アマツミカボシと過ごすxx日-3-


「主サン、これアタゴから差し入れってさ」

サンキボウから受け取った柔らかな葉の包みを開くと、なにやら木の実らしきものが現れた。

「これなに?」
「かなり美味い実。名前は知らん、けど美味い!」

折角なので一つ食べてみると、僅かな甘味があって癖がない。

「……これ、美味しい」
「だろ!」

手が汚れないし、食事を忘れがちな私には向いているかもしれない。

「そういやさ、和州でも悪霊見かけるようになったって、さっき天狗仲間から」

和州とは八百万界の中にいくつかある聖域の一つだ。
強大な地脈の力が流れており、三種族の誰もがあの場所を畏怖する。

「でさ、今から行ってみようと思うんだよ」
「うーん……他の子に行ってもらったら?」

全種族が手を出せない場所という事は、誰の物でもない空白の土地だ。
それ故に聖域を巡っての争いが度々勃発するので、英傑達には出来るだけ関わらないように言い含めている。
その天狗仲間と英傑のサンキボウがうろついているのを目撃されては聊か厄介そうなので当然反対だ。せめて種族混合が良い。

「いや、俺が行きたいんだ。
 ……実は仲いいヤツがいてさ、そいつが怪我したっていうから顔出したくって」

サンキボウなら私が渋る理由を承知しているだろう。
ならば引き際も心得ているはず。

「判った。じゃあ行ってらっしゃい。何か困った事があればすぐに連絡してね」
「ありがとな、主サン。ちょっくら行って来る。すぐ戻るから!」

部屋の紙が舞ったかと思うと、もうサンキボウはいなかった。
自慢の羽で八百万界中ひとっ飛びである。様子見だけなら今日中に帰ってくるはずだ。
次のお伽番を頼まなくとも良いだろう。
私はその間にも次の事をしなければ。
と、その前に。私はある貴族へ手紙を書いた。
聖域に妖族が集まっているが、悪霊討伐の為なので手を出さないように。という内容だ。
認《したた》めた手紙を地図と共に、報告に来てくれたサルトビサスケに渡した。

「帰還したばかりでごめんね。これ都までお願い出来る? 詳しい地図があるから、それを見て」
「承知した」

サルトビサスケの足ならすぐに目的の場所に着くだろう。

「……さて、次はっと」

いつものように淡々と仕事を進めていると、つい癖でサンキボウに頼みそうになる。
普段から何でもお願いしている弊害だ。それだけサンキボウは優秀で心の拠り所なのだ。
この前だって彼の前でぼそりと、英傑の皆と距離が出来て寂しいと言うと、

「一生懸命仕事してるもんなあ。でも確かに部屋に籠りっぱなしだから他のヤツらは判んないかもな。
 それに俺が主サンの事独り占めにしすぎたのが悪かったりしてな、ははっ」

と言って笑い飛ばすので、私の寂しさも吹き飛んでしまった。
自分で言っておいてなんだが、こんな後ろ向きな事言われてよく返せるなと感心した。

「主サンの頑張りは絶対みんなに伝わるから。俺もどんっどんっ伝えてるし。
 ただこういう小さい事ってなかなか結果でなくてもどかしいかもだけど、一緒に頑張ろうな」

そう満面の笑みで言ってくれた。
サンキボウの言葉はいつも私を元気づける。
交代制で始めたお伽番がいつの間にかサンキボウばかりになったのは、個人的なと贔屓だ。
サンキボウの前だとつい弱音を漏らして、力強い肯定を求めている。
いつもいつも本当に救われている。
暫くいないのは少し不安だが、帰ってきたら驚いて貰えるくらい仕事を終わらせてしまおう。

お伽番不在でも仕事は滞りなく進行し、日中にあのわさわさ動く羽が見られなくて物寂しさを覚える中、サンキボウはなかなか帰ってこなかった。
一日経ち、二日経ち、────サンキボウが帰還したのは実に三日後の事だった。
それも丁度私が外出していた時で、本殿に着いてすぐクラマテングが駆け寄って来た時には驚いた。

「独神さん。……落ち着いて聞くのだ。良いな?」

私はその言葉を聞いて、きっととても引きつった顔をしていただろう。
だが己は"独神"である事を言い聞かせ、クラマテングに頷いて見せた。

「サンキボウが人族と天狗の争い中に負傷した。
 心配だろうが独神さんは見るべきではないし、サンキボウ自身も見られることを望まないだろう」

かぁっと熱くなる身体を必死で留めた。

「この件については私ではなく、天狗四十八傑の代表であるアタゴテングから話がある。
 あと部屋に行かせるから、それまではいつも通り執務に取り組んでもらいたい」

私は小さく頷くことが精一杯だった。
余計な事を言わないよう落ち着いて言葉を返す。

「サンキボウにお大事にって伝えてもらえる。あとは元気になってから伝えるから」
「承知した。必ずサンキボウに独神さんの言葉を伝えよう」
「お願いします」

執務室へ戻り、いつも通り淡々と仕事をこなした。
毎日同じ部屋に閉じこもって作業をするだけの私が知る八百万界なんて、この大量の手紙と、庭先だけだ。

四方を海で囲まれる小さな島国、八百万界。
それが今にも滅びようとしている。
……しかし、惨状を殆ど目にしていない私に実感はあまりない。

毎日のように運ばれる負傷者、救援要請の文字が多数の表現で書かれた手紙。
私はいつも想像力を働かせて、血濡れの戦場や手紙の向こうにいる人の事を想い心を寄せる。
いや、必ずしも想わなくて良い。
適切な行動さえ出来れば心なんて実の所関係ないのだ。
独神の心とは、結果なのだから、
努力の量や、費やした費用、兵の数は関係ない。
結果を出せば救世主。
結果が出せなければ災厄。

そうやっていつも一歩引いて見ていた私であるが、今回の件については燃え上がる怒りに打ち震えていた。

危惧していたことが起きた。それも、一番最悪の形となって。
人族は天狗に手を出した。
妖族に聖域を犯され、支配されると焦ったのだろう。
何を馬鹿な事を考えているのか。そんなわけがないのに。
天狗にはそれぞれ縄張りがあり、聖域と呼ばれるところを支配しようなどという野心は皆無だ。
欲のまま生きる妖族の中で規律がある、模範的な種族なのに。

「ご主人、いるよな?」

入ってきたのはジロウボウで、腕には治療の痕が見受けられる。
彼は私の隣まで来て立ち尽くすので、座るように指示し私も彼の方へと向き直った。
膝の上で握る拳は震え、口は真一文字に引かれている。
重々しい口が開くのを待った。

「……悪霊が出たって天狗仲間から連絡が来たんだ。
 比良山にまで言うくらいだから、オレたちも結構な眷属を連れて向かったんだよ。
 その間にサンキボウも来たし、他の英傑にも連絡したのもあって悪霊の方はどうにかなりそうだった」

でも、という二文字の後に続いたのは、床を殴った音であった。
治療済みの拳から血が滲んで床を汚した。

「その時に人族が来た。それも武具を揃えて。戦をする気満々なのが判った。
 援軍なんだろうって信じてた。最初はな。
 ……後は判るだろ? 人族は撤退する悪霊じゃなくてオレたち天狗を襲ってきたんだ。卑怯者どもめ!」

怒り一色に染まる瞳を見て、私、は何も言えなかった。

「ご主人のことが無かったら、とっくに皆殺しに行ってる」

天狗たちは独自の共同体に所属しており、同族の結束が特に強い種族だ。
敵《かたき》を討ちたくてしょうがないだろう。

「……この後、アタゴテングと話すよ。独神として」
「ああ。異論はねえ」

本当はあるのだろう。
わざわざ来たくらいだから。

「……なあ、サンキボウの事どれだけ聞いた」

その名前を聞くと、落ち着けなくなってくる。
でも”独神”の私は抑えた。

「聞いてないよ。本人と話すつもりだったから」
「だよな。話すなってアイツ言ってたし」

ジロウボウは独神の皮を必死に被り続ける私を見据えた。

「アイツが怪我したのは天狗と人族の仲裁をしたからだ。人族に必死になって説明してた。
 悪霊を倒しているだけですぐに撤退する、だから信じて欲しいって」

……。

「戦う気のない無抵抗のアイツに、人族は躊躇いもなく武器を振るった。だから、一番酷え有様になった」

動悸がする。もうそれ以上、言わないで欲しい。

「言うなってのはご主人が気に病むと思ったんだろうが、俺はアイツがただの力不足で負傷したんじゃなくて、
 アンタの意思を尊重した名誉あるもんだって、ご主人にこそ判って欲しい。
 背中の大傷は決して逃亡や力不足でついたもんじゃないってな」
「背中ってなによ」

思わず身体を乗り出した。

「じゃあ翼は」

ジロウボウは目を逸らし、ぎりぎりと歯を鳴らした。
私は浮きかけた腰をすっと下ろした。

「……そう……」

爪先から毛髪に至るまで広がる感情を抑えて、ジロウボウに命令した。

「下がって」

ジロウボウは黙って出て行った。
戸が閉められた途端両目から涙が流れていく。
惨い。あまりに酷すぎる。
サンキボウが傷ついたのは悪霊ではなく、同じ八百万界の生物によるものなんて。
そんな事をさせてしまった責任の一端は自分にある。
なぜ私の意向を守らせてしまったのか。
サンキボウの実力なら傷を負わずに済んだのに。

止めどなく泣いていると、アタゴテングが音もなく部屋に現れた。
いつも掴みどころがなく飄々としている彼だが、今は目を伏せ沈鬱な表情をしている。

「僕が話す前に、ジロウボウが話したみたいだね」

私は袖で涙を拭き、頷いて肯定した。

「僕も天狗四十八傑をまとめる身だ。今回の事は何もないまま流す事は出来ない」

判っている。

「主君。僕たち天狗としては、今回の事は件の人族に責任を取ってもらいたい。
 そうでなければ、いくら僕であっても今回の件は抑えきれないだろう」

寧ろ天狗はこの状況下でも冷静な方だ。
アタゴテングに絶対の信頼があり、権限があるからこそ治められている。

「……一度、人族から話を聞きましょう。それから判断させて」
「勿論だとも。言い分を聞く時間くらいは天狗たちを抑えておこう」

天狗四十八傑の長はそう言って退室した。
問題は人族の方である。
私は即座に私が手紙を送った相手を本殿に呼び出した。
馬を使っては遅いと、アベノセイメイに頼んで龍脈で即座に連れてきてもらって。

私が呼びつけた者は、貴族の一人である。
位は低く、専ら八百万界についての研究をしているという周囲からは変人扱いされている者だ。
彼を私の前に座らせ、人族視点からのあらましを聞かせてもらった。

要約すると、都で有名な将軍が私の手紙を盗み見て、聖域に群がる天狗から聖域を守ろうとしたそうだ。
英傑を負傷させた将軍は、現在人族によって賞賛されているんだとか。
頼れる大将軍。今後の八百万界を率いるのは彼かもしれないとかなんとか。

……ほんっと下らない。

「その将軍とやらを引っ張り出して、今回の責任を取ってもらいましょう。
 とはいえ、見せしめになんてしたら、人族が黙っていない。
 その辺は上手く舞台を整える必要があるでしょうね」

人族から見れば将軍は英雄だ。誉れ高き戦士だ。
聖域を守った事で、妖族に八百万界内での重要地点をとられずにすんだのだから。
そんな英雄に天狗に手を出した報いを受けてもらうとなると、かなり裏で暗躍する必要がある。
私の苦手分野だ。英傑達にかなり助力を乞う必要がある。

「私はなるべく平和的な解決を望んでいます。ここにいればあなたも安全でしょう。
 今日は休んで下さい。私の方で情報を集めていきます」

話を聞いている内に夜もすっかり更けていた。
食事を取れないという彼には少しでも滋養をと温かい汁物を与え、一番安全であろう私の部屋に従者と共に過ごしてもらった。
その間、私は本殿を駆け回り、英傑達からの考えを聞き、情報を集めて、これからどうするかを話し合った。
私の主張は、諸悪の根源である将軍とやらに責任を取らせ、私の部屋で震えている彼にも形だけの責任を取らせる事だ。

「ゴシュジンも馬鹿だな。んなの全員殺しちまえばいいのに」
「それだと悪霊より私が侵略者だよ……」
「ははっ、良いじゃねえの。救世主の闇堕ち展開」

不謹慎な事ばかり言うロキだが知恵は貸してくれる。

「コソコソ裏で手を回すようなヤツはそんだけ弱味もあるってこった。
 面白そうだから今回はおれが内部で動いてやって良いぜ。
 突然新顔が増えると怪しまれるだろうが、こういう時は台所からの侵入が狙い目だ」

変身して乗り込む気になったロキに、ヒカルゲンジが制止をかける。

「お上。確かに彼は天狗たちに許されない事をした。
 だが、我々人族から見れば彼は英雄だ。
 平時では歯が立たない天狗に果敢に立ち向かい、独神率いる英傑を負傷させるほどの実力を証明したのだから」
「その人そんなに慕われているの?」
「かなりの人気だ。人族は他種族と比べると弱い者が多いからな。
 腕の立つ武芸者は特に人気が集中する。特に今はこんな時勢故、拠り所を皆が求めている。
 彼はそんな弱い民衆たちの憧れであり、命綱であり、希望なんだ。
 俺たちにとっての、お上のように」

当たり前だが、粛清相手が八百万界の民だと一筋縄ではいかない。
民にとって自分を救う者は誰でも良い。だが同じ種族の者だと尚良い。
というのもだ。民は個人であるが、社会集団に必ず属している。
近所の組合であったり、村であったり、地方であったり、種族であったり。
この属する集団を自分の一部と考えており、集団が優れていれば自分が優れているように感じるのだ。
地域別で水泳や相撲をやってみると、興味が無くてもなんとなく自分が住んでる地域の方を応援してしまうのと同じである。
だから、救援に英傑を派遣しても同種族であると一層感謝される。

「だが、何もしないわけにはいかないだろう。
 同族が犯した罪をそのまま放置していれば、善良な人族までも妖族全体に目の敵にされる。
 今回は人と妖であったが、神族としても他人事じゃない。
 もし神族なら、当然同じ神族がさっさと落とし前をつけさせるもんだがな」

と、オオクニヌシが言う。

「神族は親族だろうと平気で斬るからな。……まあ、人族は人族で裏で糸を引いて姑息に陥れるだけでやる事は変わらないが」

自身の体験もあってかミチザネは力のある言葉を放つ。

「主《あるじ》殿は心配するな、俺に任せておけ」
「お願いします……。協力して欲しい英傑がいるなら声をかけてくるよ」
「いや、いつも通りにしていろ」

組織の上に立つ者が下手に動くものではないと諭され、私はもう寝ろとまで言われた。
こういう事に私は向いていないし、弱味を見せない為にも堂々とする方が大切だと。
みんなが口々にそう言うので、私は言われた通りに執務室へ戻った。
もう、空が白み始めている。
本当ならば隣の部屋の自室で寝る所だが、今日は客人がいるので執務室で寝る。
いそいそと蒲団を敷いていると、私室の引き戸が開いた音がしたのでそちらを見た。
あの人はやはり眠れないのだろうかと、部屋に近づくと、────世界は暗転した。


次に目が覚めた時には太陽がすっかり昇っていて、昼であると判った。
そして自分がいるのは霊廟である事を。
私は飛び起き、アカヒゲがいるであろう部屋を開けると、そこにはアタゴテングが座っていた。

「おはよう主君。もう昼だから、こんにちは、と言おうか」
「アタゴテング……。ねえ、私どうしてここにいるの?」

無表情のまま、アタゴテングは淡々と伝えた。

「主君。終わったよ。僕たち天狗はこの件について、一切の遺恨を残さないと誓う」
「突然何言ってるの……」

状況が理解できない私にアタゴテングから事後報告を聞かされた。
あの夜、私は客人と従者に頭を殴打されて気絶したらしい。
そして客人は、天狗の長であるアタゴテングの元に行ったそうだ。
そこで自分の命と引き換えにこの対立を治めてもらえないだろうかという提案をした。
天狗たちは話し合い、ある事を条件にその要求を呑んだらしい。
そして彼は死んだそうだ。天狗もそれでおしまい、と。

────これで、私が納得できるとでも?

「私が他の英傑と話し合ってた事、お願いした事知ってるよね?」
「承知している。そして彼らにもちゃんと事情を話し、納得してもらった。
 ……多少、武力を行使したが」

ねじ伏せただけだ。納得とは程遠い。
だが天狗以外の者が多い本殿で天狗たちの要求が通ったという事は、一応納得したとみなしていいだろう。
…………それとも。独神より天狗を優先……指揮命令系統の破綻……か。
動悸がするくらい気になるが、それは後にすべきだ。一気に頭の隅に押しやる。

「死体は。従者がいたよね。その人はどうしたの。
 それにたった一人の人族が死んだからって、天狗の被害を考えれば等価とは言えないよね。
 どういうこと。大事な部分は何も言ってないよね?」

畳みかけるように質問していくが、アタゴテングはぼんやりとした顔をするだけでまるで聞いていない。

「主君。終わったんだ。もう君が関与する事ではない」
「納得できるわけないでしょ。悪いのはあの人じゃない。罰せられるべきものは別にいる。
 アタゴテングなら聞いてるでしょ? ねえ。どうしてあれだけ怒っていた天狗たちが納得出来たの?」
「終わったんだ」

アタゴテングはそれしか言わない。

「いい加減にして! さっきからそればっかりで納得できるわけないでしょ!」

霞に話しかけているような空虚さに苛立って声を張り上げると、
アタゴテングの空色の瞳が私をじっと見つめた。

「主君。これはあの人間と僕たち天狗の話だ。
 例え独神であろうと、この件について何も語る事は出来ない。
 君が僕を脅し、刃を心臓に突き立てようとも、僕は何も語らず大人しく死を受け入れよう」

求める答えは判らなかったが、聞くのは無駄と判った。

「……それで、独神はどうすれば?」
「サンキボウに会って欲しい。
 皆が手を尽くしてくれたお陰で、異常な速さで治っているよ」

飛び出した。
英傑の気配がする霊廟の戸を開けると、包帯だらけのサンキボウが布団に横になっていた。
急いで駆け寄ると翼の負傷で仰向けで寝られないようで、横を向いている。
頬に触れると、ぱちりと目を覚ました。

「主サン。おはよ……って時間じゃないか? もしかして」

弱弱しくとも久しぶりに声を聞くと、胸に込み上げて来た。
出来るだけ優しい言葉で語りかける。

「おはよ。……傷はまだ痛む、よね」
「まあまあだな。ここ霊廟の中でも一番治りが早い部屋だし、そんでもって治癒能力あるヤツらが治療を助けてくれたんだと。
 ほんと、みんなに感謝だよな」

見るとぴくりと羽が動いた。神経がちゃんと繋がっている。
私は胸を撫で下ろした。

「主サン。今回はごめんな。すぐに戻れなくて」

こんな時まで私の事を気遣うなんて。
堰を切ったようにぶわっと涙が溢れだして、私は首を振った。
ごめんなさいなんて言う必要はない。サンキボウは何も悪くない。

「それに悲しませるような事しちまったな……。アタゴ、何も言わなかったろ?」
「ん。……なにもおしえてくれなかった」
「悪ぃな、俺からもなんにも言えないんだわ。
 でも、主サンが心配する事じゃない。それに主サンはなーんにも悪くない。
 色々気になっちまうだろうけどさ”終わった”事なんだ。これ以上はもう、……忘れてな」

サンキボウまでもがそう言うなら、これ以上関与する必要はないのかもしれない。

「……ほんとうに、わすれてもいいものなの?」
「うん。忘れて良い。寧ろ忘れてくんないと困る。もし辛いなら、俺の法力で記憶消してもいいぞ」

……死んだあの人は、とてもいい人だった。
人族と天狗、いや天狗に限らず妖族や神族とどうやったら手を取り合えるかと考えてくれる人だった。
三種族が共に手を取り合うと言う私の理想に賛同し、協力してくれていたのに。
死なせない為にここに連れてきたのに、裏目に出てしまった。
いつもそう。死ぬ必要ない人ばかりが先に逝く。

「泣いちゃうなら、やっぱり消しちまおう。これは主サンが抱えなくていい事なんだ」

サンキボウの指が両目からぼろぼろ零れる涙を拭い、額に触れた。
妖力が頭の中に入っていくのを感じる。
このままじっとしていれば、該当する記憶は消えて、私は何事も無かったかのように過ごすのだろう。
それが良いと言うならば、こんな後味の悪い辛い出来事なんてさっさと忘れてしまおう。

"痛みを忘れるな"

誰かの言葉をふと思い出し、私はサンキボウの手を剥がした。

「消さない。覚えてる。でも二度と口にしない。だから、消さないで」
「本当に良いのか……? この件は主サンをすっかり蚊帳の外にして全部が回っちまうんだぞ。
 主サンが出来る事はないし、気に病むことだってない。責任なんて感じなくて良いんだ」
「天狗の皆を邪魔するような事は絶対にしない。誓うよ。
 そりゃ辛いのは辛いし、何も教えてくれないからもやもやして気持ち悪くて、感情の行き場がないけど。
 ……でも私、独神だし、主だから、私がやった事もみんながやった事も、犠牲になった人も、なかった事には出来ないよ」

そう言うと、今度はサンキボウが泣きそうな顔をした。

「独神とか、主とか、関係ないって。
 だって、”お前”は辛いんだろ? だったら、お前が苦しまないのが俺にとっては最優先だ」

私のせいで怪我したも同然なのに。どうしていつも、私の事ばかり……。
心苦しい気持ちは抑えて、私は主らしく笑顔を浮かべた。

「ありがと。いつも私の心配してくれて。でも私は大丈夫」
「主サンがそう決めたなら……。でも、考えが変わったらいつでも言ってくれよな」

不安げな顔を払拭出来るよう、独神の私は力強く頷いた。







天狗の皆が異口同音に言った。
「もう終わった事」
その言葉通り、あの出来事は私の知らない間に動いていった。

町の噂を耳にした。
諸悪の根源である将軍は買った女に殺されたとか。
前妻に殺されたとかなんとか。
美しい顔をした青年だと言う者も
死んではいないという声すらある。
人格が変わりまるで人ではなくなったようだとも聞いた。
妖族を傘下に収めたという声もあったような……。
等、流石人族の人気者。町の噂故に尾ひれも相当な数で真実がまるで判らない。

英傑に聞けば本当の事を知ることは出来るだろうが、私は調べないでいる。
普段なら先回りして報告してくれる忍たちが私に一切の情報をもたらさない。
主の心情をよく察する優秀な英傑達だ。……それとも、私は自分たちの主には相応しくないと考えて怠慢しているか。
どちらでも構わない。私自身、あの事件の顛末を知る気があまりないからだ。

アタゴテングの言葉を聞くに、私の昏睡中に何らかの術、儀式を行った事が想像できる。
天狗は妖族の中でも他種族に友好的なのは周知の事実だが、それは正しくもあり、誤りでもある。

仏教には六道という考えがある。
生きとし生けるものは、生前の行いによって死後六つある行き先(道)が変わるのだ。
だが、死後の行先はもう一つあると言われる。それが天狗道だ。
天狗道に堕ちた者は六道の輪廻から外れ、救済不可能と言われている。

と、これはあくまで人族が考えた仏教の話である。

話を戻すが、そんな恐ろしい行先の名前に「天狗」の文字が使われるのには勿論意味がある。
自然を愛し、仲間を愛し、それなりに他の者も愛する天狗たちは、実際は底が知れない恐ろしい妖たちだ。
私自身はサンキボウを始めとする天狗達とそこそこ友好的なので真に理解している訳ではないが、昔の書物を読むと折々記述がある。

天狗を怒らせてはならない、と。

天狗の最も恐ろしい所とは霊力の強さでも、腕力の強さでもない。
天狗にのみ伝えられる独自の術の数々。それが天狗が恐れられる理由だ。
しかしながら、術の内容を記載している書物は存在しない。
今回の件で頑なに天狗たちが口を割らないのは、そんな術が関係しているのだと思う。
どう考えても、そんな術がまともなわけがない。
私が頭に浮かべる極悪非道の数々より、数段悲惨なものだろう。
明るくて元気なサンキボウも、極偶に背筋が凍るような雰囲気を纏う時がある。
だがそれはしょうがない。天狗とはそういう種族なのだから。否定はしない。

けれど、だからと言って悲惨な呪術を行使させたくはなかった。
今回の件は、本当に悪い者だけが報いを受けてくれればそれで良かった。
その報いとは決して死ではない。考えを改めて欲しかっただけだ。
……という意見は、私個人のもの。

私視点の悪人とは、悪霊対天狗との戦いを静観し、弱った方を叩くという漁夫の利を得ようとした卑怯者だが、
人族視点では妖族に肩入れする私の方が悪人だろう。
限られた資源を、まず自分の家族、友人、同族へと分け与えたいのは決しておかしくない。
有力な土地を他種族へ取られたくないという不安だって判る。

それに民はいつ悪霊に襲われるかと怯えている。
単純に能力だけでいえば英傑の方が強いが、英傑の数はこの広い八百万界に対し数がいない。
襲われてから独神に救援を要請した所で、着いた時には甚大な被害を受けている。

故にみんな求めている。英傑以外の強者を。
今回の事についても、人族は英傑に匹敵する武人が自分たちの元にいることを喜んでいるだろう。
サンキボウが斬られた事にも意味があったのだ。人族たちに生きる希望を与えた。
それが天狗たちにとって、……私個人にとって許せない事でも。

……それも、将軍が生きていれば、だが。
死んでいるなら人族は英雄である将軍を失った事で、以前よりも深く絶望していることだろう。
せっかく光が見えたのに。たちどころに消えてしまった。
そうして再び未来への不安を抱えて、震えながら眠りにつくのだ。
毎晩毎晩。生きている喜びと、いつ来るか判らない死への恐怖を交互に味わって。

……本当にそれでいいのだろうか。
恐怖に支配されたまま生きる事が、生命の健全な姿と言えるのか。

そもそも人と妖の双方が納得いく道があったはずだ。その為に英傑達の力と知恵を借りたのに。
どうしてアタゴテングはこんな勝手な事……。天狗の頭領としては判るが、でも……。
この事態を招いたのは私が原因だ。
私が独神として、組織をまとめる存在として機能していない。

「……無理。落ち着かない」

蒲団に入っても眠る事が出来なかった私は、敷地内を散歩する為に部屋を出た。
殆どの英傑達が寝ているようで兵舎の方は随分静かだ。
散歩にはうってつけの闇夜。
目的なくぶらぶらと歩いていると、頭に浮かんでくるのは嫌な出来事ばかり。

天狗の件の様な民衆対英傑が本格化する事は、私の過剰な心配ではない気がしている。
今日、別の場所で反独神派による決起が起きた。
勿論私たちも事前に情報は掴んでいたのである程度は抑え込めたが、やはり規模が大きく、全くの無傷とはいかなかった。

此度の戦が、対悪霊と大きく異なる点は、不殺を貫き戦意を喪失させなければならない事だ。
これだと時間がかかるだけでなく、英傑の負傷も多くなる。救護に向かった者も敵と見なされ負傷した。
そして八百万界陣営の諍いを、悪霊が黙って見ているはずがなく。
疲弊した頃を狙った悪霊の襲来により、少なくない被害を受けた。
ただでさえ少ない戦力が大幅に減ってしまった。
反独神派の民の行動が元凶ではあるが、先日の天狗の行動が英傑間の軋轢を生んでいたのも被害拡大に拍車をかけた。

私が望んだ平和的解決に賛同していた者たちは、天狗の行動には反対していたそうだ。
しかし天狗陣営は力技で捻じ伏せた。それが面白くなく、まだ引きずっている者もいる。
英傑一人一人と言葉を交わして聞きだした所、主である私の決定を覆すべきではないと言ってくれる者の方が多かったようだ。
では何故、あのような結果になったのか。

「天狗の案の方が犠牲も少なくまた労力も少ない。
 主《あるじ》様の意向に反するものだとしても、これなら彼女の負担はない。
 そうなれば心労も少ないものでしょう。
 ……本当の臣下ならば、ここでどちらの選択をすべきかお判りですね?」

……と言う、ウシワカマル、いや────八傑の言葉が決定的だったそうだ。
中立だった者が天狗派になったことで天狗側が過半数を獲得し、あの結果になったと。

一見すると独神を気遣う発言であるが、私はそう思えない。
独神を出しにして、自分たちの都合の良いように英傑達を動かしている。
被害妄想か。いや、違う。
今までの関係を考えるならば、必ず一言伝えるなり、ジライヤあたりが報告に来た。
だがそれらが一切ない。
これはもう、離反と言って差し支えないだろう。

私は独神としてこの事態にどう対処すべきか。
八傑に訴えるか。話を聞いて欲しいと。
無駄だろう。これはもう心が離れたとかそういう次元をとうに越している。
八傑を切るか。組織の秩序の為に。
今までの独神像とかけ離れた行為に余計に英傑たちの不信を生み、組織は完全に崩壊するだろう。

八傑との不仲は表に出せない。少なくとも私は。
向こうはどうとでも動けよう。なにせ八人いる。
役割を分散して外堀から埋めていけばいいだけだ。

そして後手に回るしかない私は、裏で動く八傑に感化された英傑が誰なのかを把握しなければならないが、これは困難を極めるだろう。
私も日々の対外交渉や調整があり、動ける時間は少ない。
百人以上の心を読み切る事は、はっきり言って出来ないだろう。
そして今後、英傑達の事がもっと判らなくなるのだ。

────私は、どこで何を間違えたのだろう。

八百万界を救いたかった。
神代八傑と出会い、共にやっていく事を宣誓した。
彼らから産魂ばれた英傑達一人一人と手を取り合い、守り守られると約束した。
惑う民たちの声を聞き、安定した生活を送れるように努力する事を誓った。

結果的に私はその中のどの約束も果たしていない。

八傑の心が見えなくなった。
英傑たちの心が判らなくなった。
民の声を聞きたくなくなった。
一血卍傑が行えなくなった。
……私がここにいる意味、あるのだろうか。

どっぷりと己の無力さを嘆いていると、草を踏む音が聞こえ耳を傾けた。
"私"と"独神"を素早く切り替える。

「貴様がこんな夜更けにいるとは珍しいな」

声からアマツミカボシと判断し、私は振り返った。
いつも通り、尊大な振る舞いが見て取れる。

「ちょっと気分転換にね」
「下ばかり見て、何の気分が変わろうか」

なんとなく物言いが気に障る。
気が立っているので過剰に反応したくなるが、表には出すべきではない。

「丁度帰る所なの。邪魔はしないから安心して」

さっさと彼の横を過ぎていくと、

「待て」

と呼び止められた。
だが先程の事を根に持っている私は大人しく振り返ってなるものかと、そのまま佇んだ。
背を向けたままの私に、溜息を吐く。

「貴様を見ていると苛々する」

舌を打ち、更に続けた。

「何に怯えている。そうかと思えば、恐怖をまるで知らぬ果敢な振る舞いをする。
 ……貴様の事はどれだけ見ていても判らん」

そんな事を言われた所で、どう振舞えばいいか判らない。
つい感情的に返してしまう。

「私だってあなたの事よく判んないよ。変な言い方ばっかりで言葉はいっつも真逆。
 あなたこそ鵜呑みに出来ない」
「構うものか。俺は貴様の理解を願った事などない」

不意打ちに投げられた言葉は、私の心を深く抉っていった。
私はアマツミカボシを理解したいと思っているのに。
アマツミカボシは、そうではないんだ……。他の英傑達もそう思っているのかな。
一方通行だった気持ちを知らしめてくれた仕返しに、私は思ってもない事を口にしてしまう。

「あなたに判って欲しいなんて思うわけないでしょ。私だって」
「そうか。なら聞いてやらん」
「そうして」

つんと言い返したは良いが、胸の痛みと怒りからの興奮で身体が火照ってくる。
足が動こうとせず、黙って唇を噛みしめていた。
一方アマツミカボシもその場を動いていないようだ。
さっさと帰ればいいのに。そうすれば私もここから動ける。
根比べをしていると髪に覆われたうなじに、うっすら汗が滲む。
惨めでしょうがない。気分転換どころか、来る前より悪くなってしまって後悔しかない。

「頭。天上を見ろ」

ふいに、さっきまでのやり取りを忘れたかのような軽い調子に、私は言われるがまま天を見上げた。

「ああ……星ね」

雲がない天上では、幾百、幾千もの星々が輝いていた。
まるで浅瀬に輝く砂のように、紺碧の海で小さな粒が散りばめられていた。

「星は俺たちを導くのだ、その輝きで」

星なんて勝手に輝いているだけだ。
導いてはくれない。そんなものは思い込み、妄想だ。

「貴様も、苦しみ喘いでいる時、己の心を見失った時には星を見ろ。……俺はそうしている」

アマツミカボシも星に縋る程、苦しむ時があるのだろうか。
聞いてみたいが、ついさっき私に理解してもらいたくないと聞いたばかりだ。
そして、私も、今はアマツミカボシになんて言いたくない。
けれど。

「……ありがとう」

私に手を差し伸べようとしている事には一応お礼を言う。
こういう時だけは、いつもの変な言い回しじゃなくて素直な言葉をくれるんだね。
なんて事は本人に言わないけれど、気遣いには一応感謝している。
素直に喜べないのは、一言も二言も余計な言葉が混じっているせいだ。

折角なので頂いた助言に従い、しんとした闇の中、僅かに揺れる本殿の光を遠くに感じながら、私はその場に座り込んだ。
頬杖をついて、すっかり力を抜いた恰好で、遠くで瞬く星たちを眺めた。

────私の心とはなんだろう。

私は。
独神ではなく、”私”、は。
何を思うのか──。

……憎い。
…………憎らしい。
そうだ。
私の心を占めるのは憎悪だ。

愚かで、弱いだけの民衆に私は呆れていて、心底憎んでいる。
英傑達を危険に晒すばかりの者達が、英傑の行動が八百万界を混乱に陥れている一要素だと嘯く身勝手さには激しい怒りを感じる。
来航した悪霊よりも私たちを蝕んでくる民衆が憎たらしい。

そして、八百万界が嫌いだ。
英傑と任命した者達に全てを背負わせるところ。
独神と英傑でなんとかなるだろうという楽観論には大いに反対だ。
どうしてこんな身勝手で醜い世界なんてどうにでもなればいい。

なのに、……守ることをやめる事は実際には出来ないだろう。
理由は簡単だ。
こんなどうしようもない世界を、私は美しいと思っている。
八百万界も民も英傑も、全部守りたい。私を取り巻く世界の全てが、私の全てだ。
本当は判っている。悪いのは侵略行為をする悪霊で、民は悪くないと。
絶望を植え付けた結果、人々の弱い心が争いや憎しみを生み、互いに争うような構図が出来ているだけだと。

だから、本当に憎くて仕方がないのは、民でも八百万界でもなく。
────私だ。
一向に平和に導けない私なんて、死んでしまえば良いのに。

私の心に反して妬ましいほど綺麗な星空を見ていると涙が勝手に零れ落ちてくる。
ふと恥ずかしくなって、アマツミカボシを見やると、彼は天だけを見ていた。
私の嗚咽を耳にしているはずなのに、アマツミカボシはこちらを見ない。
私は心置きなく袖を濡らした。

しばらくすると嗚咽が止まり、涙も止まる。
その頃にまた、アマツミカボシが話しかけてきた。

「今晩は冷えるようだからな。俺は部屋に戻る」
「……私は、もう少しいるよ」

気持ちは落ちついてきたが、もう少し空を眺めていたい気分だった。
ただただ綺麗な星々を今度は純粋な気持ちで見ていたかった。

「……気が変わった」

星を司る神は星空を見上げた。
私はきらきらと輝く光たちに囲まれる、アマツミカボシを見ていた。
とても、綺麗だ。
しばらくすると、私の視線に気付いたのだろう。

「……なんだ」
「ううん」
「そうか」

鬱陶しいであろう私の視線を浴びながらも、何故かやめろとは言われなかった。
だから私はただ静かに、私を導く一番星の横顔を見続けた。