「……噴火した…………」
ようやく発した言葉はそんなものだった。
モモタロウくんは当然、ヌラリヒョンさんまでもが目を見開いて赤く染まる空を見つめていた。
もっと黒煙がもくもくと溢れてくるものだと思っていたのだが、まさか天に向かって真っ直ぐ火の柱を噴き出すとは。漫画みたい、いやVRのようだ。この肌に感じる振動もまたリアルで寒気がしてくる。
「すごいねー、モモタロウくん」
「呑気なこと言ってる場合じゃないって! ヌラリヒョンさん、今から逃げるって……」
ヌラリヒョンさんは首を振った。
「この規模では無理だな」
モモタロウくんの蒼白な顔がおかしかった。元々白い肌なのでこれ以上白くなると雪のように消えてしまいそうだ。
「其方は笑ったままで良いのか? この爺と黄泉の旅路へ付き合う気なら構わぬが」
「駄目です!!!!」
私一人ならいざしらず、ヌラリヒョンさんにはまだまだ生きてもらわなければならない。
私は下腹に力を込めた。
「……な、なに、その冷たい目」
「別に」
モモタロウくんの視線がザクザク刺さるがここは切り替えていこう。
そうだ、イワナガヒメさんとコノハナサクヤさんは!
今更ではあるが二人のところへ駆け寄った。
ニニギさんに支えられた二人は互いの手を繋いだまま「大丈夫」と私に言う。
しなだれ合った二人は富士山を見つめていた。
「私にもっと力があれば……」
「僻む暇があればもっと鍛錬を積むべきでしたのに……」
苦虫を噛み潰したような顔をする姉妹に、
「そんなことないよ! 二人は凄い!」
と間髪入れずに答えたニニギさんの勢いに続いて言った。
「お二人のお陰でここまで被害が少なかったんです。だから、気に病まないで下さい」
私は神同士のパワーバランスなどは知らないので当たり障りのないことしか言えなかった。
地上を見下ろすと人々が逃げ惑う姿があった。風呂敷や荷車で家財道具一式を連れている。狭い道では押し合いになり渋滞していた。江戸の光景が目の前に鮮明に現れて動悸がする。
モモタロウくんもちらっと下を見て言った。
「富士山の裾なんてもっと凄いんじゃない? だって真上で噴火が起きたんだよ」
すぐさまコノハナサクヤさんが否定した。
「裾のあたりは草木に由来する者が多いですが、火山なので大地や山、火に由来する神もまた多いのです。そういう者は噴火を喜んでいますので、反応は真っ二つに分かれていると思います」
ふと疑問が生じた。
「……それって、噴火を止めない方が皆は嬉しいの?」
「人族ならば噴火は願わないと思いますよ。神は……様々なので」
コノハナサクヤさんに続き、ヌラリヒョンさんが説明する。
「妖も殆どは噴火を望まぬだろう。火にまつわる者も普段は儂らのような普通の妖と過ごしている。彼らを考えれば噴火は歓迎できぬであろうな」
噴火を止める事が生き物の総意だと思っていた。
実際は由来や成り立ちで意識が全く違うなんて思いもしなかった。
こんな時は多い方の意見を優先すれば良いだろうか……?
この地に住むイワナガヒメさんとコノハナサクヤさんの意見を伺った。
「お二人はこの噴火は止めるべきものとお考えですか?」
二人は顔を見合わせ、少しばかり思案した。そして頷いた。
「はい。噴火は阻止すべきですわ。全てを潰そうとした私が言うのも滑稽ですが、この景色が消えるのは悲しいことですから」
「私もそう思います。噴火が起きればここには一部の神と妖だけが残り、他の者は等しく死を迎えるでしょう。そして何年も人々の営みが消え、東西の行き来も難しくなります。そうすると残った者も少しずつ弱体化していき最後には生命が途絶えてしまいます」
この地の女神たちが噴火を望まないというのであれば私も支持しよう。
「よし! じゃあ、カグツチさんのいる噴火口へ向かいましょう」
「いいえ。駄目ですわ」
イワナガヒメさんが出鼻をくじいた。。
「ナナシさん達はお逃げ下さい。これはこの地に住まう者の問題です」
急に突き放されて狼狽する私の腕をヌラリヒョンさんが掴んだ。
見上げるとヌラリヒョンさんは小さく頷いている。
公園から連れ帰ろうとする親のように固まった微笑みの裏には強制力が見え隠れする。
「あとは私たちの役目です。ニニギ様も、どうか日向へお帰り下さい」
コノハナサクヤさんがにこりと笑った。
「嫌だ!」
と、ニニギさんは叫んだ。
「僕はサクヤヒメとイワナガヒメさんといる。二人を守るよ」
私も同じ気持ちだった。ヌラリヒョンさんを振り払って、ニニギさんに続いた。
「ここまで来て逃げることなんて出来ません! 私も一緒に行きます」
ぼこりと硬いものに肩を叩かれた。振り返ると、鞘付きの刀を手にしたモモタロウくんが仁王立ちしている。
「まーた、一人でやるつもり? そこは私〝たち〟って言い直しなよ」
「いや、でも、二人を危険には、あでっ」
今度はおでこを爪で弾かれた。布越しなので痛くはない。
「一人で逝ってくれるな。……と、言ったことは覚えてくれぬのだな」
覚えていないとは言えない雰囲気だ。
「君たちも。
「ここまでくれば一蓮托生。儂も腹を括ろう」
何故ついて来てくれるのか判らない。
でも胸が熱い。ふたりのくれる視線が噴火の恐怖を取り去ってくれる。
万能感で身体が満たされていくのが判った。
「……皆さん。本当によろしいのですか?」
「しつこいな。そんな事より短時間で火口に行く方法言いなよ」
ぼろぼろの姉妹は顔を見合わせた。そして、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
意思のすり合わせは終わった。
私も二人と一緒に行こう。どこまでも。
例えそれが、死出の………………。
…………。
……いや、違う。
二人に生きてもらう為に、必ず帰ろう。
絶対に。
「火口への移動ですが、私たちにお任せください」
姉妹は微笑んだ。髪も背も違うのに、同じ笑い方をする。
彼女らが念じると岩がせり上がり、穴が空いて洞窟のようになった。中は奥からの心許ない光だけで、人一人通れる幅の岩肌に囲まれていた。
「これ何」
モモタロウくんが入りながら尋ねた。
「〝道〟です」
眉を潜めたのが見えた。私も意味がよく判らなかった。
そんな私たちにニニギさんが解説してくれた。
「人族は〝神の通り道〟と言うよ。きみたちが普段立っている場所の隣にあるんだ。知覚は出来ないけどね。ここは空間が歪んでいるから普段三日かかる道も数刻で行けたりするんだよ」
SFで言うワープみたいなものだろうか。空間的距離を無視した移動方法で、二点書いた紙を折り曲げ重ねることで説明される。平面的な距離と空間的距離は違うものだとかいう有名な理屈。
「神隠しって知らない? この道に間違って足を踏み入れたとか、引き込まれたことをそう言うんだ」
なるほど。
「カグツチってひと、強いの? 武器は? 弱点は何?」
モモタロウくんは捲し立てた。噴火に気を取られていたが、これからそのカグツチという神様と戦闘になるんだ。情報は少しでも欲しい。
「強い。……多分」
何故か自信なさげにニニギさんは言った。
「集会にも殆ど顔を見せないし、僕はあまり関わることがなくてね。……僕、イザナギ様と話す方だから」
それがなんだと言うのか。
顔に出ていたのか補足してくれた。
「カグツチさんは実父であるイザナギ様に首を落とされたんだ。それ以降仲が良くないんだよ」
…………ん? 聞き間違いだろうか。
仲が良くないってそりゃ自分を殺した相手を好きでいるなんてどだい無理な話でそれが実父なら猶更複雑な心境であって
「えっ、首落としたのに生きているんですか?」
「死に極めて近い状況だったろうけど、ちゃんと生きてるよ」
神族の頑丈さはゾンビ級だ。
「じゃあ攻撃のくせとか範囲とか判らないわけ? ほんと君って問題を起こすだけでまるで役に立たないね」
これには肘鉄をくらわせて謝った。
「申し訳ございません。うちのモモタロウには今回しっかり働いてもらいますので」
「いいよ。気にしないで」
太陽のような笑み。イザコザさえ知らなければ好印象を抱くだろう。
無表情かむすっとしてばかりのモモタロウくんとは大違いだ。
「カグツチさんは火の神だから当然戦いでも火を扱ってくる。天将ではあるんだけど、あまり固執しない方が良いかな。火口は彼にとって地の利がありすぎるからね」
全体的に空気が沈んだ。その気持ちは判る。私も溜息をつきたい気分だ。
この戦いこちらには分が悪すぎる。
こちらは連戦で、全員疲労し負傷している。
特に姉妹神は大きな刀傷が残っていて、今走っているのが不思議なくらいだ。人間だったら大量出血で死んでいるだろう。
一見負傷がないヌラリヒョンさんであるが。
「戦うって、なったら困ります……?」
遠慮がちに聞いてみた。
「この中では一番動けるだろう。……だが自然神、それも炎相手となると有効打を持っておらぬのだ。それに燃え盛る火口に落とされれば流石にこの老体もくたばってしまうな。ははっ」
「笑いごとじゃないですよ……」
あまりにも勝機が見えない状況だ。
「……〝逃亡〟を責めるものなど誰もいないのだぞ。儂も其方の為ならどんな無理も厭わぬ」
と、甘言を囁かれた。
私は。
「何言ってるんですか。乗りかかった船なんだから最後まで行きます!」
突っぱねるとヌラリヒョンさんはおかしそうに笑った。
逃げるなんて選択肢はない。
イワナガヒメさんやコノハナサクヤさんをこのままになんて出来ない。
私はこの二人にも生きて欲しいんだ。関係ないなんて言わせない。
「大丈夫ですよ」
イワナガヒメさんがくすりと笑って言った。
「次は父様のお力もお借りします。山の神である父の後押しして頂き、山頂で儀式をすれば必ず成功しますから」
声の力強さには自信が満ちていて決して虚栄ではなさそうだ。
「あなたにこれ以上の傷を与えませんわ」
決意の表れだった。
この方は強い。本物の神様なんだ。
私が心配するのはおこがましい。
「八百万界の七割が山だけど、その全てをサクヤヒメの父上である
実質八百万界の支配者みたいなものでは?
そんな人がバックについてくれるなら強そうだ。いや、絶対強いって!
「噴火を止めるのは姉様と行います。だから、邪魔が入らないようにして頂きたいのですが、お願いできますか?」
「了解。
肩の力が抜けていくのが判る。
火の神との戦いは心配だが、足止めだけなら可能性はありそうだ。
少しずつ冷静さを取り戻してきた。思えば私は少し調子に乗っていた。私はなんでもない一般人。出来る事のない私が心配することなどこれっぽっちもないのだ。見守る事が精々なのだ。
洞窟を抜けるとそこはあの霊峰富士の火口だった。普段は赤茶の溶岩石で塞がれているのだろうが、今はぱっくりと赤い口を開いていた。
息をするだけで肺が焼けるような熱気が入り込み、袖で口元を塞いだ。
淵にはカグツチとやらが立っていた。
赤髪の三つ編みをなびかせながら、だるそうに私たちを振り返った。
「……ニニギと、コノハナサクヤ、イワナガヒメ。……他は知らねえ」
こちらに向き直った。
「何の用だ。……まあ、判ってるけどな」
カグツチさんの足元から噴き出す炎が身体を龍のように昇っていく。
「いけません!」
イワナガヒメさんの声の前に身体が動いていた。
立っていた地面が抉れ残り火がチリついていた。肌からは水分が一気に蒸発したかように産毛が逆立った。
「邪魔するヤツはここでブッ潰してやんよ!!!!」
雄たけびとともにとぐろを巻いた炎が私たちに向かってきた。
ひえー。対話出来ないタイプだった!
生み出される炎は全てを一瞬で燃やし尽くし、塵すらこの世に遺してくれないだろう。
「口程にもねえな!!」
まだ何も言ってないけど!?
「まだ何も言ってないけど。なにと比較してるわけ? 君って馬鹿でしょ」
代弁したのはモモタロウくん。でも私そこまでは思ってない。
「イワナガヒメさん!」
「はい!」
モモタロウくんの掛け声で溶岩石が集結し、いくつも宙に浮いた。それを足場に身軽な体躯が駆け出す。炎で壊されても、次の足場へと移動していく。
「ちょこまかと!」
ニニギさんが曲を奏でた。
その間にイワナガヒメさんとコノハナサクヤさん、そして姿の見えない山の神が噴火を止める儀式を始めている。
モモタロウくんがカグツチさんを刀で裂いた。
「……きかねぇよ、ばーーか!!」
相手に傷一つつかずとも、モモタロウくんは驚く様子なく間合いを取った。
「オレは頑丈が取り得だからな。切りたきゃ
二人が儀式に入ってしまい、ニニギさんは後方支援。モモタロウくんだけが果敢にカグツチさんに斬りかかっている。お陰で注意がこちらは向いていない。
「刀の威力を底上げしても刃は届かぬか」
ヌラリヒョンさんの解説ではっとした。
正面からでは倒せないのなら何か別の……相手が予想もしないような攻撃を……私たちが警戒されていないなら何か……。
ヌラリヒョンさんに確認した。
「あの、お父さんのイザナギさんがカグツチさんの首を斬、」
ヌラリヒョンさんのお陰で直撃は免れた。
そして知った。
炎は私を狙ったのだと。
「ア、イ、ツ、の名前を、出すんじゃ、ねええええええ!!!!」
三白眼と目が合った。
「
モモタロウくんの声が聞こえたが、私は焦っていない。
ヌラリヒョンさんを後ろに庇い、私はただ手を突き出した。
目の前の赤い炎が左右に避けていく。
当たらない。でも熱いは熱い。このままミイラになってしまいそうだ。
「なんだオマエ。妙な真似してんじゃねえ!!」
炎が増えようとも同じ事だった。私とその後ろにいるヌラリヒョンさんには当たらない。
「クソッ! なんだってんだよ!」
戸惑っている今がチャンス。
「カグツチさん!! 噴火を中止して下さい!!」
私たちの要求を突き付けると、鼻で笑われた。
「やめねえ」
「噴火したらこの一帯は灰で埋まってしまいます!! 殆どの人が死んでしまいます!」
「それがどうした」
その返しは衝撃的だった。
同じ八百万界のひとなのに、同胞の命をなんとも思っていない事が信じられなかった。三種族もいれば考え方は無限大。だったら命の捉え方も千差万別。
当たり前のことなのに、私はショックを受けた。死なんて楽しいものじゃない。恐怖の末に死んだ者達の表情の悲惨さを知っていれば、そんなこと口が裂けても言えないはず。
「それでもオレは絶対やるって決めたんだ!」
言葉の強さは私たちと同じだ。
お遊びではない。享楽の為ではない。
目的の為に成し遂げようとする強い意志が感じられた。
戦いとは譲れないものと譲れないものとがぶつかり合うものなのだ。
「だから邪魔するヤツは皆まとめて灰も残らず消してやるよ!!!」
水泡がはじけるようなぼこぼこと音が足元からした。
同時に地鳴りが耳を裂いた。
「身を守れ!」
ヌラリヒョンさんが短く命令して、私を自分の身体の内側へと隠した。
そしてすぐ横で轟音が響き、火口の縁からどろどろとしたものが飛び出した。熱した鉄のような塊が四方に飛ぶのをヌラリヒョンさんの身体越しに見た。
「ヌラリヒョンさん!」
「心配ない。其方の力の恩恵に与れた。感謝するぞ」
あれだけ小さな石や火がころがってきていたのにマントすら無事だ。
じゃあモモタロウくんたちは。
見ると、水膜の張った岩が守っていた。
それらから水が蒸発しただの岩となって地面に落ちて砕けた。
「っく」
イワナガヒメさんの右腰から血が吹きだした。モモタロウくんに斬られた傷が開いたのだ。
「姉様!」
姉を支えに行ったということは、儀式を中断したのだろう。
これはまずい。
「剣も振れねえし、自然も操れねえ。もうオマエは終わったな」
カグツチさんがイワナガヒメさんを見下した。
すぐにコノハナサクヤさんが曲が奏でた。頭がくらくらするが我慢できる程度だ。
「チッ。なんだこいつら」
カグツチさんの周辺でぐるぐる襲っているのはムササビだろうか、鬱陶しそうに手で払っているが数が多くて手こずっているようだ。
その間にコノハナサクヤさんはイワナガヒメさんを立たせた。
そしてニニギさんの曲で、空から岩が……あれは流れ星だ。
昼間なのに星屑たちが降り注いでカグツチさんを襲っている。
これで全員がカグツチさんから距離をとった。
こちらは満身創痍だ。
モモタロウくんもいつもの剣技だけでは敵わない。
ここは……。
「其方が思うようにすれば良い」
ヌラリヒョンさんの言葉に頷いた。
「一旦退いて体勢を立て直しましょう。皆さんは一度逃げて下さい」
「ナナシさんは!」
「大丈夫。多分私が一番死なない」
私に炎が効かないことを目撃しているのもあるだろう。すぐに了承してくれた。
「
「行って」
ヌラリヒョンさんが無理やり連れて行ってくれた。
そして、私と火の神の二人きりになった。
「丸腰みてえだが、どうするつもりだ? 炎が効かなくたって、天将のオレにはこれがあるぜ」
中心に炎が渦巻いた軍配を私に突き出した。
「刀も効かない私にそんな板で殴られる程度なんともありません」
「は?」
変な反応だ。
怒っているわけではない。
何言ってんだこいつ、みたいな顔だ。
「天将って教えてやったろ? そりゃコイツで殴る時もあるけど、フツーはこうだろ」
軍配で仰いだ。
そうすると炎が私を包んだ。熱くはない。
だが身体全体が痺れてきた。
「っ!? ら、らりこえー(ナニコレー)!?」
「な、なんだよ。そんな初めて知りましたみてえな反応はよぉ……」
相手が引いている間に痺れが薄れてきた。持続時間は短いようだが、正座の時のような痺れが全身に回るのはなんとも気持ち悪い。
「初めて知ったんです!! なんです天将って! ゲームでもそんなのないじゃないですか!!」
「ええ……」
カグツチさんは困惑していた。
「えー、天将ってのは軍配や扇を持ってて、ぶわーっと仰ぐと相手が痛がって苦しむ。オレは痺れさせる技が多いけど、視界を奪うとか、毒とかもあるぜ」
「毒!?」
それって。ちょっとちょっと。
「めちゃくちゃまずくないですか……。てか、めっちゃ強いじゃないですか……」
「へへっ! だろっ!」
得意そうなカグツチさんはさておき、これは私と相性が悪い。
私はヌラリヒョンさんやモモタロウくんのような直接攻撃ならオートガードで守られるので、控えめに言って無敵である。
しかし相手を内部から苦しめたり、自分たちを強化する楽士や、天将の攻撃には精度が悪い。
もしこれが毒だったらどうなっていたのか……。
記憶に薄い病院生活の日々が思い起こされる。知らない天井からの目覚めも不本意だが慣れた。
「……威勢が良かったのは戦いの常識を知らねえからかよ」
溜息をついて呆れかえっている。
「とにかくオレの邪魔すんな」
そう言って何かを始めた。拍子抜けだ。悪役然としていて登場しておいて、私に天将なるものを教え、邪魔するなと言って放置する。
敵意がさほど感じられないので、思い切って聞いてみた。
「何してるんですか?」
火口を覗き込んでみた。さらさらとした溶岩が波打っている。さっき飛び出てきたものとは粘度が違う。
「いくら火の神だつっても、この規模の噴火には準備がいるんだよ」
何もない所で手を動かしたり唸ったり。
傍から見ると滑稽な映像である。道具の類もなさそうで、身一つで大規模な噴火を起こせるなんて神話の神様そのものである。
「なるほど。……どのくらい時間がかかるんですか?」
「あぁー……。あと半日くらいだな。今日急に調子良くなってな、スゲーすすんだ」
イワナガヒメさんたちの件だろうか。
「噴火はカグツチさんだけでやるんですか? お仲間とかは?」
「いねーよ。……オレは嫌われてっからな」
「ふうん」
なんでもないように返すと、声を落として呟いた。
「……悪霊くらいだ。オレに手を貸すのは」
今、悪霊と口にした。
黙っておくか、つっこむか。
「オマエ、無事でいたいならさっさと山を下りちまいな。仲間もどうせ行ってんだろ。半日あればなんとかなる……かもしれねえ」
作業を中断して振り向いたので、私は少しびくりとした。
悪霊の事は一旦置いておこう。
「それなんですけど、下山の道を知らないんです。富士山って砂ばかりで目印もないですし」
「はあ? じゃあどうやってきたんだよ」
「神様の通り道で来ました」
「……ああ。あいつらこのへんに住んでんだったか」
「同じ神族なのに面識ないんですか?」
「興味ねえからあんま知らねえ。オレは集まりも参加しねえんだ。……オレが行くと困るヤツらばっかだからな」
「へえ」
ニニギさんの言っていることと合致する。
「てかオマエなんなんだ。妖……人……? 神っぽいか? マジでわけ判んねえんだけど、何族?」
「判りません。まだ自分の種族を知らないんです」
「嘘吐け」
「本当です。人族にも妖族にも、自分の種族ではないと言われていますよ。だから神族かと思ったのに……私は違うんですね」
私は八百万界の民ではないからそういうものか。と納得した。
だがカグツチさんは違った。私を見て何故か痛ましい表情を浮かべている。
「そっか。……なんか、悪ぃな」
「大丈夫。慣れました」
ばつが悪そうな顔が申し訳なくて、にこっと笑ってみせた。
「そっか。……だな。慣れちまった方が楽だ」
少し笑ってくれた。
なんだかいい感じだ。
「噴火するとカグツチさんには良い事があるんですか? 火の神様なんですよね」
「……」
黙った。やばい。早速情報収集に失敗した。
「すみません」
「いや、さっきの分でチャラにしてやる」
カグツチさんの手のひらに浮かんだ小さな灯火がぽぽぽと列をなし山を下って行った。上から見るとそれは赤い道になっていた。
「これを辿って下山しな。ここは危ねえから、オマエみたいなヤツはさっさと逃げろ」
「ありがとうございます」
「礼はいいからさっさと行けって。今からじゃ遅えだろうけど、出来るだけ遠くへ逃げろよ」
私は素直に下山した。
途中山頂を振り返ってみたが、その背中は少し寂しく見えた。
「
私の姿を見つけ真っ先に駆け寄ってきたのはモモタロウくんだった。私が変わりないことを一つ一つ確認すると、「どうせ、何ともないと思ったけど」といつものすまし顔に戻った。
「収穫は?」
鋭い目付きで尋ねたヌラリヒョンさんにだけなく、全員に先程の雑談内容をそのまま話した。
「なんでも教えてくれそうだったんですが、目的だけは駄目でした」
「馬鹿が極まると可哀想だね。普通敵にこんな教えてくれないよ?」
〝敵〟の言葉には違和感があった。
カグツチさんは私の身だけでなく、心も案じてくれた。悪いと思えばわざわざ謝ってくれた。
そんなひとを敵呼ばわりする事は否定せずにはいられなかった。
「敵って程悪いひとじゃなかったよ」
「噴火起こそうとしてる限り悪神でしょ」
バッサリと斬り捨てた。
しかしニニギさんも控えめに反論する。
「……そういうひとではないよ。ないはずだよ。でももしそうなるとしたら、イザナギ様のことかもしれない」
「自分の父親に殺されたんだっけ……」
モモタロウくんはぽつりと言った。珍しく揶揄しない。
私も父親との確執を出されると、何も言えなくなる。
ついさっきまで姉妹で諍いを起こしていた二人も言わない。
「全員黙り込んでしまったな」
笑っているのはヌラリヒョンさんだけだ。
「理由なんぞどうでも良い。予定通り噴火を阻止するのか、しないのか」
皆に言うようで、目は私を捉えていた。私は目を逸らしながら言った。
「……します」
「他の者は」
全員頷いているので予定は変わらない。
「でも僕はカグツチさんを殺すのは反対だ。彼は十分苦しんでいるのに、これ以上なんて出来ない」
「……申し訳ございません、ニニギ様。私は斬るのが宜しいかと存じます。先程まで悪霊の力に浮かされた身から言わせて頂くと、斬られなければ止まれませんので」
「僕も斬るべきだと思うね。噴火の被害を考えれば当然でしょ」
「私は……判りません。火の神はカグツチさん以外にもカマドさんを始め多く存在します。カグツチさんが消えても八百万界には火が残るでしょう。……でも私は、カグツチさんには救いがあって欲しいと思うのです」
「其方は」
まただ。まるで品定めをするような目。
私は少し嫌だなと思いながらも答えた。
「……殺さない。説得する」
反対派が難色を示した。
「君はそういう面倒で回りくどい方法好きだね」
モモタロウくんは呆れているが、なんだか楽しそうだ。
「……でもきっと、そのお陰で私はここにいられるのですね」
イワナガヒメさんが柔らかく笑った。
勘違いでなければ、これは折れてくれそうな雰囲気ではないだろうか。
……あれ、おかしいな。そもそもなんで私が最終決定する流れになっているのだろう。
強いのは皆なのに。
実際に動いて、傷つくのは私以外だ。
なのに、どうして。私の意見に同調してくれようとする。
神族の三人なんて、私が独神の偽物をやっていることを知らないのに。
ヌラリヒョンさんに目線を送っても笑顔で流されてしまった。
……一旦考えるのはやめよう。時間がない。
「さっき儀式が中断したんですよね? 可能ならカグツチさんともう少し離れた場所でやって頂きたいんですが、有効範囲はどれくらいなんですか?」
表情が硬くなる二人にニニギさんが尋ねた。
「……サクヤヒメ。やっぱりそうなの?」
「ちょっと! 三人だけ訳知り顔しないで説明しなよ」
モモタロウくんの代弁にコノハナサクヤさんが重い口を開いた。
「儀式は中断したのではなく、失敗したのです」
どうして、と思ったのは私だけではない。モモタロウくんもヌラリヒョンさんも動揺しているように見える。
「父様は私たちの呼びかけに反応しませんでした。……おそらく誰かに抑えられているのでしょう」
「じゃあ助けに行かないと」
足元が揺れる中、背後からの轟音に思わずつんのめった。見ると山頂から火が噴き出していた。
だが不思議と小石が四方に飛ぶ程度で溶岩が山肌を溶岩が滑るようなものではない。
これは噴火というより火柱が立っているのかもしれない。最初の時もそうだった。
「有事だからと言って身内を優先して救出することは出来ません。噴火は父抜きで阻止します」
イワナガヒメさんは断言した。
コノハナサクヤさんを抑えるのが目的と思っていたけれど、もしかして本命は山の神を抑えることかもしれない。そして保険として姉妹を無力化したかったんじゃないだろうか。
となると、悪霊の目的は噴火自体にある。
「いや、助けに行きましょう。これは噴火を止める為に必要な事です」
私的行為ではないことを強調すると、二人は互いの顔を窺いながらも安堵した表情を見せた。
二人とも気を遣っていただけなのだ。父親が大切なのは神族だって同じ。私と同じ心を持っている。
再び山頂で大きな爆発音が起きた。今度は身長ほどありそうな岩が四方に飛んでいる。
こんなものが下に落ちていったら大変な事になる。
「……ニニギ様、ナナシさんを父様のところへお連れして下さいまし」
「イワナガヒメとサクヤヒメは!?」
「半日とのことですが、予定が早まる可能性は十分ございます。私たちは直接止めに参ります」
「僕も行く。ヌラリヒョンさんはそっちに行って。どうせ
また毒を吐いているが気遣い……のつもりかなこれは。
「ならば喜んで行かせてもらおう」
ヌラリヒョンさんは私とニニギさんを引っ張るように連れて行った。
「待って下さいよ。ヌラリヒョンさん場所知らないでしょ? 先先行っちゃ駄目ですよ」
「そうとも。ニニギとやら先導は任せるぞ」
そうしてニニギさんを前へとやるのだが、足取りが軽くニニギさんをぐいぐい押し出しているように見える。
ニニギさんも少し戸惑っているようだ。
「ヌラリヒョンさん。もしかして、なんだか物凄いテンション高い?」
「てんしょん?」
「とっても機嫌が良いって事です。うきうきしていて楽しそう」
多分そうだ。
普段ヌラリヒョンさんは私やモモタロウくんについていくというスタンスをとっていて、あまり自分が引っ張ることはない。
「そんなことはないさ」
全く信じられない。
何を考えているかさっぱり判らない今はあまり頼らない方が良いかもしれない。
……自分のことも他人のことも、自分で考えないと。
それにしてもこうして姉妹抜きにニニギさんの傍で歩くのは初めてだ。
──姉妹を拗らせた元凶。
という印象は拭えないが……。
「あの。カグツチさんのこと、なんか庇いますね。何かあるんですか?」
「カグツチさんが斬られた理由知ってる?」
首を振った。
「カグツチさんは産まれた瞬間に母親であるイザナミさんを焼き殺してしまったんだ」
冗談、ではなさそうだ。
「勿論わざとじゃないよ。八百万界に火を産み落とすということはそれだけ痛みを伴うものだった。イザナギさんはイザナミさんをとても大切にしていてね、だから、許せなかったんだ。妻を殺したひとを」
「……だからって斬るんですか? 半分は自分の血を持った子なのに」
「同じ血を持つからこそ、かもしれぬがな」
ヌラリヒョンさんの言葉が私には重く圧し掛かった。
何故勝手に産んだ挙句に憎まれないといけないのか。
産声をあげてすぐ命を落とさなければならないのか。
私は段々と腹が立ってきて、見知らぬイザナギさんに文句を言いたくて仕方がなかった。
「僕だったら自分の子供を殺すなんて出来ない。例え子供にサクヤヒメが殺されたとしても」
淡々としていた。
私がイワナガヒメさんに肩入れしすぎているから悪く見えてしまうが、本当は普通の良いひとなのだろうか。でも良いひとだったらもう少し上手く姉妹と話し合えたのでは。
ニニギさんのことはまだどうとも判断できそうにない。
「こっちだよ」
ニニギさんは山の斜面にある裂け目を指差した。
中を覗くと一メートル先すら見えない暗黒がそこにあった。
それでもニニギさんは躊躇いもなくひょいと入ってしまうので、私も慌てて続いた。入ってしばらくは何も見えず、音を頼りについていった。
それが急に光が満ちた。
私は今、破断面が鋭い宝石のような光を放つ黒い石たちに囲まれていた。石器時代のナイフのような光沢だが、これらは黒曜石だろうか。それらが私たち三人が横並びになれるだけの空間を作っている。後ろを振り返ったが道はなかった。小さなかまくらの中にいるようだ。
黒曜石同士が擦れ、耳を裂くような音をかき鳴らしながら真っ直ぐな道が作られた。
その先では悪霊たちが倒れている。
「あれ?」
「油断するな」
ヌラリヒョンさんの注意に、私も神経を張り巡らせた。
二人が私の前に出てゆっくりとそれに近づいた。ニニギさんが笛を奏でると悪霊たちは黒い靄になって消えた。いつもの死に方である。
変だ。悪霊は死ぬとすぐ消えるものだが、何故そのままの形で倒れていたのだろう。
「……
唐突に紹介され辺りを見回すがそれっぽいものはない。
だがよくよく正面を見ていると何かがちゃんとそこにいる。大きさも定かではないものが。
私でさえ蜃気楼のような揺らぎにしか見えないなら、ヌラリヒョンさんは。
「そこです」
「なんとなくそんな気はしていた」
それでも視点が定まらない。全く見えてはいないようだ。
「ナナシさん」
ニニギさんは頷いた。
……え、私?
背中をとんとんとヌラリヒョンさんに叩かれて、仕方なく私が話しかけた。
「
聞こえているのか、靄に動きはないが頭には響いてきた。
「断る」
「な、何故ですか?」
「噴火を止める必要がどこにある」
これには私も動揺した。
「いや。え。だって。皆が死なないようにって、理由になりませんか? 娘さんたちも無事では済みませんよね……?」
「時が来れば滅びるのが定め。神とて
松島で会った正真正銘の神族である
だがこの山の神とやらは、姿が見えず、声も聞けず、人とは逸している特別な存在だ。
身体が委縮して嫌な汗が出てくる。目が勝手に
それではいけない。
怖い気持ちを抑えて向き合った。
「滅びるのは今じゃありません。だから今日は手を貸して下さい」
「……火の神の愚行を止めよ。私は動けぬ」
「いえ。ですから、そのカグツチさんを止めるのを手伝って頂きたいのですが……」
「火の神を止めることがあれば手を貸そう」
このひと、私の話全然聞いてくれないな……。
「埋まらぬ心を止めてやらねばならぬ」
何度聞いても一方通行の言葉を聞かされているようにしか思えないが、今少しだけ
「カグツチさんが噴火させる気をなくせば良いんですね」
空気の振動で頷いている動作をしているような気がした。。
「判りました。じゃあ早速行きましょう」
「待って。本当に?」
ニニギさんが驚いた顔をしている。
「だってカグツチさん止めるだけですよ?」
「いや、だけって」
ニニギさんは慌てているが、私はなんだかほっとしている。
カグツチさんを止めればいい。殺す必要はない。
他でもない山の神様がそう言っているんだ。大丈夫。私の考えはおかしくない。
「儂は別行動をとる」
唐突にヌラリヒョンさんは言った。
「判りました。いつ会えますか」
「其方が全てを成したらだな」
私が同意するとすぐに黒曜石の間をすり抜けて行ってしまった。
「いいの? 口出していいかわからないけど」
「大丈夫です。もう任せて良いと思ったのでしょう」
少なくとも私は、いなくなったことを不安視していない。ヌラリヒョンさんにはヌラリヒョンさんの考えがある。私がしないことをしようとしているのだろう。多分。見捨てられてはいないと思う。私が気づいていない事に気づいているんだ。きっと。
煌めく黒曜石を抜けると、火口に戻ってきていた。
火口の淵では三対一で戦っている。優位なのはカグツチさんだ。
火が厄介なのだ。形はなく、流動的で触れずとも肌を焼く事が出来る。
炎にあしらわれて手を出せないのだろう。
……いや、なんだあれ。
火口から黒いものが飛び出してきた。
こちらにも飛んできて、ニニギさんが身体を押してくれたお陰で直撃は免れた。
「これは溶岩とは違うね」
ニニギさんがそっと手を伸ばすと、黒いものがスライムのように伸びてきてニニギさんの腕に張り付いた。肌に浸透していき黒い痣が産まれた。
「なにこれ!?」
黒い痣が墨汁を垂らしたように広がっていく。
「穢れの塊だ」
穢れって何?
私は目の前で起こった突飛もない出来事に「え?」と繰り返した。
わけも判らず周囲を見回す。三人の身体にも黒い痣があった。
火口を覗き込むと、下にあるのはマグマではなかった。
真っ黒な泥状の何かが奥から溢れてきている。
そこから微かにうめき声が聞こえる。泥の中から沢山の醜いものたちが、黒い触手がにょろにょろと湧きだして、火山内部を黒で塗りつぶそうとしている。
「……黄泉の国だ」
ニニギさんが震える。黄泉とは死後の世界だ。
こんなものさっきまで無かった。だったらカグツチさんのせいだ。
カグツチさんの目的は黄泉の世界を八百万界に繋げることだったのか。
「ナナシさん、逃」
ニニギさんが真っ黒に染まった。他の皆も真っ黒な像となり地面に水たまりとなった。
私がパニックになっている間に、私とカグツチさんだけになっていた。
「……逃げろって言ったろ」
カグツチさんの身体にも黒い痣が出来ていた。
身体から発せられていた火も今は弱々しくなっている。
私が近づこうとするとカグツチさんは怒った。
「離れてろ。オマエの仲間と同じことになっちまうぞ」
「……お母さんに会いに行くんですか」
「会いに行くんじゃねえ。呼ぶんだ。八百万界に、帰してやるんだ」
「…………」
黙っていると、相手の方が焦れたように怒鳴った。
「イザナミは行きたくて黄泉の国に行ったんじゃねえ! オレのせいで行く羽目になっただけだ! だったらオレが出してやるのはフツーのことだろ!!」
私は黙ってカグツチさんを見つめた。更に苛々したようだった。
「うるせえな! オレにとっては大事な事なんだよ!! ……なんだよ。何か言えよ。そんなもんの為になにやってんだって、言えばいいだろ!!」
「……良いと思いますよ。だって、母親は一人だけだから。大事、だから」
「……なんで責めねえんだよ」
「喜んでくれると良いですね」
肯定したのに、カグツチさんは顔をくしゃくしゃにする。
「そんなわけねぇだろ!!!!」
「オレはイザナミなんて知らねえ! オレを産んで死んだんだ、見たことだってねえよ!! 他の奴らばっかりが母ちゃんを知ってる! そいつらの言うイザナミは少なくとも富士山ブッ飛ばして黄泉帰りさせたって喜ばねえ!!」
黄泉の色はどんどん濃くなる。
「……最後は殺した張本人であるオレを贄にすれば、イザナミは帰れるはずなんだ」
そういって黒い泥の中へ飛び込んだ。私も迷わず追いかけた。
◇
「あ!?」
いつものように目の前にいた悪霊を燃やした。それでおしまい。
……にはならなかった。珍しく悪霊に話しかけられた。
「富士山を噴火させれば地脈が大きく乱れることになる。そして黄泉への道が繋がる」
「ねえよ。ばーか!」
突然の戯言にむかっ腹が立った。黄泉がなんだというのだ。
話しかけてきた悪霊を殺した。するとまた次の悪霊が話しかけてくる。
「界力が減少した今なら出来ます。界力という支えを失ったことで地上と根の国とが近くなっているからです。あと一押しなんです。それも山の神を弱体化させれば完璧だ」
「なんでオレがしなきゃなんねえんだよ」
悪霊はいつも不愉快だが、今日はそれ以上に不愉快だった。
「子が親の為に動くのは当然なんでしょう、ここでは」
殺した。
「聞けば母親を殺したとか」
次も殺した。
「だからあなたが助ければきっと、全ては清算される」
全員きっちりと殺した。
「……んなわけねえだろ」
単純なオレの中に不安が渦巻いていく。気持ちが悪い。身体の中に手が届けばガッと掴んで、バッと投げ捨てられるのに。
そしてオレは渋々イザナギの屋敷へ行った。悪霊は黄泉黄泉としつこかった。もし黄泉に何かあればイザナミにも影響があるだろう。
だから行くしかなかった。
「二度と顔を見せるなと言ったはずだ」
と、イザナギは言った。
「まあまあ。落ち着いて……」
とアマテラス。
「うわっ。蒸発するじゃない。保湿保湿。
とツクヨミ。
「ぐがあああ」
といびきをかくスサノヲ。
三貴神たちが来ているなんて最悪だ。
黄泉の穢れを祓ったことで産まれたヤツらを、オレはあまり好きではなかった。
「……黄泉が狙われてる。……かもしれねえ」
「根拠は」
「悪霊が黄泉の話をしてた」
「それだけか?」
冷たい問いかけが神経を逆撫でする。
「それだけでなにが悪ぃんだよ!!!」
「信ずるに値しない。馬鹿な貴様の思い込みかもしれぬ。せめて、こういう時には証拠か何か持ってくればよかろう。それすら出来ぬのか。全く。母親を殺すような者は物の道理を知らぬな」
身体から炎が燃え上がり、イザナギへ向かって飛び出した。
だが炎はアイツの剣に斬られてしまった。
「今度は儂も殺すか?」
くそっ!
オレは逃げ出した。
イザナギの近くになんて一瞬でもいたくない。
なんなんだアイツは。
オレはただイザナミに何かあったらって思っただけなのに。
どうしてこんなことされなきゃいけないんだ。
「……もし母ちゃんがいたら、オレの言葉に耳を貸してくれたのか?」
無駄な事だった。オレに母親はいない。自分が殺した。だからオレは母親の愛情なんて知らない。
「母ちゃん……」
会ってみたかった。どんなひとが自分を産んだのか。
知っているヤツらが言うには、綺麗で聡明だと聞いている。
オレが知る母親の姿はそれくらいだ。
大抵はオレがイザナミを知りたがると嫌がって話さない。顔が言っている。殺したオマエが言うのかと。オレを憎んでいるヤツもいるだろう。全員の母親だったイザナミを殺したのはオレだ。
オレは母ちゃんに会う資格はない。
……ないのにずっと気になっていた。一目だけでも見てみたかった。
でも駄目だ。
悪霊の甘言に乗るわけにはいかない。暫く休んでいる富士山をここで噴火させてしまえば大変な事になる。いくら火の神でも遊びでやってはいけないことだ。
いくら母親をぶら下げられたところで悪霊に協力するなんて言語道断。
こんなことをすればイザナミを失望させる。オレはこれ以上迷惑かけては駄目なんだ。
考えることの苦手なオレの気分転換は、自分の鍛冶場で武器を作ることだった。
こういうもやもやと気持ち悪い時、無心に打てばすぐに忘れられる。
鍛冶場へ向かうと、知らないヤツらがいた。
「余計な事をしないか見ているんだ。イザナギ様の命令だ」
アイツに監視されている。腹が立って気づけば倒していた。死んではなかったので外へ放り出しておいたら、暫くするといなくなっていた。
神聖な鍛冶場に土足で入られたことが嫌になったオレは、山の中で薪に使えそうな木々を集めることにした。こういう時は身体を動かすと自然と忘れているものだ。
鍛冶場へ帰ると中が荒らされていた。オレは鍛冶に使う道具は必ず定位置に片付けている。なのにそれらがあちらこちらへと置かれていた。置いていた鋼も乱雑に広がっている。
鍛冶場の入口には足跡が残っていて大量に出入りしたのが見てとれた。
オレの強さにビビって数用意したってのは褒めてやる。
けど、やることがこれかよ。
オレの怒りが燃え上がり、鍛冶場を荒らしたヤツを見つけては襲った。
「ほら、やっぱりお前は」
やられたヤツがそう言った。
オレは最初から何もするつもりはない。
なのにどうして、疑うんだ。
「イザナミ様を黄泉に送ったヤツ」
そうだ。オレがイザナミを殺した。
でもじゃあイザナギはなんなんだ。姿の変わったイザナミに酷い事を言っておいて。
どうしてオレだけが責められる。
アイツこそ動くべきだったんじゃないのか。自分の愛した「イザナミちゃん」を黄泉からつれていけば良かった。ちゃんと寄り添ってやれば、離婚の話になんてならなくて済んだ。夫婦を壊したのはオレじゃなくて、イザナギ自身じゃねえのかよ。
なんでオレばっかりなんだ。
なんで信じてくれないんだ。
オレはイザナミの顔も知らないのに。声をかけてもらったこともないのに。
奪っただの殺したのだの、オレには身に覚えのないことだ。
なのにどうしてなんでなんでなんでムカツクムカツクムカツク!!
「……だったらオレがイザナミを八百万界に連れ戻してやる」
イザナミを戻せば清算されたことになるんだ。
あの腑抜けが出来なかったことを、オレがやってやる。
オレは悪霊が出たとの噂を聞いたらすぐさま飛んでいった。
勿論、殺す為ではない。
「おい。あの話聞かせろ」
悪霊の命令を聞くのは気に食わなかったが、これもイザナミの為だと我慢した。
奴らはまず、山の神を封じろと言ってきた。
山の神はよく知らなかったが、どうやらオレから産まれたらしい。オレはイザナギに首を斬られ、その後身体中を刻まれたらしかった。とんでもねえな、アイツ。
そして山の神はオレの首から産まれたらしい。
自分の首に触れると傷跡が指にひっかかった。消えない傷だ。
……だんだんと殺してやりたくなった。
どうせオレから産まれたものだ。オレが斬ったっていいだろう。イザナギがやったことと同じだ。
……でも山の神に会うとそんな気はすぐに失せた。
オレの身勝手で殺す事なんて出来なかった。
「オマエはしばらく大人しくしてろ。……いいな。誰に何言われたって、とにかく大人しくしてるんだぞ!」
山の神はオレに答えはしなかった。だが力が引いていくのが判った。
なんでオレの言う事なんかを聞いてくれたのかは判らない。だが好都合だった。
山の神の力が弱まって、富士はオレの力を受け付けるようになった。
それでも大きい山だ。どうこうするにも時間がかかる。
「オレは、とにかくやるだけだ」
オレは自分が馬鹿だと知っている。だからオレが出来ることなんかこんなもんだ。
「母ちゃん。もう少しの辛抱だ」
◇
私、────は小学二年生だ。
今日も学習発表会の練習ばかりで、とぼとぼ帰路についていた。
劇が鬼門だった。私は緊張してしまっていつも声が小さかった。
「両親が見てくれるから頑張りましょう」と先生はよく言った。
「お父さんもお母さんも、応援してくれているよ」
二年生の先生は優しい人で、私たちが不安そうにすると両親を引き合いに出した。
両親は子供を愛してくれている。
笑顔でそう言ってくれる先生の事は好きだ。
聞く度に私は両親の事がもっと好きになれた。
お父さんは仕事が忙しくてあまり会えないけれど、本当は私を好きでいてくれているんだ。
お母さんは静かな人だったが、近所の人や私の友達のお母さんと話す時はとても明るい人だった。
いつも穏やかで綺麗だと言われていた。特に最近はきらきらしていて若返ったようだと。
それを聞くと私も誇らしかった。
綺麗なお母さんはクラスでも人気なのだ。その中に自分のお母さんが入っていることは嬉しい事だ。
家に着くと、旅行で使うような真新しい大きな鞄が置かれていた。
もう少し先で連休があるから、そこでの旅行の為に買ったものかもしれない。
今からわくわくしてきた。
「お母さん、ただいま」
お母さんは玄関の私を見て、顔を歪めた。私は「あれ?」と思った。
何かやってしまったのだろうか。怒られそうなことをした覚えはない。
お母さんの動きは早くなって、乱雑にアクセサリーや服を入れている。
いったい何日泊まる気なのだろう。そんなに入れて明日は何を着るのだろう。
お母さんは新しい旅行鞄の他に、今まで使っていた旅行鞄を肩にかけた。丸々とした鞄はとても重そうだった。
お母さんは私の横をすり抜けて、玄関にしゃがんでスニーカーを履いた。
さっきから少しずつ広がっていた不安が爆発した。
金属の扉に体当たりするように押し開いた母親に手を伸ばし叫んだ。
「私も行く!!」
鞄の紐を掴む手に触れた時、私の身体は木製の靴箱に叩きつけられた。
頭がぐわんぐわんと揺れる。
「今更遅ぇんだよ!」
お母さんは口汚く怒鳴り散らすと再び出ていこうとした。
────行かせてはいけない。
私は足をもつれさせながらお母さんに抱き着いた。
今度は腹を蹴り飛ばされて、テラコッタ風のタイルに尻もちをついた。
「あいつが良いつったんだろ。だったらあっちに行きゃいいだろうが!! さっさと行けよ!! 行け!!」
再び蹴られた。その足に縋ろうとしたらまた蹴られて、怯んだ隙に金属の扉を閉められた。
胃がひっくり返ったような痛みを抱えて、私は泣きわめくしか出来なかった。
お尻を引き摺って扉を何度も叩いたが開く気配はない。
それでも繰り返し叩いた。閉じ込められているわけでもないのに何度も叩いた。
その甲斐あって、十数分で扉が開いた。
私は期待に満ちた顔で見上げた。
「うるせぇ!! いい加減にしろ! 近所迷惑だってのが判んねぇのか!!」
「……ごめんなさい……」
「チッ、最近の餓鬼は」と言いながら、同じマンションの住民であろうおじさんが扉を閉めた。
お母さんが戻らなかったことへのショックで私はその場から動けなかった。
お父さんが帰宅して、私が泣きながら一生懸命お母さんが出て行った事を話した。
「そう」
それが、お父さんの反応の全てだ。
その後母の話をした事はない。
突然消えた母親。去り際に私を罵った母親。
戸惑いや憤りや疑問は百二十センチほどしかない身体に充満していたが、口から出すまいと必死だった。
妻の家出に対する父の興味の薄さを見て、到底共感はしてもらえないし助けてもらえないと思ったのだ。友達にも言えなかった。「発表会はお父さん有給取ったんだー」と嬉しそうに話す人達に言えるはずがない。
私は一人で、私の何が悪かったのかをない頭で必死で考えた。
そして数日前のやり取りが思い浮かんだ。
「──ちゃん、お母さんとお父さん、どっちといたいかなあ?」
当時の私は両親を同じだけ好きだったので簡単に比べられるようなものではなかった。
それでもどちらと言われれば、一方を答えなければならない。
母は専業主婦でずっと家にいたのでいつでも会えたが、父は多忙で滅多に顔を合わせることがなかった。
私は少し悩んだあげく、「お父さん!」と答えた。
最後まで質問の意図を察することが出来なかった私の答えに、母はひどく顔を歪めた。
「…………あっそ」
底冷えのするような声で母は私を〝見限った〟。
母が出ていったのは私の自業自得だったのである。
数年経って、私は偶然母を見かけたことがある。一度だけ。
母は知らない男の人といた。楽しそうだった。
二人の間には子供がいた。笑っていた。三人で手を繋いでいた。
よちよち歩きの子供がこけると、母はさっと抱き上げて大声で泣く我が子を愛おしそうに撫でた。
月並みだがまるで女神のようだった。
担任の先生が言った通り、両親というものは無条件に子供を愛するのだ。
両親の愛情を受けて人は大きく成長し、誰かを愛し、子を成していくのだろう。
────ふざけてる!
強烈な吐き気を必死に堪えて私はその場を走っていった。
どうして、あの子が私の母と手を繋いでいるんだ。
どうして、家族全員楽しそうなんだ。
どうして、私には。
私は良き母の姿を見たことで人生で一番の怒りを体験した。
長い針が幾度となく十二を示そうと、部屋の明かりは灯らない。
父親は昔から多忙だったがそれだけではない。
女が出来ているのは知っている。そして私が邪魔なことも。
私しかいない、がらんとした家でいつも後悔する。
……私はあの小学二年生の秋にどうすべきだったのだろう。
どうすれば家族が壊れずに済んだのだろう。
あの時のことを、私は何度もシュミレーションし続ける。
もしも今、時が戻ったならば今度こそ正解の道を選び取るはずだ。
それだけの後悔を重ねてきた。
そうすればもうこんなに寂しい気持ちなんて抱かずに済む。
──どうして、私はこんなことを思い出したのだろう。
「ひぃやああああ!? 落ちてるうう!?」
そうだ。私は富士山の火口、黄泉の入口へと飛び込んだ。
カグツチさんを追って。
すぐ目の前に背中から落ちていくカグツチさんがいる。私は急いで手を掴んだ。
カグツチさんはきっと睨みつけ、私の手を払った。
「放せ!!!」
私はもう一度カグツチさんの手を握る。
「放せつってんだろ!!」
「嫌です!!」
どれだけ嫌がられようとも放すつもりはない。ここは絶対に負けてはいけないのだ。
放したら全てが終わるのだから。
「オマエなんかが来たら贄にならねぇだろ! 死ぬのはオレだけで良いんだ! どうせオレは父親にすら殺されちまうような要らない神なんだよ!!」
それを聞いたら猶更放せなくなった。叩かれようが蹴られようが火で焼かれようが、今度こそ掴んだまま離さない。
「なんでついて来た!? オマエは関係ねぇだろ! ちゃんと逃げろつったろ!!」
カグツチさんの後ろでは亡者たちだろうか、黒い靄を纏った人ではない何かが私たちに熱い抱擁をしようと待ち構えている。
いくつもの手がカグツチさんの身体の至る所を掴んだ。黒い泥に飲み込まれていく。
足が呑み込まれると次は身体が呑み込まれていく。カグツチさんから力が失われていくのが判る。
私も同様に身体が黒い手に掴まれ、混沌へと落ちようとしていた。
私はそれでも離さない。
「……どうして、そこまでしてオレを助けようとする?」
力が入らないのか小声で尋ねるカグツチさんに答えた。
「いなくなると寂しいから」
私の口に黒い手が入り込んできた。苦しくはなかった。ただ眠くなった。
何度も落ちる瞼の隙間から覚えのない勾玉が見えた。青にも紫にも見えるそれに目を奪われた私がふと呟いた。
「一血卍傑」
暗黒色の黄泉の入口がぐにゃりと歪んだ。私たちを引き入れようとしていた亡者たちが絶叫して入口へ逆流していく。この勾玉を使えば黄泉との繋がりを断ち切れるに違いない。
私は浮遊していた勾玉をキャッチして、印籠のように穴に突き付けた。
少しずつ入口が小さくなっている。これならきっと。
期待とは裏腹に縮小は途中で止まった。黄泉の者達が入口をこじ開け、再び世に出ようとしている。勾玉を突き付けても変わらない。それどころか木っ端みじんに砕け散ってしまった。
「そんな……!」
自分の非力さ、運の無さを恨んだ。
それでもカグツチさんだけは……。私は右手に力を込めた。
すると、穴の奥で何かが動いた。亡者ではない。おどろおどろしいもの。
ここにきて、亡者のボス的なものなの!?
万事休すである。
今回ばかりはどうにもならない。
ヌラリヒョンさんには期待してもらったし、モモタロウくんは私についてきてくれたけれど、ここまでか。所詮八百万界なんてただの妄想、夢だったのだ。
なんとも後悔しかない夢だ。
嫌だな。
……今ここで覚めるのは。
「……あれは!?」
カグツチさんが穴の奥を凝視している。私もつられて目を凝らした。
芋虫が大勢くっついたまま常に動き続けている、そんな形容しがたい塊が八百万界へ出ていこうとする亡者たちをちぎっては後方へ放り投げている。
亡者が離れる度に穴は縮小していった。
あの生物は私たちを助けてくれている。そうだ。きっとそうに違いない。
「助けてくれてありがとう」
私の口から自然と出てきた。
カグツチさんはまだ凝視しているが、私の方は肩の力がすっと抜けて成り行きを見守る体勢に入っていた。
不思議と安心感に溢れていた。見た目こそウネウネモゾモゾと気色が悪いが、よくよく見ていると温かいものに触れたような心地になるのだ。自分を委ねてもいい気にさせた。
穴は加速度的に収縮していき、最後には小さな点となって消えた。
そして景色はマグマ一色になった。
「いやあああ!!??!」
どうするどうするどうするどうしようもない!?
────死んだ。
足掻く事を諦めた瞬間、私の身体が水に包まれた。カグツチさんも同様。二人で大きな水球の中にいる。
そして背中から何かに引っ張られた。後ろ向きのジェットコースターのような状態で上昇していくので、私はカグツチさんを離さないように両手で手首を握った。
雲を散らして富士山の頂上より遙か上空に着くと一度停止した。
上へと飛んだものが次にどうなるかは自明の理である。
私たちは真っ逆さまに落ちた。
「あびゃびゃぎゃぎゃぎゃぎゃやわわわわわ」
スカイダイビングは初体験である。
折角遠ざかったマグマ色の火口が迫ってくる。
このまま「じゅっ」と二人とも蒸発するのだ。
と思ったら、急に旋回し富士山の斜面へ方向が変わり、そして森林が溢れる裾の方へと落ちていった。
地面に当たる直前、傍にあった木の幹に叩きつけられた。ほんの一、二分の間に様々な経験をして頭がついていかない。
「いたたた……」
と、言うだけで済むのは奇跡だ。三千七百メートルあると言われる富士山よりも更に上空から落ちて一切の怪我をしていないのだから。
服が枝にでも引っかかったのか足が僅かに地面に着かない。身体をぐいと捻って後方を見ると光の矢が私のジャージの上着を射貫いていた。驚く間もなく、光の矢は粒子状になって消え、私の足は無事地面へと着地した。
「カグツチさん、大丈夫ですか?」
空中を振り回されていてもちゃんと手は離さなかった。カグツチさんは地面に座り込んでいる。ぱっと見た限りだが怪我は見受けられない。だが顔には疲労の色が見える。当然か。さっきまで黄泉の住民に取り込まれようとしていたのだから。
「あの、医者とか必、」
「オマエ!」
怒鳴ったカグツチさんが立ち上がっり軍配を突き付けた。
反射的に「すみません」と頭を下げた。
「オマエ呼ばわり出来るご身分かよ」
知らない男の人の声に振り返ると、褐色の肌の大男が私たちを見下ろしていた。新手の敵か、私は目を離さずじりじりと後ずさった。
「親父の言う事を聞く歳でもねぇけど、ま、暴れていいっつーから暇潰しにきてやったぜ」
突然現れて何を言うのか。とにかくカグツチさんを守らないと。
軍配を持つ腕を引っ張ったが振り払われた。じんじんと痺れる手を握って動揺を抑えた。
「馬鹿! 下がってろ!」
火を纏った軍配を振るうと、扇状の炎が大男に向かった。
大男が鬱陶しそうに手で払いのける動作をしただけで、炎は水をかけられたようにじゅっと消えた。
大男は言った。
「……こんなボロっちい奴なんて相手にしてたらスサノヲ様の名が廃るぜ」
嘲笑いながら踵を返すと、カグツチさんは悔しそうに膝をついた。私は一先ずカグツチさんに駆け寄った。
大きな背中がぼそりと呟いた。
「……イザナミはいたのか」
イザナミ……?
「……。多分見た」
「そーかい」
そして大男は森の奥へとゆっくりと歩んだ。途中キーキー甲高い声で叫ぶ女の子と、哀愁漂う背中の女の子と一緒に消えていった。
静けさを取り戻した森には私とカグツチさんの二人だ。
「えーっと。カグツチさん。……とりあえず帰りましょうか」
「……どこへ」
私も向かう先が判らない。
「まずは皆と合流でしょうか。宿に行けば良いんじゃないですかね。会えなかったとしても今日は疲れたので早く寝たいですし」
「オレは行かねえ」
……。
「今回の始末がある。……だから、そんな目で見んなよ」
カグツチさんは困ったように言った。
「……色々、悪かったな」
「私こそ。お母さんに会う邪魔をしてごめんなさい」
カグツチさんはじっと私を見ると鼻で笑って首を振った。
黙ったまま大男と同じようにカグツチさんも森の奥へと吸い込まれていく。私は追いかけなかった。どうしていいか判らず辺りにあった倒木に腰を下ろした。
今日のことをゆっくりと反芻していた。
しばらくすると声が聞こえてきた。手を振って近づいてくる人がいる。
────ああ、迎えだ。
◇
富士山の山頂から南南東に位置する沼津宿で、私は本陣に泊まった。とうとう、くるところまで来た。
自炊が基本の木賃宿、食事が出る旅籠屋、その次にくるのが身分の高い者だけが宿泊できる本陣である。
今回で全ての宿泊施設をコンプリートした。
感慨深さを味わうことはあまりなかった。今日一日の内容が濃すぎて余裕がなかったのだ。
いつもは蒲団三組敷いたらぎりぎりの部屋だが、本陣の今日は余裕があった。あと十人は寝られそうなスペースがある。
ここの人たちから最初、三人別々の部屋をすすめられた。だが私が返事に困っていると、
「僕はいつもと同じで良いよ。君がなにしでかすか判ったもんじゃないしね」
と憎まれ口を叩きながらも穏やかな微笑を浮かべていた。
私はヌラリヒョンさんの顔を窺った。
「どちらでも構わぬ」
ヌラリヒョンさんはいつもの調子で言った。
「三人一部屋でお願いします」
私は〝変わらぬ日常〟を選んだ。
この地域に伝わるとおう踊りを見ながら豪勢な食事を食べ、風呂は別々、部屋に一番に戻ったのがモモタロウくん、次は私、かなり経ってヌラリヒョンさんだった。
普段ならモモタロウくんと私の二人でよく話すところだが、今日はあまり話さなかった。
私が疲れを隠さなかったことから気を遣ってくれたのかもしれない。
今日ばかりはご飯と具だくさんのみそ汁とつけもので手早く済ませたかったし、慣れたひとだけで静かに食べていたかった。
風呂だけは良かった。皆がばらばらなお陰で一人を堪能できた。
「君も。早く寝なよ」
「うん。おやすみ」
明かりを暗くすると、すぐに寝息が聞こえた。
私も小さな生命を頼りに、足元の安全確認をしながら蒲団へ入った。
暖かくて柔らかいものに包まれて落ち着きたかった。
「ヌラリヒョンさんは寝ないんですか?」
外を眺めていたヌラリヒョンさんは頬杖をついたままこちらをみた。
「寝ろというならば寝る。だが儂は少し其方と話がしたい」
手招きをされた。
私は折角暖まり始めた蒲団から出てヌラリヒョンさんの傍に立った。
「……おいで」
ヌラリヒョンさんは自分の膝をぽんぽんと叩いた。
私は指示に従って腰を下ろすと、後ろから腕が回ってきて腹の所に回ってきた。
緊張する私にヌラリヒョンさんは言った。
「其方はよく頑張った」
私は小さく首を振った。
「そんなことない。私は全然……」
「だが全くの役立たずだった。……とは思っておらぬだろう?」
言い当てられたことに身が縮むような思いがした。
確かに今回は私も少しだけ役に立ったと思う。ゴーレム化したイワナガヒメさんの攻撃を止め、黄泉の入り口を塞ぐ手伝いをした。
たったそれだけで得意がってはいけないと自分を抑えていたのに、見抜かれてしまうとばつが悪い。
「其方が思う以上に、周囲は其方を評価しておるよ。少なくとも儂は、其方の働き無くして丸く収まることはなかったと断言しよう」
「……あ。えっと……ありがとうございます」
大きな手が私の頭を優しく撫でた。
うんと年上の男の人に褒めてもらうといい気になってしまう。
本当に自分が凄い者なのだとうっかり信じそうになるくらいに。
調子に乗って見捨てられないようにしないといけないのに。
「其方は海を制するだけでなく山をも制した。妖と人と神、全ての種族を手にした。其方が得られぬものなどこの八百万界にはないのだろうなあ」
しみじみとヌラリヒョンさんは噛みしめた。
これは流石に私も思っていない。
私は
「そんなの私には出来ませんよ。ヌラリヒョンさんの方が向いてますって。力があって、知識があって、カリスマ性があって。……ヌラリヒョンさんが全国統一する姿は簡単に想像出来ますもん」
遠野でこじんまりおじいさんやっている方が私には不思議だ。あまり剣を振るわないが、遠野で初めて見た百鬼夜行には圧倒された。百以上と思われる妖たちが全員ヌラリヒョンさんを慕い、一声で集まるのだ。こんなの私には出来っこない。自信をもって友達と言える人が元の世界にいないような私が誰かに慕ってもらえるわけがない。
町で情報を集める時だって、私やモモタロウくんじゃそこそこで、ヌラリヒョンさんの方が上手に聞き出す事が出来る。それだけひとをよく見ている。性質を理解している。だから私に発破をかけて成長出来るように誘導してくれる。にこにこ笑いながらいとも簡単に。
上に立つべき者はこういうひとだ。
「確かに無駄に歳を食らっているからこそ経験と知識がある。それでも、儂では足りぬのだよ」
「絶対出来ますよ! だって私、ヌラリヒョンさんについていくの好きですもん」
諦めきった口調が嫌で前のめりになって否定した。
「それにかっこいいじゃないですか!」
ヌラリヒョンさんは大きな口を開けて笑いだした。
「そうか。〝かっこいい〟か。そう言われると儂も案外悪い気はしないものだ」
私は安堵した。
「八百万界統一などする予定はないが、もし其方が望むならそれも良いかもしれぬな」
「する時は言って下さい。手伝……いは出来なくても、応援はします」
くしゃりと頭を撫でられた。なんとなく良い事をした気がした。
いつも傍にいてくれるヌラリヒョンが浮かない顔をしているというのは落ち着かない。
撫でてもらっている間はじっとして口を開かない。
大人のひとの横顔はなんども見てきた。
話しかけてはいけない。許可があるまで黙り続けなければならない。
でも話しかけたい。
「……お父さ、っあぁ!!」
よりにもよって、とんでもない間違いをしてしまった。今度は私が黙り込んでしまう。
ヌラリヒョンさんは一瞬驚いた顔をしていたが、少しはにかんで頬を撫でた。猫のように顎を撫でられた。
顔の赤みが引くまでずっと撫でてくれる。
やっぱり、父親みたいだ。
私のではない。一般的な、という意味で。
「……カグツチさん、いたじゃないですか」
ヌラリヒョンさんは静かに頷いた。
「自分のせいでお母さんが死んじゃって、お父さんには恨まれて殺されちゃったって」
また頷いた。
「私、今まで自分の事は結構不幸だと思ってたんです。お母さんはいなくなっちゃったし、お父さんは私を煙たく思っていて帰ってこないし。でも、カグツチさんの話聞いて、自分はなんてことないんだなって。こんなことで落ち込んでいる自分はただ弱いだけ。……不幸という思い込みを免罪符に色々なことから逃げてきたことに気づいたんです」
相槌もなく頷くだけにしてくれるお陰で話しやすい。みっともないことを言う私の背を優しく押してくれる。
「自分は不幸だ、なんて思い上がりは止めます。もっと自分の非を認めて、駄目なのは親じゃなくて自分のせいだって、ちゃんと思うようにします。……って、思わないと、駄目……ですよね?」
自分が産まれたことで片親が死んで、自分が殺される。
そんな不幸がこの世にあっていいのだろうか。
イワナガヒメさんとコノハナサクヤさんのことも、そう。
逃れられない姉妹の繋がりで生涯苦しむのだ。寿命がない神族は血縁から解放されることはない。
立て続けに見た家庭事情は私よりもずっと不幸で、私の悩みの矮小さを突き付けられた。
そして気づいてしまった。
私が自分の不幸を拠り所に生きていたことに。
自分の過去が不幸でもなんでもないと知ったら、急に私の手元には何もなくなってしまった。
ただの性根の歪んだ人間が残った。
「最も不幸ではなければ、悲しみに耽ることも悔いることも許されぬのか?」
「……いや。でも」
「他人のことなど其方の心には無関係であろう。人目が気になるのであれば、儂の前だけで吐露すると良い。いつだって耳を傾けよう」
やっぱり私は不幸じゃなかった。
何の関係もない人にこうして慰めてもらえる。
こんな人が私の父親だったら私の人格も全く違うものになっていただろうが、残念な事に彼は他人の妖怪だ。
私は遠野で偶然出会っただけのひとの手を握った。
ヌラリヒョンさんの眉が一跳ねした。そしてそっと握り返してくれた。壊れ物みたいに。慎重に包んでくれる。
「……大事にしてくれてありがとう」
伝えるだけで目が潤んだ。
ヌラリヒョンさんはゆっくりと私の身体に腕を回した。
大人の男の人に抱きしめられることはとても安心した。
父の代用なのか、それ以外の意味なのかは私もよく判らない。
握った手の答えが抱擁であったことが嬉しかった。
「いつか必ず、この恩を返します」
「……ならば、それまで儂も生きるとするか」
「長生きして下さいよ。今までも沢山生きているんでしょう?」
「そうとも。正確な年数など忘れてしまうくらいには、な。さて、そろそろ身体を休めよう」
随分話し込んでしまった。だがお陰ですっきりしている。
蒲団に入る前に初めての従者であるモモタロウくんの枕元にしゃがんだ。日中とは違い気の抜けた可愛らしい顔に言った。
「私といてくれてありがとう。守ってくれてありがとう。心配してくれてありがとう。……」
礼を重ねただけではどうも今の気持ちには足りない。
「大好きだよ」
ようやく腑に落ちると自然と手が伸びて、枕にころんと転がる頭を撫でた。
彼は頼もしかった。……ヌラリヒョンさんよりも。
あまり撫でると起きてしまうので、このへんで止めよう。
ヌラリヒョンさんは先に蒲団に入ってしまった。
……今なら、ちょっとくらい無理を言っても許されるだろうか。
「……蒲団、くっつけてもいいですか?」
ヌラリヒョンさんは返事をしない代わりに、自分の蒲団をくっつけてくれた。
もう一度蒲団に入って、私の蒲団をはだけさせて、
「おいで」
と言う。
私は呼ばれるままに蒲団に入った。隣にはちゃんと他人がいる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
返事が返ってくる喜びを噛みしめた私は、いい夢が見られるはずだ。
◇
「君、ほんっっっっっとうに身体弱くない? 弱すぎない?」
私は目を逸らしながら言った。
「多分皆が頑丈過ぎるだけと思うんだよね」
横でヌラリヒョンさんが笑っている。
富士山の噴火の次の日、モモタロウくんはいつもの時間に起きて鍛錬に励んだそうだ。ヌラリヒョンさんは一日ぼうっとしながらもふらふらと辺りを散策して過ごしたそう。
そして私。一週間寝ていたそうな。
「食事はしない、厠に行くのも最初の数日だけ。君って魚とか虫とか熊とか、そういう奴らに近いよね」
「弱い人に向かって失礼な」
「弱い奴は、剣を止められないし黄泉の入口も閉じられないから。本当の弱者に謝って」
私はいつも通り記憶はなく、起きたら周囲が歓声を上げていてすっかり浦島太郎状態だった。夢も見ていなかったような気がする。
「イワナガヒメさん達も君を心配してたよ。来たら一言くらい言ってあげなよ」
起きない私を相当心配してくれたそうで、特にイワナガヒメさんはこの辺りで一番の医者を呼んだり神頼みをしてくれたと聞いている。神なのに神頼みとは不思議だが、司るものが違うのでそういうこともあるらしい。
「今日はここでゆっくり過ごして、僕の目の届く場所にいるんだよ。いいね?」
なんだか今日のモモタロウくんは母親のようだ。
「判ったってば」
目の届く場所とのことなので、私は冗談でモモタロウくんにぐっと顔を近づけた。
「はあっ!?」
真っ赤な顔を隠すように腕でガードしていた。そういえばさっき、起きてすぐも目を合わせただけで慌てふためいていた。なにか後ろめたいことでもしたのかもしれない。
「モモタロウの言うように、其方は決して無理をせぬようにな」
「はい!」
「態度。うざいくらい違うんだけど」
「儂の見立てでは、自分の力を使い過ぎたことによる疲労と見ている。今日は不用意に首を突っ込まぬようにな」
「……はい」
「ははっ。さっきの元気はどうした」
私はモモタロウくんとは違うので厄介事なんてごめんである。けれど、最近はつい口出しをしてしまうくせがついているので、身の振り方には十分に気をつけねばなるまい。基本的にはモモタロウくんに全てを押し付けていくようにして、私とヌラリヒョンさんは後ろでぼーっと見ていればいいのだ。うん。決まり。
「ナナシさん!!!!!!!」
身体が震えるほど大きな声だった。入口に目を向ければイワナガヒメさんだった。
「ご無事だったのですね。本当に良かったですわ。眠り続ける間生きた心地がしませんでした」
「ごめんなさい」
「いいえ私が悪いのです。岩なんて可愛くないものではなく、スクナヒコさんのように薬を司る神ならお助け出来ましたのに!」
「でもいざ戦いになると、イワナガヒメさんの強さは頼りになります。永遠性でしたっけ、岩が表すのは。変わらないことって安心感を与えるから、あなたにぴったりだと思います」
イワナガヒメさんが黙った。
「……あの、もしかして何か間違ってました?」
「そんなことありましぇんわ!」
あ、噛んだ。このままどんどん変な雰囲気になっていきそうなので話題を変えよう。
「ところで噴火の話ってどうなったんです?」
「ああ。あれは父様とカグツチさん、それに妹が加わり沈静化しましたの」
「そっか」
私はほっとした。カグツチさんが自分で片付けた事を。
「ナナシさんのお名前を知りたがっていましたのでお伝えしましたが、よろしかったでしょうか?」
「勿論。構いませんよ」
教えられたから一方的に知っていただけで、私たちは自己紹介もしていなかったことを思い出した。
「父様はカグツチさんから産まれたそうです。カグツチさんの事情を存じていたのもあって、今回は肩を持ったそうです。悪霊に利用され、力を借りた私とは違いますわ」
自嘲気味に笑った。
「私はもっと岩の如く不動の精神を持つべきですね」
今度は晴れやかな顔をしていた。
「やっぱり、凄いですね」
そう言うと首を振った。
「これからですわ」
こちらまで元気になるような無垢な笑顔だった。
私も、変わっていこう。すぐにとはいかないにしても、同じように変わろうとしているひとを思い出しながら頑張っていきたい。
「名は体を表す。ですから私、あなたにはきちんと名を授けたいと思いました。私如きが贈るのは厚かましいとは思っているのですが……独神という名があなたにしっくりくる気がしましたがいかがですか?」
思わず変な声が出そうになった。
私はイワナガヒメさんには独神云々の話は一切していないはずなのに。
「父様との会話に出てきたんです。昔から聞く名ではありますが、実際にその名をまとった者を見たことはありません。八百万界に危機が訪れるとどこからともなく現れるとか。だったら今の状況下にぴったりだと思いませんか?」
「思いませんよ!!」
不思議そうな顔をしている。
「だ、だって、自分は独神って思いこんで勝手に名前を名乗るって変じゃないです? だって独神ってそんな軽いものだったら、もっと色々な人が名乗ることになるし、本物の判別に困りませんか……?」
「ですが人族だと名付けはどう成長をして欲しいかと願いを込めて行うものですわ。あやかって同じ名を頂くことも多々あること……ですよね?」
うんうんと桃から産まれた男が頷いている。
ほら。とイワナガヒメさんは援軍を得たとはりきっている。
「いやいや。独神なんて凄い人は、そういうのじゃないと思います。独神として産まれているはず。八百万界を救うという強い意志を持っていて」
「では、これから抱けばいいだけの話ですわ」
えええーー。なんでそんなにノリノリなのだろう。
「父様とお話をしていて、あなたがそうだったらいいなと思いました。誰にでも手を伸ばせる方ですから」
そんなの過大評価だ。今回は偶々イワナガヒメさんを見つけて、偶々カグツチさんに会って黄泉の入口を閉ざす力を持ったナニカに偶々会った。
私は首を突っ込む係、言い出しっぺなだけだ。
「黄泉の入口を閉じたことは、もう神族の間では噂になっていますよ。イザナミ様に会われたとも」
他人の口に戸は立てられぬというが、いったい誰がそんな噂を流しているんだ。
私自身、イザナミさんに会ったことを理解していないのに。
カグツチさんとスサノヲという方が口にしていたが、まさかあのウネウネがカグツチさんの母親ではあるまい。全く似ていない。でもイワナガヒメさんと
「同様に私のことも既に神族には知れ渡っています。カグツチさんの行いも」
その言葉に含まれた感情を読む事は出来なかった。私は反射的に口にした。
「……私たちとこない?」
イワナガヒメさんはあっけにとられていた。
「目的ってほどの目的もないんだけど。よければもう少し一緒に回ってみませんか? まだイワナガヒメさんとして一緒に旅していませんし」
「……ありがとうございます。けれど申し訳ありません。お受けすることは出来ませんわ」
「そっか」
とても残念だった。一緒にいた時女の子の友達といるようで楽しかったのに。モモタロウくんだって、イワナガヒメさんがいたら好きなだけ剣と刀の話が出来ると喜んだはずだ。
でも断られてしまった。
「私はもっとこの地のこと、民のことを知らねばなりません。今まで自分のことで手一杯だったので」
相手は神様だった。
私とは違う。沢山の人のことを考えなければならない立場だ。
「ですが、私なりの贖罪が終わったらあなたの傍にいさせて下さい」
柔らかくてどこかあどけない笑みにかける言葉は一つしかない。
「待ってます」
◇
「……動いてはならぬぞ。目を付けられることだけは避けねばならぬ」
そう言って血濡れの剣を振るって収めた。足元には血溜まりが広がっていく。
「その元気は時が来るまで腹の中へ溜めておけ。儂に余計な手間をかけさせるでない」
(2022.03.27)