第46話 無知を脱却した暁には-後編-

「さて、とりあえず退場。さっさと出て行ってくれる?」

と、……じゃない、似て非なる女は俺を玄関から押し出した。
余所者である俺が一般の家から出てきたら、周囲に怪しまれてしまうだろうと抗議しようとしたが「駄目」とに言われると「判った」としか言えなかった。

仕方なく、俺は女の言葉に従い再度周囲の様子を探った。人通りはない。
一般市民には俺は見られていない可能性が高い。あるとしたら俺のターゲットだ。

俺の情報をどれだけ入手されてしまっただろう。
俺が奴の立場なら、体勢を整えていないと見て隙をついて俺を殺す。その後本来のターゲットである女を好きなタイミングで殺す。

しかし、ターゲットである女と怪しい俺が行動を共にしていたら、ターゲットが自分の身の危険に感づいたと念のため一旦引くだろう。
俺たちは傭兵ではないので、相手を確実に殺すことが目的であり、確実に殺害できる可能性が低い時は無理をしない。

ということは、護衛任務に向いていない俺があの女を生存させるには。





「……で、家に入れろと」
「そうだ」

夕刻。女が仕事から帰宅する様子を確認し、自宅へ直談判に行くと嫌そうにそう言われた。
最初は玄関先で話すようにと言われたが、それがどれだけ危険な行為であるかを説くと、なんとか家に入れてもらった。
とは言え、扉の開けてすぐのところまでしか許可されなかったが。

「私に得体のしれない男と一つ屋根の下にいろと?それも、私を殺そうとした殺し屋と」
「殺し屋ではなく、暗殺者だ」
「変わりはないでしょ」
「後、夕方に出歩くな。人がいる昼までにしろ」
「無理。仕事行ってるから、帰りは夕方」
「それは自分の命よりも大切なのか」
「そういうわけじゃないけど……。とにかく無理」

もこの女も、何故毎日同じ場所へ通わなければならないのだろう。
自分の生命危機が迫っている時でさえも行かなければならない、というのは俺には全く理解が出来ない。

「……面倒だ」
「しょうがないでしょ。あんただってなんで暗殺なんてしてんのよ。生活のためでしょ」
「俺にはそれしか知らない。生活は関係ない」
「……あ、そう」

に似た女は言葉を吐き捨て、そして憐れんだ。
理由は判らないが、決定的にと違うそれを見て、少し嫌な気分になる。
不快な会話を打ち切り、俺は先を促した。

「で、俺の提案を受けるのか、受けないのか」

守って欲しいと望むのならば、答えは一つしかない。
それなのに、に似た女は唸り声をあげて、悩みあぐねている。
さっさと決断できない女に苛立った俺は少し脅すことにした。

「受けない場合は死ぬ。敵はどこから来るか判らないのだから」

死という言葉の効果は抜群だ。女は顔を歪めた。
やはり死ぬのは嫌らしい。女は溜息をついた。

「……じゃ、お試しで一日。不合格なら外から護衛してもらうから」
「了解」

渋々ではあったが、女の許可をようやく得ることが出来た。
これで、接近戦に持ち込まれた場合はある程度護衛可能だ。
狙撃に関しては、狙われやすいところを女に歩かせなければいいだろう。
窓辺や扉付近に俺が立っていれば、撃たれるのは俺だけで済む。
負傷すると動きが鈍くなるのであまり好ましくないが、この場合仕方ないだろう。
を護るためだ。この命、いくらでも賭けられる。

「こんな子供に付きまとわれるなきゃならないなんて最悪」

……違う。じゃなかった。顔の作りだけだ、同じなのは。
毒づくような表情をは浮かべる事がない。そういう差異を見る度俺は現実に帰る。

「そうそう、襲ったりしないでよね。迷惑だから」
「言ったはず。俺は襲わない。ターゲットはお前じゃない」
「いや、そっちの意味じゃなくて……」
「他に何の意味がある?」
「……それを本気で言ってるなら安心だけどね」
「今ここで嘘を吐くことに何の利益が?」
「うわ……本気なんだ……」

そう言って、女は顔を引きつらせた。
言いたいことがあるのならばはっきりと言えば良いものを。

「まあ、いいけど。その方が都合が良いし」

女はそれを最後に何も言わなくなった。
さっと風呂に入り手早く就寝の準備をすると、ベッドに横になった。

「電気消して」

言う通りにすると、女はすぐに寝息を立てだした。
俺はいつ襲撃者が来てもいいように、窓の近くで待機する。
一歩でも敷地に入れば殺し返せるようにと、俺は夜通し神経を研ぎ澄ませていた。

しかしその晩は特に何事もなく朝を迎えた。
女の頭付近で目覚ましがけたたましく鳴り響く。
しかし女は微動だにせず、起きる様子が無い。
確かが、学校というものは時間が決まっており遅刻は許されないことであると言っていた。
仕事のことは判らないが、それも学校とやらと同じ類のものかもしれない。
念の為、俺は無防備に寝ている女に近づき声をかけた。

「おい。起きた方が良いんじゃないのか」

何の反応もない。当然か。目覚ましの音にさえ反応が無いのだから。
俺は女の肩を揺らし、先ほどより大きい声で話しかけた。

「おい。朝だぞ」

身体が左右に揺れるくらいに激しく揺らすと、女はがばっと半身を起した。
そして、俺と目が合う。

「わぁああああああ!!!!」

大声をあげる女の口を押さえた。

「煩い。それよりしゅっきん?時間に余裕はあるのか」

細い目を見開いた女は俺を突き飛ばしてベッドから飛び降りると、慌ただしく部屋を行き来しだした。
やることのない俺はそれをぼうっと眺めることしか出来ない。
女はあっちに行ったと思えば服装が変わり、そっちに行ったかと思えば歯ブラシを咥え、
またあっちに行ったかと思えば鞄を持っており、そっちに戻ったかと言えば顔に化粧を施して。

「行ってくるから!絶対変なことしないでよね」
「そっちこそ。危険な所は通るな。人通りの多い所だけを通るんだ」
「はいはい」

自分から護衛を頼んだくせに、なんともぞんざいだ。
危機感を持っていないのだろうか。
念のため、行き帰りの間は俺が付け回す必要があるだろう。

「……そういや、あんたご飯は?」
「外で拾って食べる」

人がいるところならばそこら中に食物がある。
捨てられているものを食べることも出来るし、盗んだっていい。
そう思っていると、に似た女は眉をひそめた。

「……冷蔵庫。適当に食べなさい。怪しまれる行動はしたくないって自分で言ってたでしょ」

そう言い残して、女は外出した。
俺は女に気づかれぬよう、ある程度距離をとりながらそっと見守り、勤務先に着いたのを確認してから、個人行動に移った。
勤務先から女の自宅までのルートの殺しやすいポイントの調査だ。
これは殺し屋暗殺の為ではなく勿論に似た女の為。
俺の当初の目的は、頭の隅に追いやられてしまっていた。





「限度を知れ!!!限度を!!!」

会社から帰ってきた女は開口一番にそう言った。

「適当って言った」
「適当って言うのは丁度いいくらいってことに決まってんでしょうが!!!!」

そう言って女は扉の開いた冷蔵庫を指差した。
その中は、左右も奥もよく見える。まるで購入したてのようだ。

「言葉は難しい」
「ふざけてんじゃないわよ!!!
 ったく、とりあえず外に食べに行ってくる。あんたは明日ご飯抜き」

飯抜き。その言葉が俺の上に重くのしかかった。

「反省しろ!」
「な、なら俺を連れて行け」
「はぁ?何言ってんの。反省しろっつったでしょ!!」
「しかし、夜の外出は危険だ」
「そう言って、ご飯たかろうって気でしょ!」
「いや。食事は一日抜くくらいは問題ない。それよりもの安全だ」

食事については残念だが、の安全を考えればさほど優先順位は高くない。
そんなことよりも、夜間人通りが少ないこの地域で外出しようとすることの方が問題だ。命知らずにも程がある。
そう思っていると、女はまた顔を歪めていた。この女はしょっちゅうそんな表情を浮かべているように思う。

「……だから、私は""って名前じゃないっての」

と、女はふてくされたようにそう言った。
俺だって女とが別物であることは理解している。
しかし寝顔であったり、ふとした時に浮かべる表情はそのものだ。

「……名前。今更だけどあんた、何て言うの」
「ジャック」
「ふうん。フッツー」
「そっちは。ではないなら、俺はなんと呼べばいいんだ」
「べっつに。そもそも名前なんて私には意味のないものだし」

そう言うと女は鞄を掴んで、さっと外へ出て行った。俺を置いて。
しかし俺はそっと抜け出し女をつけて行く。
人通りの多い所を通れとあれほど言っておいたのに堂々と路地裏を闊歩する。
殺されないようにしようという気はないのか。
危機感がこれ程ないのであれば、やはり俺が始終傍にいなければならないだろう。
あの女に気付かれぬよう二人ほど怪しい奴を沈めておいた。
短時間で二人に襲われそうになるとはこの地域あまり治安は良くないのだろう。
こんな地域で生活していてあの女は今までよく生きてこれたものだ。

女が外食を終え自宅に近づくと、俺は裏手に回って先に家に侵入し、あたかも今まで大人しく留守番していたかのように見せかけ、きーっと音をたてる玄関から帰宅した女を出迎えた。
腹が膨れた為か、少しだけ機嫌が良いように見える。

「で、とりあえずお試しで一日って話だったわね」

そうであった。もし女が拒否すれば、俺は離れた所で護衛しなければならない。
この女の奔放さを考えると、近くにいなければすぐに殺されてしまうだろう。
だからどうしても、俺は女の、の傍にいたい。

「……まずはあんたのこと、ジャックのことを教えなさい。得体のしれない者を身近に置くのは気持ちが悪い」
「判った。答えられるものならば答えよう」

その程度で許可が下りるのならばと、俺は大きく頷いた。

「まず、あんたは暗殺者でいいのね」

紛れもない事実であると肯定した。

「で、本当に私は狙っていないのね」

何度も言ったことだ。俺は「そうだ」と答えた。

「あと、……私を殺そうとしている奴って何?」
「殺し屋。詳しくは知らない」
「あんたはどこから来たの」
「言えない」
「誰に依頼されて」
「守秘義務」
「自分の歳は」
「知らない」
「親は」
「聞いたことが無い」
「暗殺楽しい?」
「判らない」

俺は女からの質問を一つ一つ正直に答えた。
それなのに女は盛大に溜息をついている。何が問題だったのだろう。

「…………ってどんな子?」
はとても小さくて俺に会うといつも笑ってくれる女の子だ。
 抱きついたらふわふわしていて柔らかくて甘い匂いがする。
 弱々しくて俺はいつも壊してしまうのではないかと思って気を使う。
 それでもはいつも、大丈夫だよと言って俺を撫でたり抱きしめ返してくれる。
 そんなに俺は安らぎを感じる。ずっと共にいたいと思う。
 しかし、は最近学校と言うところへ行くようになり、拘束時間が増加した。
 それに伴い俺とあまり遊んでもらえなくなって、」
「あ、もういいです」

まだ言えることは沢山あると言うのに強制的に止められた。
教えろと言ったのはあちらだというのに。

「はぁ……あんたから得られるのはって子の情報だけなわけ?」

俺が保持する情報は、決してのことだけではない。
しかし、俺の情報は他人に伝えられないものばかり。
そうすると必然的にの話題だけになってしまう。

「こんな男が私を護衛?不安でしょうがないっての」
「俺は暗殺者であって護衛は専門外だ。その不安は正しい」
「正しいから良いってわけじゃないでしょ。馬鹿なの?」
「駒に余計な知能はいらない」
「……そのって子のことだって、あんたには必要ないでしょ。暗殺者なんだから」
「……そうだ」

の存在は暗殺者にとっては余計なものだ。
でも捨てられない。目に見えない感情も、という人の記憶も、存在も。

「あんたって暗殺者に向いてないんじゃない?」

その言葉に、俺は不思議と気分が悪くなった。
ついつっけんどんに返してしまう。

が関わらなければ、俺はいつも通りだ」
「もし私がって子に似てなかったら?いつものあんたならどうしてたの?」
「俺が暗殺しやすいポイントを歩かせ、奴がお前を殺したところを殺すつもりだった」
「うっわー、最悪。で、予定変更を余儀なくされた今はどうするつもり?」
(仮)を守って、奴が出てきたところを殺す」

結局名は教えられなかったのでとりあえずのままで言った。
俺が言葉を紡げば紡ぐほど女は顔を引きつらせる。まただ。

「……本当気持ち悪い」

俺はどうしてにこんな顔をされなければならないのだろう。
そんなにおかしなことを言ったつもりはない。
を護るのは当然のこと。ただ、この女は似ているだけで全くの別人だが。

「……ま、あんたが馬鹿なお陰で私は今のところ死なずに済んでいるわけだけど。そう思うと複雑ね」
「では審査とやらはどうなる?」

俺は言われた通り、質問には全て答えた。
これからの方針を決める為にも、さっさと結果を教えてもらいたいところ。
女は俺を一睨みした後言った。

「……正直、私はあんたを信用してない。暗殺者なんて普通誰も信用しないでしょ。でもあんたを追い出したところでどうせ私は死ぬ。だからあんたを頼るしかない」
「護衛は専門外であることも考慮してその結論か」
「背に腹は代えられないわ」

正式に女から護衛の命令が下った。しかしここにきて俺は迷っていた。
俺の専門ではない護衛と言う任務。不安要素がありすぎる。
それに、そもそもこの女は、ではない。
似ているが、違う人間で、だったら俺に守る義務はなく。

「……ジャックは私のこと嫌い?」

女は、いやは、俺の顔を覗き込むようにそう言った。
すると自然と言葉が出てくる。

「善処する」
「…………馬鹿みたい」

舌打ちと共に(仮)は言葉を吐き捨てた。
そして、まるでゴミでも見るような眼で俺を見下ろしていた。











護衛の任を受けた俺は四六時中女を見張り続けた。
在宅の間は俺も中に入れてもらい、毎回飯も与えてもらえるようになった。
俺たちは食事の時のみ、毎日少しだけ会話をする。
いつも、の話。


「仏頂面で見ないでくれる。気分悪いんだけど」
「普通だ」
「もっと愛想よく出来ないわけ?」
「やり方を知らない」
「……って子がもしここに現れたらどうするの?」
は来ない」
「……顔、変わってるんですけど。あんたって本当、馬鹿ね」



「暗殺者と知ってもいられるなんて余程頭がおかしいというか」
「……」
「感想くらい自由でしょ。本人に伝わるわけでもないのに。睨まないでくれる」
への低評価は不快だ」
「あんたも随分冷静さがないわね。ま、それだけ魅力があるってことなのかな。……あんた同様、物を知らない馬鹿みたいだけど」
「……」



「でも、そこそこ凄いんじゃない。普通の人間ならあんたとはいられない」
「確かに。戦闘と無縁の生活をする者でまだ生存しているのはくらいだ」
「……それ、私死ぬこと決定なわけ?」



「最近上司がに付きまとう。以前よりもずっと」
「嫌なの?」
「……好ましくはない」
「へぇ~。小生意気にも嫉妬してんだ」
がそれを望んでいるのなら俺は何も言わない。けれど……」
「面白じゃない。そのうちあんたのことなんてどうでもよくなったりしてね」
「……」
「……悪かった。謝る。だからそんなに睨まないでよ」



「にしても……どれだけ語る気?」
「まだ全て言ってない」
「よくもまぁ、そんなに語れるものね」
「……怒っているのか?」
「いーえ。呆れているだけ」



最初は気持ち悪いとばかり言っていた(仮)であったが、それでも俺にのこと、その周囲のことを話させた。
相変わらず歪んだ表情を浮かべることが多いが、それでも俺は話していて不快になることは少なくなっていった。
理由はよく判らない。
(仮)は好き勝手に感想を述べるが、俺の話を遮ることはなかった。
気のない相槌を打ちながら、何かしらの反応は返してくれる。
黙っている方が楽な俺ではあるが、のことを話せと言うのは案外嫌いではないようだ。
本物のと対面することはなくとも、少しだけ満たされた気持ちになる。

今日もまた、の話を始めた。

「今まで随分聞いてきたけど、あんたにとってって何?」
「友達」
「本当に?あんたが恋愛を判ってないだけじゃなくって?」
「友情であると黒神が断言した。それに……」
「それに?」
「もし、俺があの時それを否定していたら、多分俺は殺されていた」
「……黒神って、何?偶に出るけど」
と一緒に住んでいる。ホゴシャという称号を持っている」
「父親か。それならそう断言する気持ちもしょうがないわね」
「それは誤りだ。黒神はと血族ではない。種族すら違う」
「しゅ、種族って……ああ人種違いか。そんな養父でも娘ってやつは可愛くてしょうがないのかしらね。
 ま、そんなの気にしないで良いんじゃない?
 あんたのそれ、友情で収まってるとは全く思えないけど~?」
「……もし、そうだとしても、俺は駄目だ」
「なによ。人にあんだけ語っておいて臆病なのね」
「今のままでいなければならない。先に進むことは許されないとそう黒神に言われた。
 背けば俺はに近づくことすら出来なくなるだろう」
「随分過保護なのね、その男。……そこまでくると気持ち悪」
「黒神はが他の者に触れ、触れられることを心底嫌う。
 口付けるという行為も、黒神とだけしかしてはいけないとそう言っていた」
「なにそれ……」

(仮)は口元を引きつらせた。

「黒神って男はその子にとって親代わりなのよね?一緒に住んでるのよね?」
「そうだ」
「その子……ヤバイんじゃないの。その男といるべきじゃないわ。危険すぎる」
「だが黒神は大きな力を持っていて奴が本気を出せば、どんな生き物だって勝つことは」
「外敵の危険性を言ってるんじゃないっての!その男自身が危険なの!」

まるで銃器で心臓を射抜かれたような衝撃が走る。
黒神はを護っているものと信じてやまない俺の常識を打ち壊す。

「……、危ないのか?」
「その子もあんたと同じレベルで物を知らないとしたら……もう既に毒牙にかかってるんじゃないの」
「それはどういうことだ!黒神はにとって敵なのか!」
「敵……に近いとも言えるわね。もし彼女意思に反しているなら」

にわかには信じられない。
初めてと黒神に会った時、二人はお互いを気にかけそして好意を抱いていた。
もいつも言っていた。
「黒ちゃんが好き。私の大切な人なの!」
あの言葉は嘘だったのか。脅されて言わされていたのか。

「……じゃあの為には……あいつを……黒神を……」
「まあ落ち着きなさいよ。本当のところは判らないわけだし」

遠くに足を運んでいる俺はすぐには真実を知ることは出来ない。それが俺の冷静さをかき消す。
もしも今、が助けを求めていたらと思うと居ても立ってもいられず。

「……その子を救う方法。あるわよ。平和的な方法が」
「それは何なんだ!」
「その子をあんたが手に入れちゃえば良いのよ」

さらりと女はとんでもないことを言い放った。

「ここでいう入手とは身体ではないわ。その子があんただけを必要とするように仕組むの。脅すの」
を脅迫するなんて出来るはずが無い!」
「そんな事言って、その子が酷い目にあったらどうすんの。痛い目にあったり泣いてていいわけ? もしかすると死んじゃうかもよ?」

も、真紅に濡れた顔で地を見るようになるのだろうか。
炎に焼かれた身体は消し炭に。その存在も俺の記憶から失われていく。
そして俺はまた、と出会う前の不純物の一切ない暗殺者へ復帰する。
ヴィルヘルムが望む俺へ。

「……それは、駄目だ」
「だったら私に構ってないで、さっさとその子のとこに戻んなさい。
 そして押し倒して早くあんたのものにしちゃえ」
「さっきからを物のように言うが、どういうことだ。
 に何をどうしろと言うんだ」
「だから……」

女は席を立ち、壁にもたれている俺にツカツカと近づいた。
突然胸倉を掴んだかと思うと、そのまま女の唇が俺のとぶつかった。

「……こうやって本物としちゃえばいいのよ。黒神や上司に取られる前に」

これは確か黒神が言っていた。恋人という間柄でなければしてはならない行為だと。
それなのに今女が俺に施した。ならば俺と女は恋人なのか。
いや違う。本物としろと女は言ったんだ。
これを、平和な家で平和に暮らすにしろと。
つまり俺に、と友人では無く恋人になれと、変化を促しているのか。
黒神が禁じた事を俺にしろと……。

処理が追いつかなくなった俺は女の家を飛び出した。











「あーあ。逃げられた」

私も馬鹿な事をしたものだ。あんないたいけな少年に性の本能と言うものを教えるなんて。
正直なところと言う少女の事はどうでもいい。養父に犯されそうであろうと何ら心は痛まない。
ただあの暗殺者らしかぬ少年の恐らく初恋であろうものを少しだけ助けてやろうと思った。
それだけだ。

しかし、そう思ってしまうなんて私も随分焼きが回ったものだ。
数日共にしただけで情が移ってしまうとは。
私は""ではないのに。顔だけが同じなだけの全くの他人で、少年が見るのは遠くの地で幸せに暮らしているだろう少女である。
私が感じた彼からの不器用な優しさは全て、幻だ。
だから、こんなことしなくても良かったのに。

私は声をあげない扉を見つめた。

「遅かったわね」











思わず駆け出した俺は、何時の間にか近隣の調査中に見つけた倉庫にいた。
物が乱雑に置かれており空きスペースは少ない。
そんな狭い空間にいると心が落ち着き、俺はゆるゆるとその場に座りこんだ。

一息ついて自分の失態に気づいた。女を一人残してしまった。急いで戻らなければ。
俺が立ちあがろうとすると、足元で五センチくらいの円形の空間の裂け目が出現した。
そこから髑髏に似た焔火が現れぱっくりと口を開いた。

「手こずっているならば一度戻れ。
 貴様に勘付いた相手はもうそこに現れないこと、判っているはずだ。
 全く……予想通り失敗か。帰城した際には腑抜けた貴様を調教してやるからな」

ヴィルヘルムは俺に撤退を命じた。
しかし、俺は戻れない。あの、に似た女を残せない。

「もし戻らぬのなら娘を殺す。最近我が城へ無防備に訪れているからな。
 息の根を止める機会に恵まれすぎている」

俺の心を読んだかのように言葉を付け足すと焔火は消滅した。
そう言われてしまうと取るべき行動は一つしかない。
俺は女の家に向かった。
悩ましいが俺が最優先すべきは皮肉や悪態をつく似の女では無く、
俺に安心感という存在を教えてくれた柔らかな物腰のなのだ。

女の家に入ると、部屋の有り様が変わっていた。
俺が出てきたままの物の配置。
しかし床には女が、が血溜まりの中転がっていた。
駆け寄って脈を確認するが拍動は弱々しい。

「じゃ、く……」

は、女は眼球だけを俺に向けた。

「ほん、もの……は、まも……なさ……」

絶え絶えに語った女は、そのまま事切れた。
呆気ないものだ。所詮女は一般人であり対抗する術などない。
殺す方もさぞかし楽であっただろう。今頃成功した旨を報告しにいっているに違いない。

俺は女の死体を見る。俺が殺してきた奴らと同じでぴくりとも動こうとしない。
心臓は働く事をやめてしまった。
このまま時間が経過すれば虫が湧き身体中這い回られる事となるだろう。
それが死というもの。俺が唯一与えられるもの。

俺は走った。任務遂行の為に。女を殺した奴の元へ。
その先は一切の記憶がない。





次に我に返った時、俺はまた鮮血の上で佇んでいた。
散らばった肉塊は元に戻す事が困難な位に小さなパーツと化していた。
冷静になった頭で自分の思考を遡った結果、それがヴィルヘルムに暗殺を命じられたターゲットであると判った。
命を奪う事が仕事である俺が体力を無駄に消耗する惨殺をしてしまうとは、余程我を失っていたと考えられる。
しかし何故俺は取り乱したのだろう。薬でも打たれたか。
まあいい。さっさと女の元に戻って護衛の続きを──。

そこで俺は女が死んだ事を思い出した。
表情を歪めて俺に文句を言っていた女はもう人間では無い。
ただの死体。物だ。きっと今頃近隣住民に発見され騒ぎになっているだろう。
もう俺はあそこには戻れない。

──あれが死。

が一度受けたもの。黒神が帳消した事象。
そうか、黒神は神だから、死んだ者を蘇らせる事が出来るのか。
じゃああの女も蘇らせることが……いや、きっと黒神はのことでしか動かない。

だからあの女はもう元に戻らない。俺が、未熟だったせいで……。
あの時気が動転しなければ。任務を放棄なんてしなければ、あの女は死なずに済んだはず。

ヴィルヘルム……上司がわざわざ似の女に近づけたのはきっと、
俺の弱体化を気づかせるためだったのだろう。効果覿面だ。
俺はを知ったあの日から余計な物を背負い込みすぎた。
そのせいで俺は暗殺者としても、に仕える者としても失格だ。
上司や黒神、MZD程の力の保持者でなければ、また""を殺してしまう。

ならば俺は、今後どうすればいいだろう。

そういえば俺が飛び出す前、女は黒神の危険性を説いていた。
とは引き離すべきだと。しかし俺は二人を引き離すべきではないと思う。
もしもが動きを止め壊れてしまったとしても、黒神なら元に戻すことが出来る。
俺を含め、他の奴らでは無理だろう。
ならば少々の危険があるとしても黒神と共にいるべきだ。
といるべきは黒神かMZDのどちらかが相応しい。

隣にいられない俺はせめて、神の邪魔する奴を排除しよう。
俺は自分の上司の元へ飛ぶように走る。今度こそ失敗は許されない。
何があっても、と上司を引き離す。
そして昔のように、には神とだけ過ごしてもらう。
そうすればきっと、は女のように死んだりはしないはずだ。


そうして上司の城に着いた俺が、己を揺るがす場面に遭遇すること。
この時は全く思いもしなかった。





(13/07/28)