二度目の夜を駆ける 三話-江戸 壱-


「ヌラリヒョンさん! 今日は……今日は!!」

 ヌラリヒョンさんは大きく頷いた。
 私たちは今、宿屋の目の前に立っている。たかが宿屋と侮るなかれ。私たちが遠野を出て初めての宿屋である。
 ヌラリヒョンさんの妖の力を使えば他人の家に転がり込んで蒲団でぬくぬく寝る事が可能だが、仙台まで私たちを運んでくれた大馬が私と離れる事を嫌がって野宿する他なかったのだ。

「今宵は奮発して良い旅籠にしようではないか」
「はぁい!!」

 ちょっとお高い上旅籠へ足を踏み入れた。私たちが玄関口から上がる中、縁に腰かけ足を濯いでいる者がいた。

「昔はああやって足と脚絆きゃはんを洗って上がったのだ。はいからな服装が流通してからは殆ど見なくなったがな」

 解説に相槌を打ちつつ二階へ上がり、すぐ目の前の六畳間に入った。隣の部屋とは襖で区切られているだけの心許ないものではあるが、なんとなくプライバシーが守られているならば十分だ。この辺の感覚は八百万界で過ごすようになって麻痺しつつある。
 夕食は五器一膳で満腹になり、混浴ではない共有風呂でたっぷりと湯に浸かり、念入りに髪を濯いで身体を洗った。人としての生活に大大大満足である。
 部屋に戻ると蒲団が二組敷かれていて、はたと気づく。
 ヌラリヒョンさんと……同室……!?
 動揺している間に濡れ髪のヌラリヒョンさんが襖から現れた。赤らんだ身体に旅籠屋が用意した浴衣を緩く纏っている。息を吐くだけで色気を散らす。知らないひとのようだ。
 相手は男性とはいえ信用はしているので、なにがしかの恐れは抱いていない。二日目には半裸を見られていて物怖じする事はないはずなのに、私はひどく緊張していた。

「久しぶりの風呂はどうだった?」

 品のある唇の動きに私は障子窓の方を見ながら答えた。

「はい。とても良かったです。温かいし、身体も無事綺麗になりました」
「穢れまでもが落ちていった心地だ。明日からはまたどうなるか判らぬから、しっかり休むのだぞ。儂も今日は朝まで寝るつもりだ」

 毎晩の見張りで睡眠時間は私よりも短い。今までは大馬が交代で見張りをしていたが、明日からは私も見張りをすべきだろう。

「じゃあ、髪乾かしたら寝ますね」

 ヌラリヒョンさんも同意した。ヌラリヒョンさんは手拭いを頭に被せたまま、本物の火が揺れる四角行燈をぼんやりと見ている。LEDが当たり前の私には行燈の明かりは頼りないのだが、行燈の意匠が壁で揺れる様を見ると心が鎮まった。
 私は宿の中で拾った火の玉で髪を乾かした。こうやって人型になる前の妖を使って身の回りの世話をさせることにも随分慣れた。最近はあまり言葉を使わずとも勝手に動いてくれることが多くなってきた。獣(?)使いの才があったのかもしれない。私はスイッチが切れて口数の少ないヌラリヒョンさんの傍に火の玉を投げた。

「そういえば、火の玉って何種類があるんですか?」
「……何種類、とは?」

 行燈から視線を外し、訝しげな顔で聞き返された。

「その火の玉って家にいたのより強火じゃないですか。あと色が違う子もいますよね。青とか緑とか。あれって個体差なんですか?」
「……其方がそう言うならそうなのかもしれぬな」
「どういう事ですか?」

 曖昧な返しに問いかけた。

「其方の様子を見るに、今この辺にいるのだろう。儂にはな、見えぬのだよ」

 え?

「目を凝らせば見えるって……」
「其方の方がよく見えるのだろうな。儂よりもずっと」
「そうですか」

 自分から振った話題だったが手早く切り上げた。私にしか見えないのならあまり言わない方が良いだろう。霊感少女じゃないが、判らない話を聞かされてもつまらないし、気持ち悪いかもしれない。

「これこれ、遠慮する事はない。其方が何を見ているのか爺に教えてくれ。言ってくれなければ、其方がどういう者かも共に探れぬだろう?」

 怖いぐらいに見透かされて、緩んでいく顔をぐっと引き締めた。

「ここには何がいてどう見えている?」
「それは、ですね……」

 私は視界に広がる有様を話した。
 そう面白いものでもないのに、ヌラリヒョンさんは真剣に私の顔を見ながら耳を傾けている。うんうんと頷いてくれるのでついつい話し続けてしまった。
 親だってここまでまともに聞いてくれることはないだろうに。

「さてそろそろ寝ようか」

 話が終わる頃には髪が乾いたので、明かりを消して各自蒲団に横になった。徒歩の今日なら一瞬で眠れそうだ。
 私は一メートル向こうにある同じ柄の蒲団を見た。もぞもぞと動いてこちらを向いたので、急いで寝返りを打って背を向けた

「眠れそうか」

 はいと答えた声は想定よりも小さくて余計に恥ずかしかった。

「不安はないか」
「大丈夫ですよ」

 私は明るく答えた。
 なのに心はざわざわしてくる。不安、かもしれない。本当は。
 ヌラリヒョンさんは私を何者かと言うが、私は私だ。日本に住む普通の学生。スマホをポチポチしながら、自転車に乗って、授業に出て、偶に部活に顔を出して、帰ったら動画を見て、出来合いのご飯を食べて、ガスで沸いたお風呂に入って宿題をして寝る。
 そんな日々を繰り返す普通の人間。
 だから八百万界の古びた生活なんて、本当やってられない。
 住民との会話にカタカナは殆ど通じないし、物々交換が成り立ってしまう社会には正直引いてしまう。日本では電子マネーの普及に力を入れていたのに、それ以前の話だ。
 そして何より一番の相違点は、悪霊の存在だ。
 武装が当たり前の世界。こんな野蛮でどうしようもない世で私みたいな普通の子供がやっていくのは困難を極める。
 生き抜くためには娼婦になるくらいしか思いつかない。性行為どころか、異性と付き合った事すらない私が何もかもすっ飛ばして、知らない誰かに身体を売っていかないと日銭は稼げない。当然相手を選ぶ権利は私にはない。商品である私はお客様に選ばれる立場だ。触られたくないし、裸にだってなりたくないのに、もっと先の事を提供しなければならない。キスをされ、胸を揉まれて、足の付け根の奥に眠るものを暴いて裂いて弄ばれて。行為そのものは快楽を伴うと聞くが、それは相手が心を許した者に限るだろう。知らないおじさんやおじいさんに犯されて、気持ち良いとか楽しいとか思えるだろうか。……。
 身体は正直だった。想像だけで二の腕に鳥肌が立ち、背筋には冷たいものが走る。モノに堕ちることを拒んでいた。蒲団を頭まで被って身を護った。
 今こうして、普通の食事をして、温かい風呂に入って、綺麗な蒲団に潜っていられるのはヌラリヒョンさんのお陰だ。
 このひとを失えば、私は人でいられなくなるだろう。

「寒いか?」

 頭まで蒲団を被っただけでそんな心配をされるなんてモノだったらあり得ない。

「大丈夫ですよ」

 上旅籠の蒲団は温かくて軽く、まだまだ朝晩が冷え込む今でも全く寒くない。

「すまぬ。其方が嫌でなければ、こちらに来てくれぬか」

 思わず蒲団から顔を出しヌラリヒョンさんを見た。彼ははにかんでいる。

「儂にはどうにも寒くてな。其方のような子供が近くにいてくれると多少は温かいのではないかと思ったのだが。どうだろうか」

 私は少しだけ悩み、蒲団から出て敷布団をヌラリヒョンさんの横につけた。蒲団に潜り込んでヌラリヒョンさんの顔を窺った。シングルサイズの蒲団は意外にも顔が近く、呼吸まで聞こえてしまう。私は浅い呼吸を心掛けた。

「なあ」

 と言って、手が伸びてきた。私の敷地には入らない。どうしていいか判らないが真似をして手を伸ばした。境界線上で指の腹が触れ合う。ヌラリヒョンさんの指は少し硬くてカサついていた。

「やはり子供の体温は温かいな」

 こんな事で喜ばれるなら子供で良かった。
 ほっとする間もなく指が指の間に滑り落とされる。手を握られ、私も同じく握り返した。
 これではまるで恋人のようだと思うと、じんわりと汗が滲んでいく。
 ヌラリヒョンさんは軽く私の手を引いて境界を乱した。連れていかれた私の手は、相手の敷地に囚われた捕虜のようだ。心臓をバクバクと叩いて助けを求めている。それなのにもっと引かれてしまった。これ以上は身体が敷地を出てしまう。
 私は誘われるままに入った。ヌラリヒョンさんの蒲団の中、腕の中へ。

「人肌は温くて良いなあ」

 肩を丸めて胸の前に腕を収納したので、抱かれていながらも距離を保てている。但し膝小僧は浴衣越しに触れ合ってしまった。今しがた戦地を切り抜けたばかりの私はぜいぜいと息を荒げているが、ヌラリヒョンさんの落ち着いた声が子守唄のようにそっと寄り添った。

「遠野は所詮片田舎ではあるが、其方が一人きりになる事はない。村の者達も其方を受け入れる。儂もいつでも傍にいる。時にはカッパどもを揶揄ってやるのも良いだろう。そうしている間に、誰がどんな目的で施したか判らぬ術の解呪法も見つかるさ。何もわざわざ辛い道を行く必要などないのだぞ」

 急な距離の詰め方に警戒していたが、目的が説得だったことに胸を撫で下ろした。遠野から随分と遠くに来てしまったから、戻るならそろそろ決めるべきだ。

「江戸を見てからで良いですか」

 遠野は嫌いじゃない。あそこにいれば、こんな世の中でも楽しくやれる気がする。子供の私でも、多くの人の優しさに甘えながら気ままなスローライフを送れるだろう。
 でも。私の中の何かが、それでは駄目だと待ったをかける。

「満足いくまで物見をすると良い。今宵はゆっくりおやすみ」
「おやすみなさい」

 唐突にヌラリヒョンさんの足先が私の足を突いた。足癖の悪い……。
 出来たての豆を引っ掻かれて思わず声を漏らした。迷惑をかけないようにと休憩を懇願しなかったのだが気づかれていたようだ。
 それに言及されないまま、足の甲を五指がくしゅくしゅと撫でた。器用なことだ。
 抱きしめられたまま固まっていると、次第に寝息が聞こえた。緩くなった拘束から抜け出して寝顔をまじまじと見た。年寄りとは思えない皺のない端正な顔立ちが無防備に転がっている。一方的に見続けているだけで照れてしまう。そっと髪に触れた。光の加減で白にも紫にも見える髪の毛は本物だ。人形じゃない。自然物なのに人の手で作り出されたように美しく完成されていた。
 至近距離で何もかもが出来る状況であっても撫でたいと思うまでが精々で、口付けの衝動には駆られなかった。自分が心を寄せている事は自覚していたがどうやらそれは恋愛感情ではないらしい。一緒にいたい。私を見て欲しい。そんな欲を抱くなんて、絶対恋愛だと思っていたのに。
 ヌラリヒョンさんの胸に耳を寄せてすり寄ってみた。逞しい胸板は大人の男の人でどきりとしてしまう。とくとく聞こえる心音は人間とあまり変わらないようだ。でもにおいが違う。一嗅ぎで冷静さを取り戻した。
 どれだけ大事にされても、このひとは親戚でも兄弟でもなくて、ましてや父親ではない。
 いつかは切れる縁のひと。





 起床した時には私もヌラリヒョンさんも自分の蒲団に戻って背を向けあっていた。たったそれだけの事が気になったが、振り払うように声を張った。

「ヌラリヒョンさん朝ですよ!」
「……ん」

 短い返事が返ってきたが身体が大きく動く様子はない。その間にさっさと着替えてしまった。昨晩洗った衣服であるが、その辺で元気にしている小さな住民たちの力を借りれば一晩で乾かすことなど造作もない。

「おはよう。其方は早いな」

 すっきりとした面持ちでヌラリヒョンさんは起床した。

「急ぎましょうよ。さっさと朝食食べて出立してくれってちょっと怒っていましたよ」
「慌ただしいなあ」

 よっこらしょと言って立ち上がる。壁にかけていた着替えを手にしたので私は背を向けた。

「あの、私は先に行ってますね」
「すぐ済ませる。二人で行こう」

 背中越しに聞こえる衣擦れの音が妙に耳を擦ってきて居心地が悪い。男性の着替えとはこんなに落ち着かなくさせるのだろうか。
 着替えは早々に終わり、私たちは朝食を終え、昼食まで頂いて旅籠屋を出た。
 その後の数日間は街道を歩いてばかりだった。江戸に近づくほど道が整備されていて、江戸の都市力がよく判った。仙台もなかなか栄えていたが、やはり江戸には敵わない。
 そういえば東北地方は一度も政権を握った事のない地域だ。教科書に載る決起は毎回鎮圧されてばかり。日本はそれなりには歴史のある国なのに、どうして本州に属していながら東北だけは天下をとれなかったのだろう。

「これだと次の村にはつけそうにないな」
「すみません。私が足引っ張って……」

 老人のヌラリヒョンさんは意外と健脚で山道だろうとすいすいと歩く。対して私は体力がなく、連日足の疲労が蓄積している。毎日新しい豆が産まれて、歩く度にじんじんと痛みを響かせた。私が動けなくなる度にヌラリヒョンさんが休憩を申し出てくれたが、想定したペースよりも遅くて心の内ではやきもきしていたことだろう。
 もう夕方で野宿決定である。ヌラリヒョンさんにはいつもいつも申し訳ない。

「毎日すみません……」

 私は昨日と同じ言葉で謝った。ヌラリヒョンさんは「気にするな」とだけ言って話をそれ以上広げない。だが、今日は違った。

「……よし。少し楽をするか」

 どういうこと?
 ヌラリヒョンさんは剣を抜いて天に掲げた。暗雲が集まってくる。
 これは百鬼夜行……? 
 妖の大群がじわじわと集まってきて、ヌラリヒョンさんと私を囲んだ。大量の異生物に囲まれて思わず悲鳴が喉から出かけた。眼球だけで妖たちを見回していると、彼らは次々とヌラリヒョンさんに声をかけた。

「最近はよく呼びますね」
「どうした大将。若ぇ頃みたくブッ潰して回んのか?」
「ははっ。それ以上話してくれるなよ」

 妖は身体を震わせるとさっと口を閉じた。
 ヌラリヒョンさんってなんだかんだで怖がられているんだよね。

「今宵は少し遊んでみようと思ってな」

 発言者以外全員が顔を見合わせた。ヌラリヒョンさんは小さく笑っている。
 そして今、私たちは百鬼夜行で空を飛んでいた。

「すっごおおい!」

 飛行高度はヘリコプターくらいだろうか。しかしヘリコプターと大きく違う所はシートベルトも壁も一切ないことだ。当然命綱もない。

「はっはっは! やはり上から見下ろす景色は爽快だな」

 私が膝をついて動けなくなっている横で、ヌラリヒョンさんは妖たちの上で仁王立ちして大笑いしている。

「百鬼夜行って乗り物だったんですか!?」
「ほれ、答えてやるからもっと近くにおいで」

 百鬼夜行は前後に長いが幅は三メートルもないので、私たちは十分近くにいる。これ以上となると触れ合うしかなく躊躇った。じんわりと頬が熱くなる。

「落ちると痛いでは済まぬが、それでも良いか」
「絶対駄目!!」

 這って近づくと手を取られ、更には身体に手を回されて引き寄せられた。まるでボールルームダンスだ。

「頭が西瓜のように割れたくなくば遠慮なく掴まれ」

 ぱっかーんと脳髄が飛び出している様子が思い浮かび、なりふり構わず抱き着いた。

「ほら、目を開けて下を眺めて見ると良い」

 そっと地上を見下ろしてみたが、太陽が沈んでしまって黒っぽいものが張り付いているだけだった。

「暗くてよく見えないです……」
「闇とは暗いものさ」

 現代社会にいた私にそういう感覚はないかもしれない。夜は街灯が辺りを照らし、店のネオンが日を跨いでも煌々と輝いていた。動画や雑誌の夜景だって煌びやかなものばかりだ。
「見えるか。闇の中に混じる光が」
 示された方向を目を凝らして見続けると確かにぽつぽつと光が見える。

「あれが水戸城だ」

 ちっさ!
 ……って言ったら怒るかな。日本に六三四メートルのタワーなんかあるから、全くもう。

「其方には珍しくなかったか」

 歳に似合わずしょぼりとするので私は慌てて言い繕った。

「そんなことないです! ちょっと感想の言葉が出なかっただけです!」

 なんて言うと大声で笑いだした。私、このひとの掌で踊らされてるなあ。

「でも凄いですよね。お城を人力で建てるなんて……その技術は多分もう向こうにはなかったと思うから」

 何もかも日本が優れているわけではない。町で見かける手製の工芸品の技術力には舌を巻く。八百万界の民はスマホもないのに、天気の移り変わりを正確に読み取り、生物の知識も豊富だった。子供から年寄りに至るまで体力があって働き者だった。誰もが一生懸命毎日を生きていて、とても力強く尊いものに見えた。

「私、こんな風に空を飛ぶのは初めてです。妖さん達が支えてくれていますが重くないんですか?」
「……気にした事がなかったな」

 おいおい……。ヌラリヒョンさんってそういうとこあるよね。

「苦情がもたらされた事はないから大丈夫ではないかのう……」

 考えた素振りを見せてるけどさ、いやいや、文句あっても言えないだけでしょ。

「そんな気を回さずとも其方程度軽いものさ。なにせ百以上の妖が支えているのだぞ。負担なんぞ塵に等しい」

 実際分散はしていると思う。けれど他人を足蹴にしている事実は気になる。

「折角乗せているのに其方がそう遠慮がちでは甲斐がないではないか。もっと素直に楽しんで良いのだぞ」

 にっこりと笑うヌラリヒョンさんに私は。頷いた。
 手を繋いだままヌラリヒョンさんから離れて、端から下を覗き込んでみた。よく見えずとも地上が遠い事は判り背筋がぞくぞくとした。恐怖が急に楽しくなって「ふふっ」と声が漏れてしまう。繋がった手を辿ってヌラリヒョンさんの隣に寄り添った。

「落ちたら大変ですね」

 なのに私は笑みを浮かべた。同じくヌラリヒョンさんもおかしそうに笑う。

「落ちてみたいのなら儂が付き合ってやろう」
「いやです。私、絶叫系はひゅっとなるから苦手ですもん」

 もう一度ヌラリヒョンさんから離れた。後ろを見ると妖たちが連なっていて、私たちは神輿のように担がれ空を遊覧している。光が散りばめられた地上を見下ろすと、村民と思しき者達が珍しそうにこちらを見上げていた。口をだらしなく開けたり、怖がったり、楽しんだり。
 万能感に酔った私は出来心でヌラリヒョンさんに飛びついてみると、大きな腕でしっかりと抱き留めてくれた。少し泣きそうになった私は大声で言った。

「ヌラリヒョンさん! 百鬼夜行めちゃくちゃかっこいいですね!」
「当然だ」

 自信に満ち溢れた声はまるで少年のようで、私は心を奪われた。
 私たちがケラケラと笑っている間に百鬼夜行は江戸のすぐ近くまで来ていた。上空からでも判るだけの明かりが灯っている。電気のない八百万界でこんなに夜が明るいのはそれだけ都会だということだ。

「っ」

 ヌラリヒョンさんは唐突に腕を掻いた。

「どうしました? 寒い?」

 百鬼夜行は急に速度を落とし隕石のように地上へ降下する。ヌラリヒョンさんも私も妖たちがクッションになってくれたお陰で綺麗に着地出来た。
 妖たちはそこらで暴れまわろうとか、酒宴をしようとかなんとか言っていたがヌラリヒョンさんが二度断ると一斉に大人しくなった。このやり取りもヤクザやマフィアにしか見えなくなってきた。
 妖たちと別れた私たちは再び街道を歩きだした。太陽が落ちている為に他の旅人は数人程度しかいない。

「私、先に行って宿を探しましょうか?」
「心配要らぬよ。先程のも寒気ではなく……なんだろうな。空気がざらついたような気がしただけだ」

 全然判らない。日本語に訳して欲しい。

「ともかく体調は良好、体力も其方よりは残っているだろう。誤魔化しているわけでは無いから安心してくれ」

 撫でられると、これ以上言及するなと暗に言われているようで口を閉じた。
 大都市であろう江戸なら、入るには通行手形が必要で厳しい役人たちにジロジロ見られた挙句改め婆が証文と相違ないか髪の中から股間まで調べる。
 ────と思っていたのだが、「……よし」の一言だけで終わった。国境に関所が無かったので領内の入り口で出入りする人間を選別しているのかと思ったのに。ザル過ぎるセキュリティに私の方が悲鳴をあげそうだ。ヌラリヒョンさんに聞くと、そもそも八百万界に通行手形の類はないらしい。三種族をとりまとめる中央政府が存在しないのだから、そんなものを作っても役に立たないのかもしれない。しかしこれでは賊も悪霊も入り放題だろう。
 江戸には西洋に見られる都市全体を囲う城壁がない。代わりに物見櫓が一定間隔で建てられている。それだけ。あとは平城である江戸城が一つ。戦の設備がこれだけというのは不安しかない。国が統一されていないとはいえ、悪霊襲来まではそれなりに平和に過ごせていたのかもしれないが、悪霊が来て数年経っているのだ。なのに防御を固めるわけではなく、ただ櫓を建てるだけなのは甘過ぎる。私は他人だから好き勝手言えているが、何か事情があるのだろうか。

「もしも儂とはぐれたらこの門で待ち合わせよう」

 何度も何度も念を押された。スマホがない世界はこうやっていちいち決めていなければ二度と会えないこともあるだろう。
 私たちはまず宿を探したが時間が遅すぎて空き部屋がなかった。ようやく見つけた旅籠はかなり安価で夕食は冷や飯と焼き魚と香の物だった。ヌラリヒョンさんは茶碗にお茶を注いでさらさらと食べていた。冷えたまま食べるよりはマシかと倣って食べた。現代のお茶漬けってめちゃくちゃ美味しかったんだと実感した。化学調味料万歳。
 食事も寂しいものであったが、今回の部屋はなんと相部屋だ。今の日本では考えられない。
 相手の方は男性でなんと額に大きな角があった。あとおへそと脇腹と腕が出ている前衛的デザインの衣装を纏っている、八百万界のファッション感覚は意味不明だ。

「こんばんは。一晩のお付き合いですがどうぞ宜しくお願い致します」

 床に両手をつき、角が床板に刺さらない程度に頭を下げるので、私も慌てて額を床につけた。

「こちらこそ宜しく頼む。年頃の娘もいる故に其方には迷惑をかけるやもしれぬ事を先に詫びさせてもらいたい」

 ヌラリヒョンさんも丁寧に頭を下げると、相手は恐縮して頭を上げるように言った。

「迷惑はお互い様です。ところでお二人は親子で旅行ですか?」

 ヌラリヒョンさんがさっと答える。

「そんなところだ。死んだ妻の思い出の地を回っている最中なのだよ。儂と娘の繋がりに違和感を抱いたろうが、察しの通り儂らに血の繋がりはない。彼女は戦の孤児で夫婦で育てていたのだが、儂らにとっては大事な愛娘だ」

 愛娘。
 嘘じゃなかったら良かったのに。

「それは……思い出の邪魔をして大変申し訳御座いませんでした」
「ははっ、気にする事はない。過去を巡りながら、今の二人旅を楽しんでおるのでな。この旅も数年後には尊き思い出の仲間入りであろうよ」

 こんな大嘘つきの言葉を信じたのか、角の男はそれ以上話しかけてこなかった。
 見る限り物腰は柔らかくていいひとそうにも見えたが、ヌラリヒョンさんは私に雑談を振らなかったし、寝る時も男と私を引き離すように間に入った。剣も私の蒲団との間に置いて、すぐに抜けるようにしていた。
 男の方は始終物静かで部屋の外をぼんやりと眺めるばかりで、寝入るのも一番早かった。
 私が朝起きた時には、男は蒲団ごといなくなっていた。宿の者に聞くと、朝一番に出立したとのこと。
 私は待ちに待った二人きりの空間で遠慮なくため息をついた。

「相部屋ってほんと落ち着きませんね。余計な事言ったらどうしようかと怖くて仕方なかったですよ」
「儂もだ。あれは神族だったな。それもかなり力のある者だ」

 ヌラリヒョンさんに力のある者と言わしめる神様と一晩同じ部屋で寝ていた事に今更ぶるりと震えた。

「あんな静かでいいひとそうだったのに?」
「物腰だけで判断してはならぬ。其方はちゃんとあれを見たのか」
「ええ、まあ……」

 見ていた。ヌラリヒョンさんが見えないものまで。
 彼の周囲には沢山の見えざる者がいた。動物の姿をした子たちは男と同様とても穏やかで、まるで山奥で過ごしているように爽やかな風が部屋を吹き抜けた。
 だからいいひとだと思ったのだ。

「角があるから鬼だと思ってたんですが神族だったんですね。確かに動物がわらわらいたので神様と言われると納得です」
「聖獣とて角くらいあるさ。……うむ、その線かも知れぬな。霊力の強さから言って高位の霊獣だろう」

 へー。れーじゅーかー。
 妖も神も会うひとが全員人型なせいで全然それっぽくないんだよね。

「其方もせめて力があるかくらいは見極めて欲しいのだが……。妖も神も力を持つ者は我儘で厄介だからな、関わるだけ損をする」
「ヌラリヒョンさんも?」
「儂は平和主義を掲げておるのでな。茶が好きなだけの無害な妖だ」

 そんなひとは多くの妖を従えて連れ回したり踏みつけたりしないでしょうよ。ヌラリヒョンさんもやはりどこか妖っぽい所があるのだろう。若い時の話を聞いてみたいものだ。

「あのひとの角、とっても綺麗でしたね。夜もぴかぴか光ってて」

 明かりのない部屋で光る角は、まさに保安灯だった。薄緑色のぼんやりとした光のお陰で、部屋は真っ暗闇にならず夜目のきかない私に安心感を抱かせた。
 ヌラリヒョンさんのマントを巻いて見られないように着替えていた時、彼は黙って外に出てくれた。ヌラリヒョンさんに見えないものも私と同じく見えている。龍の顔をした鹿のような生物が私の袖を引いている時に目が合ったのだ。一応見えている事を知られないようにと気づかない振りをしたが、彼は微笑を浮かべるだけで何も言ってこなかったし、何のアクションも起こさず見えない振りに付き合ってくれた。

「……名前くらい聞いておけば良かったでしょうか」
「ならぬ。儂らに名乗らせる口実になる。儂の知名度では偽名も容易に使えぬからな」

 人気者の性か。

「一夜限りの者に執着することもなかろう。江戸一日目だ。楽しく行こうじゃないか」





 町へ繰り出してまず驚いたのは、早朝だというのにもう多くの人が活動し町が活気づいていた事だ。

「ねぇヌラリヒョンさん! あれって屋台ですか?」
「うむ。あれは蕎麦だな」
「あっちは?」
「握り寿司だ」
「ねえ、あっちは?」
「ははっ。其方の興味は尽きぬなぁ」

 日本だって大通りや駅周辺には外食チェーン店が沢山あった。学生が入れるような安価なファミレスがあったし、別に外食が珍しいわけではない。しかし私は外食をする事がなかったので、外食にはそこそこ憧れがある。それに江戸の屋台は鰻の蒲焼やどじょうや天ぷら、田楽と多岐にわたる。大型チェーン店のように一店舗が多くのメニューを抱えるのではなく、一店で一品なので店の数が多い。

「見て見て! ナマコ売ってますよ!」
「判った判った。一つずつ食べてみようではないか」
「良いんですか!?」

 主に金銭面的に。贅沢していいのだろうか……。昨晩も木賃宿きちんやどではなく旅籠屋だったし。

「子供は懐のことなど気にしないものだ。それに、儂も稼げるだけの一芸を持っているからな」
「そうなんですか!?」

 ATMのない世界で路銀をどうするのだろうとは思っていたが、まさか芸も出来るなんて……。ヌラリヒョンさんの多才っぷりには頭が上がらない。

「では食べ歩きに興じようではないか」
「はい!」

 私たちは朝食も兼ねて目に付いたものを次々と食べていった。
 会計を見ていて思ったのだが、日本よりも八百万界の方が物価が安いようだ。消費税なんてなさそうだからだろうか。それともこの界貨とやらは一枚が千円くらいしたりするのか。まだまだ八百万界は判らない事ばかりだ。

「折角だが今日は終いだ」
「え!?」

 二軒目の寿司が目の前で終わってしまった。

「まだこれほど日が高いのにか」

 ヌラリヒョンさんも不思議そうに言う。儲け時の昼前に閉めるのは奇妙だ。

「俺だって旦那と嬢ちゃんに食べてもらいたいんだが、最近は魚がめっきり獲れなくてな。商品がなけりゃ売れないわけよ」

 まあ、獲れないならしょうがないか。

「江戸の方でも漁獲量が減少しているのか」

 ヌラリヒョンさんが聞くと、店の人も話が通じそうだと思ったのか、先程よりもしっかりとした口調になった。

「悪霊が来てからはここらもてんで駄目だ。にしんも折角儲かるって話だったのによ。日本橋の生け簀も壊されてばっかで鯛や平目の仕入れが難しくなる一方だ。だがこればっかりはどうしようもねえ」

 松島も含め悪霊が海に与えた影響は大きい。景観だけでなく漁業もとなると、魚食が多い八百万界は困るだろう。肉料理が出ていたのは魚の安定供給がない分、畜産が発達しようとしているのかも。いやそれとも無関係にここは前から肉食に抵抗がないのか。
 八百万界の食糧事情をぼんやりと考えながら、私たちは店を離れた。次の店を探しているとヌラリヒョンさんが私の頭を撫でながら耳元で囁いた。

「……今からよく周囲を観察するように。普通の会話をしながらな」

 私は静かに頷いた。
 今までと同様に屋台で注文しながら歩き回り、いたって普通の旅行客を装った。
 どの店も欠品が多く店仕舞いも早い。ここは江戸である。流通量は遠野や仙台とは比べ物にならないはずだ。それなのに人に対して物が追い付いていない。
 街は一見華やかに見えるのに物乞いを何度も見かけた。与力か同心と思われる者達がやかましい。「この桜吹雪にかけて全員とっ捕まえてやるぜ!」なんて言葉を耳にするのだから犯罪が多発しているのだろう。大通りでこうなのだから、長屋が犇めく住宅地へ行けばどうなることか。

「少し違うところ行きたいなあ……。二人きりになれそうなとこ、とか」

 慣れない甘え口調で腕に絡みつくと、察した様子でヌラリヒョンさんは承知した。

「うむ。そろそろ静かな場所へ参ろうか」

 腕を掴む強さで長屋の集まる住宅地へと誘導する。
 長屋ではぼろきれを纏った子供たちがいた。大人も同じくぼろきれだ。手足も傷だらけ。それに匂いが気になる。すっぱいような匂い。
 ゴミ溜めにいるみたい、なんて人に対して思ってはいけないことだけど、どうしてもそうとしか思えなかった。
 歩いている間、私たちはジロジロと見られ続けた。痩せた子供たちに。目つきの悪い大人たちに。
 先程食べ歩いた大通りの華やかさとは大違いだ。物が多くてごちゃごちゃしていて、ごみもその辺に投げ飛ばされている。これでは田舎の遠野の方がマシだ。いや、比べてはいけないほど明確な差がある。
 でも、私も遠野を全て知っている訳ではない。ダテマサムネさんの言葉もずっと気になっている。食糧問題だとか私を買い上げたとか。
 細い小路を歩いていると、すれ違った女性とヌラリヒョンさんとがぶつかった。

「あの、大丈夫ですか?」

 私だけが声をかけ、女性は謝りもしなかった。全く、仕方のない人だと振り返って、よくよく姿を見ようとすると、見えざる小さきものがぴょんぴょん宙を飛び跳ねている。
 おかしい。なんで元気なんだろう。

「走るぞ」

 ヌラリヒョンさんが短く指示し先程の女性を追いかけたので私も走った。
 だが彼女の動きはヌラリヒョンさんよりも町を熟知しているのか俊敏だ。このままでは逃がしてしまう。私は目を凝らして辺りを見た。建物よりも少し高い所まで小さな生き物はぴょこぴょこと動いている。

「あっちへ進んで!」

 ヌラリヒョンさんを誘導すると、曲がり角の出会い頭で先の彼女と鉢合わせた。彼女はひどく驚いた顔をしたがすぐに身体をひねって私たちから逃れようとする。だがヌラリヒョンさんが思い切り腕を掴んで、剣を首筋に当てた。

「……盗んだ物を渡せ。同族のよしみだ、過不足なく返すなら悪いようにはしない」

 泥棒さんは、菫色の長髪で艶やかな着物にニーハイのようなものを履いている。あと胸部がたわわ且つ襟を大きく開けているので、なんとも目のやり場に困る。
 彼女は特に抵抗はせず帯からヌラリヒョンさんの財布を取り出すと「はい」と返してくれた。

「中身は抜いてないよ。さあ、あたしをさっさと放して」

 泥棒の癖に偉そうである。私はヌラリヒョンさんに提言した。

「泥棒する方を放置出来ませんよ。町でもあんなに見回っていましたし、ちゃんと引き渡しましょう」

 心苦しくとも犯罪は犯罪だ。彼女はきっとすぐ次の獲物を見つけて盗むに決まってる。泥棒は顔を歪めて抗議した。

「はぁ!? 嘘吐き! 恥知らず!」

 そっちだって泥棒じゃないか。ヌラリヒョンさんが泥棒を掴んでいる事を良い事に私は冷ややかに見つめた。ヌラリヒョンさんは私に尋ねた。

「其方は盗みの刑罰を知っておるか」
「いいえ。留置所……建物に一旦軟禁されるとか? でもスリ程度だから罰金くらいですかね」
「初犯なら入れ墨、五十叩き。三回目には死罪だ」

 い、入れ墨……?
 五十叩き……?
 死刑……?
 スリ程度で……?
 私は泥棒を見つめた。年齢は私よりも上の大人の女性で、顔は愛嬌があって女から見ても可愛いと思える。落ち着いた着物にすれば、もしかして美人の部類に入るかもしれない。そんなひとに針を刺すのか。何度も何度も。和彫りは肌の深い所に墨が入るのでそれだけ痛みを感じ続けなければならない。
 もう一度考えて。
 私は、一人の女性に、血を流させ、一生消えない墨を入れるのか。

「……もう二度とスリなんてしないですよね……?」
「うんうん! しないしない。約束するってー」

 なんて嘘くさいんだ……。

「……じゃあ、このままお別れってことで」

 喜ぶ彼女にヌラリヒョンさんは低い声色で念を押した。

「二度目はないぞ」

 連れの私ですら刃を胸に突き付けられているような恐怖を覚える。スリも青ざめた顔で頷いていた。

「えっと、それじゃあ失礼しましょうか……ね?」

 もうこのひとと関わりたくなくて、ヌラリヒョンさんの袖を引いたのだが首を横に振られた。

「ここらで妖の溜まり場があるだろう。儂らをそこに案内してもらおうか。そうすれば先程の事は水に流してやる」

 え。という顔をしたのは私もスリもだ。一転して警戒心を強めたスリは身を低くした。

「……何が目的」
「ただの情報収集さ。儂も妖ゆえに江戸で受ける視線は心地良くないのでな」

 確かにここでは不躾な視線が多かった。こちらが顔を見ると相手はふっと顔を逸らす。屋台で買い食いしていた時もヌラリヒョンさんをじろじろと見まわし、中には界貨を擦り合わせてあからさまな態度を見せてくる者もいた。

「……判ったよ。ついてきて」

 不服そうだがスリは案内をしてくれるようだ。他の妖たちは私たちの歩みを妨害することなく遠くからじーっと観察している。心地は悪いが仕方ない。
 私はスリに尋ねた。

「どうしてスリなんてするんですか……」
「楽しいからだよ」

 そ、そっか……。私にはその感覚判らないな……。

「それにそれ以外でどう稼げば良いか判らなくない?」
 あっけらかんと言ったその言葉に私は初めて彼女に共感を覚えた。

「普通に働くとか?」
「えー嫌だよ。面倒くさいじゃん」
「それはそうかもしれませんが……。捕まった時の事を考えるとマシかなって」
「妖族だからって給料ない時もあるんだからスリの方が良くない? 成功するかはあたしの腕にかかってるだけだし、たんまり盗れるとスカッとするんだよねー」

 種族で差別するなんて最低だ。どの種族も見た目が同じ生物なのにどうしてこの世界の人たちは違う種族を敵視するのだろう。

「最近は江戸もしみったれてるからね、懐が寂しいのは人も妖も一緒。それに最近は鬼のせいで妖への当たりが強いわけ」
「鬼? 角がある?」
「そうそう。ほら」

 彼女が前髪を横へ流して額を見せてくれた。そこには赤黒い硬質な円錐状のものが柔らかな肌より爪の如く生えていた。

「凄い……。本当に肌から角が生えてる。強そう……」
「何言ってんの。変な子」

 スリは今までとは違い、少女のように声をあげて笑ってくれた。

「あたしはトドメキ。百の目を持つ百々目鬼。あんたたちは?」

 私はおずおずといつもの返しをした。

「私は……名前……ないから……名乗れなくて……すみません」
「ならナナシで良いんじゃん? 呼び名がないとあんたのこと呼べないし」

 顔が赤くなっていく実感があった。トドメキさんはもう私ではなく、ヌラリヒョンさんに興味が移ったので気づいてはいない。

「で、そっちは?」
「ヌラリヒョンだ」

 一瞬で空気が様変わりした。遠目で私たちを伺っていた者たちが一斉に姿を隠す。トドメキさんもまた、顔を引きつらせている。

「……あは。遠野の隠居爺っていう……本物?」
「さあな」

 薄く笑った。そのせいでトドメキさんは警戒している。私は焦ってトドメキさんに話を強請った。

「あの! さっき言ってた鬼のせいで妖族へのあたりが強いってどういうことですか?」
「ああそれ」

 またフランクに戻ったトドメキさんは、ヌラリヒョンさんがいないかのように背を向け、私に教えてくれた。

「滅茶苦茶強い人族が鬼を集中的に斬り殺してるって話。江戸なら人が多くて見つけにくいだろうって鬼が集まってきてね。あたしみたいな正当な鬼種ではない妖も襲われるからちょっとね……面倒なんだよね」

 随分と見境がない人である。強い恨みでもあるのだろうか。

「鬼が人に何をしたんですか?」
「べっつにー普通のこと。まぁ食べ物奪いに人里襲ったりはしただろうけど」

 百二十パーセントそれが原因じゃん!
 この世界の人たちそういう所軽いなあ!

「けどじゃあ大人しく餓死しろっての変でしょ。ないものは奪う。奪われたくなきゃ強くなる。当然だよ」

 そうかもしれないけど、私たちは動物じゃない。自然界では当然である弱肉強食の理は馴染まない。奪う自由があるならば、鬼を弾圧するのも自由ということになる。
 それぞれの立場に正統性を感じるが、お互いもう少しやり方を考える気はないのだろうか。

「にしてもあんた、上手いことやったね。ヌラリヒョンなんて大物つれてさ。弱者なりの知恵ってやつだね」
「違います……」

 利用してなんかない。と本当に言い切れるだろうか。
 ヌラリヒョンさんが偶々私を拾ったからついてきてもらったのか。それとも、優しいから? 強いから? 権力があるから?
 “頼る”と“利用”は、結局同じかもしれない。

「少なくとも儂は、其方といたいから同伴しているのだよ」

 とヌラリヒョンさんが言った。私は曖昧に笑った。顔を見る事が出来なかった。
 トドメキさんの日常やスリの自慢話を聞いているうちに、妖族が身を寄せている地区へと着いた。小さな広場には角のある者が何層にもなって私たちを見ていた。長屋で感じた異臭が強く香る。空気の重さは妖たちの疑念や憎しみや警戒心、不安等が入り混じって私の両肩を押さえつけた。生々しい治療痕が多くの者に見られる。これが人族に受けた傷……。

「遠野の総大将殿が何用か」

 まとめ役らしい老け込んだ男性がくぐもった声で尋ねた。

「知己に会いにきただけだ。……が、この様子だと死んだようだな」
「ならばどうする」
「死んだものは仕方ない。別件で鬼斬りについての情報が欲しい」
「何かしてくれるのか」
「場合によっては手を貸そう」

 そ、そうなの? 私はそういう気分にならないんだけど。
 ヌラリヒョンさんの援助が魅力的なのか、老人は鬼斬りについて話してくれた。

「鬼斬りとは────」

 大昔、鬼たちが山や平地を含む広い土地を治めていたそうな。そこに人族がやってきて、武力をもって鬼たちを山へ追いやった。仲間を殺された鬼たちであったが、そこはぐっと堪えて山をメインの住処とした。
 山の獣を狩ったり、町で酒を買ったり、偶に旅人を襲ったりしてしばらく平和に暮らしていたらしい。
 そこに悪霊が現れた。悪霊たちが界力を奪った事で山の土地が枯れ、雑草すら生えない乾燥地になってしまった。食糧と住まいを失った鬼たちは山を捨て、人里を襲うようになった。

「何も好き好んで治安を乱しているのではない。生きる為にやったこと」

 さも当たり前のように語るが、私はそうは思わない。

「山を下りてから、その人族とは話し合ったんですよね……?」
「あの地も鬼のものだったのだから、人族は即刻返すべきであり話し合いなど必要ない」

 そうだそうだと、鬼たちの合いの手が入る。

「なのに人族は再び用心棒を雇い我々を屠った。何故譲ってやった鬼たちがここまで追いやられなければならんのだ。腕っぷしの強いものばかりでなく、何の力もない子供まで屠って……」
 幼児の鬼までもが包帯を幾重にも巻いていた。大人の、特に力のありそうな男性は四肢を欠損している者も見受けられる。
 まるで戦争だ。
 海からの侵略者だけでなく、同じ世界に住む種族同士で侵略し合っている。

「飢えるか斬られるかと選べと言うならば、斬られた方がマシだ」

 誰かの一言で一帯の鬼たちは大声をあげた。
 吊り上がった目。吐き捨てた言葉。
 老人から子供に至るまで憎悪を滲ませた目をしている。斬られて可哀想という同情心が吹き飛び、今はただ怖いだけだった。鬼たちの剣幕に後ずさっていく私をヌラリヒョンさんが抱き寄せた。見上げれば微笑が降ってきて、このひとが傍に立ってくれていることに若干の安心感を得た。

「大体判った」

 ヌラリヒョンさんの発言も、周囲の鬼たちは耳に入っていないようで老人だけが応対した。

「ならばヌラリヒョン殿はこちらについてくれるのだな? 同じ妖族なのだから」

 関係なくない?
 鬼と鬼斬りの戦いなのに。
 なのに鬼たち全員がヌラリヒョンさんに縋るような視線をぶつけている。さっきまで人族と戦おう殺そうと騒いでいた者達は静まり、妖界の強者であろうヌラリヒョンさんを引き入れようとしている。
 嘘でしょ……。
 斬られた方がマシだと言ったくせに他人を頼るの? プライドないの? ヌラリヒョンさん鬼じゃないけど?
 遠野で妖をまとめる彼が何を言うのか、私も生唾を呑んで見守った。

「……ふむ。儂個人としては興味を惹かれぬ話だったな。死にたくなければ人族に頭を垂れ、江戸内に妖族自治の区画を創る事も方法の一つだ。人斬りが憎いのなら総出で殺せば良かろう。力ある者が勝つのは妖の常識ではないか。勝てる気がしないからと言ってこんな老いぼれの力を借りるなど都合が良すぎるのではないか?」

 突き放した意見に私は胸を撫で下ろした。ヌラリヒョンさんが変な闘争に巻き込まれるなんて冗談じゃない。

「……其方はどう思う?」
「へ!? 私!?」

 ヌラリヒョンさんの不要な一言のせいで一斉に注目される。
 え、どうしよう。なんで。え? え? 嘘でしょ。

「き、斬られるのは可哀想だと思いました。小さい子が斬られているのは……惨いと思います。でも鬼の方々のやり方は聞く限り好感は持てませんでした。人族同様です。何故双方話し合いを選ばないのか、私には理解し難いです……。襲われれば怖いです。襲えば恨みを買います。武力では根本的な解決へ導けないと思います」

 言葉を選びながら、考えを吐露すると、ここにいる全員が私を敵と認識したのを空気で感じた。
 やっぱり嘘ついて適当な事言った方が良かったかな。でもヌラリヒョンさんがわざわざ私に問いかけたという事は、正直な答えを欲していたからだと思った。妖族が自分の都合の良いように解釈する事に関係しているのか知らないが、自分の立場をはっきりさせておこうと思った。

「なるほど。中立か。ならば儂もそれに倣おう」

 声高にヌラリヒョンさんは宣言する。

「其方らに力は貸さぬ。だが人族にも手を貸さぬ。鬼斬りが儂らを斬るならば迷わず切り伏せよう」
「総大将!! 何故あんたは人族を連れている! 何故人族を守る。おかしいだろう。あんたは妖の総大将、妖の為に立つ者じゃないのか!!」

 ヌラリヒョンさんは静かに見据えて、はっはっはっといつものように大声で笑った。私をがしがしと雑に撫でる。

「儂は己が守りたいものを守るのみよ。そこに種族の壁はない」

 公衆の面前での触れ合いに赤くな……ることなく青ざめた。

「……ならあんたも敵だ。特にその人族は殺す。家族の恨みを晴らしてやる!」

 私無関係なのに!?
 驚いている間にも鬼たちは、拳や武器を構えて私を襲ってきた。ヌラリヒョンさんは剣を抜いてなんとかしてくれているが何分数が多い。

「其方は自分の事だけ考えろ」

 それって邪魔にならないように逃げた方が良い?
 でも捕まったら迷惑だよね?
 私の理想はヌラリヒョンさん共々無傷で切り抜ける事なのに。
 ……いっそ、人を呼んでしまおうか。大声で。

「誰かああぁ―ーー!! 助けてええぇーーーーー!!」

 なりふり構わず叫ぶと、紅白が私の視界を遮った。その次に見たのはほとばしる赤。
 叫び声と悲鳴に彩られた鮮烈な紅に目を奪われた。

「ようやく見つけた。残党が綺麗に集ってくれて助かるよ。弱い者ほど群れるってヤツ、僕は案外嫌いじゃないよ」

 にやりと笑った黒髪の少年は返り血に塗れていた。私ははっと我に返る。身長よりも長い刀を携えた少年の足元には血を吐く鬼がいた。

「ヌラリヒョンさん!!」

 私がヌラリヒョンさんの下へ行こうとすると少年が私を掴んだ。

「危ないから下がってなよ。……うん?」

 私をじろじろと眺めた。

「……あれ。人族と思ったから助けたのに、君…………人間じゃないね」

 ……え?

「神でもないってことは妖かな。じゃ、死んでもらって良さそうだね」

 事務処理のように淀みのない行動に私の思考はついて行けなかった。
 人を殺すことに何の躊躇いもないことが信じられず、彼は悪い冗談を言っているのかと思った。
 気付いた時にはヌラリヒョンさんと少年が獲物を合わせていた。

「邪魔しないでよ。あとで君も斬ってあげるからさ」
「其方が鬼斬りか」
「かもね」

 ヌラリヒョンさんに怪我はない。今は。
 鬼斬りは私よりも小柄なくせにヌラリヒョンさんの斬撃を難なく受ける。刀身を傾けるだけで剣を翻弄していた。
 あのヌラリヒョンさんが顔を歪めている。
 今まで会った人たちとは格が違う。悪霊よりもこの人は強いかもしれない。

「はは。結局鬼斬りを斬ってくれるんじゃないか。良かった」
「ヌラリヒョン殿が止めている間に早く」

 いやいや、なんで逃げるの。ヌラリヒョンさんは流れで仕方なくだよね。ねぇ、さっきまであなたたちが襲ってきたんだよね。鬼斬りもあなたたちを追ってきたんだよね。殺すだなんだ言ってたなら今が大チャンスだよ。
 ねぇ、どうして。なんで。どうして。

「其方も逃げろ。儂のことは気にするな」

 なんでヌラリヒョンさんを置いていかないといけないの……。今逃げたらさっきの鬼たちと一緒だよ。そんなの嫌だ。

「ヌラリヒョンさんは私の護衛なんだから私だけ守って!! 一緒に来てよ!!」

 私の叫びに振り向きもしない。
 当然だ。
 余所見出来るほどの余裕がない。それだけ鬼斬りは強敵なのだ。誰を守るにしても、ヌラリヒョンさんは一人で抑えていなければならない。
 私は、逃げた。
 ヌラリヒョンさんを置いて。
 鬼たちと同じだ。強者であるヌラリヒョンさんを犠牲にして、弱者だけが血を流すことなく逃げている。
 ヌラリヒョンさんはただのおじいちゃん妖怪だ。鬼斬りとは関係ない。江戸にも用がない。私と鬼に巻き込まれただけの不幸な犠牲者だ。一番戦う理由のないひとが、剣を交えて命のやり取りをしている。
 ……そんなの、おかしいよ。
 ただ守られていて良いの? 逃げているばかりで良いの?
 そんなんだから強くなろうとする気持ちも生まれないんじゃないの。自分が受けた傷だけはいつまでも覚えていて、他人が受けた傷は軽く考えている。
 私は踵を返した。さっきよりも速く走って、戻った。
 誰も守らなければヌラリヒョンさんは逃げられる。私や鬼があのひとを縛らなければ。守る必要がなくなってしまえば。

「ヌラリヒョンさん!」

 二人はまだ戦っていた。ヌラリヒョンさんの黒服が何ヵ所も破れていて、僅かに見える素肌からは出血が見てとれた。

「私の事も誰の事も守らないで! 自分のことだけ考えて!!」

 鬼斬りが私へと標的を移して走り寄って来たのが見える。私は、それでいい。鬼斬りの肩越しにヌラリヒョンさんが見える。私が川に引きずり込まれた時や悪霊に斬られそうになった時に出る、綺麗な顔を歪ませて狼狽する表情と目が合った。
 巻き込んでごめんなさい。
 鬼斬りが振り被った刀は真っ直ぐ私目掛けて落ちてきた。
 鋭い金属音がして、少年は一歩引いた。私は特に痛むところはない。そもそも刀が私に触れもしなかった。どうしてなのか判らないが、鬼斬りも困惑しているようだ。

「……なんなの君」

 でもそんなのどうでもいい。チャンスだ。

「ヌラリヒョンさん逃げて!」

 ヌラリヒョンさんは鬼斬りにもう一度斬りかかったが、あっさりと止められ、鬼斬りは更に後退した。

「……変だな」

 鬼斬りは自身の刀を見つめて首を傾げている。
 遠くで建物が崩れる音が鳴り響くと煙が上がった。半鐘はんしょうの音がカンカンと鳴る。

「火事か!」

 ヌラリヒョンさんが私の手を引いた。

「撤退しよう、二人でな」
「はい!」

 綿の手袋越しにぎゅっと握りしめた。だが鬼斬りは私たちを追いかけてくる。半鐘の音があちこちで鳴っているのに。武器のない私は口を動かした。

「人族を守りたい癖にここで私たちを切っている場合なの!」
「火消しに任せればいいよ。僕の仕事は斬る事だ」

 頭がおかしいのではないのかこの人。
 でもどうしよう。このまま逃げ切れるのかな。二人でって言ってくれたけど、ヌラリヒョンさん一人の方が助かる可能性が高いことには変わらない。寧ろ今の状況が一番ヌラリヒョンさんにとって危険なんじゃ……。
 カンカンと一定の間隔で鳴っていた半鐘のリズムが大きく変わった。

「今度は悪霊!?」

 ようやく鬼斬りが私たちから意識を逸らした。跳ねたリズムを奏でる半鐘の方へと走っていった。とりあえず脅威は去ったと見て良い、のだろうか。だが悪霊が江戸に入り込んだなんて。

「儂らは逃げるぞ。まずは状況把握が先決だ」
「はい」

 私たちは崩れていく江戸の町を走った。
 木造建築ばかりの江戸は火の波が建物を次々と飲み込み、町が真っ赤に揺らめいていた。どの路も家財を荷台に乗せている者達で渋滞していたが、軽い荷物しかない私たちはそれらを尻目に住民たちの隙間を通り抜けていく。泣きわめくのは子供だけではない。大人も同じだった。皆が恐怖していた。火事に、悪霊に、日常が壊れていくことに。
 江戸の象徴である江戸城からも黒煙が立ち上っていた。江戸城の周囲を取り巻く外濠から水を引っ張ってきているのか水が空に撒き散らされている。全焼は免れそうだが、中の被害状況が判らない以上楽観視は出来ない。
 確か江戸は水路が多かったはず。現代の東京を見ると判らないかもしれないが、昔は水の都で水路が町中に通っていて舟運を支えていたのだ。もし八百万界の江戸が日本の歴史と同じならばこの水を利用すれば火災の被害を抑えられるかもしれない。でも、そう思っただけで、特別何か行動しようという気にはなれなかった。今は自分がここから逃げられるのかどうかで頭がいっぱいだった。大勢の住民を助けないと、と立ち上がる勇気も余裕もない。そんなことより何よりヌラリヒョンさんと一刻も早く安全な場所へ行きたかった。そこでヌラリヒョンさんの手当てをする事の方が最優先事項だった。
 逃げる最中、鬼たちを見つけた。彼らは私たちを見て何も言わなかった。逃げる事に必死だった。妖たちの流れに乗って私たちは走り続けた。

「駄目だ! 悪霊だ!」

 集団を遮るのは悪霊の軍勢だった。遠野で見た鎧の悪霊たちが隊列を組み、逃げる江戸の住民たちを工場のライン作業のように、サクサクと大型の槍で刺し殺し、手斧の悪霊はくるくると回って人を細切れにしていた。
 逃げていた江戸の民が逆流する。押し流されていく。このままだとはぐれてしまう。
 すると、ヌラリヒョンが私の手を放した。

「すまぬ」

 ヌラリヒョンさんは謝って、剣を天に向けて叫んだ。

「集え!」

 何度も見てきた百鬼夜行の号令。
 地上が炎できらきらめらめら明るい中で、ここだけが闇色に染まっていく。ヌラリヒョンさんは逃げ惑う住民とは反対に悪霊の方へと足を運ぶ。

「ここは儂に任せて、其方らは別方向へ逃げろ!」

 其方“は”ではなく、其方“ら”と言った。
 弱い私の為に、同族の為に、江戸に住む人や神の為に戦おうとしていた。
 たった一人で立ち向かっていた。
 私は────。

「……ご武運を」

 ヌラリヒョンさんはいつもみたいに笑って、行ってしまった。刀身に残っていた血を撒き散らしながら、黒い軍勢に呑まれていく。
 私も、自分の身の事ばかり考えている場合ではない。
 私が遠野を出た目的を、今一度思い出せば、もうやるべき事は判り切っている。
 鬼たちの中で足を負傷し動けない者がいた。誰かが補助していたようだが、足元を見るとどうやらそのひとは死んだのだろう。悔し気に地面を叩く彼に手を貸した。だが叩き落とされる。

「触んな! 人でも妖でもねぇ半端もの!」

 大声をあげると患部の包帯が放射状に赤く染まった。止血が出来ていない。このままでは失血死するだろう。私は彼よりも大きな声で罵った。

「手を借りなきゃ歩けないひとが偉そうな事言わないで! 助かりたいなら最後まで他人を利用しなさいよ!」

 彼の手を引っ張り私の首に回させて「うぐっ」と力を入れて立ち上がった。成人男性の体重はかなり重いが、彼の片足が無事なお陰で全体重を背負わずに済んでいる。私が歩いても彼は足を動かさなかった。

「私、引きずれるほど力ないんだけど」

 だが頑張れば出来るかもしれないと一度引っ張ってみた。
 ……やっぱり駄目だった。もう一度、息を整えてからやってみよう。
 せーので息を止めて力いっぱい引っ張った。すると遅れて彼が私の肩に体重を乗せ、一歩、前へ進んだ。
 私が歩いて、彼が一歩飛んで、私が歩いて、彼が一歩飛ぶ。
 あとはこれを繰り返すだけで、私たちはちゃんと前へと進む事が出来た。頭の中でカウントを取らなくても、もう彼のリズムは覚えた。

「……あんたは鬼の俺を助けるのか」
「この状況下で種族云々言える余裕があるなら大丈夫そうだね」

 つい笑ってしまった。不思議と笑みが込み上げたのだ。悪霊と火事で江戸が壊れようとしているのに。

「ヌラリヒョンさんを盾に仕立て上げた責任として、私たちは無事でいなきゃ駄目だよ」

 後ろを振り返る気はないが、きっとあのひとは無事だと信じている。だから私もあのひとが守ろうとした気持ちを守らないと。

「まだ江戸観光出来てなかったんだけどな……」

 戦闘機やミサイルがあるわけでもない八百万界では、ただの歩兵部隊に鎮圧されてしまう。外敵に対抗する造りをしていないせいだ。でもそれは、八百万界が悪いわけではない。侵略する方が悪いのだ。それまで八百万界はずっと平和に過ごせていたからこその軍事力の低さなのだから。
 ……呆気ない。
 こうやって各地で町が潰され、最後には遠野のような田舎も制圧されてしまうのだ。
 虚しい。
 一日も経たずに、町って壊れてしまうんだ。脆いものなんだ。ほらまた、転々と立っていた櫓の一つが崩れていった。櫓なんて領地外からの敵には有効だが、こうやって内部に入られてしまえば意味なんてない。
 ──刹那。
 江戸に光の柱が立ち上った。
 天をも貫く光が七つ。

「なんだあれば」

 鬼達も知らないようでなんだなんだと口々に唱えている。
 光の柱は次第に太くなっていき、途端に弾けたと思うと辺り一面光で呑み込んだ。
 目を開けても何も見えない。音も聞こえない。
 混乱している間に、視界を埋めていた光が一気に晴れた。
 肩が軽い。私が引っ張っていた鬼がいなかった。いや、周囲の鬼たちが全員消えていた。だが、場所は先程の立ち位置から変わってはいない。妖たちの集団がごっそり消えてなくなっていた。

「いなくなっちゃった……?」

 死んだ、のだろうか。だったらヌラリヒョンさんは……!?
 誰もいなくなった道を私は逆走した。あれだけ歩きにくかったのが嘘のように、人々はいなくなっていた。火事も悪霊もそのままなのに。

「……はは。それはないって」

 江戸城以外高い建造物のないこの町で、黒い鎧が動いていた。その巨体は猫背で両手には大きな槍がついていた。
 まさかとは思うが、あれは巨大化した悪霊なのだろうか。
 大怪獣じゃん。某映画製作配給会社の水爆大怪獣じゃあるまいし。
 あはははははははは──────!!
 私の足は急に動きを止めその場に座り込んだ。ふいに日本での日々が蘇ってきた。



(2021.5.25)