二度目の夜を駆ける 一話-遠野弐-


 雀の声が聞こえる。普段は鳥の声なんて気にも留めないくせ、起床時だけは不思議と意識してしまう。ごろりと寝返りをうつと、頬に当たる感触がつるつるとしている事に違和感を覚えた。枕が違う。匂いも違う。嫌な予感がした私は即座に目を開け、知らない天井に短く息を吸った。

「……どこ」

 異常事態に跳ね起きて、辺りを見回すと年を重ねて色濃くなった柱と襖が取り囲んでいる。いつもの所々剥がれた壁紙はどこいった。怖くなった私は襖と障子を開け放つと、縁側と庭が目に飛び込んだ。ナニコレ旅館? 何が起こっているのか全く判らず頭を抱える。すると庭から足音がした。救世主のご登場だ。この人に聞けばきっと──!

「おはよう。昨晩はよく眠れたかな」

 あちこちに跳ねている色素の薄い癖毛。穏やかそうな柔和な笑み。働き盛りの若者にしか見えない外見。

「……ヌラリヒョンさん?」
「うん? まさか忘れてしまったのか」
「覚えてますよ……」

 たった今、全部思い出した。

「昨日は何しましたっけ?」
「朝、儂は其方と出会った。加須底羅かすてら焼菓子まふぃんを食べたろう。馬にも乗ったな。やはり覚えておらぬではないか」
「覚えてます覚えてます。大丈夫でした」

 ほっとしたようなヌラリヒョンさんとは真逆の心境である。夢の世界が二日も続いてしまったのだ。夢の中で寝て、また起きたら夢の中。昨晩は八百万界とのお別れにしんみりしながら寝たのに、まだ続くなんて想定外。

「今朝は儂が朝食を用意した。寝着のままで良いから居間に来てくれ」
「はい、ありがとうございます」

 朝食を二度も食べる事になるなんて。そういえばヌラリヒョンさんが作るご飯は初めてだ。料理……出来るの?

「そうそう。若い娘が柔肌を堂々と見せるものではないぞ」

 何の事だろう。ヌラリヒョンさんが踵を返すのを見て私もくるりと向きを変えた。枕元には着替え用の着物が置いてある。これもお下がりだ。あ、でも、パジャマのままで良いって言ってたっけ、でもな、とぼんやり自分の身体に手を滑らせた。そして気づいた。今日のパジャマはいつものジャージではなく、浴衣の前面がバックリ開いていた事を。
 ……死にたい。


「元気を出さぬか。今日はまだ始まったばかりだぞ」
「……」

 落ち込まずにはいられない。昨日会ったばかりの男性に色々なものを見られてしまったのだ。下半身は水着姿を見られただけだと自分に暗示をかける事も出来るが、下着すらなかった上半身はそうはいかない。なんてこった……。
 けど元気がでないのはそれだけではない。夢から覚めない事。重要度はこちらの方がはるかに高い。

「子供の素肌を見た所で欲なんぞ孕まぬ。其方への評価は何ら変わらぬよ。安心してくれ」
「別方向に傷を抉り始めたので、この話題は打ち切りでお願いします」

 ヌラリヒョンさんは判ったと言った。

「では今日の予定でも考えようか。今日も外が良いなら案内するぞ」

 ここでじっとしていても良くない事ばかり考えそうだ。

「今日も外でお願いします」
「心得た。ならば着替えたら声をかけてくれ」

 ヌラリヒョンさんは既に着替えている。私はこれから。お下がりを頂けたのは嬉しいけど、着物の着方が判らなくてどうしていいか判らなかった。だから失礼とは思いながらも寝間着姿で居間に来たのだ。

「……着付けに手が必要か?」

 ドンピシャ。読心術かな。なんでもいいけど言いづらかったからありがたい。

「…………オネガイシマス」
「うむ」

 朝食が終わるとすぐにヌラリヒョンさんが部屋に来てくれた。けど、どうやって教えてくれるつもりだろう。いくら色々見られた後とはいえ、もう何見られても全然おっけ~なんて能天気にはなれない。一宿一飯どころか四飯も世話になっている相手なので当然信用はある。でも羞恥心は別問題で。

「まずはこれだ。手を通して前で交差。前合わせは右が先、左が後だ。出来たら声をかけてくれ」

 私の密かな葛藤は全て杞憂だった。どこまでも気を配ってくれるヌラリヒョンさんは、口頭での指示を中心として背を向け続けた。言葉では判り辛いと教えを請うた時も私の方を見ないよう、触れぬようにしてくれた。過剰な程の気遣いに申し訳ないと思いつつも、絶対に目の合わないヌラリヒョンさんを見ながら良い人だと感じ入った。
 苦労しながらも無事着ることが出来た。今後は一人で着用で出来るだろう。姿見の中の自分は自画自賛ながら様になっていた。日本の民族衣装とは言え、今時お祝い事でも着ない事が増えてきた着物。昔はこれを日常的に着ていたなんて信じられない。

「可憐だな」

 唐突なお世辞に、「ど、どうも」とつまらない返しをした。男の人に見た目の事を言われるのは例え夢だとしても少し苦手だ。相手は見た目だけ人間でも。

 遠野の景色は今日も一段と緑が濃い田舎の香りがした。馴染みはないが嫌いではなく、お盆の帰省を想像させる心昂るものだった。
 それなのに今日の私は、心から楽しめない。
 考えてみれば夢だというのに感覚がやけにリアルだ。動けばお腹が空く。太陽光が肌をチリリと焼く。風が冷たい。歩けば足の裏が痛む。近所の人は一人一人違っていて決してモブじゃない。
 作り込みが凄いな……と思って良いものか。根本的な考えが間違ってないか────。

「其方聞いておるのか?」
「……聞こえて、なかったです」

 ヌラリヒョンさんがじっと私を見ている。今は考えるべきじゃない。気を遣わせてしまう。

「なら今日はこっちへ行くか」

 ヌラリヒョンさんが連れて来てくれたのは、

「お寺……ですか?」

 人がいるが、人族だろうか。神様が寺にいるのは変だし、妖怪は寺嫌いそうだし。ヌラリヒョンさんは本堂を素通りして、木々に囲まれた小路を進んでいく。木陰は涼しいを通り越して肌寒い。少し開けたところまで進むと一本の小川が流れていた。

「儂は少し用がある。其方はここで待っていてくれ」
「はい、判りました」

 周囲を見るが木と川以外に何もない。川の中に何がいるのだろうと覗き込んだ。
 その瞬間、ずるりと片足が水中に落ちた。

「っやあ!?」

 体勢を立て直そうともう一方の足で踏ん張るがそちらも川に落ちる。残った両手で地面を掻いたが浅い川なのに一向に上れず足を水面から引き上げる事が出来ない。まるで沼のように足が食いつかれている。
 もしも────
 もしも今、ここで死んだら現実に戻れる…………?

「でも溺死はいやあああ!! 寝るように死なせてええええ!!!」

 叫んでいる間に両膝が完全に水に埋まった。やだやだむりむり!!

「どうした!?」

 ヌラリヒョンさんだ。私の奇声が聞こえたんだ。
 駆け寄ったヌラリヒョンさんは私の手を引いてくれ……なかった。代わりに刀身が目の前で煌めいた。切れ味の良さそうな剣は私の背筋を凍らせる。
 なんで。どうして。でもどこか「やっぱり」と納得していた。
 大人を信用してはいけない。優しいのは一時だけで、最後には手を放され拒否されるものだから。

「手を放さぬと八つに斬る」

 そんなの溺死か失血死かの違いである。でも子供は言う事を聞かないと駄目なんだよね。そういうものなんだもんね。望み通りに動かなければ不要だから。

「ひいいいいい!! 今すぐ放します!!!」

 脚が、いや、川が喋った。すると足裏が川底に接触し、ヌラリヒョンさんが私を岸に引っ張り上げてくれた。

「怪我はないか」

 狼狽する姿を見たのは初めてだ。外国人でもあり得ない黄色い瞳孔が開いている。

「大丈夫ですよ。ちょっと濡れただけです」

 私は平気だと笑ってみせた。

「……良かった」

 胸を撫で下ろしているのを見て私も安堵した。溺死を回避出来たし、ヌラリヒョンさんが私を不要としたわけでは無かったようだから。でもそれなら、誰を斬ろうと……。

「儂の言いたい事は判っておるな」

 身体がびくついてしまう程の低い声色だった。ヌラリヒョンさんを見て、視線を辿ると川の中に何かがいた。犬?

「も、勿論ですよ……。嬢ちゃん、さっきは悪かったな」
「喋ったぁぁ!?」

 犬が喋った! 川に犬なんて。どういうこと!?

「それで十分だと思っているのなら、余程その皿砕いて欲しいと見えるなあ」
「ひっ! すみませんすみません! 申し訳ございませんでした」

 ぺこぺこ謝る犬を見ると頭頂部が円形に刈り取られていた。ハゲではない。皿だ。
 この犬、頭の上に皿を乗せている。

「どうしてお皿?」

 犬は陸に上がると尚も冷ややかなヌラリヒョンさんにびくびくしながら説明してくれた。

「俺は元々河童だったんだが、色々あって狛犬になった」

 端折り過ぎ。

「此奴は馬を川に引き込むいたずらが好きでな、とうとう腹に据えかねた人々に討伐される事になったのだが、その矢先にこの寺が火事になった。河童の此奴が見事消火し救ったのだ。それが人々に認められると河童の身でありながら狛犬へと姿形が変わり、河童の狛犬となったのだ」

 ヌラリヒョンさん解説ありがとうございます。

「なら妖ではなく、神ですか?」
「いんや。俺の神性なんぞしょっぼいもんだからな。誇り高き妖族よ」

 誇りねえ。

「其方は相も変わらず川に引き込んでおるのか」
「いえいえいえいえ! 旦那のお連れ様なら手なんぞ出しませんでしたって……へへっ」

 ここでもヌラリヒョンさんの威光が通用するのかと感心した。

「風邪はひかせられぬ。日が当たる方へ行こう」
「でしたらこちらへ」

 少し太った柴犬くらいの犬に二人でついて行くと、次第に木々がなくなり太陽光がさんさんと降り注ぐ。石に腰かけて着物をしっかりと絞り、光が満遍なく当たるように足を伸ばした。

「そういえば、ヌラリヒョンさんの用は済みましたか?」
「用があったのは其奴にだ。其方には物珍しいのではないかと思ってな」

 寺に来た目的がこの河童な狛犬だったんだ。

「ご利益あるぜ。触りてえだろ?」

 折角なので皿を避けて撫でると感触は普通の犬だった。

「どんなご利益があるの?」
「来年の胡瓜が豊作になる」

 興味ないな。

「あと乳が出る」

 え!?

「逃げんなよ。ほらドバドバ出るって喜ばれてんだからな」
「わ、私子供いないもん。まだそういうのはいいよ……」
「はあ? その歳でまだこさえてねえのか。行き遅れか」
「全然遅れてないよ!」

 あまりの失礼さに皿目掛けて石を振り下ろしたくなったが、少し考えてみた。
 もしかしてここでの初婚年齢は十五くらいという昔の考えなのかもしれない。加えて、東北は江戸時代に入っても早婚のままだったはずだ。

「あまり揶揄うでないよ。その娘はまだ八百万界に慣れておらぬのだ」
「なんだ。まだ赤子だったか。悪いな!」

 こうも悪びれなく言われると、目くじら立てるのが馬鹿らしくなってくる。
 河童狛犬さんは少しオジサンっぽくて嫌だったが、悪い妖ではなさそうだった。隣のヌラリヒョンさんのお陰かもだけど。今のところは本物の犬みたいで、足にすり寄られるのも大分慣れてきた。人語だけど結局は犬。犬として見れば大丈夫。いつのまにか膝の上にまで上っているのは図々しい気がするけどこれは犬。喋るぬいぐるみと思えば悪いものでもない。犬だ犬。それにしてもこの犬とてつもなく重いな……。

「嬢ちゃんは美味そうな匂いがするな」

 鼻を帯に擦らせて言った。

「美味しそうって? さっきのご飯かな」
「飯なもんか。おま」

 急に河童狛犬さんは黙った。

「何?」
「そう。飯の匂いがついてるってな。はは。あはははは」

 明らかに挙動不審である。心当たりの方を見ると、私を見て「うん?」と首を傾げている。答えてくれそうにないので、私は何も聞かなかった。

「そういやカッパがまだ帰ってこねぇんだよな。どこフラついてやがんのか」
「カッパ? 犬じゃなくて、本物の河童ですか」

 やっぱり緑色なのかな。

「カッパはカッパに決まってんだろ。馬鹿かよ」

 少しイラっと来たので両頬を挟んでぶちゅっと潰しておいた。

「ま、大方相撲でもしてんだろうけどな。アイツすぐ吹っ掛けっから」

 へえ、相撲かあ。緑の誰かが来たら気を付けよう。

「ん。いけね、そろそろ行くわ」

 てと、と身体つきにしては軽やかに降り立った。

「次来るなら別の時間にな。あと胡瓜忘れんなよ」

 河童狛犬さんは念を押して去って行った。

「……用事ですか?」
「あれでも敷地の守護は欠かさぬからな」

 意外。狛犬に変化したというくらいだから、この寺院には並々ならぬ想いを抱いているのだろうか。言葉や素振りだけでは判断できそうにない。

「妖怪……あやかしってもっとこう、悪いものだと思ってました。向こうで妖怪といえば鬼とか狐で、人間を襲ったり食べたりするのが当たり前で。でも河童狛犬さんやヌラリヒョンさんは私を襲ったり酷い事しないですね。川に落としはしますが」
「ははっ。儂ら妖は恐ろしいものではないよ。少しばかり悪戯が好きな茶目っ気たっぷりの種族なだけさ」
「ならヌラリヒョンさんも悪戯するんですか?」
「見せてやろう」

 最初に通り過ぎた寺に戻ってきたヌラリヒョンさんはあろうことか黙って上がり込んだ。

「え! 勝手に上がっちゃ駄目なんでは? 怒られますよ!」
「構わぬ。ここは堂々としていることが肝心だ」

 どんな神経しているんだと思いながらも私はヌラリヒョンさんについて行く。修行している何十人もの人たちを横目に部屋を横断し、廊下ではすれ違いざまに会釈し、着いた先は台所。机の上に置かれたお供え物と思われる団子をヌラリヒョンさんはひょいと摘まんで食べた。私は慌ててその腕を両手で掴む。

「泥棒! 駄目! 犯罪!」
「なに一つだけだ。其方も食うか」
「食べませんよ! 二つになるでしょ!」

 団子に心を奪われたままのヌラリヒョンさんを引き摺って寺院から出てきた。

「いくらなんでもやっていいことと悪いことがありますよ!!!」

 年上と認識しながらも叱り飛ばさずにはいられなかった。なのにヌラリヒョンさんはケロっとして、

「ははっ。あれはオビンズルサマに捧げるものだ。どうせ本人はここにおらぬのだから一本くらい儂が食べても良いではないか」
「良くない!」
「ふふっ。其方は真面目だな」
「ふざけないで下さい! 勝手に食べるのも、お供え物食べるのも駄目です!」
「はいはい。すまぬすまぬ」

 全くもう。なにが茶目っ気だ。ただの犯罪ではないか。いい歳して恥ずかしい。

「だが儂の力は判ったであろう? あれだけの人数がいる中で儂と其方が難なく侵入出来た。儂はともかく新入りの其方は怪しまれる。しかし一度でも止められたか?」

 言われてみれば確かに。
 修行の静寂の中でも、会話する私たちを呼び止める者は誰一人としていなかった。相手の視界には入っていたし、聞こえていたはずなのに。

「こうやって他人の家に上がり込んで、茶菓子でも食らうのが儂の妖としての力さ」

 妖の……力……。

「地味……なんですね。総大将と呼ばれているのでもっと強そうな力をお持ちだと……」
「はっはっはっ。周囲が勝手に呼ぶだけで、儂に力なんぞないよ。毎日が楽しければ良いとしか思っておらぬ爺だぞ」

 周囲にもてはやされただけで、総大将なんて大層な呼び名をつけられるなんて大変そうだ。顔が広いせいで必要以上に持ち上げられてしまうのだろう。
 なんだか周囲がざわついている。鐘楼の鐘が激しく打ち鳴らされた。「悪霊だ!」と誰かが叫んでいる。ここ怨霊もいる世界なの?

「其方は逃げ、いや儂の傍にいろ。必ずだ」
「はい!」

 訳も判らず反射的に答えた。ヌラリヒョンさんの険しい顔つきに圧倒されて今が緊急事態と悟る。
 駆け出したヌラリヒョンさんを追いかけると、黒い集団が寺へ向かってきているのが見えた。耳を刺してくる金属音は、黒い甲冑が擦れ合っている音だ。「なにこれ」と思わず零した。ヌラリヒョンさんは腰の剣を抜いて、近づく黒の集団を次々となぎ倒していく。壊された甲冑たちは地の底から響かせるような断末魔を上げて黒い煙となって消える。これは人間じゃない。でも、どうして。人と神と妖が住む世界で悪霊と呼ばれる者達は敵なの? 殺しても良いの?

 黒煙は他の場所でも上がっていて、よく見ればそこには河童狛犬さんと巨大な手裏剣を持った知らない女の子がいた。彼らの後ろでは修行僧が両腕を目一杯振って走っている。黒甲冑はそんな彼らを巨大な槍型の銃を使い、ある者は串刺そうと、ある者は撃ち抜こうとしている。ヌラリヒョンさんたちが相手を壊すように、相手も私たちを殺そうとしている。
 何が何でも逃げるべきだ。なのにそんなのと戦うヌラリヒョンさん達は大丈夫なのだろうか。でも彼らが倒してくれなければ、戦えない私たちは死ぬんだ。死なない為には戦ってもらうしかない。

 でもそんなの、そんなのでいいの。ヌラリヒョンさんや河童狛犬さん、知らない女の子だけに戦わせて。女の子なんてどう見ても普通の子なのに。
 オロオロするだけの私は愚直にヌラリヒョンさんの言いつけを守った。立ち向かう人達を盾に自分だけ守られている。本当にそれで良いのかと自問するが、答えは一度も出てこない。気持ちだけ無意味に焦ってしまう。離れた場所で戦っていた河童狛犬さんが駆け寄ってきた。

「嬢ちゃんも早く逃げろ。悪霊はヌラリヒョンの旦那とカッパに任せとけ!」
「でも、ヌラリヒョンさんが傍にいろって。必ずいろって」
「お前ひとりだったら、だろ。お前がいない方が旦那は戦える。でもって俺は逃げた奴が襲われてねえか探さにゃならねえ」

 足手纏いなんてなれない。私のせいでヌラリヒョンさんが死んじゃうなんて、そんな重圧抱えきれない。

「さっさとついて来い!」

 河童狛犬さんの命令に大地を蹴り飛ばした。先に逃げていた修行僧を追いかけるように、何も考えないように走った。どこまで走ればいいなんて判らない。ゴールテープはない。脅威が去るまで走り続けなければならない。

 瞬間。

 視界の端から現れた甲冑へ、河童狛犬さんの口から極太の水流が噴出して敵を押し込んでいく。わらわらと湧いてくる悪霊をそうやって圧し飛ばしながらペースを落とさず走り続ける。でも次の悪霊は違った。大鎌を持った黒い者は河童狛犬さんの水流を避けると、流れるように胴を薙いだ。

「河童狛犬さん!」

 足を止めて駆け寄った。出血はない。だが粒のようなものが皮膚から零れている。もしかして狛犬だから、石────。

「嬢ちゃんは逃げろ!」

 石だろうが岩だろうが関係ない。気合で河童狛犬を抱き上げると、鎌が空を斬った。

「馬鹿! 俺の重さじゃお前」
「代わりに周囲を見て!」

 小さくなってしまった僧の方向を確認すると一気に走り出す。追いかけてくる悪霊の位置を意識しながら走るのは、さながら鬼ごっこだ。とかなんとか思っている間に目の前に鎌。支点となる足で踏んばり悪霊と逆方向へ方向転換。これを繰り返す。相手は一人。集中を切らなければ多少いける。

「嬢ちゃん、反動に耐えろ!」

 肩口から、滝が流れているのかのような爆音が耳を劈く。だがその噴射が私の身体を前へと押し出し少しだけ足が軽くなる。しつこく付きまとっていた悪霊の気配も離れた。また断末魔。

「コマくん大丈夫ですか!?」
「おっせーよ! 嬢ちゃん、悪霊はカッパが倒した。一回止まれ」

 指示通りに止まるとふくらはぎがぎゅっと締め付けられた。カッパと呼ばれた女の子が私たちに追いついた。私は辺りを見回す。

「ヌラリヒョンさんは!?」
「大丈夫だ。上見てみな」

 晴れ渡った青い空に暗雲が集まっている。辺りがみるみる暗くなっていき、虫のようなものが上空に集まっていく。いや違う。あれはなんだ。歪なものが沢山いる。目を細めると本で見た事がある妖怪達であることが判った。それらは群れを成し龍のようにうねって、この一帯を呑み込んでいく。次々にあがる断末魔。悪霊の苦しみが耳にねっとりとへばりつく。

「あれが、妖の総大将たるヌラリヒョンの旦那の秘奥義。一人の妖の呼び声に集った大群を見て人は『百鬼夜行』と呼んだ」
「ヌラリヒョン様がいれば遠野は悪霊の侵略にも負けませんから。ところでこの子は?」

 緑なのか青なのか判らない髪色で、ピンクの着物といって良いのか判らない独創的スタイルのカッパさんが私の事を指差した。河童狛犬さんが答える。

「んあ。旦那が手ぇ付けてる。それ以外は知らねえ。おい、名前は」

 初対面なら当たり前に言わなければならない事だけど、私は。

「名前……ない、です」
「また曖昧な奴だな」

 名前がない事を当たり前のように受け入れられてしまってほっとした。今日は試していないがどうせ私の名前はここでは発声出来ないので名無しのままだ。
 それにしても、「百鬼夜行」とやらは秘奥義というだけあって凄まじい範囲と威力で、あれだけいた黒い集団が消え失せている。カッパさんも、私の腕の中の河童狛犬さんも雑談を始めていて、気持ちが弛緩しきっている。それを見て一安心したら肩や背中も痛んできた。あれだけ必死だったんだ。緊張で身体が痛むのなんのって。

「後ろ!」

 ヌラリヒョンさんの声を耳にした瞬間、カッパさんが視界から消えた。代わりに現れたのはまた巨大な鎌を持った悪霊。避ける事は不可能。私は胸の中の河童狛犬さんを潰れるほどに抱きしめて、背を丸めてしゃがみこみ衝撃に備えた。
 カーンと乾いた音がする。金属が弾かれた音。その後すぐ、靡く黒いマントが視界を遮って、悪霊の絶叫が辺りへ響き渡った。

「其方ら怪我は」
「河童狛犬さんとカッパさんが」
「うー私は大丈夫。コマくんは」
「生きてら」

 見上げた先のヌラリヒョンさんが川の時と同様に狼狽していた。お礼を言って、被害を確認していく。河童狛犬さんは石ゆえに堅いらしく軽傷で済んだのは不幸中の幸いだ。ただあの鎌には薬か術が仕込まれていたらしく、軽い痺れが続いているそうだ。

「斬られたから死んじゃうのかと思った」
「んな軟なわけねぇだろ。河童で狛犬だぞ」

 なんて言っているが強がりだ。胴からはさらさらと砂粒が零れ続けている。

「……。嬢ちゃんありがとな。わざわざ俺まで運んで。赤子からひよっこに昇格だな」

 小さな尻尾を振りながら私の手を舐めている。多分慰めてくれているのだろう。感謝を込めて私もしゃかしゃかと撫でた。

「コマくんの事は私に任せて下さい! それじゃあ、またね!」

 河童狛犬さんを抱えたカッパさんに手を振った。彼女らが木々の中へと姿が薄れていくと、途端に疲れが押し寄せた。

「儂らは家に戻ろう。……年寄りには堪える」

 ヌラリヒョンさんはいつもの笑みを浮かべていたが、顔色は良くないように見えた。

 帰り道、私たちは喋らなかった。最初はヌラリヒョンさんが取り留めのない話題をニ、三振ってくれたが、私がその気になれずいい加減な返事を繰り返すとそのまま静かになった。
 帰宅して部屋で休ませて欲しい事を伝えると、判ったと返ってきた。私はお礼を言い、客間の畳に四肢を投げた。シミの浮いた天井を見ながら私は先程の事を回顧していた。

 黒い面妖な集団は、悪霊と言っていた。あれらはなんだったのだろう。無差別に襲っているように見えた。日本で生活していて誰かに殺されるかもしれない、と思った事は一度もない。戦争も紛争も民族浄化も世界にはあるが全て他人事だった。弾道ミサイルの発射さえどうせ落ちる事はないだろうと無根拠に思っていたくらいだ。
 それが初めて、槍や大鎌を自分に向けられて恐怖で冷汗が止まらなかった。冗談ではなく死ぬのだと。夢の中であることを忘れて「死にたくない」と一心に願った。

 けれど、今部屋にいて思うのは、恐怖とは別の焦燥感。あの場ではヌラリヒョンさん。河童狛犬さん。カッパさん。みんな戦っていた。私は逃げる事と守ってもらう事しか出来なかった。当然だ。現代の日本社会は銃砲刀剣類所持等取締法が施行され、武器となる類の凶器は原則所持を禁止されている。この八百万界で会ったヌラリヒョンさんは帯刀をしていたがそれは地位の証明の為で、飾りだと勝手に思っていた。
 でも違った。あれは、防衛の為、攻撃の為に所持しているものだ。カッパさんも巨大手裏剣のようなものを振るっていた。
 八百万界は武器を必要とする世界────。

「今大丈夫か」

 ヌラリヒョンさんが襖越しに声をかけてきた。

「はい。起きてますよ」
「先程分けてもらってな、煮物やら魚やら。昼にしよう」

 お腹は空いている気がする。気持ちも落ち着いてきたし食べよう。

「すぐ行きます」

 居間に行くと何品もの料理が並んでいた。これは夜の分までまかなえそうだ。二人でいただきますと言って、食べ始めた。ヌラリヒョンさんに言った。

「さっきはありがとうございました。よく見えなかったけどヌラリヒョンさんが凄い技使って倒してるって河童狛犬さん言ってて」
「ああ。気にする事はない。この地を守る事は好んで行っている事だ」

 立派な人だ。誰かの為に剣を振るう事ができるなんて。そんな勇敢な人慕われて当然だ。

「あの……食事時の話題には相応しくないのですが……」
「続けると良い。判らぬままでは食事の味も楽しめまいて」

 私は息を整えて聞いた。

「悪霊って、何ですか」
「数年前の話だ────」

 島国である八百万界。海から突如黒い舟が押し寄せてきた。舟から現れた悪霊は陸へ上陸すると、民を襲い、土地の力である界力を奪っていった。界力を奪われた土地は枯れていき、動植物が住める場所ではなくなっていく。悪霊たちは圧倒的戦力で各地を襲い、土地を荒らしてあっという間に八百万界に住まう生命達を絶滅の危機に追いやった。
 帯に挟んでいる“お祝い”が熱を持つ。

 ながいきの おまもり

「今や奴らはどこにでも出現する。其方の様な術をかけられた子供は到底生き抜く事は難しかろう」
「……」
「生活の術を知らぬ其方を捨てたりなどせぬ。儂が教えてやるから心配無用だ」

 ヌラリヒョンさんが手厚く世話をしてくれる理由をまた一つ理解した。

「悪霊は誰でも殺しちゃうんですか」
「左様。この地に住まう八百万の民を殺し尽くすのだろう。最終的には界力を根こそぎ奪いこの界そのものを殺すのだろうな」
「八百万界を殺す、って…………」
「滅亡だ」

 胸が苦しい。ヌラリヒョンさんの姿がゆらゆら歪む。息が難しい。滅亡と耳にした途端に私の身体が熱を帯びて喘ぎそうになる。

「独神は八百万界を救う者……なんですよね」
「あくまで噂だ」
「それでも物知りのヌラリヒョンさんなら、知っている事が沢山あるんですよね」
「数百年は生きたであろう儂も、独神については殆ど知らぬ。ただ」

 ただ

「其方は独神ではない。……思いつめてはならぬよ」
「思いつめてなんてないです。ほんとうです」
「午後は家の中で過ごすと良い」

 それは命令だった。世話になっているだけの私は逆らえる立場にない。

「判りました」

 ヌラリヒョンさんが独神ではないと断言したのは、何か心当たりがあるのかもしれない。さらっと数百年以上生きたと言っている生き字引の言葉は信憑性が高い。私の名を封じ独神の名を語らせる術を施したのは、本物を晦ます為の”偽り“としてだろう。
 それならそれで、誰がどうしてわざわざ私に……。

「其方将棋は指せるか?」

 唐突にヌラリヒョンさんは言った。

「全然。触った事もないです」
「なら教えよう。やり方自体は難しいものではないからな」

 悪霊の事、独神の事、それら全て頭の端に追いやるように、ヌラリヒョンさんと室内での遊びに興じた。五角形の駒の山を崩したり、並べたりしながら、私は八百万界という日本とは大きく違う世界の事をじっくりと考えていた。



 ────私は、三度目の朝を迎えた。
 天井は相変わらず小汚くて、寝間着は心許ない浴衣で、妙に厚い敷布団。襖を開けたら広がる綺麗すぎる庭。
 私は今日も八百万界にいる。

「おはよう。よく眠れたかな」

 廊下で出会うのは妖怪。人間じゃない。

「……ええ。まあ……」

 寝起きは最悪だ。夢から覚める気配がない。「やっぱり?」と思ってしまったので、それほどショックはないが。いややはり気落ちする。こんな野蛮で荒れた世界にまだいるなんて。

「……。では腹に幾分は入りそうか」
「いえ……」

 不安でも感じているのか、あまり朝食を食べたいと思えない。だが気持ちに反してお腹が鳴った。ヌラリヒョンさんは諭した。

「気分が優れずとも、身体が欲しているなら少量でも食べた方が良かろう。それとも甘味の方が口に出来そうか?」

 私は首を振った。

「ちゃんとご飯食べます。残した分は昼食べますから」
「子供が気を遣う必要などないのだぞ」

 ヌラリヒョンさんは微笑むと居間の方へと歩いて行った。私はそんな大人の背中を見て、罵ったりお礼を言ったり好き放題心の中で呟いた。優しくされるのは嬉しいけど、怖くもあって、自分をどのポジションに置いて良いのかよく判らないのだ。朝食だってヌラリヒョンさんが作るおにぎりはそれほど綺麗ではないし塩加減も好みではないけれど、わざわざ総大将様がぎゅっぎゅっと握った所を想像するとこの上なく胸が震える。

「ヌラリヒョンさん。真面目なお話がしたいです。落ち着いた時に」
「承知した。ならば今日は家で過ごす事にしよう」
「あ、いえ、外が良いです。遠野の景色見ながらの散歩は気持ち良いので」

 ヌラリヒョンさんはふにゃりと笑った。


 朝と夜は手がかじかみ吐く息は白いが昼間は暖かく過ごしやすい気候だ。日本では三月だったが、八百万界は何月なのだろう。そういえばカレンダーというものをまだこの世界では見ていない。旧暦呼ばれる天保歴だろうか、それともグレゴリオ暦か。

「ここってのどかですよね。私はそういう所には住んでいなかったし、縁も無かったので夢を見ているようです」
「其方は随分栄えた所に居住していたのだな」
「いいえ。日本は八百万界と殆ど同じなんですが、居住区は全体的に栄えているんです」

 鉄の箱が時速三百二十キロメートルで走っている……と言ってもピンとこないかもしれない。

「日本は私みたいな形の生物と言えば、当然人間です。だから八百万界は不思議なんです。同じ形なのに種族が違うなんて。……外国人みたいなものなのかな。八百万界以外の国は海の向こうに存在していますか?」
「大陸がある。それに別の界が存在する事も知識としてあるが、外の者を見る事はまずないな。漂流物は偶に海岸に流れ着いてくるぞ」

 大陸とはユーラシア大陸を指すのだろう。界を国として読むと八百万界は鎖国に近い状態なのかもしれない。

「私の知る『世界』とは、地球と言う惑星、球体があって、三分の二が海。残りは陸地です。島が沢山あって、その中でも日本はとても小さな島国なんです。昔から八百万の神が存在するという考えがありますが、八百万界の神様のような実体はありません。見えないものなので、いないと思う方も当然います。声も聞こえませんし」
「其方の世界に妖はおらぬのか」
「いますよ。想像上ですが。神と同様に存在すると信じる方はいますが、存在を確認する術はありません」

 神も妖もどちらも想像上の存在。実体がないものは「いない」という他ない。

「私が知る遠野……って、岩手県の中の遠野市なんですけど、見た事はないけどここまで自然が多くて、旧文化的な生活ではないと思います。駅があって電車があって、それなりに道路が整備されて車が走ってる。勿論そこに住むのは人間だけです」

 八百万界は近代文明と引き換えに、想像上の生物が闊歩している。

「……ここは、私にとっての現実でしょうか」

 もう判らなくなっていた。
 日本が夢か。
 八百万界が夢か。

「私は────と言います。ここでは名前が言えません。本当は私────ではないのかもしれません。実際八百万界で私の名を知る者も呼ぶ者もいなくて、私の知る私がどんどん薄くなっていくように思います」

 八百万界では私の方が、実体のない曖昧な存在に思う。

「ヌラリヒョンさんは私と同じ存在なんでしょうか」

 ヌラリヒョンさんは少し考えるそぶりを見せる。手を伸ばしてきて、私は少し構えた。黙って待っているとその手は頭の上に落ちた。

「その問いに答えても良いが、それは其方にとっての正解かは判らぬ。名を封じられた娘に儂が出来るのはこうやって一時の慰めを与えることだけだ」
 曖昧で優しい。頭で感じる手のひらの感触が恥ずかしくて、懐かしくて、泣きたくなった。この人の事、もっとずっと信じたいと思った。



 次の日もやはり夢から覚める事は出来なかった。もう不安は増えない。前を向くことに決めたから。

「おはよう。気分はどうだ」
「最高ですよ」

 寝起きにヌラリヒョンさんを見られることは幸福だと気付いた。こんなわけのわからない世界で、この人は私を確かなものにしてくれる。

「良い顔をしておるなあ」

 昨日の私を、一昨日の私も知っている。大丈夫。何日も無償で世話してくれたこの人は信用して良いんだ。

「私ここから出ていきます。でももう少しだけ置いてもらえないでしょうか」
「勿論だとも。其方は生活常識すら忘れてしまった迷い子だ。生活手段が見つかるまでここで過ごすと良い」
「ありがとうございます。お言葉に甘えてしばらく厄介になります」
「焦らんで良い。応援しておるよ」

 どうせここは夢だから。
 その考えは捨てて、ここを現実と思おう。それにはヌラリヒョンさんの家から出ていけるようにならないと。今の私はタダ飯食らいの居候だ。夢では良くても、現実では良くない。手に職をつけて毎日ご飯が食べられるようにはなりたい。……なれるのかな。いやいや、落ち込む暇はない。幸い私には相談できる人がいる。絶対に大丈夫だ。
 まずは。

「今日まで何もかも面倒を見て下さり、本当にありがとうございました。今日からは私が働きます。こき使って下さい!」

 せめて食住の分くらいの労働はしないと。

「唐突だな。だがその気になったのならこれからは其方に頼むことにしよう」
「お願いします!」

 と、言ったものの、ここで私がする事は殆どなかった。というのも。

「ヌラリヒョンさん、頼まれてた薪は裏に置いといたからな」
「ヌラリヒョン様、今朝友人から魚が届きまして。捌いておいたのでこのままお刺身にどうぞ」
「ヌラリヒョン! お前が踏み抜いたっつー廊下は直しといたからな! 修理代に酒持ってくぞ!」

 えとせとららら。
 大妖怪ヌラリヒョンという男は、家で茶を啜るだけで何もかもが出来てしまうのだ……。まさに規格外。流石人外。
 フッツーの現代社会で生きてきた私には物々交換で成り立つ社会は異次元でしかない。もしかしたら、ヌラリヒョンさんが特殊なのかも……。相談相手には良いが、自立の参考にはならなさそうだ。

「さて、小腹も満たしたしそろそろ出るか。其方もおいで」
「はい!」

 近所の人がくれた苺大福を食べ終えた私たちは、外に出た。

「何か御用がおありですか?」
「うんあるぞ。大切な用事だ」
「それほど大切な事に私がいて良いのでしょうか……。私は家で掃除でもしておいた方が」
「其方がいなければならぬのだ。其方でなければ」

 え。なにそれ。急にプレッシャー。

「よくは判りませんが、その期待にしっかり応えるよう努力します!」
「うむ。頼んだぞ」

 家を出た私たちは集落を練り歩く。話しかけてきた人には逐一応対、私の事は拾い子として紹介。ここでも名前は一度も言っていないが、疑問なく受け入れられている。
 途中お茶に呼ばれて二度目の十時のおやつ。適当に雑談。
 外へ出たらまた人に呼ばれて三度目の十時のおやつ。
 そのまま昼もお呼ばれ。流石にその家を出た時にはヌラリヒョンさんに苦言を零した。

「うぷっ。……あの、私に食べさせすぎじゃないですかね」
「ははっ。其方は若いのだからもっと食べて良いのだよ」
「い、いや、みんな残ったものを私に押し付けているだけでは」
「そんな事はない。其方が可愛いから食べさせてやりたいのさ」

 嘘だ。
 午前中だけで三度おやつを食べた私が、昼にどれだけ食べたと思う?
 ご飯とよく判らない山菜料理に、山で仕留めた獣肉。それと庭で取れた果物。
 それのどれも量がおかしくて、ご飯は三杯、山菜は二皿、肉はステーキ二枚分、果物は瞬きせずお腹に詰め込んだので記憶がない。何度「いいです」と言っても「若いから大丈夫」「これも食べな」「遠慮せずに食べて食べて」と、私だけが大量に食べる羽目になったのだ。ヌラリヒョンさんは自分にすすめられたものを全部私に寄こしたので、腹八分目くらいで終わってるだろう。私は歩くのも億劫なくらいお腹がいっぱいなのに。

「あの……沢山食べると太るので……。ご飯が多いなら間食は減ら、」

 な、なぜ悲しそうな顔をするの……。

「いえ、間食は一日二度定刻に行います……はい……」

 うわ……、喜んでる。いくら着物だからといっていくらでも太れるわけではないのにな。

「おや。新たな客人だぞ」

 頼むからこれ以上食べ物を与えないで! だが、私が思ったのとは全く別の来訪者だった。

「悪霊……!」
「儂に任せておけ」

 ふっと笑顔を見せたヌラリヒョンさんは、悪霊に向き直った途端に顔つきが厳しくなった。
 剣を抜いて一体、また一体と難なく切り伏せる。五体倒したところで静かになった。ヌラリヒョンさんが剣を戻す。
 地面には少し焦げたような跡があるだけで、あとは何もない。鎧も槍も、本体を二つに切ると塵になってしまう。遺体が残らないのは、幽霊だからとか?

「其方は何を思う」

 何気ない雑談かと思えば、微笑みの中の感情が読めない。長生きのヌラリヒョンさんに隠し事は通じないだろうし、いっそ素直に言うのが無難か。

「この世界には妖怪も神様もいるのに、悪霊はどうして出血がなく実体がないんでしょう。それに消滅時の音、私は断末魔に聞こえます。物質的な身体がなくとも痛覚があるのではないかと考えます」
「ふむ。それで」

 私は遠慮なく言った。

「それでも倒すべきだと思います。ヌラリヒョンさんや、他の人たちが死ぬのは嫌ですから」

 争いは話し合いで解決すべし。……なんて事は綺麗事に過ぎない。双方が平和的収束を望んでいることが絶対条件だからだ。
 悪霊たちは非武装の僧を襲っていた。市民への武力行使に躊躇いがないというのは、悪霊を送り込んできている集団はまともな者ではないのだろう。こんなのやられる前にやるしかない。武器には武器だ。

「本当にそれだけか。其方が悪霊を倒すべきと結論付けた理由は」

 質問の意図が判らず、ヌラリヒョンさんを見つめるのだがやはりいつもの微笑のままでどうにもこうにも読み取れない。相手に合わせられない以上、自分の意見を伝えるしかない。

「悪霊を目にしてから、ずっと胸がもやもやして気持ち悪いんです」

 何故だかじっとしていられなくなる。

「私は武道の心得なんてありません。暴力的な事にも縁のない生活でした。それでも自分に出来る事を探して立ち向かわないといけない気がするんです」
「儂らの戦いを見て何か当てられてしまったかな。憧れるのは自由だが其方自身が武器をとる必要はない。少なくとも遠野にいれば儂が其方を守ってやろう」
「そうじゃないんです。違うんです。影響されたってわけじゃなくて」
「子供には刺激が強すぎたかな」
「だからそういうのじゃないってば!」

 つい声を荒げた。だがヌラリヒョンさんは淡々としている。

「では、その細腕で何が出来る。其方自身も判っている通り、無力な子供が容赦のない敵に立ち向かえると思うのか。悪霊を退けようと立ち上がる者は他にもいる。しかしこの数年間成果を上げた者など一人もおらぬのだ。儂も遠野だけはこうして見回りながら平和を維持しているが、それで手一杯なのが現状。きっと他の土地も変わるまい。目の届く範囲の平穏維持が限界なのだよ」
「じゃあ、遠野の隣。岩手の隣は宮城県だから、仙台? 仙台藩? とにかくここから南は栄えているんじゃないですか? そこには腕の立つ方や、この現状をどうにかしようと画策している方がいるんじゃないですか?」
「仙台か。……人族が中心にまとめておる土地だ。今はダテマサムネの小僧が治めておる」

 日本の独眼竜だ。八百万界は戦国大名もいる世界なんだ。

「ならその方に声をかけて協力すれば、今よりも多くのひとを守っていけますよね」
「ならぬ」

 強い言い切りの言葉に面食らった。そして顔色を伺いながら尋ねた。

「……何故ですか?」
「盛岡藩と仙台藩は未だに国境が定まっておらぬからだ。つまり、南部とダテは小競り合いの最中だ」

 ……あ。
 八百万界は私の知る日本よりも数百年遅れているのだ。となると、中央集権的統治ではない可能性も。

「あの、ここって一番偉い機関ってなんですか。天皇とか朝廷とか幕府とか、名前は判らないですけど」
「天皇も朝廷も幕府も存在する」

 ある!

「だがそれらは人族の貴人であり、機関だ。儂ら妖には無関係。例え奴らが何を言おうと従う義理などないなあ」

 おどけたような語尾からは、人族支配に対する強い拒否を示していた。
 私は八百万界が日本のように進んでいない理由が判った気がした。八百万界は単一民族ではなく、三つの勢力が存在し、未だにそれぞれが独立した状態で統治されていない。
 ここはまだ国として一つになっていないのだ。

「でも、遠野は……ヌラリヒョンさんちに来る人は種族混合でしたよね」
「儂は妖至上主義を掲げておらぬ故、他種族が何をしようとも構わぬ。現に遠野周辺を治める人族の南部と、同じ土地を愛する者同士良好な関係を築いている。だがそれも、妖族に害を成さぬ事が大前提だ」

 ヌラリヒョンさんの微笑が怖いと思った。この人は──いや、この“ひと”は妖族なんだ。
 悪霊だけが敵だと思ってた。だから帯刀していると思ってた。
 そうではなくて、根底には他種族は別の生物であり敵との考えが流れている。その剣を向ける相手は、悪霊以外にも及ぶのだ。
 となると、私は急に不安を抱いた。

「……どうして私を世話してくれたんですか」

 私は少なくとも、妖族ではないはずだ。

「儂は子供を斬る趣味はない。それに、其方はそもそも儂らに敵意を持っておらぬだろう。種族すら判っておらぬから当然やもしれぬが」
「じゃあ私が人族で、一般的な人族の教育を受けて、人族こそが八百万界に住むに相応しい種族だなんて主張してたら……?」

 笑ってうんうんと頷いている。答えない。答えてくれない。

「そんなに顔を引きつらせては可愛らしい顔が台無しだぞ。それに落ち着いて考えてみると良い。人族同士であろうと、諍いによる闘争からは逃れられぬだろう。其方がいたというニホンでも内乱の一つや二つあったのではないか?」

 ある。歴史を紐解けば戦いの羅列で平和が維持された時期は殆どない。

「結局、棲家が脅かされるとなれば誰が相手だろうと武器をとるしか道はないのだ」

 だから信じるのは同じ土地に住まう者だけ、同種族だけ、身内だけ……。
 寝返る可能性のある者達とは協力できないって事だよね。
 それは、判るよ。判ってる。
 でも、

「優先すべきは海からの侵略者である悪霊ですよね。だったら、例え他種族であろうと今は協力すべきなのではないでしょうか」
「それは理想だ。儂と違い力のない民の方が余所者を受け入れられぬだろう。何かあった時に抵抗する力がない分、警戒心が強いのだよ。受け入れてみたところで猜疑心に圧し潰されて、余計な争いを生むのが目に見えておる」

 でも、

「こうしている間にも界力は奪われていくんですよね。今はまだ生きた土地で寄り添って生きていけるでしょう。でもいつかは、民があぶれるんじゃないでしょうか。そうすると今度は同じ界に生きる民同士が土地の奪い合いをするんですよね」

 悪霊側から見れば、長期戦に持ち込むだけで勝利が決まる。

「界力って戻るものなんですか」
「知らぬ」
「じゃあ、これ以上奪われる事を阻止しないと駄目じゃないですか」
「そうだな」
「判ってるのにどうして」

 ヌラリヒョンさんはまた微笑むだけ。

「おっと、どうやらまた敵が出たようだぞ」

 さっきの悪霊の仲間だろうか、ヌラリヒョンさんは舞うように倒していく。『百鬼夜行』を見て思い知ったが、このひとはきっと八百万界でも有数の実力者だ。こんなひとが何人いるかは知らない。みんながみんな、ヌラリヒョンさんのように他人を守っているひとばかりでもないだろう。もしも、有力なひとたちを上手く配置出来たら、広い八百万界をカバー出来るかもしれない。

「ほら。ぼうっとしておるとつまずくぞ」

 私が考え付いた結論なんて、ヌラリヒョンさんならばとうに辿り着く程度のものだ。けれど、ヌラリヒョンさんは何故か動こうとはしない。飄々と笑顔を振りまくヌラリヒョンさんの事は、よく判らない。



 次の日。

「今日は一人で歩き回ってみたいと思います。ご飯は要りません。夜には戻るつもりですが、帰らなくても気にしないで下さい」

 初めての単独行動。何か言われるかと思ったが、ヌラリヒョンさんは「判った」とだけ言った。ある程度遠野を知った事だし心配無用と思っているのかもしれない。
 さて。

「お嬢ちゃん仙台に向かうのかい」
「はい。ちょっと用事があって。だから少しだけ荷台に乗せてください!」
「それは良いが……。あそこも突然戦いになるからね、気を付けるんだよ」
「ご忠告ありがとうございます!」

 私は今、荷馬車の荷台に揺られている。宿通りの方で旅商人に声をかけたのだ。これなら足のない私でも遠野を出られるだろう。それに何より、私は仙台への道を知らないので誰かの手を借りるしかないのだ。
 商人のおじさんには仙台の途中まで乗せてもらった。朝から乗って今はもう夕方だ。

「ここでお別れだ」
「はい。今日は一日ありがとうございました」

 小さくなる荷馬車を見ながら、私はうなだれてしまった。
 遠野から南下する最中におじさんに聞いたのだ。

「仙台までってあとどれくらいですか?」
「三日だな」
「みっ!?」

 今日一日で随分お尻が痛くなったというのに、まだ馬を使って二日もかかるのだ。土地勘のない私は遠野から仙台までの距離を舐め切っていた。これが東北新幹線だったら……盛岡から仙台まで「はやぶさ」を利用すれば一時間程度だろうか。文明って凄いなあ……がっくり。
 荷馬車のおじさんの好意で村に置いてもらったは良いが、路銀はゼロで人の家に上がり込む能力なんて持ち合わせていない。
 結局私は村を背にして自然が深い方へと向かって行った。少し寂しい気持ちになったのはお腹が減っているからかもしれない。
 本来なら、夕方に森へ入るなんて命知らずだ。でも私は、なんとなくどうしていいか判っていた。目を凝らせば生命が溢れている。生物は村にだけいるわけじゃない。

「水がある場所おーしえて」

 ほら、小さい何かが動いている。私は素直にそれを辿っていけば良い。私は力も知識もないからこそ、他人に頼っていくのが良い。頼り過ぎて迷惑と言うのであれば、沢山の人に頼って梯子すれば良い。
 こんな事、日本にいる時は考えた事も無かった。一人で頑張ろう、一人でなんでも出来るようになろうと考えていたので、他人を頼る事が己の不出来を認める事に繋がりとても辛かった。
 考えを変えられたのはヌラリヒョンさんのお陰だ。
 人から少しずつ力を借りて、自分も何かを返していく相互扶助の形を見た。私が他人に提供できるものが判れば、ヌラリヒョンさんの庇護下からも抜けられるだろう。自分一人で出来る事を増やすのは自立後で良い。

 人型ではない何かに、雨風凌げる洞窟を教えてもらった。食べ物は結局見つからなかったのは残念だが、今度誰かにどんな植物なら食べられるかよく教えてもらおう。
 外がすっかり暗くなり、夜目の利かない私は明日に備えて眠りにつ────けなかった。

 寒い!
 それに、さっきから草の擦れる音が気になる!

 動物だったら良いが、なんとなくその音には金属が触れ合う音が僅かに混じっているように聞こえる。
 金属音といえば勿論、悪霊だ。私は慎重に呼吸をする。今更だが悪霊を疑った時点で穴倉から出れば良かった。これでは入口に悪霊が現れたら詰みだ。
 がさがさと音が聞こえる。それにはやはり金属音が混ざっている。
 嫌だ嫌だと思いながら地に伏せて入口をじっと睨みつけた。真っ黒い大穴からは、同じく真っ黒い物もこちらを見ているように見えた。

「って、ヌラリヒョンさん!?」

 黒い物体(黒服マント)+金属ジャラジャラ(大鎧)は、悪霊以外にこんなに身近にいたとは盲点だった。

「どうしてここに?」

 遠野から一日馬を走らせてここまで来たのだ。ヌラリヒョンさんがひょいとこれるような場所ではない。当然の疑問をぶつけた。

「其方が出かけるというのでな、後ろから見守っていたのだよ」

 あの淡泊な「判った」には、「判った(勝手について行くから好きにするが良い)」という意味だったのか。何も言われなくて少し寂しいなんて思ってた事が恥ずかしい!

「それはそうと腹は減ってないか?」
「減……」

 素直に減っていると言って良いのやら。何の準備もなく勝手に遠出したのは私だ。それに自分で少しはやれる事を証明するにはここで手を借りるべきではない。

「ほれ。握り飯は梅と鮭だ」
「食べます!」

 八百万界にラップなんて便利なものがないので、おにぎりの中身は匂いでなんとなく判っていた。空腹時に美味しそうな匂いなんてさせられたら隷属する他ない。
 今日は朝以外食べていなかったので、はしたなくもガツガツ食べてしまった。

「ふー……満足した」

 指についた米を舐めとった。お腹が膨れると急に眠くなるが、ヌラリヒョンさんは許してくれなかった。

「……それで。其方は仙台へ行ってどうするつもりだったのだ」

 妖おじいさんには何もかもバレバレである。大人しく白状した。

「ダテマサムネさんに会いに行こうと思いました。遠野の人たちと協力する事は出来ないのかを聞きに。あとは人族をまとめる方が何考えているのか知りたくて」
「大方想像通りだな。其方は勢いが良いと言うか、無鉄砲と言うか、愚か者と言うか」

 自覚はある。だが少なくとも日本では、私はこんな性格ではなかった。
 普段はもっと保守的でクラスで流されてばかりいて、それが一番自分に合っていると思っている。引っ張るのも苦手で、和を乱すのも苦手な私は、いつも誰かの動きを見て追従する。良くも悪くも目立つのが嫌で空気でいたかった。
 なのに今日の私は、どうして。

「其方は何故そうひたむきになれるのだ。遠野の為か、儂の為か、それとも八百万界の為か」

 何の為だろう。

「儂らは知り合ったばかりだ。遠野も同じく。八百万界でさえ数日前に認知した。何故そうも入れ込む事が出来るのだ」

 判らない。

「……やらなきゃいけないって、気がするからです」

 衝動が突き動かす。

「信用ないとは思いますが、遠野の人にもヌラリヒョンさんにも迷惑をかけないようにします。遠野からは必ず出ていきますし、他所で遠野を貶めるような言動はしません。私は妖族じゃないけど、私を受け入れてくれた遠野はとても大事な場所だと思っているので」

 子供の甘ったれた言葉に、ヌラリヒョンさんは溜息を吐いた。

「……。其方はダテマサムネに会った後はどうする」
「判りませんが、悪霊に対抗する術を探します。他の場所にいる有力者にも声をかけていくのが良いと思います」
「小娘一人が行ったところで門前払いが関の山だ」
「そうかもしれません。でも、行動する必要はあると思います。私のことを何もできるはずがない子供と思うなら、猶更です」
「判らぬ。其方の行動原理は全く理解出来ぬ」
「判らなくてもいいです。とにかく私がやるべきと思った事をします。八百万界が消えない為に」
「大義を掲げるのは結構だが、其方一人で悪霊に出くわしたら夢半ばで野垂れ死ぬだけだ」
「そ、その辺はまあ……おいおい考えます」
「結論が出ぬ間に死ぬぞ」
「とにかく逃げます」
「囲まれたら」
「ええ……」

 判らない。無力な私の場合、出くわした時点で駄目なのでは。
 ヌラリヒョンさんを説得出来るだけの対策を考えるが、簡単には出てこない。

「……自分一人だけではどうにも出来ぬ時、どうするのか。其方が昨日言っていたではないか」

 ぽかんと口を開けて昨日の事を思い出した。

「……手を借りる。協力する?」
「其方が知る中におらぬのか。悪霊に対抗するだけの武力を持ち、特定種族に顔がきき、それなりに知識もあって、人の家に上がり込んで飯を食らう事が得意な者は」

 ……そんな珍妙なひと、該当者は一人だけに決まってるじゃん。

「その人、遠野を大切にしているんですけど、お願いしたら護衛について来てくれるんでしょうか」
「ならば試しに頼んでみてはどうだ?」
「ヌラリヒョンさん……私に着いてきて。そして一緒に八百万界を救う方法を考えて下さい!!」
「良いだろう。儂の力を貸してやる」

 え、冗談ではなくて?

「其方、固まってどうした。儂では不服か?」
「めめめめめ滅相もありません!! ヌラリヒョンさんがいれば百人力です! えと百鬼力? です!」

 ヌラリヒョンさんが来てくれるなんて願ってもないことだけど、私の世迷言についてくるなんて本当にいいの? 遠野の人に私怒られない? ヌラリヒョンさんをじーっと見るが「やっぱナシ」とは言ってこない。
 本当は頼ってはいけないと判っている。過ごす時間が長くなればその分私は甘え切ってしまうのが目に見えていて。それで最後には愛想を尽かされる。悪い癖だ。判ってる。でも、もう少しだけ。お願いします。

「ヌラリヒョンさんここまで来て下さったのはありがたいのですが、野宿するおつもりですか?」


 ◇


 時は遡り、身元不明の少女を草原で拾って四度目の夜。
 ヌラリヒョンは少女が寝付いた事を確認してから、手酌でゆっくりと呑んでいた。
 普段は茶を嗜むばかりで、殆ど飲酒はしなくなっていたがその夜は久しぶりに酒を口にしたい気分だった。

(独神を名乗るだけなら誰でも出来る。無知を装って混乱に陥れようと画策している可能性がある。当然信じる気は毛頭ない)

 仇なす者ならばすぐ斬れるように手元に置いていた。ただの法螺吹きなら本人が望む場所で生活させるつもりでいた。
 その考えを打ち砕いたのは、少女がに河童狛犬ごと斬られそうになった時の事。

(あの時、儂の刃は一歩届かなかった。悪霊の攻撃は見えぬ壁に阻まれ跳ね返された。儂が斬ったのはその後)

 違和感が大きくなっていた。少女から漂う力ある者の香しい匂いは次第に強くなっていく。少なくとも妖族は知覚出来てしまうだろう。腐り落ちる果実の様に甘ったるい匂いを。

(娘自身が自覚しておらぬが、あれはよく見ている、見えすぎている)

 縁側に座っている時もヌラリヒョンが判らない物を見ている時がある。どれだけ目を凝らしても見えない何かを感じ取っている。当人はヌラリヒョンにも見えている事を前提に話していて違和感に気づいたのだ。

(あれは、手の届く範囲において制御しておかなければなるまい)

 独神の名を口にする少女はただの法螺吹きと看過出来なくなった。災いを呼び込む可能性は捨てきれないが、放置して良いものでもない。

(悪霊はもとより、どの勢力にもあれは渡してはならぬ)


つづく





※※解説とあとがき※※
◆参考図書
・浦田穂一,写真 遠野物語,誠文堂新光社,1981.
・岩手県高等学校教育研究会地歴・公民部会歴史部会日本史部会,岩手県の歴史散歩,歴史散歩3,山川出版社,2006.
・斎藤健夫,岩手県,ふるさとの文化遺産 郷土資料辞典3,人文社,1998.
・高林淳一,NHK 日本映像の20世紀1 北海道・東北地方,都道府県別で100年の歴史がよくわかる,ポプラ社,2003.



・『写真 遠野物語』
 自分の中の遠野がそこにあって、写真集を読みながら感極まってしまった一冊。
 この中で「しかし、遠野は、私が来た十六年前とはだいぶ変わってしまいました。SLが走り、曲り家の集落があちこちに見られたころ」とあとがきにあり、私が思い描いた遠野は1981年の時点でも消えていこうとしていることが判ります。
 時代の流れではありますが、非常に残念に思います。ですから写真集は非常にありがたいです。
 この本にはオシラサマの写真もあり、とても禁忌っぽい雰囲気を感じられます(これがあの可愛い絵になるのか……)

 遠野は心象風景と化してしまい、本来の遠野とは違う世界が頭の中にあります。
 行った事もない場所へ想いを馳せすぎてしまって、私の遠野は幻覚。

・『岩手県の歴史散歩』
 みんな大好き山川出版社。日本史の授業で使った教科書の感じです。
 適度に写真と地図があってコラムがあって交通機関で何分かも書いてあって、文句なし。
 歴史散歩とあるので場所の説明ばかりです。文化や風俗は別の本を読んだ方が良いでしょう。
 学生時代からお世話になり続けている山川ありがとう。多分ずっと好き。

・『郷土資料辞典3 岩手県』
 こちらには岩手県全体の歴史もありますが、基本的に場所の説明。写真もしっかり掲載。これもアクセスがしっかり書かれていて良い。
 上記の歴史散歩とは少し取り上げているものが違うので、両方あるとより世界が広がる。

・『NHK 日本映像の20世紀 北海道・東北地方』
 こちらは現代の資料です。東北地方をそもそも知らないので最低限の知識を入れる為に読みました。
 西日本出身の私は東北を一塊と考えてしまうのですが、実際は奥羽山脈があり東と西で様子が違います。
 岩手県が常に食料に困っている記事に対し、秋田は米どころと紹介されていて、隣であっても大きく違うものだと知りました。


◆話の舞台-遠野-
・岩手県
 といっても、八百万界には岩手県は出てきません。
 ……本編を隅々までお読みの方はお気づきでしょうが「岩手」という言葉は第二部で出ています。
 しかしながら、本編第二部は地名の使い方がおかしいので、第二部の地域名は全無視します。

 岩手県のみ抽出しているので小さいと思われたでしょうが、盛岡藩も仙台藩も上下に領地が広がっています。
 盛岡藩は青森の東半分が領地。仙台藩は岩手県の気仙郡あたりから宮城県、そして福島県の一部が領地。
 詳しい方は疑問に思われたでしょうが「八戸藩」は私の話では考えないようにしています。
 1664年より前の事だと思って……。ふわっと……。

・遠野について
 三種族が混在して住んでいます。田舎ではありますが宿場町の為余所者慣れしていることでしょう。
 しかし、やはり田舎は田舎。特に東北というのは雪が多い地域で、そうなると人の行き来がなくなります。
 岩手県は北上高地の釜石と遠野の境にある仙人峠で遮られていた為、昭和十年代でさえ行き来が難しかったのです。
 となると地域で助け合って生きなければなりません。よって地域住民の結びつきが強い土地と考えます。

・L字型の家
 ……というのは、曲り家(まがりや)です。建築様式の一つで、母屋と馬屋が一体となっています。ヌラリヒョンは馬を飼っていない(=自分で世話をしない)だろうという偏見から、普通の家屋に住まわせました。

・河童狛犬
 曹洞宗の常堅寺の裏にカッパ淵と呼ばれる場所があります。カッパ狛犬は境内左手の十王堂前に鎮座しています。
 頭には円形のくぼみがあり、水が溜まるとカッパの皿のようになります。
 作中で、乳が出る話がありましたが、願掛けには赤い布で乳の形を作り、祠に納めるのが習いとされているそうです。
 これが動いたらワクワクしませんか? 私はワクワクするのでモブとして出しました。


◆八百万界について

・地名
 私たちが現在使っている都道府県は出てきません。
 地名は、多少時代が前後した呼び方になると思います。
 現実でもとっくに合併して名前が変わっているのに、言い慣れた昔の呼び方をする場合があるのと同じです。
 「イオン」に統一されたにも拘わらず「ジャスコ」と頑なに言い続けるやつ。
 八百万界は住民たちの寿命も大きく異なる為、余計に呼び方が統一されていないと思われます。それに中央政府もないので名称を統一する命令も出ませんし。
 (西暦○○○○年を舞台! ……という作品ではないので、全体的に緩く考えています)



・八百万界の住民
 三種族(人・神・妖)存在しているそうです。原作を読む限り、それは全て人型のように思えました。
 ですが、そんな事はないのではないかと思い、今回は人型ではない存在を話の中で出しました。
 本編のテンカイ関連の話、アメフリコゾウの話で、「龍神」という明らかに人型ではない超生命体がいるのだから、反対にもっと弱い生命がいたって良いでしょう。

 虫や魚や動物は別枠で種族に属さないものとして書かれていた……というより、何も言っていなかったのですが、神の使いと言われる馬がいてもおかしくないし、怪魚として恐れられていると妖系魚がいたって良いと思いました。

 「ジャーカタ」(前世の物語)にある、兎が「自分を食べてくれ」と言って、自ら火の中に飛び込む話のように、言葉でやり取りできる動物が目の前で死んでいく事だってあるんじゃないですかね。狩られる時、きっと悲痛な声で人語を叫ぶんでしょうね。

・人々の生活について
 原作では一度も言及されませんでしたので、勝手に想像、捏造。
 地域によって時代が大きく異なり、ステレオタイプの田舎から、現代に少し近い田舎まであると思います。
 服装についても、あれだけ英傑たちが洋装なのだから、民衆の間でも和装と洋装が混在しているはず。
 でないと、戦いで服が破れた時、とりあえず買うという事も出来ませんし。

・時間
 八百万界は不定時法です。一日を昼と夜に分けて等分する方法で「一刻」「夜の九ツ」等と言う。
 判り辛いと思うので、作中ではあまり時刻の事を言わず「ふわっ」としておきます。

・電気
 八百万界に電気はない。
 にゃにゃらんどではトールの雷を動力にして動いていましたね。でもあれはあの時だけの事だと思いますので、八百万界は普段電気ナシ生活を送っている説を推します。
 「電気がないのにどうやって?」という事象が色々起こりそうだとは察していたので、今回はエネルギーの話題を入れました(一日目の夜)

 電気のない八百万界は、界力を動力にする絡繰りがあったりするのではないのかな……と想像します。
 妖力なり神の通力なり霊力なり界力なり……あの世界には色々なエネルギーがあると思います。



・「人」について
 私たちが八百万界の物語の中で「一人」の表記を見ると、一名の人族と読むかもしれません。
 ヌラリヒョンを一人と表現する事は誤りであると考える方もいらっしゃるでしょう。

 現実世界では「一人」と言えば「人間」が一個です。人間しかいないのでそうでしょう。
 しかし八百万界は三種族混合の世界なので、「一人」と言えば「妖か人か神の中のどれか」が一個と考える可能性もあり得るのではないでしょうか。

・モブ
 原作にない、名前の付いた人物が登場しましたが、あれらは基本的に使い捨てモブです。
 カブトボーグの使い捨てヒロインくらい、覚えなくて良いものです。
 メインは独神と英傑なので、モブに重要な役を与える事は一切ありません。あくまで群衆です。
 しかしながら独神と英傑以外にも色々なひとがあの世界で生きている事を表現したいが故に、モブも動くし言葉を発します。



(2021.04.08)