。用心の為だ」

 悪気があるのかないのかすぐ私を子供扱い。ちょっとここらでしっかり言っておくべきだろう。

「十年か二十年私より生きているからって子供扱いしすぎですよ! 私だって向こうではそれなりにはしっかりしてるんですからね!」

 手がかからない。頼りになる。一人で生きられそう。
 私はいつもそう言われてきた。迷子の心配をされるような人間ではないという自負がある。
 憤慨する私を、ヌラリヒョンさんは風船が破裂したように大笑いした。

「はっはっはっ! そうかそうか。十年か二十年……っくく。其方の目だとそう見えるのだなあ。儂も随分若く見られたものだ」
「どう見たってとても若いでしょ。お爺さんなんて言ってましたが滑ってますからね!」
「なるほどなあ」

 何がツボにはまったのか、ヌラリヒョンさんは歩きながら時折一人で肩を震わせていた。変な人。

「ヌラリヒョン様」

 よれた着物のおばあさんがしわがれた声で話しかけてきた。

「どうした? 困りごとか」
「実は馬に悪戯をする輩がいるようで……。なんとかして頂けないでしょうか」
「今行く。向こうで丁度其方を探しておったぞ」

 ヌラリヒョンさんが目線で示した方には、舌を地面まで伸ばしたひとや私くらいの男の子がケラケラと楽しそうに笑っている。おばあさんはコロコロと笑いながら覚束ない足で向かって行った。舌のひと、ヴィジュアルすごい。

「さて、其方もついて来い」
「まあ、良いですけど……」

 おばあさんが所有する馬小屋へはすぐ着いた。何頭もの馬が顔を並べている。ヌラリヒョンさんは勝手知ったるのかズンズンと奥へ進んでいき、栗毛の馬の前に立った。馬より少しだけヌラリヒョンさんの方が背が高い。それが突然しゃがみ込んで足元をじっと眺めている。

「それは何しているんです?」
「話しかけているのだよ」

 誰と。ヌラリヒョンさんの視線の先をよく目を凝らしてみると、何やら黒い靄が馬の脚に絡みついているように見える。何かの影だろうか。もう一度影の輪郭を目で辿ってみると、私の掌くらいの大きさの一つ目玉の小人たちが馬をポコポコと殴っている。驚いて声をあげた。

「こら! 叩かないの! 馬が痛がるでしょ」

 怒る私を小人たちは一斉に見た。いくつもの目玉が私に注目するだけで恐怖を感じるがここで引いたらこの馬がどうなるか判らない。怖さを跳ね除けるように気をしっかりと保つ。

「馬に痛いことをするなって言ってるの。かわいそうでしょ」
「ウマ ケル ダカラ タタク」
「蹴る? 蹴られたってこと? だから叩いているの?」

 馬の頭部は地上から百六十センチくらいに位置する。対して小人は全長十五センチほど。そんなの見える訳がない。

「確かに蹴ったのかもしれないけど悪気はないよ。……まあでも、痛いことされるのは嫌だよね」

 小人を一人ずつ持ち上げ、私の肩やら腕に乗せていく。私は彼らが馬の視界に入るように立った。

「……君に蹴られて痛かったんだって。足元は見えづらいだろうけどさ、こういう小さい子がこの世界にはいるんだから、少し気を付けてくれないかな。視界に入らない相手も自分と同じように生きているんだよ」

 馬が人語を話すわけがない。だがここは夢だ。伝わって欲しいと思えばもしかしたら判ってくれるかもしれない。

「……水を差して悪いが馬は言葉を喋らぬぞ」

 ああああああ。もう嫌だ無様な姿をこれ以上晒す前に早く現実に帰りたい。

「気合でどうにかならないんですか!?」
「ならぬだろう。常識的に考えて」

 夢が常識を説いてきた。

「だがまあ、其奴らには其方の気持ちは通じたようだ」

 口も眉もない小人たちがどんな感情を抱いているのか全く判らない。ヌラリヒョンさんにはどう見えているんだろう。適当なこと言ってない?

「さて」

 と、ヌラリヒョンさんは馬の前にある板を外して、鞍を乗せて、紐を付けて……って、乗馬でもするの?

「人の馬ですよ! しかもさっきこの子たちにいっぱいパンチされてたんですよ?」
「だから乗るのだよ。其方もどうだ?」
「結構です!」

 私まで怒られるのは嫌だ。乗馬自体には興味があるけど。……だって、一度も乗った事ないし。

「この馬は大会の優勝候補でな、乗り心地は随一らしい」

 た、大会……? 乗り心地が良いって速いって事かな。なんでそうウズウズするようなことを。

「遠慮はいらぬ。それがこの馬の願いでもある。其方と外を駆けてみたいそうだぞ」

 私、と。
 その言葉が私の背を押した。私はまず小人たちを下ろそうとしゃがむと制止された。

「その者達も乗るのだ」

 理解を放棄した私は何もかもヌラリヒョンさんに任せた。馬に乗るのも手を引っ張ってもらい、ヌラリヒョンさんの後ろに座る。小人たちは私のジャージの上着に入り込んだり、ポケットに入ったり、馬の毛を持ったり、好き勝手にやっている。

 私はと言うと、初めての乗馬にわくわくが止まらなかった。生物の触れ合いと言うと小学校の兎に触った記憶しかない。長い耳した白い綿毛は抱っこするだけで壊れそうで怖かった。でも馬は人間よりも硬い皮膚で、私が指で押した程度じゃものともしない。頑丈すぎて、少し、怖いくらいだ。強い生物に対して本能的に恐怖感を抱いたのかもしれない。

「全員準備は良いな」

 馬が一歩踏み出した時の揺れに驚き、思わず目の前の背中に抱き着いた。鎧の部品がちょい邪魔ではあるが、直接ヌラリヒョンさんに触れずに済むからこれはこれで良かったかもしれない。

「振り落とされぬようにしっかり掴まっているようにな」
「判りました。君たちも私の服に入って」

 布越しとはいえ、小さな人間(?)が私に触るのは気持ち悪いがこの子たちが落ちて怪我するよりはマシだ。

「行くぞ。なに、最初はゆっくり歩くから安心すると良い」

 ぱかぽこぱかぽこ
 四つ足のリズムが耳に心地良い。雨音を聞いている時の気持ち良さがある。
 いつもよりずっと高い目線で見る地上は別世界でガイコクを見ているようだ。
 少しずつ速度が上がっていく。私がヌラリヒョンさんに抱き着く力が強くなるにつれ、小人たちも私の服を掴む力が強くなっている。

「ぬ、ぬら、りひょん、さん。あの、あの」

 馬が駆けだした。
 景色が一気に流れていく。車や自転車とは違い、お尻にごとごとと大地を蹴り飛ばす振動が伝わる。

 ──やばい。
 やばいやばいやばいやばい!
 めーちゃくちゃ楽しい!

 私が今日裸足で歩く羽目になった原っぱにまであっという間に着くと、次は足を運ばなかった方向へと駆けだす。冷たい風が髪を吹き飛ばし、雲が私を追いかけている。今の私は自分でも、人でもないみたい。なのにどうして、それが気持ちいい。

 ほんの数分程度の乗馬だっただろうが、気分はたっぷり三十分乗ったような心地だった。興奮で息が上がり、ヌラリヒョンさんが初対面の他人だという事も忘れて最後はしっかりと抱き着いていた。夢心地のまま、馬の飼い主である老婆の元へと戻った。

「もう大丈夫だ。暫くは馬に手出しされぬだろう」
「ありがとうございます、ヌラリヒョン様。是非お礼を」
「困った時はお互い様だ。それに儂らも十分楽しませてもらったのでな」

 ヌラリヒョンさんに振られて、私もうんうん頷いた。

「この子、私の事も乗せてくれてとってもいい子でした! 凄く速くて、とっても気持ち良かったです!」

 老婆はくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして、掠れた声で笑っていた。

「お嬢ちゃんは好かれる者だったんだね。そうだったんだねえ」

 馬にはうんとお礼を言って、おばあさんたちと別れた。私はさっき気になった事をヌラリヒョンさんに尋ねた。

「馬も好き嫌いがあるんですか?」
「あの馬は特にな。余程其方の事が気になったのだろう」

 よく判らない。馬に好かれる匂いでもしていたのだろうか。人参とか。

「……いない! 一つ目の子たちがいません! どこかに落としちゃった」

 来た道を戻ろうとするとヌラリヒョンさんに服を引っ張られた。

「大丈夫だ。落としておらぬよ。戻っただけだ」
「あんな小さい手足じゃ小屋まで戻れるわけないでしょ。私が運んであげないと」

 ヌラリヒョンさんはゆっくりと首を振った。

「其方は優しいなあ。どれ、休憩がてら説明してやろう」

 ヌラリヒョンさんはそのへんの石に座って、私もまた手ごろな木を見つけて座った。

「一つ目のあれは妖になる前の段階の存在だ。馬が連れてきた思念から産まれたのだろうな。攻撃されていたところを見ると、馬に対する嫉妬や羨望だ。それを其方が引き連れて共に駆けた事で浄化された。だからもう彼奴らはいないのだよ」

「……話の設定盛り過ぎて理解できないです」
「其方と馬で駆けた事が楽しくて、満足したから消えたのだ」
「それでもよく判らないんですが、一つ目の子たちが死んだって事ですか?」
「正確には死んでおらぬが、形を成せるほどの力はない。敵意を失ってしまったからな」
「じゃあどこにいるの」
「ここにはいない。またあの馬が誰かに妬まれ、恨まれれば出てくるさ」
「恨まれないとあの子たちとは会えないんですか?」
「左様」

 それはとても悲しい事じゃないだろうか。妬みや恨みを喜ぶ者はいない。望まれぬ感情からしか生まれない彼らは、その存在を望まれる事はあるのだろうか。私のせいで消されてしまったことを恨んでないのだろうか。

「そんな顔をしないでくれ。深刻に考えずともまたそのうち会えるさ。あの馬は生きている限り羨望と嫉妬からは逃れられぬからな」

 それも悲しい話ではないのか。あの馬は常に敵意を向けられる事が決定づけられているなんて。そんなの、苦しいよ。

「それにしても其方、よくあれらが見えたな。矮小な存在故に同族でも意識しなければ姿かたちを捉える事は難しいのだぞ」
「最初はただの靄でしたよ。でも見てたら目に手足が生えてきたので」
「あの馬もだ。あれは神族の出の馬でな、素晴らしい馬なのだが儂の様な妖や人を乗せる事を嫌っておって悩みの種だったのだ。今回乗れたのは其方の人望によるものだ」

 人望って。私はあの馬に対して何をしたわけでもないのに。初対面でしかない私をどうして信用出来たの。
 夢だから?

「次は宿の通りの方へ行くか。其方のような若い娘は草木ばかり見ても飽きるだろう」

 現代っ子の私は店よりも自然の方が物珍しいのだが、新しい所へ行く方が発見があって面白いかもしれない。私はヌラリヒョンさんの提案に頷き、二人でだらだらと歩いて行った。

 歩きながらヌラリヒョンさんは遠野について簡単に教えてくれた。遠野には沿岸部と山間部を結ぶ遠野街道が通っており、ここは宿場町として栄えているそうだ。南部という人の城もあるので、城下町でもあるそうな。そこから少し離れた所にヌラリヒョンさんや、馬のおばあさんが住んでいる。宿場町兼城下町とはいえ、賑わいから離れてしまえば自然豊かな地が広がっていて、人々は田畑や畜産業を営んでいるようだ。ここは馬の生産や育成に特に力を入れているようで、おばあさん以外も多くの人が馬を育てているらしい。確かに道でよく馬を見かけるなとは思っていたが、生産地とまでは思わなかった。

「うわあ! 人が沢山いますよ!」
「今日は神や妖ばかりのようだが」
「え!?」

 そういうつもりで言ったんじゃ……でもどこをどう見ても人族にしか見えない。

「種族の判別は出来ぬようだな」

 それどころか、私は未だにヌラリヒョンさんを妖族だと思っていない。彼は何もかも私と同じだ。乗馬で抱きついた時も手に当たる感触は人だった。みんなどうやって見分けているのだろう。

「商店でも巡ろうか。宿場町故に様々な物が集まるから、其方が気になる物も見つかるかもしれぬぞ」

 商店と言うと、全体的にボロくさくて、値段が高くて、レジに誰もいなくて大声で呼ばないといけない……というイメージがある。だがヌラリヒョンさんが連れて来てくれた商店とは、観光地のお土産屋のように棚が多くて物に溢れ、店員は忙しなく動き回っていて活気があった。

「ヌラリヒョンさん、こんにちは。今日は可愛い子連れてどうしたんです?」

 知らない人にジロジロ見られるのは嫌だが、愛想笑いで武装した。

「まだこの地に産まれたばかりの名すらない子供でな、遠野を案内しておるのだよ」
「それはめでたい! こんな世の中でも新たな生命はちゃんと産まれているんですね……」
「ああ。まだまだ儂らには希望が残っておる。子供の未来の為にも顔を上げて行かねばならぬ」

 店員さんの顔に影が落ちたのが気になった。命なんてこれだけ生物がいればそこら中で産まれているだろうに。

「お嬢ちゃんには誕生のお祝いに」

 ヌラリヒョンさんの嘘を真に受けた店員さんがくれたのは、神社でよく見るオーソドックスなお守りだった。文字が書かれているが、崩した字で全然読めない。

「すみません。こちらは持っているとどんなご利益が?」
「無病息災と長寿。つまり長生きのお守りだ。ヌラリヒョンさんにも念を込めてもらったものだからご利益は保障されてるよ」

 ヌラリヒョンさんは得意げに笑っている。随分怪しい人に頼むもんだ……悪いけど効果は期待できない。本心を抑えた私はにこりと笑顔を浮かべてお礼を伝えた。すると店員さんは急に真面目になって、

「良いかい、ちゃんと大きくなるんだよ。ここにいる皆で守るからね。もっとも、ヌラリヒョンさんの傍にいるなら心配無用だろうけどね」
「ありがとうございます……」

 改めてお礼を言うと、店員さんは次の折角へと向かった。なんかよく判らないけど、必死過ぎて怖かった。それにヌラリヒョンさんに対する絶対的な信頼はなんなのだろう。名の知れた妖とは本人談だけど、あれって冗談でもないのかな。

「午後の茶菓子は何が良い? 好きなものを選んで良いぞ」

 どう見ても甘い物好きの普通のお兄さんにしか見えないのに。

「んー……。あの、この乾餅って何です?」
「ああ。くっきーというものだな。甘くてさらさらとした触感の菓子だ」

 クッキーをどう変換したら乾餅になるんだろう。ならあっちの棚にある血代固って……まさかチョコ? 八百万界って一応現代と同じく左から右に読むけど、カタカナは無理に漢字を当てはめるのが普通らしい。そう言えば、和風世界なのに西洋菓子も普通に売っているんだな。文明も文化もごちゃ混ぜ闇鍋チャンポンだ。

「ヌラリヒョンさんは大福とか、羊羹の方が好きですか?」
「秘密だ。儂の好みを聞いたら其方気を遣うだろう」

 こうも見事に言い当てられてしまうと、人の顔を伺ってばかりで中身がないと指摘されているようで恥ずかしい。だが気を遣ってくれたヌラリヒョンさんに恥をかかせるのも悪いので、私はマフィン(焼菓子)を指した。

「いや、お菓子自体はなんでも食べられるんですけど、ちょっとその、和風な八百万界の洋菓子の味が気になって。カステラ美味しかったし、マフィンも美味しいのかなって気になっただけで……」

 後ろめたくもないのに言い訳を始めた私を、ヌラリヒョンさんは「其方の食べたいものを、儂にも味わわせてくれぬか?」と言って会計をしてくれた。

「……ご馳走になります。ありがとうございました」
「楽しみだな」
「っ……」

 返しの言葉が思い浮かばず黙ってしまった。するとヌラリヒョンさんは知らない誰かに声を掛けられ、さっきの店員と同様に私の事を簡単に説明して挨拶だけで別れた。と思ったらまた次の知らない人が来て話しかけてきて、また話しかけてきて話しかけてきての繰り返し。ヌラリヒョンさんの顔の広さは相当なものだ。『ヌラリヒョン様』だなんて呼ばれて、不思議な人。

 帰宅して履物を脱いでいると、丁度鐘が三回鳴り、その後八回鳴った。ヌラリヒョンさんは「丁度いい」と言って嬉しそうだ。

「あれは時の鐘で今が八つどきを示している。八つ刻とはおやつどき。茶菓子を食べて良い時間だ」

 つまり、三時のおやつ。

「其方は部屋で待っていてくれ」
「いえ、手伝います」
「気持ちだけ貰っておこう。其方は休んでくれ」

 役に立たないと言われたような気がしたが、食い下がるのはおかしいので言われた通り居間に行った。柔らかな座布団に座ると同時に大きな溜息が出て慌てて手で覆った。台所にいるヌラリヒョンさんには聞こえていないだろう。私は安心して、もう一度改めて溜息を吐いた。

 先程までのあれこれが楽しくなかったわけではない。だが慣れぬ環境に晒され続けてずっと気を張っていた事は思っていた以上に負担になっていたようだ。誰の視線も意識せず机に肘を立てて眺める庭は綺麗かどうかも判らない。ただそこに黙っていてくれるだけのオブジェである事に私は癒しを得られるような気がした。
 板張りの廊下の軋む音が近づき私は瞬時に姿勢を正した。

「もっと楽にして良いのだぞ。儂も普段は寝ながら摘まんで行儀の良さなど微塵もないからな」

 今日私が選んだマフィンと熱いお茶を置いていく。

「……でも今はしないじゃないですか」
「可愛い娘の前でみっともない所は見せられぬさ」

 ヌラリヒョンさんは私の前に座って微笑んだ。

「早速頂こうではないか」
「はい。ご馳走になります」

 現代より文明が遅れている八百万界であるが、マフィンもカステラ同様美味しかった。製菓技術は現代に匹敵する。私の夢である以上、あまり突飛な味は想像出来なかったのかもしれない。ヌラリヒョンさんはどう思っただろう。私の不安を見透かしたように、ヌラリヒョンさんは「美味しいな」と私に言った。私が「美味しいです」と言うと、ヌラリヒョンさんは満足げに次の一口を口に運んだ。

 本当にヌラリヒョンさんの口に合ったのかは判らない。気を遣われているだけのようにも思う。こう何度も気を遣われると落ち着かないのが正直な所。早く夢から覚めてしまいたい。覚めて、一人でご飯を食べて学校に行って、帰って一人でご飯を食べて勉強風呂就寝。そんな静かな生活が今はとても恋しい。ここにいるとずっと誰かに私を見られる。私の考えを読まれ続ける。優しくされる。だから私も気を遣わないといけない。しんどい。なんで夢でまで私は、しんどい思いをしているんだろう。勝手にしてくれればいい。放っておいてくれればいい。父親みたいに。私に干渉してくれなくていい。



 テレビもスマホもない夕食は宣言通り静かで、私も無理に話す事はやめた。時折今日のことをぽつぽつと話したり、今晩の風呂や蒲団等の事務的な話をした。
 まさか草の上で目覚めてから、蒲団で寝るまで夢が続くとは。しかも、妖の総大将とかいう怪しい男の人と丸一日過ごしてしまった。

「お先にお風呂頂きますね」
「儂はこのまま居間にいる。何か困った事があれば遠慮なく声をかけるのだぞ」
「はい」

 返事はしたが多分困っても声はかけない。

「取り返しのつかない事にならぬよう必ず呼ぶのだぞ。乳飲み子でも泣いて呼べるのだから其方も出来るな?」
「出来ます! 馬鹿にしないで下さい!」

 言い方がムカつくが、わざとだろう。なんとなくヌラリヒョンさんがどういう人かは判ってきた。遠くまで見渡し、気配り上手なのだから慕われるのも当然だ。……最初の気が利かない人かもという評価は大間違いだったな、反省。

 一人で風呂場へ行くと、まさかまさかの五右衛門風呂で早速ヌラリヒョンさんを呼んだ。

「五右衛門風呂って直火ですよね? 入ったら死にません? 茹で焼きみたいな」
「ははっ、心配せずとも底板がある。側面は其方の想像より熱くはない。水温で下がっているからな」
「そ、そうなんですか……」
「他に心配はあるか? 一度入ると儂も迂闊に手を出せぬからな」

 なんで? と聞こうとしたが自己解決した。

「入ると出るが判れば、多少は大丈夫……です。出た後の手拭いも服も確認しましたし。……本当にどうしようもない時は呼びます。その時は開けて入ってきていいので。……タスケテクダサイ」

 背に腹は代えられない。他人の家の風呂でやらかすくらいなら裸を見られても助かる方を選ぼう。

「心得た。ゆっくり浸かると良い」
「はい。ありがとうございます。行ってきます」

 身体を綺麗に洗ってから大釜に入った。
 気持ちいいけど、奇妙な気分だ。順番に入浴なんて。一人ならそんなことないのに。いつ入ってもいいし、いつ出てもいい。自由だ。

 身体の芯まで温められながら、私は今日の事を振り返った。
 一日付き合ってくれたヌラリヒョンさん。
 不思議な人。面倒見が良くて、優しくて、私が想像する大人像そのものだ。私も大人になる頃には余裕が生まれて誰かに手を差し伸べることも出来るのだろうか。今はちょっと想像できない。

 夢とは心の表れらしい。

 不安な時は追いかけられたり落ちたりする夢を見る。ならば今日のこれはなんだろう。誰かに頼って頼られて、他人の中でも自分らしく生きること。一人で生きられる最低限の生活基盤を整えること。そんな自立願望が理想の大人を映したのかもしれない。

 理想を叶えたいなら頑張らないと。勉強とか、奨学金が充実した学校選びとか。就職率の高い学校をもっと調べて誰の手も煩わせない人間に一早くならなければ。同級生と同じ歩みでは遅すぎるのだ。もっと先を見ていかないと。

 決意を新たにした所で、私は風呂から出た。これまた誰かの娘のお下がりという寝着を纏って居間に向かう。

「出ました。お風呂ありがとうございました。あの、八百万界って髪乾かすのどうしてるんです?」
「竈の中にいる火を捕まえるといい。其方の目なら見えるだろう」

 火を。捕まえる。
 奇妙な指示も少し慣れた。八百万界は和風ファンタジー。こういうのは深く考えない方が良い。私は台所へ向かい火を見るという言葉を意識した。馬の足元にいた異形を見た時のように、奇妙な靄がだんだんと浮かんできた。それらが少しずつ色を持ち始め、火の玉と思われるモノが私を視ていた。手招くとちゃんと居間までついてくる。

「逐一命令した方が良い。其奴に知恵はない」
「私が動くまで近づいて」

 火の玉がジグザグに浮遊して近づいてくると、容赦ない火の熱さを感じて私は身を引いた。すると指示通り止まる。

「その距離を保ったまま背後に回って。くれぐれも私を燃やさないで」

 火の玉は揺らめきながら動くと思った通りの場所に止まった。ヌラリヒョンさんは声を漏らした。

「其方は上手いな。勘が良い。其奴らも其方に好意的だ」
「そうですか……」

 私の夢なのだからある程度私に都合が良いものだ。好いも悪いも彼らに選択肢が用意されてない。
 髪を乾かす間はヌラリヒョンさんを見ていた。彼はぼうっとお茶を飲みながら真っ暗な外を眺めている。

「さて、儂も入るとするか」

 空の湯呑みを持って立ち上がった。

「いってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」

 後ろ姿を目で追い、襖が静かに閉まるのを見届けた。髪は殆ど乾いていたが、家主に挨拶もなく客間に行くのはまずいような気がしてそのまま居間にいた。暫くするとヌラリヒョンさんが帰ってきた。

「ふふっ」

 雨に降られたペルシャ猫のように癖毛がぺったりと下を向いていて、少し笑ってしまった。慌てて取り繕ったが、ヌラリヒョンさんは怒っていなかった。

「待っていてくれたのか。ありがとう」

 少し間を置いて、うんと頷いた。決して優しさから待っていたわけではないのでお礼を言われる由無いが、嬉しそうに笑ったヌラリヒョンさんに水を差したくなかった。それに。……いるだけで喜んでもらえた事に胸がきゅうっと痺れるように痛くて。

 引き続きぼんやり過ごすヌラリヒョンさんに、ここにいても邪魔になると悟った私は部屋に行くことにした。

「部屋に行きたいんですが大丈夫ですか?」
「勿論だ。準備はしておるぞ」

 案内された客間には真ん中に厚い蒲団が鎮座している。見るからに暖かそうなのはここが寒冷地岩手県だからか。

「儂の部屋は教えたな。何かあれば頼ってくれて良い。ただ話したいだけでも儂は歓迎だぞ」
「何もかもありがとうございます」

 ヌラリヒョンさんが居なくなってまず蒲団に倒れ込んだ。息を吸い込むと蒲団から焦げた匂いがする。外で干した匂いだ。私はあまり干さないので、滅多に嗅がない。いつのまに干していたんだろう。近所の人にやってもらったのかな。

 部屋にはテレビも自分のスマホもなく、電子機器に慣れた私は過ごし方が判らない。私はふいに、視えるものはないかと力を込めた。すると、いるわいるわ、わらわらと。障子に目はあるし、鼠の影が駆けている。それらのいくつかには触れる事も出来た。昼の一つ目同様。彼らは言葉を話す訳でもなく、好き勝手にしているようだ。私はそれを眺めたり、時にちょっかいを出しているうちにだんだんと眠くなった。
 つい癖で電気のリモコンを探してしまったが、八百万界に電気はない。灯りは行燈で、不思議な事に火を灯していない。これは妖力で動く仕様らしい。声をかけると消えた。まるでスマートスピーカーだ。

 蒲団に入ったは良いが、普段ベッドで寝ている私は床の硬さで背中が痛い。昔の人はよくこれで寝られたもんだと感心する。しかも畳だから底冷えがする。暖房が欲しい。

「寒い……」

 声に出して再確認し、蒲団を鼻の所まで引き上げた。しんと静まった部屋ではまだもやもやしたものが蠢いている。私は霊感体質ではないのだがこの夢ではそう言う設定らしい。怖くないのは相手が幽霊じゃないからだろう。それにまだ襲われた経験がない。今近くに見えるのは四つ足の獣のようだ。何匹かが集まってきて蒲団の隙間に入り込んでいく。触れても感触がないのだがでも確かにそこにいる。一つ目の子とはまた違う。ぬいぐるみのように温かくて、これなら眠れそうだ。

 長い夢もようやく終わりだ。次に目を開けた時には見慣れた景色が広がっていることだろう。今日の夢は、ちょっと楽しかった。誰かと生活していた大昔の事を思い出すことが出来て、あの日々は帰ってこないのだと改めて思い知らされた。



つづく





(2021.3.25)