二度目の夜を駆ける 二話-仙台-


「儂は暫く遠野を離れようと思う」

 ヌラリヒョンさんの言葉に遠野の人たちの表情は強張り、波紋が広がっていった。
 昨日一人で遠野を飛び出した私を追いかけてくれたヌラリヒョンさんは、洞穴で夜を明かした……事はなく、「この歳で野宿は身体に堪える」と言って私の袖を引き真っ暗な山中を下って村の手ごろな家に上がり込んだ。本当の知り合いなのか能力によるものなのか判別がつかぬまま、出してもらった二人分の蒲団でぬくぬくと寝た。そのまま馬も借りて夕方に遠野に戻ると近所の方々を集めて、先程の宣告を下したのだ。
 村人の一人が言った。

「お聞かせ下さい。何故ここを去るのでしょうか……貴方様の意にそぐわぬ行いをしたならばどんな償いでも致しますので。どうか……」

 自死でも行いそうな蒼白な顔をする村人をヌラリヒョンさんは笑い飛ばした。

「はっはっはっ。違う違う。そのような意味ではないよ。ただの散歩だ。少し他所の様子を見てみたくてな。いくら宿場町とは言え、遠野の地に入る情報には限界がある。直接調べたい事も増えてきたところさ」

 一時的な外出と知りほっと胸を撫で下ろす村民たちを見て、私は一層このひとが怖くなった。
 八百万界は三種族がまだまだ対立しているというのに、遠野に限れば人族も神族も彼に追従する。彼がいれば外敵から守られ、こんな世でも平和に暮らせるのだ。遠野の民の安泰の象徴である彼を、私はこれから連れ去る。

「ついでにその娘に八百万界を見せてくる。旅の道連れにな」

 村民の視線が次々と集まり私は身構えた。罵倒を大人しく受けることが私に出来る事だ。村人の一人が私に近づいて両肩に肩を置いた。

「いいかい。ヌラリヒョン様に甘味を食べ過ぎないよう見ていておくれ」
「決して無理をなさらぬように見張っているのだぞ」
「妖様に選ばれたというのは光栄な事だ。しっかり供をするようにな」
「ま、適当で大丈夫大丈夫。ヌラリヒョンさんならどうとでもなるから」
「あんたは決して無理せず、困った事は何でもヌラリヒョン殿に報告して助けを乞うように」

 遠野の人たちが私に浴びせたのは罵倒ではなく、心配や激励の言葉ばかりで私は戸惑うばかりだった。本当はどう思っているのだろうかと探る間も、彼らは私の旅支度に必要な物を集めるように呼び掛けていて、流石の私も素直に言葉を受け入れる気になれた。
 遠野の人たちは何故こうも優しいのだろう。迷い込んだ先がここで本当に良かった。

「ヌラリヒョンさんの供としてしっかり働きます。そして必ずこの地に戻ってきます」

 眼前に広がる笑顔と応援の声に私は不思議と泣きそうになった。私は日本にいてこんなに多くの人に笑顔を向けてもらった事があるだろうか。





「カッパ留守は任せたぞ」

 村人が甲斐甲斐しく旅支度を整えてくれている間に、ヌラリヒョンさんは河童淵へと足を運んだ。河童淵とは河童狛犬さんに川へ引きずり込まれたあの場所である。

「ヌラリヒョン様はしつこいですね……判ってますって。オシラサマもいますし大丈夫ですよ」
「オシラサマが見当たらなんだが知らぬか」
「今、馬の出産に立ち会っているらしいので伝言なら聞きますよ」
「いや良い。あれはしっかり者だからな。儂がとやかく言わずとも必ずや成すだろう」
「……それ、私がしっかりしてないって聞こえるんですけど」
「ではな」
「ちょっと!」

 ヌラリヒョンさんがわざわざ頼むくらいだから、カッパさんはきっと強いひとなのだろう。しっかりと戦いぶりを見たわけでは無いが、悪霊相手にも引けをとっていなかったように思う。
 そして初めて聞くオシラサマとはどんな方なのだろう。綺麗な方なのかな、それとも怖い方だったりして。オシラサマについて想像を巡らせているとカッパさんが私に声をかけた。

「君も。道中気を付けて下さいよ。……なんか変なのに食べられたりとか尻子玉抜かれたりとか」
「ご忠告有難う御座います。カッパさんもお元気で」
「じゃあ、お土産宜しく!」

 歯をむき出してニカッと笑うカッパさんに私もつられて頬が上がっていく。初対面はドタバタとしていてまともな会話は今日が初めてだが、長年の友人のような気安さで不思議と嫌な感じはしなかった。寧ろ私みたいなのを受け入れてくれたことが嬉しかった。
 私たちが家に戻ると馬車でも運びきれないような大荷物が用意されていて村人たちの心配がよく表れていた。

「旅なんぞ最低限で事足りる。身一つでも構わぬというのに」

 子供のお遣いでもあるまいしと、ヌラリヒョンさんは呆れる。

「いいえ、これはこちらのお嬢さんの為のものです。年頃の娘は物入りですから」
「まさかとは思うが、それを儂に持たせるのか」
「当然です。ヌラリヒョンさんの方が力がありますので」
「むう」

 慕われているわりにこんなに軽いやり取りが成り立つのは、ヌラリヒョンさんが権力を振りかざすようなひとではなく、その辺にいるおじいちゃんだからだろう。そんなひとに重い荷物を持たせるわけにはいかないので、私は荷物を精査して仕分ける事にした。
 着替えは一回分を使い回し。針と糸はあった方が良さそう。ひょうたん……ってこれ水筒かな。多分必要。火打ち道具は必須。提灯や蝋燭は多分いる。
 食糧は何日分?
 傘は?
 櫛は? 
 シミュレーションを繰り返すと心配になってなんでも必要に見えてしまう。

「村に辿り着けさえすれば飯も宿も困る事はない。心配などいらぬよ」
「あはは、そうですね……」

 地味だとは言ったが、タダ飯タダ宿がどこでも得られる能力はこの世界において最上級のギフトなのかもしれない。私もあれこれ心配する事は止めて切り上げた。
 それに一緒にいてくれるのはヌラリヒョンさんだ。この地に迷い込んだ私をずっと面倒見てくれたひと。怪しさの塊のような私相手にごく普通のコミュニケーションを行い、当たり前の日常を与えてくれる。優しくて強くて尊敬出来るこのひとといて、出来ない事なんてきっとない。







 次の日、遠野を出立する日。
 私は八百万界に来た時に着ていたジャージと中にはTシャツを着ている。動きやすくてよく乾くのが一番。勿論着物一式も持っていて他の荷物と共に背負っている。

「さあ行こうか。其方と儂の二人だからな。大きい馬を頼んでおいた」

 車や電車のない八百万界では馬が一番身近で速い乗り物だ。

「って、大きすぎませんか!?」

 普通の馬の二倍はある。まず背中に乗るにも手足が届かないでしょ……って鞍から縄が垂れ下がっている。これで登れと言うのね。

「大馬と言う妖馬だ。身体も倍だが気性の粗さも倍。気をつけねば喰わ」

 生暖かい舌が私の頬を舐めた。

「!!」

 悲鳴が出ない。だってべちょって。べちょって!!

「ははっ。良かったなあ、気に入られて」
「味見の意味で!?」
「そのつもりなら其方の頭は既に胃袋の中だ」

 わざわざ馬が私の前で口を開けてくれた。
 うげーーー。
 人間より立派な前歯が十本ほどあり、途中歯茎のみのスペースが続いて奥には臼歯がみっしりと。馬って草食だよね。こんなに立派なんだっけ。確かにこれなら人体を噛み千切れるだろうが勘弁願いたい。

「く、口はもう見たよ。閉じて良いよ……」

 大馬は私の言葉を理解しているようで言われた通りに口を閉じてくれた。なのに私の顔から口が離れない。ヌラリヒョンさんに助けを乞おうとすると、「やはりか」と呟いたように聞こえた。聞き返そうと思ったらまた舐められて、今度は耳の穴にまで来て────。

「いやああああ!!」
「はっはっはっ」





「……」

 私たちは遠野を離れ、大馬の背に二人で乗っている。

「すまなんだ。まさか泣くほどとは」

 ねちょ。
 まだ耳の中に馬の唾液が残っている気がする。舐めるだけでも気持ち悪かったのに、最後は頭を丸ごと食べられたのだ。生暖かい生肉が額や頬や鼻や唇にぴったりとくっつく感覚には寒気がした。息が出来なくて、馬の吐く息を吸うしかなく、私は……私は……うっ……思い出すと身体が震えだす。
 大馬も私の絶叫と大泣きのコンボですっかりしょげてしまった。彼に悪気はなく、じゃれ合いのつもりだったらしいのだがあまりの生理的嫌悪に私は耐え切れなかった。
 まさか村総出で見送られる中、あんなにかっこ悪い姿を晒す羽目になるとは幸先が悪い。

「もう怒ってないって。今のは頭を洗った川の水が冷たかっただけだよ」

 と、慰めておく。
 妖族というものはよく判らない。
 一般常識は日本と異なるものが多く、何よりも倫理観のズレが大きく犯罪行為も平気で行うのは慣れない。八百万界に中央政府がないのならば法律もないのだろうかと、私は今更疑問を抱いた。

「ヌラリヒョンさん! 八百万界に法律や犯罪って概念ありますか?」

 一瞬間が空いて、ヌラリヒョンさんが答える。

「当然だ。しかし地域によって異なる故に其方は特に気を付けるのだぞ。郷に入らば郷に従え。儂の知る中ではとある時期に右足から家屋に入らなかっただけで不敬とされ切り捨てられた者がいたな」
「そんなの無理ですよぉ! 絶対死にます!」
「はっはっはっ。だから儂がいる」

 さっすが。頼れるおじいちゃん!

「斬られる前に斬れば良いのだ」

 脳筋だああああああぁぁぁぁぁぁ!!

「悪霊もそうだが、命のやり取りは一瞬で決まる。迷う暇などないのだ」

 言い切る姿に私はすっと頭が冷えていった。
 私には判らない感覚。
 日本の殺人や強盗の発生率は諸外国に比べて断然低い。私でなくとも凶悪犯罪への危機感は薄いだろう。
 だが八百万界ではそうはいかない。海からの侵略者である悪霊を警戒し、他種族の動向にも常に気を配らなければならない。落とした財布が中身入りで戻ってくるような日本に住んでいた現代人にそんな感覚判るはずない。……判りたくもない。

「其方にもう少し警戒心があればな……」

 苦言を零されてしまった。

「其方の持ち味なのか、無知故かよく判らぬがな」

 笑われてしまった。

「なんだか面目ないです……」

 でもどうしようもないじゃん。八百万界こっちの人間じゃないのに。







 大馬に乗っての旅は何の事件もなく穏やかに一日を終えた。座っているだけで景色が風のように流れていくことに興奮したのは最初だけで、早々に飽きてしまった私は眠くてしょうがなかった。ヌラリヒョンさんは私が眠っても落馬しないようにと、私の身体を自身と馬に括りつけてくれていたが、二人が働く中眠るのは良心が痛むので必死に眠気を堪えていた。
 それでも馬上で結構寝てしまったが……申し訳ない。

「お疲れ様。沢山走ってくれてありがとう」

 大馬に礼を言うと頭を私の目の前まで下げるので、額から鼻筋の方へと撫でてやった。くりっとした目を細めて私の顔や肩に顔を摺り寄せてくる。地面を掻いている前足を警戒しながらしっかりと顔や首を撫でていった。ぬちゃぬちゃ事件の前科があるが、なつかれるとやはり可愛く思えるものだ。それに丸一日お尻や太ももで感じ続けた私たちは他人ではない。と言うと何を言っているのかと呆れられるかもしれないが、車と違って馬は乗り手と乗り物が一つと化す感覚が確かにあったのだ。

「其方も遠乗りで疲れたろう。見張りは儂と大馬で行うから其方は適当な所で寝ると良い」

 周囲を見渡すがただの森である。固い地面しかない中どこでどう寝ればいいのやら。荷物の中から身体を覆える大きさの一枚の布を取り出しながらぼんやり考えていると、背後で動物の鼻息が聞こえる。嫌な予感がしながらも布を取り終えた鞄を閉じると上着が引っ張られた。

「これ、娘は自由にさせてやれ」

 とヌラリヒョンさんは言うのだが、大馬は私の服を離さない。ヌラリヒョンさんは大きな溜息を吐いた。

「はあ。気に入っているとは判っていたが。いい加減にしておかねば儂にも考えがあるぞ」
「いえ、大丈夫です。多分寝られるだろうし……」

 ここまで主張しているのだ。応えてあげるべきだろう。それに動物と一緒の方が温かいだろうし。大馬は声をあげて喜ぶと、地面に横たえ私を腹の方へと誘導した。筋肉質で硬いが地面よりは断然快適である。私は馬に寄りかかって良い位置を探してごろごろしているとすぐに寝てしまった。
 寝ている間に食べられる事を恐れていたが朝まで五体満足だった。馬の頭があったであろう地面によだれの池が出来ていたのは気になったが。ほんと言うと顔が若干馬くさいけど、きっと気のせいだ。川で念入りに洗っておこう。

「其方は動物が好きか」
「まあ人並みに。特別好きなわけでは……す、スキスキ! オウマサンダイスキダヨ」

 なんでこの馬は私に熱視線を。ヌラリヒョンさんは首を傾げるが私にも心当たりがない。

「仙台まであとどれくらいでしょう」
「この調子なら二日もかからぬ。だが少し寄り道をするつもりだ」
「判りました」

 仙台に着くのならば寄り道をいくらしようと構わない。私たちは持ってきた食料で手早く朝食を済ませてすぐに出立した。
 遠野から森ばかりを走っていたが、左手の緑が薄くなりやがて青へと変色した。

「ヌラリヒョンさん! 海ですよ!」
「ああ。海だな」

 ほんのりとヌラリヒョンさんの声が明るく聞こえる。私と同じように心を躍らせている事が嬉しかった。
 現在は宮城県あたりを走っているはずだからこの海は太平洋だ。本来なら水平線が広がり海と空以外は何もないはずだがここはいくつもの島が海に浮かんでいる。八百万界は工業化していない世界だからか、日本の海や空よりもずっと澄んで見える。砂浜も太陽に照らされて金色に輝いていて本当に綺麗だ。自然がこんなに美しくて見とれてしまうなんて、初めての経験かもしれない。
 砂浜に人影が見えた。まだ寒い時期なので泳ぐことはないだろうが、この景色を眺めに来ているのかも……。
 !?

「ヌラリヒョンさん止めて! 砂浜で人が倒れた!」
「大馬、進路を海へ」

 大馬が大きく跳躍し五メートルほど飛び降りると、私は自分を縛っていた縄を外し大馬が止まる前に飛び降りて駆け寄った。倒れていたのは老人で男性のように見える。思わず揺り動かしたくなったが、一度呼吸をして気持ちを落ち着けるとはっきりとした声で呼びかけた。

「大丈夫ですか」

 ごろんと老人は自分で仰向けになり、「はぁあ?」と大声で不服そうな声をあげた。私は驚いて砂浜に尻もちをついた。

「大丈夫に決まってんだろ! 俺がそんな弱っちいもんに見えんのか!」

 倒れたばかりの老人とは思えない声量で私を怒鳴り散らす。私もまさか怒らせてしまうとは思わず、全身の血が一気に抜けていく。指先が凍り付いたように動かない。

「すみません……」

 何が悪いか判らないが、謝らなければならないのは確かだ。だが恐怖で掠れた声しか出なかった。

「ったく、不敬にも程があんだろうよ。最近の奴は特に俺を適当にしくさりやがって」

 すみませんと呟いて何度も頭を下げたのだが、老人の怒りは止みそうになかった。そんな私を見かねたヌラリヒョンさんが駆け寄ってきて私を自分の後ろへと押し込んだ。

鹽土老翁神しおつちおじのかみともあろう者が子供に八つ当たりとは感心せぬな」

 ────しおつちおじのかみ。
 神様らしい彼は標的をヌラリヒョンに変えて憤慨する。

「余計な事したのはそっちじゃねぇか」
「善意を余計なものと切り捨てるようでは神の器が知れるぞ」
「俺を敬いもしねぇ人間なんぞ興味ねぇよ」

 私のせいで言い争う二人に両親の姿が重なり、私はヌラリヒョンさんの前に出て大きく頭を下げた。

「本当にすみません! 倒れたから神とか人とか関係なく助けなきゃって思って。馬鹿にしたつもりはなかったんです。すみません!」

 すみませんと繰り返す。私は諫める言葉を知らない。だからいつも、ごめんなさいとすみませんを繰り返す。
 何が悪いか判っていないくせに。
 この場から逃げたいだけでしょ。
 よくそんな事を言われるが、馬鹿な私はやっぱりどうしていいか判らず、何かあったら馬鹿の一つ覚えで謝罪を繰り返す。

「うるせぇ!」

 怒号が私の口を瞬時に閉めた。

「……もう謝んな。後ろの妖馬が俺のこと今にも食い殺そうな目で見やがるから」

 振り返ってみると大馬は背中と尻尾の毛を逆立てていた。肉食獣の様な低い唸り声をあげて今にも飛び掛かりそうだ。私は慌てて大馬を撫で諫めた。

「駄目だよ。私が悪かっただけなんだから落ち着いて」

 繰り返し身体を撫で、気を落ち着かせてやる。頭を下げてきたら頭を撫でてやって大丈夫だからと耳元で繰り返し伝えた。本当に良いのかと、大馬が聞いたような気がしたので「大丈夫だよ。ありがとう」と言った。

「ま、さっきの事は多少俺が悪いって認めてやるよ」

 きっと虫の居所が悪かったのだ。そう言い聞かせてもう一度頭を下げると鹽土老翁神しおつちおじのかみさんからは離れた。ヌラリヒョンさんが私の袖をくいくいと引いた。

「少し海を眺めぬか」

 怒られたばかりでそんな気分には到底なれなかったが頷いた。ヌラリヒョンさんの提案にケチをつけたくはない。ヌラリヒョンさんに引かれ、寄せては引いていく波打ち際の所まで来た。

「う」

 日本には絶対にいなささそうな人面蟹やキメラのような魚が浅瀬には沢山いた。普通の生物まで奇怪だなここは。

「怖いか」
「正直……はい」

 すると小さくヌラリヒョンさんは笑って説明してくれた。

「これらはな、悪霊が来るまではいなかったものだ」

 外来種と言う事だろうか。だとすると悪霊のいる世界は随分グロテスクに違いない。

「ヌラリヒョンさんは私にこれを見せに……?」
「とんでもない。見せたかったのはこの景色さ」

 ヌラリヒョンさんが見つめている先はこの海だった。青い海に浮かぶ緑の島々が浮かんだこの景色。

「儂は満月の日の景色が好きなのだが、生憎まだ先なのでな。それでも普段も美しいこの海を其方と見たかった」

 ────ドクン。
 心臓が一つ跳ねた。
 美しいと語るその海をバックに微笑むヌラリヒョンさんが綺麗で。
 だが私は頭を振って雑念を振り払っていく。ヌラリヒョンさんは単に物知らずの私に教えてくれようとしただけで他意はない。一切ない。

「……綺麗ですね、とても」

 動揺を悟られないように凡庸な感想を言った。

「そうだな。美しい景色だ」

 ふふっと笑うヌラリヒョンさんの真意は判らない。妙に早くなったこの心臓が知られていなければ良いけど。

「俺の目の前でイチャついてんじゃねぇ!」
「痛っ!」

 背中の痛みでつんのめってしまった。今、蹴ったな!?

「あんたちょっと来い」
「へあっ!?」

 鹽土老翁神しおつちおじのかみという名のおじいさん神様は私の腕をひっつかむとそのまま海へとズカズカ入っていった。足が濡れちゃうじゃんと危惧したのだが、

「あれ、水面に浮いてる……?」
「潮流を司る神なんだからおかしくねぇだろ」

 さらっと教えてくれてたが、そうかこのひとは海の神様だったんだ。

「陸から見ただけで松島が知れるかよ。綺麗ってんならちゃんと見てから言え」

 ただ立っているだけなのにジェットスキーのように水面を高速で滑っていく。砂浜にはヌラリヒョンさんと大馬が残っていてどんどん小さくなっていく。

「ちゃんとあいつには返してやるよ。今は忘れろ」

 強引だ。だが多分掴まれている時点で私にはどうする事も出来ない。ヌラリヒョンさんたちには悪いけど少しだけ待っていて下さい。
 でもどうしてこんなことに。眉を吊り上げて唾を飛ばしながら怒鳴ったひとと二人きりなんて最悪だ。沈黙が怖くて私は恐る恐る質問をした。

「あの、どうしてこんなに島があるんですか」
「ここらは元々陸地だ。それが海面の上昇や下降で今はこうなってる。また海が動けば島も増減する」

 あまりに普通過ぎる回答にびっくりした。もっと神様的パワーどーんとか思ってたのに。

「なんか馬鹿にしてねぇか?」
「全くしておりません」

 私は即座に否定した。出来るだけ怒らせないようにしなければ。
 本来ならば舟を使わなければならないのに海上を自分の足で移動しているのは不思議な心地である。真上からは魚や海藻の動きがよく見えて水族館のようだ。水族館が海を模倣しているので逆だけど。
 あーあ、ここにヌラリヒョンさんがいたら楽しかったろうに……。

鹽土老翁神しおつちおじのかみ様。お散歩ですか」

 積み荷を乗せた小舟が近づいてきて、船頭が声をかけてきた。鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは「そんなもんだ」とぶっきらぼうに返答するだけで終わった。このひとは私以外にも冷たい態度なんだな。

「あいつらはずっと俺を信仰し続けている。熱心な奴らのお陰で俺もまだこうやって海で自由にやれるんだから……まぁ……アレだよな」

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんがようやく表情を和らげて私はほっとした。偏屈おじいさんでもこんなところはあるんだな。アレなんて言わず、感謝していると素直に言えば良いのに。

「お嬢ちゃんはなんだ。何故ヌラリヒョンなんかといる」

 なんかって……。しかも唐突だな。

「ヌラリヒョンさんは私の我儘に付き合ってくれているだけです。変な意味なんてないです」
「どうだかな」

 いちいち嫌な言い方をするひとだ。私は負けじと言い返す。

「ヌラリヒョンさんは有名な妖かもしれないけど、一緒に八百万界を救う方法を考えてくれてるんです! 今だって悪霊をどうにかする為に仙台に行く最中なんですから」

 どうだ。これで文句は言えまい。
 だが、鹽土老翁神しおつちおじのかみさんはぽかんとしていた。

「……最近の遠野はそういうのが流行ってんのか?」
「冗談じゃないですよ! 本気です!」

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは胡散臭そうに見てくる。そんなに嘘くさいのかな。自分の住む世界を救うと思う事がそんなにおかしい事なの。種族や地域で連携を取らないことも疑問だったけど、なんだかここの人たちって世界の崩壊を他人事のように思っていて、当事者意識が薄いのが気になる。

「滅びたって良いじゃねぇか」

 あまりに意外な言葉で聞き違いかと思った。

「滅びるって事は、八百万界が存在する理由を失ったってことだろ。本当にまだこの世界が必要なら、必ず希望ってやつがどこかに産まれてる」

 救世主と言われる独神はきっとどこかで産まれてる!
 独神を名乗らされた私がいるんだから、本物は八百万界にいる!
 ……と言いたい。
 だが私は気持ちを落ち着けて、“独神”の言葉を仕舞った。むやみやたらに振り回してはいけない言葉なのはヌラリヒョンさんの反応から察せられる。

「誰が足掻いたって良いじゃないですか。決められた人しか救っちゃいけないなんて決まりはないですよ」

 偽物の私は偽物にしか出来ないことをするつもりだ。幸いヌラリヒョンさんという理解者が傍にいてくれる。きっと出来るはずだ。
「変な奴だな」と言って、鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは黙ってしまった。気まずくはあったが松島の景色を見ていればその気持ちも潮に流されていく。

「本当にこの松島という土地は綺麗ですね。鹽土老翁神しおつちおじのかみさんはずっとここにいる神様なんですか?」

 答えはない。期待していたわけではなかったからいいけど。

「なあ、お嬢ちゃん」

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは足を止めた。

「俺は……監視されてたんだ、この地で。タケミカヅチとフツヌシにな」
「どうして?」
「それだけ俺が脅威だったんだろうよ。なにせ俺は航海の神でもある。風を知り、潮を知り、天候を知り、そういった自然の何もかもを俺は知っている。そういう奴には目を光らせておかねぇと余計な奴に知識を与えかねねぇ。だから武神共に見張らせた。それが世間じゃ俺が先導して平定の傍ら国土開発に尽くした。なんぞ言われているなんて、脱力しちまうよな」

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは鼻で笑った。

「俺はやる気のねぇ神でいなきゃならねぇ。俺を恐れる同族がまたこの地にやってきて海や人に手出ししねぇようにな。そのせいで随分信仰も減った。お陰でこんなヨボヨボな身体になっちまった。それでも困らなかったんだがな。あの時までは」

 白い鳥が鳴いた。島から島へと飛んでいくのだろう。私は聞き返した。

「あの時って……?」
「悪霊の舟がここにも来たんだよ。そして俺は止められなかった」

 私の腕を握る力が強くなった。老人とは思えない力がじわじわと締め付け、やがて溜息と共に緩んだ。

「まぁ、俺に力があったからと言ってあの規模のもんは止められなかったろうけどよ」

 後悔が聞こえる。嫌な音だ。油を枯らした金属みたいにキィキィと耳を掻く。

「それでもこの海は綺麗か」

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんの問いに私は迷わず肯定した。

「とても綺麗な海です。三景の名に相応しい見事なものです」
「なんだそりゃ。俺の許可なく三景なんぞに入れやがって」

 そう言うわりには顔が緩んでいた。
 松島は十分綺麗に見える。が、注視すると不自然な形の島がいくつかある。浜辺でヌラリヒョンさんが言っていた外来種についても、見た目が怖いし、いない方がずっと美しいだろう。鹽土老翁神しおつちおじのかみさんが知る、過去の松島はどんなものだったのだろう。

「ついでだ、もう少し付き合え」

 今度はひたひたと海面を歩いて陸地の方を指さす。

「うちの神社には潮水が入った塩竃が四つある。こいつは何かある時には色が変わるんだ。悪霊襲来の時も二つ色が変わった。それが最近四つの塩竃全ての色が変わった」
 単純に考えて、悪霊襲来よりも大きな事件が起きようとしている予言だろう。

「俺はそれを八百万界崩壊ととった」

 ああ……。

「数百年生きた俺がそう遠くない未来で界ごと沈んじまう実感がなくてな。多くの智を持つ俺でも自分の滅びの瞬間までは知らねぇ。死んだふりしてみても、ふりでしかねぇしな」

 浜辺で倒れてたのはもしかして“死んだふり”だったのだろうか。

「……あの、私って恥ずかしい時に見てしまったんでしょうか」
「そうだよ!! よりによってなんであんな時に見てやがんだよ!」
「ごめんなさい!!」

 助けた程度であれほど怒り狂えるのが不思議だったが、まさか照れ隠しだったとは。同情はするけどあんなに怒鳴り散らすのはどうかと思うよ……。
 胸の内だけで文句を吐いていると、鹽土老翁神しおつちおじのかみさんはふと自問を零す。

「なんで俺はあんたにこんな話しちまったのか。こんなどうでもいい事」

 海から波が消えた。鏡のような水面に鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは危なげなく立っている。 
 自身の弱体化のせいで上陸を許したという後悔が鹽土老翁神しおつちおじのかみさんの中には存在している。私はこの地の事は判らないがきっと侵攻を食い止められなかった鹽土老翁神しおつちおじのかみさんが責められる事もあっただろう。それになにより美しいと誇る海が侵された原因が自分にある事を許せるはずがない。

「……そろそろ浜に帰るか。妖どもも飽きてるだろうしな」

 風が髪を揺らすと海面に波が産まれた。
 そういえば、大馬とヌラリヒョンさんのことすっかり忘れてた。

「ほれ、お嬢ちゃんにこれやるよ」

 握りこぶし大の無色透明な鉱石を胸に押し付けられた。

「ありがとうございます。水晶みたいですがこれってなんです?」
「はぁ? どこをどう見ても塩だろ」
「え。こんなに大きいのに!?」
「ほんと物を知らねぇな」

 吐き捨てるように言う。傷つくからもう少し言い方をですね……。

「ただの塩じゃねぇ。鹽土老翁神しおつちおじのかみが手づから作った塩だ」

 ああ、だからそんなに得意げに言うのか。

「手作りなんて凄いですね!」
「判ってねぇんだよその顔……」

 なんで。

「まあお守り代わりに持っとけ。そのうち役に立つだろうよ」
「ありがとうございます」

 この大きさならかなりもつだろう。何の料理にかけようかと考えていると、鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは念を押した。

「これはあんたが使え。くれぐれもあの爺なんかにやるなよ」

 自分もおじいさんじゃん。見た目はヌラリヒョンさんの方が断然若いのに。でもこんなに綺麗な塩の結晶をくれてありがとうございます。





「塩……!? 鹽土老翁神しおつちおじのかみのものか」

 貰った塩の塊をヌラリヒョンに見せると声を上ずらせて驚いていた。

「そうですけど何が凄い事なんですか?」

 口を開いたがヌラリヒョンさんはふふと笑った。

「……いや、其方は知らぬままで良い。だからこそくれてやる気になったのだろうからな」

 巨大ではあるがただの塩なのに。俄かには信じがたい。

「じゃあさっそく魚でも焼いてこの塩使ってみましょう。きっと美味しいんですよね!」

 ヌラリヒョンさんは眉を一跳ねさせて慌てて制止した。

「ならぬ。本当に必要になった時にな」
「焼き魚に塩なしなんですか!?」

 別れたはずの鹽土老翁神しおつちおじのかみさんがズカズカと血相を変えてやってきた。

「俺の塩で魚食うだと!? 信じらんねぇ……。けどそれが本来の在り様か」

 袂をごそごそと探ると小袋をくれた。

「ほれ、料理用こっちをやるよ。好きなもの食いな」
「やった。ありがとうございます!」

 貰った小袋をヌラリヒョンさんに見せると柔和な笑みを浮かべて頷いてくれた。







 ────仙台
 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんと別れてすぐだった。ダテマサムネの居城である仙台城がある場所は。
 青葉山頂に建てられた山城は自然の天険を利用した堅固なもので、いかにも戦闘の為の城であた。
 城下町の賑わいは遠野とは比べ物にならないくらい華やかで喧噪が懐かしかった。日本に戻れなくなって数日しか経っていないのに、数年も離れていたような寂寥感が胸に広がる。私がぼんやりとしていると、ヌラリヒョンさんは大馬のくつわを外していた。大馬は軽くなった頭部をぶんぶんと振っている。どうしたのだろう。

「さて大馬よ。数日世話になったな。もう戻って良いぞ」

 私は驚いて尋ねた。

「ヌラリヒョンさんどうし、」

 質問中の私を大馬が強引に引っぱったせいでバランスを崩してしまった。よろける私に向けてヌラリヒョンさんの剣が光る。

「約束を果たしてもらう」

 ぶるりと震えて鳥肌がたった。ヌラリヒョンさんの瞳が黄色に染まろうとしていて、それは月の満ち欠けのようにヌラリヒョンさんの別の面が現れようとしていた。

「何度も言わせるでない」

 剣を傾けると昼間と言うのに辺りが少し暗くなっていく。身体を毛虫が這うような感覚が強くなっていき、笑い声がそこら中から聞こえる。百鬼夜行の日を思い出す。
 何分かの睨み合いの末、大馬は私を放して森の中へと駆けて行った。ヌラリヒョンさんもそれを見届けて剣を下ろす。

「すまなかった。怖かっただろう」

 もう瞳の中は薄藤色が占めていて、柔らかな目元で私を見ていた。
 剣を突きつけられるのは二度目だ。一度目は河童淵で、二度目はここで。
 ヌラリヒョンさんは二度とも私の為に剣を抜いた。

「大馬は私たちの為に働いてくれました。お別れの必要があっても剣まで抜くのは……やりすぎのように思います」
「だがあのままでは其方が連れ去られていた」

 そんな気はしていた。私は気に入られているようだったから離れたくなかったのだろう。

「彼奴は其方をつがいにするつもりだった。其方が寝入った後は嫉妬で儂を夜通し威嚇しておったくらいだ。だが儂も看過は出来ぬ。大馬は番にした者を喰らった生命力で子を成すからな……」

 そっち!? しかも食べるの!?

「其方には儂だけがつく方が安全やもしれぬ」

 八百万界に来てから懐かれる事が多い気がする。遠野の馬も、一つ目の妖も、目を凝らしたら見えてくる小さな生き物たちも、大馬も、初対面の私に何故か好意的だった。好かれる事は当然嫌ではない。
 しかし理由なき好意は恐怖だ。見返り無くして他者に好感が持てるはずがない。

「私は皆にとってなんなんですか。変なんでしょ……」

 八百万界の民ではない私は、嫌われることこそあれ好かれることなどないように思うのに。

「変と言われると返答に窮するな。普通の基準があるわけではないのだから。個性だ。少しばかり好意を寄せられやすいというな」

 そんな都合の良い個性ってある?
 嘘くさい。信じられない。

「神の方は知らぬが、妖族の、特に弱い種は其方を好ましく思いがちだ。得する事も多いだろうが、大馬のように好意が行き過ぎれば其方を傷つけかねない」

 私は今までかけていたであろう迷惑分も含めて謝罪した。

「ごめんなさい……」
「構わぬさ。しかし己の身が可愛くば意思をはっきり示しておくのが良いぞ。特に妖は自分の都合の良いように解釈する者が断然多い。嫌な事は嫌と口にして立場をはっきりさせておくことも状況によっては必要になる」
「判りました。……以後気をつけます」

 すると頭に向かって伸びてきた手のひらに私は身を引いた。しまったと探りを入れると、ヌラリヒョンさんはいつもと同じく柔らかな笑みを湛えていた。

「其方は触れられる事が嫌いなのだろう。ならば口にせねば相手には伝わらぬぞ」
「そんなことないです! ただ、嫌なことを思い出すだけで。それにそれはもう八百万界だと関係ないし……だから……気にしてもしょうがないというか……判ってはいるんですが」

 とにかく言い訳がダラダラと口から流れていくのだが、ヌラリヒョンさんは何も言わない。先の発言の通り、はっきりと意思を示せという事なのだろう。言わない言葉は相手には伝わらない。だからヌラリヒョンさんは私が自身の気持ちを口にする事を待っている。
 私は何度も息を漏らしながら、ヌラリヒョンさんに正直に伝えた。

「ヌラリヒョンさんだけは良いんです。嫌なんて思ってません」

 もう一度手が伸びてきて、綿の手袋がするすると頭を滑る。
 胸がむずむずする。
 いつまでもして欲しいって思ってしまう。

「なんだ。そうであったか。うっかり触れぬよう難儀しておったのだよ」

 今になってヌラリヒョンさんが私の服を引っ張ってばかりいたことに気づいた。そんなところまで私は気を配ってもらっていたんだ。
 駄目だ。このまま優しさに舞い上がってしまうと私は余計な事を言いそうになる。
 ────ヌラリヒョンさんは私のこと好ましいと思っていますか。
 と、心の中でだけ言った。当然返事はない。
 流石にそこまで素直になれそうにはなかった。もしこれで私が望まない答えだったらこの散歩は終わってしまう。口にしないから、もう少しだけ私に付き合って下さい。





 大馬とお別れした私たちは、念願の仙台へと足を踏み入れた。
 ダテマサムネさんはやはり仙台城だろうか。山なんかに建っている仙台城に行くのは骨が折れそうで、私とヌラリヒョンさんはどちらとも「早速城へ行こう」とは言わなかった。ここに着くまで全部野宿で過ごした私たちは、とにかく蒲団を欲していた。私はお風呂にも入りたかった。川の水で身体を拭くだけではすっきりしないし、なんとなく自分が匂うような気がしてしょうがない。ヌラリヒョンさんの隣を歩いて臭いと思われたくないな。

「ニホンは八百万界によく似ておるそうだが仙台もあるのか」

 我に返って質問に答えた。

「ありますよ。ですが説明できるほど知識無くて……ずんだくらいしか。それも食べた事はないんです」
「ならば行くぞ。百聞は一見に如かずだ。舌で直接感じようではないか」

 甘味は旅の疲れをほぐしてくれるだろう。食べて一息ついてから宿を探せばいっか。
 私はヌラリヒョンさんが良い店を知っているというのでついて行った。店は外でも中でも食べられるようだったのでヌラリヒョンさんが店内を指定した。と言うのも、ヌラリヒョンさんは仙台の人族の間でも認知されているので目立たないようにする為だ。更に気配も薄くするという念の入れようである。そんなに真面目に取り組んでくれているなんて、とヌラリヒョンに尊敬の眼差しを向けた。

「どちらにする。こっちか……いや今回は定番を……しかし限定も捨てがたい」

 ……いや、ただ甘味を食べる邪魔をされたくないのかもしれない。こんな時だけはヌラリヒョンさんが子供っぽくて癒される。
 注文してすぐに品が運ばれ、二人で手を合わせてから頂いた。

「わぁああおいしい!!!」

 鮮やかな緑色の餡の下にある餅を掘り出しては口へ運ぶ。ずんだもちはヌラリヒョンさんに一つ渡し、黒糖まんじゅうとトレードした。おまんじゅうも美味しい。
 仙台ってとてもいい国なんだね!

「これはこれは、随分気に入ってもらえたようだな。旅の者よ。俺のずんだは美味いか」

 割烹着を来た男性が奥から暖簾をくぐってやってきた。店員さんがわざわざやってくる事には驚いたが、甘味の美味しさでテンションが上がっている私は自分で応対した。

「とっても美味しいです! ずんだって豆じゃんって思ってたんですけど、よく考えれば小豆だって豆だし、ずんだもちが美味しいのって当たり前ですよね。でも私はその当たり前に気づく事も出来なくてずんだって凄いなって! とってもとっても美味しいです!」

 語彙もへったくりもないが美味しいとだけは何度も口にした。どうしても伝えたかった。美味しくて驚いた事を伝えたかった。

「ははっ。喜んでもらえて光栄だ。遠野にこれほど美味い飯はないだろうからな」
「遠野って何があるんでしょう……まあでも郷土料理がなくたって、ご飯は美味しいし人は優しいし、」
「しかし、隣のそれは妖族だ」

 てかなんで遠野から来たことを知ってるの?
 不安になった私がヌラリヒョンさんを見ると、私を見ていなかった。

「……其奴だ。其方が探していた者は」

 帽子の唾を上げ、割烹着の男を見据えていた。

「え!? この人がダテマサムネさん!?」
「はっはっはっ! 恐れ慄くが良い。俺が仙台藩六十二万石を治めるダテマサムネなるぞ!」

 前髪で隠れていたから判らなかったが彼は右目に眼帯をしている。
 奥羽の独眼竜で有名なダテマサムネに違いないが、あまり友好的には見えないのでいつ戦闘になってもおかしくない。
 帯刀している彼はいつでも剣を抜けるが、ヌラリヒョンさんだって剣は手元にある。
 私は……丸腰だけど。

「その化物には苦労していてな。どうした? 南部の命令で俺の首でも取りに来たか」
「人の争いに興味はない。妖にとって其方らの小競り合いなどどうでもよい事だ」
「どうだかなあ! 仙台を取り込めば貴様らの食糧問題も多少は改善するだろう。妖族の貴様も無関係なはずがない」
「思い上がるなよ、若造。人の下らん争いに巻き込まれるのはごめんだと言っている」

 珍しくヌラリヒョンさんが苛立ちを見せている。

「ちょっとストップ! 待って下さい。なんでお互い喧嘩腰なんですか……」
「妖の貴様が人の娘なんぞ連れて。どこぞから買い上げてやったのか。今年の米も少なかったろうからな」
「ヌラリヒョンさんは孤児(設定)の私を世話してくれているだけです! 変な言いがかりは止めて下さい」

 南部さんならともかく、ヌラリヒョンさんともこんなに仲が悪いなんて聞いてないよ。国境争いだけじゃなかったの。これでは人族の争いではなく、遠野と仙台の対立である。
 ヌラリヒョンさんでは話が進まない。

「あの、ダテマサムネさんなんですよね……?」
「いかにも。俺を見れば自ずと判るだろう」

 ただの割烹着着た男性としか。

「単刀直入に言います。悪霊に対抗するために協力して下さい」
「断る」

 だめかー。六十二万石の主が即決できるわけないとは最初から思っていたけど。

「貴様らが俺の下につくなら大歓迎だ。ヌラリヒョンといえば、八百万界中の妖に影響力がある大物だ。喉から手が出るほど欲しい人材だな」
「ヌラリヒョンさんは物じゃないのでお断りです」

 即答で意思を示す。

「なら交渉決裂だ。さっさとここから去ると良い。大人しく出ていくならば手荒な真似はしない」

 どういうこと。
 ヌラリヒョンさんが教えてくれた。

「囲まれている。面倒な事になる前に行くぞ」
「え!? 行っちゃうんですか!?」

 蒲団は? お風呂は?

「其方の額に矢が刺さって良いのなら、ここでのんびりしていても良いぞ」
「じゃあせめて、全部食べるまで待って下さいよ! こっちは代金だってちゃんと払ったんですからね!」

 ダテマサムネに確認すると何故かぽかんとした顔で私を見ていた。ヌラリヒョンさんもあれだけダテマサムネから目を離さなかったのに、今は私と目が合った。

「……そうだな。食事を邪魔するのは無粋だ。それに貴様は俺のずんだを賞賛してくれたからな。最後まで食べていくと良い」
「ありがとうございます」

 許可を得たのでいつも通りおやつを味わう。ついでに聞いた。

「枝豆はご飯に入れて炊いたりそのまま食べますけど、砂糖と合わせるなんてよく思いつきますよね。おかずのイメージしかないです」
「だし汁や醤油で味をつければ立派なおかずだ。ずんだあえとかな」
「初耳です! 向こうでも食べたことないです」
「先程から妙な言葉を使う。貴様は大陸の者か」

 夢の外の住人でーす。
 なんて言っても通じないだろう。

「ニホンという国から来ました」
「ほう、それはどういう国だ。どんな料理がある」
「えっと。ここと殆ど変わらないんですが……。カレーってここにあります?」
「辛江か? 鰈か」
「かれーです。香辛料をたくさん入れた料理で辛いんです。具材はじゃがいもにんじん玉ねぎ牛肉が一般的です」
「まるで肉じゃがだな」
「その通りです! 具は同じで味付けが違うんです!」

 食事も全てが日本と同じではないようだ。マフィンがあってカレーのない世界か……。イタリアントマトとかもないのかも。アマトリチャーナ食べたいな。

「ほれ、話している時間はないぞ」
「あ、そうだった」

 食べ終えているヌラリヒョンさんを待たせないよう急いで食べた。支払いは終わっているのでそのまま店外へと出ると、先程までは通りに沢山いた住民が見当たらず、その代わりに武器を持った兵たちが大勢私たちを待ち構えていた。私は店内にいるダテマサムネさんに別れの挨拶をした。

「ごちそうさま。ダテマサムネさん、さようなら」
「待て」

 ダテマサムネさんも店外に出ると私を上から下まで見回した。

「ヌラリヒョンはとにかく、貴様は俺の下へ来い。孤児だと言っただろう。悪いようにはしない。周囲も人族ばかりで安心だろう」

 ────安心だろう。
 その言葉は耳に障る。

「妖族も神族も、私を悪いようにはしません。どの種族も私に優しくしてくれます。それに私には目的があるので」

 失礼しますと一礼し、仙台に背を向けた。ダテマサムネさんは約束通り部下に私たちを追わせ武器を振るうような事はなかった。







「良かったのか」
「何がです」

 大馬はもういない。私たちは徒歩だ。今は均された道だから良いが、森になれば一気にペースは落ちるだろう。

「ダテマサムネは其方を受け入れると言っていたぞ。其方は見たところ身体的にも考え方も人族に近いだろう」
「行かない」

 自分でも驚くほどそっけなく返してしまった。

「大抵の人族は其方を川に落としたり、頭を喰らったりはせぬぞ」
「そりゃそうかもしれないですけど、あの子たちに悪気はなかったじゃないですか」

 最終的には私を食べようとしていた大馬だって一晩中私の下で大人しくしていた。だから野宿だというのに温かくて柔らかい寝床で睡眠をとることが出来た。顔を舐めていたのも何も食べる為だけではない。犬は愛情表現に人の顔を舐める。同じきっと馬だって同じだろう。寝ている子供を親が撫でるように、私を舐めていたのかもしれない。……もしかしたら本当に食べる為だったかもしれないが、きっと違う。はず。

「種族が違えば習慣も常識も違います。だから私には妖にとっての普通はよく判らないけど、いつかは理解できます。だって、言葉があっても無くても意思疎通出来ているんですから」

 だからお願い。
 私が妖と生きていけないかのように言わないで。
 ヌラリヒョンさんは妖族なんだから。
 私との間に線を引かないで。

「ふふ。其方の言葉は初々しいな。青臭くて若者然としていて嫌いではないよ」

 引っかかりを感じるのは私の気のせいだろうか。

「其方が気に入られちょっかいを出される理由がよく判る」
「ど、どうしてですか。子供だから、ですか?」
「そうやってびくびくしておるからだ」

 悪戯が成功した子供のように笑っている。

「そういう如何にも反応が良さそうな素直な者はな、からかいがいがあって楽しいからな」
「なんかこう、釈然としないというか。悔しいです」
「天下のダテマサムネに啖呵切る所は小気味良かったぞ。打ち首になるやもしれぬのにな」
「なっ!?」

 ヌラリヒョンさんはのんきにあーっはっははと笑っている。笑いごとじゃないでしょうよ!!!

「其方は良いなあ。そうやって儂の常識をどんどん崩しておくれ。期待しておるぞ」
「期待されたってそんなに面白い事なんて出来ませんよ」

 老人の思考はよく判らない。世間知らずの人間で遊んでいるだけのようにしか見えないが。
 私はヌラリヒョンさんに失望されたくなくて、愉快な事をしてみせないといけないのかと少しプレッシャーだ。もしかしたら、ただの軽口かもだけど。

「結局何の準備もなく仙台を出ちゃいましたね……。どうしましょう」
「ならこのまま南下するのはどうだ。江戸は人族が中心の城下町。その人口の多さから妖も神もいて其方には好都合ではなかろうか」
「江戸……良いですね。時代劇みたい」
「劇?」
「時代劇って言うのは────」







 私たちは江戸に向かう。
 今回ダテマサムネさんへの顔見せは出来た。
 私の事は遠野の一味と思われているようだが、それはそれで好都合。
 大妖怪ヌラリヒョンに連れられた小娘の言葉をただの戯言として聞き捨てはしないだろう。
 とにかく今は、悪霊退治に徒党を組んで挑もうとしている一派があることを少しでも覚えてもらうことが目的だ。……二人を一派と読んで良いのかは判らないけど。
 八百万界の人々に、少しでも知ってもらわなければならない。
 滅びを受け入れず、抗う者達が八百万界に存在する事を。
 その噂が全国へ広がっていけば、いつかは本物の独神に会えるに違いない。
 私はそれまでこの広報活動を続け、本物と邂逅出来たあかつきには、“偽物”は静かに消えるのだ。



つづく





※※解説とあとがき※※
◆参考図書
・竹内勇太郎,伊達政宗 物語と史蹟をたずねて,成美堂出版,1975.
・戸矢学,縄文の神が息づく一宮の秘密,方丈社,2019.


◆仙台

・大馬
 青森県で出るものは、あたりの馬を食い殺すらしいです。
 それっぽいものは色々な所に伝承があるので、私が描いたのは創作の大馬です。
 馬の妖怪は他にも出したいものがあるので、出せそうなら出したいです。


・松島
 日本三景。260の島があるそうです。
 芭蕉が言葉を失う美しさ。西行が松島行きを諦めた松もあります。
 伊達政宗が遊覧した際、「あの島を余の館に運ぶ物あらば銭千貫を遣わす」と言ったので「千貫島」と名付けられた島があったり。
 松島は月見の名所として有名なので、本当は夜の場面を書きたかったですねー。


・鹽土老翁神
 こちらは、参考図書「縄文の神が息づく一宮の秘密」から出す事を決めました。
 諸事情によりあまり詳しい事を言えません。
 言えることは、古事記も日本書紀も全てが正しいわけではないと言う事くらい。


・伊達政宗
 63万石です。100万石にしようか悩みましたが当時の63で。
 こちらもあまり詳しく言えません。
 今回は少し言葉をかわしただけなので。


◆あとがき

 次の舞台は江戸。資料が山ほどあって現時点であっぷあっぷです。
 想像をベースに書いて、偶に現実の要素を入れていこうと思います。

 バンケツが死して三ヵ月経ちました。
 ゲームがなくなった事を悲しいと思う事は殆どなくなりました。
 悲しいのは忘れられる事です。
 消えてなくなる事が悲しくてたまりません。
 こんな事を思っているのは自分だけだろうかと、孤独感に襲われ何度も筆を折りそうになります。
 でも、書かないともっと忘れられてしまうと思うから、頑張って行こうと思います。

(2021.4.25)