二度目の夜を駆ける 六話-尾張-


   1

「いやはや、すっかり時のひとだな」

 湿っぽさを多分に含んだ声が新緑の中に響いた。六月に入った途端、植物たちの成長スピードが上がり、たった一日で景色が様変わりする。しかしながら、流れていく景観の美しさに心を奪われる余裕はなかった。巻き込んでしまった負い目で曇っていく。

「すみません……」
「何を謝る。其方の読み通り順調に進んでいるではないか」

 遠野ではしっかり磨かれていた靴を泥まみれにしながら、満足そうに妖老ヌラリヒョンさんは言った。

「ま、野宿続きまでは想定外だったんでしょ、どうせ」

 溜息を放つ生意気従者モモタロウくんにも返す言葉がない。
 私は現在、八百万界の極一部でほんの少しだけ有名人だ。行く先々でじろじろと見られ、時には質問され、時には拝まれたりするようになってしまったのだ。お陰でおちおち街道を歩けず、東海道という立派な道を横目に、こうやって草ぼうぼうの山道を歩く羽目になった。
 富士山の件は神々の関心を想像以上に引いたらしい。今や他種族にまで噂は広まり、私たちの意思が及ばない程大きく変容してしまった。

 悪霊に操られていた姉妹神を下し、イザナミ復活の為に悪霊を贄に捧げ、カグツチと手を組み失敗した。悪霊に悪役を全うさせ、カグツチさんや姉妹への批判が逸れたのは良いがしかし、流石に適当が過ぎる。

 あの時のMVPはモモタロウくんだと個人的には思う。人族の耐久力で絶え間なく刀を振るい続ける姿に、彼の底知れないポテンシャルを見た。地元神のイワナガヒメさんとコノハナサクヤさんの姉妹神も凄かった。噴火を止めてしまうのだからスケールが違う。別の意味ではカグツチさんも語る必要があるだろう。彼はこの世界に火をもたらした原初の火であり、富士山を噴火させて彼岸と此岸を繋げた、天変地異級の凄さだった。これらを見せつけられると神様を敬う気持ちも自然とわいてくるであろう。
 ……と、これだけ凄いメンバーが周囲にいたというのに、人々は何故か私に注目した。

 独神……のような者。
 イワナガヒメの恋人。
 三種族を使役し者。
 災害を引き起こした張本人。
 山神の隠し子。
 悪霊の手先。
 ────噂がいかにいい加減なものかよく判る。

 しかし真実を一人一人に伝えていっても、風のように早く駆けていく噂には間に合わない。かくして私は修正を諦め、誰とも会わずに済む山道を歩いているのであった。こうなったのは私のせいだ。

「ごめんなさい……」
「鬱陶しいな。そんな事より、今日は多めに捕ったんだから感謝して食べてよね」

 私はうんと頷いてモモタロウくんから今晩のおかずである兎を受け取った。焼いて塩をしただけで兎は立派な料理だ。可愛い兎さんも皮を剥いで解体すればただの肉。それを頂くことで私の生命は輝きを取り戻し、明日を生き永らえることが出来る。最近は獣に対して、可哀想よりも命の継承を受けた感謝が強くなってきた。

「おいし……。お米が進む……!! 美味しい……!!」
「これ、ゆっくりお食べ」

 辺りで汲んだ湧き水を一気に飲むと、全身疲労によく沁みた。日中の山道で酷使した足もじんわりと癒される。
 腹を満たしながら焚火のゆらぎをぼうっと見ていると今日も頑張ったと自分を労わる気持ちが沸いた。

「今日は随分進んだな。晴れて助かったぞ」
「はい! 名古屋もすぐそこになりましたね!」
「尾張でしょ」
「それそれ」

 次の目的地は名古屋(尾張)に設定した。尾張といえば、あの織田信長の出身地である。戦国大名であった彼は、残酷であるとも、短気であるとも、幸運であるとも、非常に頭が切れたとも、先見の識があるとも言われているが実際の所は判らない。伊達政宗のいるこの世界ならばきっと、直接言葉を交わしてあわよくば協力を仰ぐこともできよう。

「そんなに楽しみなの?」
「日本で超有名人だよ! どんな人か気になるじゃん」
「ふうん」

 つまらなさそうに言うモモタロウくん。私にとっては死した偉人でも、この世界の人にはただの一権力者でしかないからこそのテンションの差だろう。

「儂も相手をよく知らぬ。しっかり情報を得てから行動するのだぞ」
「勿論です!」

 同じく戦国大名のダテマサムネさんは、割烹着お兄さんだった。だからオダノブナガさんも噂ほど怖い人ではないはずだ。……なんて我ながら楽観的過ぎるか。

 実際のところ、ミーハー心の側には会いたくない気持ちも膝を抱えて座っている。理由は簡単、怖いからだ。比叡山の焼き討ちのエピソードを聞かされて、まともに話せると誰が思うだろう。そりゃヌラリヒョンさんみたいに自信満々でなんでもさらっとやってしまいそうなひととか、モモタロウくんみたいにスパスパ斬るだけで解決出来る人ならば、第六天魔王を目の前にしても平気だろうが、私には人並みの恐怖心がちゃんとあるのだ。

「……兎おいし」

 気分が下がる時には食料、中でも肉が良い。鶏の胸肉のようにさっぱりとしていながらコクがある兎は獣の中では大当たりの部類だ。なんなら日本のスーパーで売っていてもいいくらいジビエ感が無いので、是非スーパーの経営陣は入荷を検討して欲しい。

「儂の分もやる。しっかり食べてどんどん大きくなるのだぞ」
「もう成長期終わりましたよ」
「僕はまだ大きくなれるけどね」

 謎のマウントにうんうんと頷いておいた。
 私はもう一度だけ、織田信長のことを考え、そして兎で蓋をした。
 食事を終えたら食休みを挟んで就寝だ。本当なら汗を流したいのだが、いかんせん最近は寒いので昼に水浴びをしている。夜は活動を停止する動物みたいな生活サイクルだ。

「あ、ちょっと。散歩」

 私が立ち上がると、今にも寝ようと丸まっていたモモタロウくんが身体を起こした。

「馬鹿? 夜の山を舐めてるの? 馬鹿だよね? 馬鹿なの?」
「うるさいな。すぐ帰るし大丈夫だって」

 許可を得ずに、私は野営地から離れた。後から火を持ったモモタロウくんが追いかけてきた。

「……なにその顔」

 膨れた顔をしたモモタロウくんに笑って首を振った。

「来てくれると思ってたから」
「なっ!!」

 モモタロウくんはお腹を踏まれたような声を上げた。
 最近のモモタロウくんは口調や態度とは裏腹に私にも優しくしてくれる。心配性とも言う。

「すぐ終わらせるから」

 そう言うと、顔を背けたままだが黙ってついて来てくれた。彼もすっかり従者が板についてしまった。そして私も、こういうところ主人っぽいと自分で思う。
 山道を五分ほど歩いて、斜面で洞になっている所にしゃがみ込んだ。二人で中を覗き込むと不自然な黒い靄があって奥が見えない。私が靄を両手でそっと掬うと、彼らは砂浜の砂のようにさらさらと消えていった。

「何あれ」

 靄が消えた後は草と苔が生えた穴があるだけだった。

「判んない。嫌な感じはなくなったんだけど……って睨まないでよ」

 野営地設定時の安全確認で周囲を歩いた際に、真っ暗闇の中で何かが私を見ている気がした。悪霊の気配ではないが、不安を抱かせる嫌な感じ。ヌラリヒョンさんに報告すると問題はないだろうと言われたのだが、結局放っておけず、こうして見に来たのだ。

「山にある嫌な感じのものって何か知ってる?」
「全然。その説明で判る奴いると思う?」

 モモタロウくんは怪奇現象に詳しくない。

「でもさ、山は人が死んだあとに行く場所とも言われてるよね」

 あれに神様の気配はなかった。あれは人の霊魂だったのだろうか。

「消えたってことは、次は何処に行ったんだろう。もしかして私、別の場所に幽霊を送り付けてた……とか?」
「そんなの知らないよ。でも君に触れたことで嫌な感覚がなくなるってことなら、案外死んだ魂も戻れなくて困ってたのかもよ」

 突然家に幽霊だか魂だかが現れたらびっくりするだろうな。死んだ家族が来て嬉しい人も中にはいるのかもしれないが、どちらにせよ混乱させそうだ。

「黄泉に行くこともあるのかな?」
「僕が知るわけないでしょ」

 ソウダヨネー。

「判らない事気にしてもしょうがないでしょ。知らないけど」

 不用意に肯定はしない。が、わざわざ傷つけようともしていない。それがモモタロウくんの気遣い。

「ありがと」
「別に。感謝とかどうでもいい。戻るよ」

 灯りに照らされた顔に赤味が差しているのが見えてしまって目を逸らした。
 最近気づいたのだが、よく赤くなっている。お礼を言ったり、近づいたりすると、大体そう。今更私といて恥ずかしくなったのだろうか。指摘したらものすごく怒りそうなので言えずにいる。
 私たちは黙ったままヌラリヒョンさんの所へ戻った。彼は丸めた物を枕に寝息を立てていた。

「お年寄りって寝るの早いよね。妖も」

 いつものモモタロウくんの言い方で、さっきまでの緊張がほぐれていく。

「そりゃこれだけ歩いたら誰でも疲れちゃうでしょ」

 周囲を見ると荷物が整理されていて、寝られそうなスペースが二人分あった。目立つ動きはないけれど、こうやって支えてくれているのだ。私だけではなくモモタロウくんのこともちゃんと気にかけてくれている。

「見張りは私が先でいい?」
「良いよ。そのまま起こしてくれなくても良いから」
「時間にきっちり起こすから安心して」

 二人でおやすみと言い合って、モモタロウくんは紅白マントにくるまった。熾火越しに二人を見る。地面にころんと転がっていて芋虫のようだ。奇妙な縁ではあるが最近は三人でいることに安心感を覚える。でも、もしもを考える。ここにもう一人いたら。口約束ではあるし、タイミングが合わないこともあるので、過大な期待はしないようにしている。それでも、もう一度火を囲って騒ぎ合えたらと願わずにはいられない。


 朝は兎の雑炊をかきこんだら出立である。

「今日は山を下っても良いですよね? 大丈夫ですよね?」
「其方の好きにしてくれて構わぬよ。なあに、何かあってもどうとでもなる」
「ま、君にしてはよく耐えた方じゃない?」

 五日は山中で過ごした。まだ体力も気力もあるが、水浴びでは耐えられなくなってきたので人里に下りる。私は森の中で声を張り上げた。

大山津見神おおやまつみのかみさん! 山を下りるにはどこを通れば良いですか!」

 大声が周囲の木々たちに吸収される。そして、地面に大きな足形が出現した。一つ、二つと足形が増えて道を示す。

「天下の山の神をこうも顎で使うのは其方くらいだろうな」
「い、いや、顎では使ってない! 使ってないですよ! 嫌な言い方しないで下さい!」

 おかしそうにヌラリヒョンさんは笑っているが、私はなんとなく気まずくて先頭を歩いた。
 イワナガヒメさんたちと別れて、すぐに山道を歩く羽目になった私たちだったが、強行がたたって途中遭難してしまったことがあった。

「ううむ。全く妖の気配がない。これは困った事になったなあ。はっはっはっ」
「笑ってる場合? 僕らには大荷物がいるんだよ!! 偶には真面目になりなよ!」

 体力不足で足を引っ張る私──とはいえ、日本在住時に比べて大幅に体力アップしているので二人が規格外なだけ──をどうしようかと悩みあぐねていた。二人が話し合いながらチラチラ私を見る度に気が重くなった。

「……どうすれば山を下りられるの……?」

 と、座り込んで弱音を吐いた時、目の前の地面がへこみ、それがレールのように一直線に続いていった。二人は怪しんだが私は大山津見神おおやまつみのかみさんの所業だと直感した。山の神の道案内は的確で、私でもすぐに麓の村里に辿り着くことが出来た。
 山の神に身体がなかったのは、山そのものが本体なのだろうとヌラリヒョンさんに聞いた。だから山での発言は全て聞かれているとも言っていい。場所を選ばず呼びかけられるのもあって、今は頼りっぱなしである。

大山津見神おおやまつみのかみさん、いつもありがとうございます」

 小声で呟いた。大山津見神おおやまつみのかみさんは声を聞かせてくれない。何を考えているかさっぱり判らないが、頼れば手を貸してくれる。イワナガヒメさんやコノハナサクヤさんのお父さんだから、きっと良い神様ひとなのだと勝手ながら思っている。

「ちょっと! 先に行きすぎ」

 考え事をしていてつい早足になってしまった。ペースダウンし二人を待とうと振り返った時だった。突然くいっと何かが足を引っ張り上げた。

「きゃああああ!!」

 宙に浮かんだ身体は、木々の枝に阻まれて止まった。枝葉に磔の状態である。

「うっ。動くとねちゃってする」

 糸状のとりもちが身体に絡みついた。髪の毛にもついてしまって頭を動かすと、容赦なく頭皮を持ち上げる。狩猟用の罠に引っかかったのかもしれない。

「そのまま動かないで」

 モモタロウくんの刀で細いとりもちが切断され、真っ逆さまに落ちた私はヌラリヒョンさんに受け止められた。

「大丈夫か」

 頷いて降りようとする私を、抱き寄せて拒んだ。

「儂に掴まっていろ」

 ひりつく声色にぴんときて、迅速に年長者の命令に従った。私も神経を張り巡らす。

「そこ!」

 ヌラリヒョンさんの剣が木々をなぎ倒した。倒木の間に黒い影が蠢き、奥へ奥へと逃れようとする。しかし回り込んだモモタロウくんが阻んだ。

「死んで良いよ」

 言葉に反して、モモタロウくんは殺さなかった。黒い塊に刀を突き付け、踏んづけている。安全と見るやヌラリヒョンさんが下ろしてくれたので、私は自分を捕まえようとしたひとに駆け寄ってみた。
 踏み抑えられているのは長い黒髪の男性だった。左手には蜘蛛のような痣があるが、妖族だろうか。

「さっさと殺せ」

 男は短く吐き捨てた。潔く死を選ぶことに、ぎょっとしつつ話しかけてみた。

「あの、さっきのあれはなんだったんですか」

 答えてくれない。安易にヌラリヒョンさんに縋った。

「……こういう時はどうしましょう?」
「捨て置くのが無難ではあろうな」

 私は全力で首を振った。

「答えなよ」

 男の首を刀が撫でるとほろほろと血が流れた。とんでもないことをし始めるモモタロウくんの腕を掴んだ。

「やめて!! いつも言ってるでしょ」
「この程度斬ったうちに入らないよ」

 このままだとうっかり殺してしまいそうだ。

「あなたは、私たちの誰かを殺したかったんですか」

 相手は鋭く私を睨んだ。

「だったらどうする」

 二人が殺すモードに入ったのは気のせいじゃない。まずい。

「あの、あ、諦めてもらうことって出来ますか? 私はこのままお別れしたいんです」

 モモタロウくんは声を上げて嫌がった。

「駄目! もう一度襲ってくるかもしれない」
「……と、そいつは言ってるが?」

 黒髪お兄さんは私をあざ笑っていた。

「いいえ。主の私が嫌だからさせません」

 力関係を改めて口にするのは気恥ずかしかったが、私たちの関係性を簡潔に説明する必要があった。値踏みをしているのか私をじろじろと見ている。

「……俺の狙いは貴様等ではない。もっと別のものだ」
「良かった」

 ほっとして顔の緊張が解けた。
 しかし、私の後ろから次の剣が突きつけた。

「……それを信じろと」

 ヌラリヒョンさんもモモタロウくんもこのひとを脅威と認識している。気持ちは判るが私は殺したくはない。

「待って下さい。そう言ったってこのひとも証明出来ないじゃないですか」
「其方はひとを信じすぎる。血の匂いが濃い者は其方の善意を躊躇いなく踏みにじるぞ」

 そうかもしれない。私の危機感はザルだ。でも。

「じゃあここに血の匂いがしないひとがいますか?」

 狡い言い方をした。しかし心配をよそにヌラリヒョンさんは大口で笑っていた。

「確かに其方の言うとおりだ。全て任せよう」

 襲ってきたひとも、私たちも変わらないのだ。相手だけが悪いわけじゃない。八百万界にいれば生命のやり取りに直面することはよくある事だ。日本の価値観とは違うんだから。
 私はしゃがんで、出来るだけ男の人と目を合わせるようにした。

「お名前を聞いて良いですか? その後はどこへでも行って下さい」
「……ツチグモ」

 左腕の蜘蛛はファッションではなくそのままの意味だったのか。捕まったのも蜘蛛の糸だったのだ。カラクリに気づけば単純なもの。

「ありがとうございます。じゃあモモタロウくんお願い」

 彼の上からのけるように頼むと、ツチグモさん以上に睨んで下りてくれた。気を取り直して再び大山津見神おおやまつみのかみさんのガイドに戻ろうとした。

「おい」

 振り返るとツチグモさんは私を見据えていた。

「俺にだけ名乗らせるな」

 意図はない。私の名前なんて必要ないと思って名乗らなかっただけだ。

「ナナシです」
「チッ。そうかよ。俺に名乗る名はねえって」

 不服そうに言われて慌てて否定した。

「いえ、本当に名前がなくてですね」
「どうだかな」

 駄目だ。元々の信頼関係がないので何を言っても信じてもらえない。

「そう言われても、本当のことなので私にはどうすることも出来ないんですよね……」

 まともな名前をを考えよう、と何度か試みたことがあった。名前は大事なのだとイワナガヒメさんに聞いて、無理につけなくてもいいと思えた。私は──という名を、消したくはない。ここにはない、血縁を示しているから。そしてナナシという呼称も、呼ばれるうちに耳が慣れてきた。名乗りも堂々とできる。だからこの世界では、これが私を示すどだいだ。

「まあいい。見逃されるなら好都合だ」

 その後は素早かった。瞬間移動したかのように消えていた。

「感じ悪いよね。どうする? 今なら追いかけて殺せるけど」

 当たり前のように殺そうとする。

「私たちを狙ってないなら良いよ」
「他人なら良いの? 殺す気満々だよ、あれ」

 私はその答えを持っていなかったので黙り込んだ。

「……あるじさんに従うよ」

 と、モモタロウくんは突き放した。とても嫌な感じがした。
 モモタロウくんの主に位置する私は、彼を自由に使役できる。命令の名の下に意思を曲げることも可能だ。代償は、彼の行動を決定した私に責任が問われる事だ。彼の行動が非難されれば、実行した彼ではなく命令した私が糾弾される。

 これでもし誰かがツチグモさんに殺されてしまえば、悪いのは見逃した私だ。どうしようか。やっぱり追いかけて、警察に突き出……せなかった。蜘蛛の妖族による被害を耳にしていないのでどこにも突き出しようがない。やっぱり、殺すか見逃すしかないか。だったら、まあ、見逃すことを選んだってしょうがない……か? うん、しょうがない。しょうがないことだ。

 無理やり導き出した結論を自分に言い聞かせた。


   2


 私たちは鳴海宿に到着した。ここは高札場と言って、法度はっと掟書おきてがき等が木の板札に書かれている。掲示板をイメージするのが近いだろう。そこに住む町人から旅人までが足を運ぶこともあって、人々の情報がよく集まる賑やかな場所なのだ。

「兵の募集、ですって」

 私が読み上げると両脇でふうんと興味の薄い返事が返ってきた。募集者を見るとなんと〝オダノブナガ〟と書いてあった。

「ノブナガ様が兵を募っておられるぞ」
「って言ってもなあ。田植えは終わったし、少しは動けるにしても、すぐに戻る羽目になるからな」
「熱田神宮の修理もあるだろう。どちらをとるべきか……」
「行きたいのは山々だが、俺たちは特別強い力はないし、行っても無駄だろ」
「ノブナガ様の力にはなりたいが、悪霊も放っておけない。田んぼにこられちゃ台無しだ」

 ああだこうだと言い合っているが、どの人も、兵になってノブナガ様を助けたいと零していた。やる気だけはあるらしい。
 私たちは一旦自由行動とし、私はここで人々の言葉に耳をそばだて、モモタロウくんは刀を見てもらいに、ヌラリヒョンさんは町ブラへと出かけた。

「ヒデヨシ様も鳴海絞りを随分買って下さる。評判、良いらしいな」
「ヒデヨシ様に取り入りたいものだ」
「悪霊が来てどうなるかと思ったが、やはりノブナガ様がいて良かった。ヒデヨシ様、アケチミツヒデ様、モリランマル様と有力な方々が集まり、ノブナガ様の支配は堅実だ」
「おい、ノウヒメ様を忘れているぞ!」
「そうだった。ノウヒメ様は……いや凄い方ではあるのだが……ちと」
「突飛な行動が多いが、ノブナガ様を支えておられるだろう! 気持ちだけは誰にも負けん」
「愛らしい方ではあるがな。……その点ミツヒデ様は苦手で」
「モリランマル様もな。ヒデヨシ様は俺たちにも気さくに話しかけてくれる」
「万一、ノブナガ様に何かあった時はヒデヨシ様がお継ぎになるのだろうな」
「ミツヒデ様だろう?」
「いや、ランマル様だ」
「不謹慎だぞ! 安土城も完成した矢先だというのに」
「清州城にノブナガ様がいないのは、寂しいものだな」

 有名人の中に徳川家康の名はなかった。八百万界は無茶苦茶な世界なので、もしかしたらいないのかもしれない。名前が出てこないなら気を配らなくてもいいだろう。
 目的のオダノブナガは安土城にいるらしい。日本と同じなら滋賀県にあるはずだ。ここ尾張は愛知県なので二つ隣になる。遠方なので徒歩以外も視野に入れて良いだろう。幸い今の私には路銀がある。好奇心で私に近づくひとが偶に物をくれるので、今や小遣い程度の手持ちがあるのだ。ふふん。

 さて、なんとなくの情報は得たので、二人と待ち合わせをしている常夜灯に向かってぷらぷら歩いた。
 思い返すと、人々の会話は悪霊のことよりもオダノブナガのことばかり。人気のある領主らしい。こんなに慕われているのならば、会いに行っても普通に会話できるかもしれない。いきなり斬られるなんて、そんなモモタロウくんみたいな暴挙はしないだろう。

 歩いていると周辺には菖蒲やあじさいが並び咲いているのに気づく。六月なんだなあ。花で暦の移り変わりを感じるなんて、とっても風流だ。最近は風も囁いているように聞こえる。

「……」

 ここにきて、私は自然的美しさを感じ取れるようになってきた気がする。木々が作る木陰に感謝を抱くなんて、クーラーバンバンつけていた自分が、別人みたい。ほら、枝葉の隙間から空を見上げれば────

「……うふ」

 体長五メートルはあろうかという巨人の女性がいて、にんまりと目を細めた。

「ぃきゃぁあああああああ!!!!!!!!」
「いただきまぁす」

 女性の美しい唇が吊り上がり、白い牙を覗かせた。湿り気を帯びた口内にまるで掃除機のように吸い込まれていく私は、

「見抜いた!」

 張り上げた声の指摘により、すぐそこまで迫っていた口がしゅるしゅると縮小し、大口を開けた背の高い美女がそこにぽつんと残った。

「やあねぇ」

 さっと口元を隠した。すぐにモモタロウくんが私を引っ張って背後に庇った。一方のヌラリヒョンさんが美女に近づく。

「其方はまだ下らぬ遊びをしておるのか」
「貴方にだけは言われたくないわ」

 知り合いらしい。モモタロウくんと目を合わせると、彼が刀を指差していたので全力で首を振った。ころすなころすな。
 巨人だった女性は額に二本の角が生えているので多分妖族だろう。
 けれどそんなことはどうでもよくて、何より胸! 足!
 胸なんて谷間から半分ずつ零れている。下着で矯正せずとも張りのある膨らみをしていて、どこのモデルなのかと見紛うほどに美しい。足は若干筋肉質な引き締まり方をしている。そして美人なのに裸足でいる逞しさ。なんか凄い。

「何。私に見惚れてた?」

 今度は下から私の顔を覗き込んできて、少し意地悪な表情が色っぽくて思わず赤くなった私は、何も答えられなくなった。圧倒されて言葉が紡げない。

「うふ。ほーんと素直でイイコね、貴方は」

 細い指で頭を撫でられた。すっごく良い匂いがして眩暈がする。俯きつつある私の顎をくいと指先で持ち上げられた。

「羨望の眼差しは気持ち良いわ」

 このひとは自信にあふれている。眩しい。

「貴方そのイケてない恰好は何? あまり見ないけど」

 はっきりださいと言われると結構ショックなものだが、説得力があるので回復は早い。

「……ジャージと言って、日々の窮屈な心身を解き放ってくれる特殊装甲なのです」

 私は力説した。富士山で上着の背中部分に大きな穴が空いたので、捨ててはどうかと周囲には提案された。縁起も悪いからと。でも私は捨てるのが嫌で、まごまごしているとコノハナサクヤさんがしっかり縫ってくれた。特殊な糸を使ったのもあって、縫った所が全然判らないものになっている。あとついでに護符も縫い込んだと言っていた。知らない間に装備品が強化されていた。それがこのジャージなのだ。イケてないことなんて全然ない!

「へー」

 全く興味がない顔をされた。潔くて気持ちが良かった。

「其方もミコシニュドウの魔の手に落ちたか」

 彼女、ミコシニュウドウさんというのか。名前を教わっただけでもどきどきする。ミコシニュウドウさんに邪険にされるとショックな中に甘いものがある。これは、新しい扉を開きそうな予感。

「良いわぁ。もっと私を気持ちよくして頂戴。……そうすれば、私もご褒美をあげなくもないわよ?」
「はい! 頑張ります!」
「頑張るな!」

 モモタロウくんにグーで殴られた。じんじんする。こっちは気持ちよくもなんともない。

「あらぁ、嫉妬しなくても貴方も私を崇めていいのよ?」
「妖が」

 いつものように吐き捨てた。ぷぷっと笑うミコシニュウドウさん。

「あらあら、跳ねっかえりねぇ。でもいいわ。どんな者でも最後には私に跪くものよ」

 楽しみにしてるわ、とウインクした。しゅごい。大人の色気と余裕に往復ビンタされる。

「でも今は貴方かしら」

 私の見下ろして、赤い唇が跳ねる。

「ちょっと遊びましょうよ」

 宿場町はどこも活気があっていい。旅の心細さを吹き飛ばしてくれる。宿があって食事がとれて、他人がいる。それがなにより気力を回復させてくれる。人恋しさを抱いた者同士の一期一会を楽しむのも醍醐味だ。
 私たちは立ち並ぶ店を冷やかし回っていた。

「これなんてどうかしら」

 服だって、アクセサリーだって、ミコシニュウドウさんに似合った。

「よくお似合いです!」
「そぉ? こっちは?」
「そちらもお似合いです! まるで最初からあなたの為につくられた物みたいです!!」
「物さえも私に平伏すのよねえ。判るわぁ」

 ミコシニュウドウさんは買い物で尾張に来ていたそうだ。そして妖族特有のウズウズが発動して、旅人たちを脅かしていたとか。「食べるのは我慢したのよ」と、脅かした男たちを周囲に侍らせる姿に私は女王の姿を見た。

「貴方もどう?」

 ミコシニュウドウさんは一つとって私に合わせてみた。

「い、いえ……私は……。ろくにお風呂も入れない私に髪飾りなんて……」
「ならお風呂に入った後だけ着けなさいな。それとも指輪が良いかしら。いざとなったら武器になるものね」

 物騒なワードが気になったが、その後も強引に選んでは私に合わせて、うふふと笑う。

「私には負けるけど、そこそこ合ってるわ。ちょっとー。お財布たち来なさい」

 財布と呼ばれた二人がのそのそと近づいて来た。

「財布はこっちだけだから」

 モモタロウくんはヌラリヒョンさんを指差した。ミコシニュウドウさんはさっとヌラリヒョンさんに近づいて私を見せた。

「ねぇ、どぉ? 良いでしょう。買っておいて」

 私はぎょっとして大声で言った。

「いいえ!! 大丈夫です! こういうのは自分で買います!!」
「買わせておきなさいよ。何の為にこのひとを連れてると思ってるのよ」

 少なくとも私は、足の生えた財布と思っていない。

「ミコシニュウドウさんとのお買い物にお付き合い出来ただけで光栄ですから。私は大丈夫です」
「そぉ? 私のは買わせるわよ」
「買わぬぞ」
「けちくさいひとねえ。この私が払わせてあげるって言ってるのよ」
「そういうことは其方の信奉者にやらせておけば良いだろう」

 やいやい二人が言っている。私の話題から逸れてほっとした。
 私は店に並ぶ綺麗な装飾品たちを眺めた。それらのいくつも、ミコシニュウドウさんが似合うと言ってくれた。こんなに綺麗なのに。謙遜ではなく、本当にそれだけで嬉しかった。

「……あるじさんはそういうのが良いの?」

 と後ろから覗いてきたモモタロウくんに聞かれた。

「可愛いよ。でも付けるのは別かな。あまり馴染みなくて」
「ふうん」
「そうだなあ。平和な時で、学校もないような休みにこっそりつけるのは悪くないかも」

 鏡に映る自分を見ただけで気持ちが上がっていくことだろう。誰かに見せる為に買うだけじゃないのだ。綺麗と思ったものを所持する楽しみ。手の中にきらきらした宝物があるだけで嬉しい。今は素敵な女性が私に似合うと言ってくれた言葉だけで、自分で選んで着ける以上の喜びを得て心が満たされた。美人という絶対の価値観が私を保証してくれたようで安心する。

「そういえば、モモタロウくんって誕生日ってあるの?」
「ないよ。なんで?」
「誕生日があったら、お祝いしてあげたいなって。……大した物はあげられないけど、おめでとうは一番に言いたいし」

 モモタロウくんは変な顔をしていた。

「ごめん。嫌だった?」
「別に」

 背中を向けられたが横顔が少し柔らかかった。素直じゃないけど、可愛く見えてくる。主のひいき目かもしれない。

「次の店行くわよ。ついてきなさい」
「喜んで!」

 大きな返事をしてミコシニュウドウさんに続く。だれかとウィンドウショッピングなんて向こうでもなかったな……。

「新しい財布が必要よ」

 大きく息を吐いて憤慨しているので、お金は出してもらえなかったらしい。後ろのヌラリヒョンさんがうんざりした顔をしている。面白かった。ずきりと胸が痛かったのは気のせいだろう。
 ミコシニュウドウさんとはそのまま宿も一緒にすることになった。女二人で泊まろうということだったので、モモタロウくんやヌラリヒョンさんとは別室だ。
 大衆浴場にも一緒に入った。美人といたらじろじろ見られるのではと思ったが、案外見られなかった。旅人ばかりで珍しくないからだろう。角も普通と思われているのかもしれない。

「最悪。これじゃ何の為に連れ回したのか判らないわよ」

 ヌラリヒョンさんは譲歩して荷物持ちまでだった。振り回されてへとへとになっているヌラリヒョンさんがおかしかった。遠野ではみんなが世話をしてくれるばかりだったので、逆になるのは珍しい。

「ヌラリヒョンさん、ミコシニュウドウさんといる時は、普通のひとに見えますね。無理してないっていうか、対等って感じで」

 気ままなおじいさんという感じが無かった。気の知れた男女に見えた。
 すると急に不安になってきた。この二人はどういう知り合いなのだろう。知るのが怖くて聞けない。
 不審に思ったのか、ミコシニュウドウさんが私を覗き込んだ。

「なによそれ。あいつのこと好きなの?」

 私はヌラリヒョンさんのこと、どう思っているのだろう。改めて考えてみる。
 八百万界で初めてあったひと。
 自立するまで面倒を見てくれると言った。親が放棄した義務を拾って、私に付き合ってくれると言う。
 同じ机で食事をした。会話も許された。下らない話なのに、私の目を見て頷いてくれる。
 私に触れてくれる。性欲を満たす為ではなく、ただの普通に触れて、手を引いて笑ってくれる。
 突拍子もない世迷言を信じてくれた。馬鹿げた決意を笑わなかった。突き放したのについてきてくれた。
 私が何をしても許してくれて、でも時に叱ってくれる。

 例え利用されていても、信じられなくても、頼りにならなくても、それでも、気になって仕方がないひとなんだ。
 代用だとか、恋愛だとか、そんなものは判らない。ただ、私の心に住んでしまっていて、考えない日はなくて。今の位置が気持ち良いのに、時々辛くなる。満たされているのに、足りなくて。なのに幸福で不安が付きまとう。

 気付けば、私は泣いていた。悲しいわけじゃない。この名前がどんなものか判らなくて溢れてしまった。

「んもぅ、悪かったわよぉ。女がそう泣かないの」

 ぎゅっとミコシニュウドウさんが私を胸に引き寄せた。柔らかい。肌ざわりの良さが形にできない不安を包んでくれる。

「泣くのは今だけになさい。男の前で本当の涙は見せちゃ駄目よ」

 あれだけ我儘な女王様だったのに意外と優しくて、私はそのまま柔らかすぎる胸の中で甘えた。ヌラリヒョンさんやモモタロウくんを頼るのとはまた違った気持ち良さがある。お風呂のせいもあるのか、ぷかぷかゆらゆら浮いている感じがする。

「……あんなのでも良いものなのね」

 理解できないと言うふうに、ぼそっと呟いた。

「嫌ですか?」
「退屈なのよ。……大昔なら可能性くらいは」

 どうやらそれがヌラリヒョンさんへの評価だった。私はそれに安堵した。
 次の日ミコシニュウドウさんとはお別れした。捕まえた信奉者が貴族で、そっちの屋敷に行ってみるんだとか。モテモテである。
 私たちは予定通り安土城を目指す。ミコシニュウドウさんのお陰で気力は十分。足取りは軽やかだった。
 二人の方は別室をとって個々で過ごしたのが快適だったようで、私同様に機嫌は良かった。なら普段三人で寝ているのって結構ストレスなんじゃ……と過ったが、落ち込みそうな気配がしたのでやめた。

「ちょっとそこの方」

 心臓が飛び跳ねた。釜を頭に乗せた者が小さな椅子に座っている。釜の上には『占い』と縫われた布が被せてあった。

「占いはどうかな? 初回だからまけてあげるよ」

 私はチラシ配布を回避する時同様、目を逸らしてあははと曖昧に口元を上げた。

「占い聞いたってしょうがないでしょ」

 モモタロウくんは相手を見もせず歩いていくので、私もそれに続く。

「確かに私は預言者ではないよ。今の気の流れが辿る道筋を少し教えてあげるくらいさ」

 道筋と聞いて、私は一瞬、この生活の終わりが過った。心の機微を読まれたのか、釜の下から穏やかながらどこか突き刺すような視線を私に一直線に向けた。

「相性占い、いけますか」

 二人に聞かれないように殆ど口元の動きだけで尋ねた。占い師はこくりと頷いた。

「モモタロウくん、あっちの店行こ。ヌラリヒョンさんも!」

 二人を誘導していく。どんどん先へ。適当な店に着いたら言うのだ。

「ちょっと用事! ここに戻ってくるので、ついてこないで下さいね。絶対ですよ!」
「はぁ? いや、君を一人になんてしたら」
「判った。儂らはここにいる。出来るだけ早く戻るようにな」

 不服そうなモモタロウくんの首根っこを掴んだヌラリヒョンさんが手を振った。私も手を振って、占い師の下に戻って来た。彼女は先程と変わらない佇まいでそこにいた。

「君が戻ってくるのは判っていたよ」

 怪しげな占い師のテンプレ台詞を言った。私は自分の手持ちにあった紅絵を差し出した。

「人気のある浮世絵、らしいです。対価に使えますか?」
「んー。私は目利きには自信がなくてね……。でもいいよ。受けようじゃないか」

 私も審美眼が無いのでこの絵が安物の可能性はある。それで受けてくれるなんて正直助かった。ただ渡した時に浮かべられた笑みが少し気になった。

「さあて、やろうか。占いたい相手はキミと誰だい?」

 ここまで来て、私に迷いが生じた。それを見透かすように占い師は言った。

「連れていた妖族だろう?」

 見抜かれていた。だから、占い師を信用する気になった。

「はい。あのひととのことをお願いします」

 占い師はむむむと考え込んだあと、頭上の釜を扇で叩いた。カーンと気持ちの良い音が響く。関係ないが、このひとは天将のようだ。

「……うん。良いんじゃない? 互いを理解し合っていて頼れる存在だよ。くっ付かない方がおかしいね。そうだ、間違いない!」

 扇を突き付けて断言され、私は真っ赤になった。こんなの告白そのものだ。

「あ、あ、ありがとうございます……」

 日本へ戻れるのか、ヌラリヒョンさんに見捨てられないか、等が知りたかったのだが、予想外の答えを貰ってしまった。

「もっと深く知りたいなら、追加に少しばかりくれれば」
「いえ。大丈夫です!」

 これ以上聞くとどうにかなってしまいそうだった。占い師にはもう一度お礼を言って、私は二人の下へ走った。背中で何か言われたように思ったが気のせいだろう。

「……まあ、それが最終的な形かどうかは判らないけどね」

 二人はさっきの場所にあった茶屋にいた。

「ただいま。待たせてごめんなさい」
「おかえり。其方もどうだ」
「は、はい! 私も頂きます!」

 向き合って座る二人がいて、私はモモタロウくんの方に座った。ヌラリヒョンさんの隣では近すぎるという判断だったが、それは誤算だった。こちら側では目の前にずっとヌラリヒョンさんがいる。どちらを選んでも今の私には刺激が強い。

「はい。君もどうせ食べるんでしょ」
「ありがと」

 モモタロウくんから受け取ったメニューを机に置いてじっと眺めた。真剣に見ていさえすれば顔を上げずに済む。

「ねえ、モモタロウくんはどれがいい?」
「僕はいらないけど」
「私の少しあげるから。ね?」
「それなら……」

 モモタロウくんと何かしていないと、動揺を抑えられる自信がなかった。膝の先をヌラリヒョンさんから逸らして、隣の従者に時折触れる位置を保って、私は話し続ける。

「モモタロウくん、みたらし団子は? 団子違いだから良いでしょ? それともあんみつ? あんこやめとく? 甘味じゃなくて白魚羹はくぎょかんとかの汁にする?」
「うざ」

 少しずつ私から離れていくので、そういう時は机の下で服を掴んで阻んだ。モモタロウくんもそのうちには慣れて、「やだね」「馬鹿なの?」「あっそ」などと素敵な相槌をしながら会話に付き合ってくれた。ヌラリヒョンさんは「いつも仲がいいな」と言うだけで、気にする様子はなさそうだ。私が注文した紫陽花をイメージした錦玉きんぎょくをモモタロウくんに渡してじっと眺めていた。

「見られると食べづらいんだけど」
「感想は」
「えぇ……見た目は涼しいし、良いんじゃないの? 中は白餡だからそこまで嫌じゃないよ」
「白餡だったんだ。こっちの赤の方は……白餡だった」
錦玉きんぎょくって大体白餡でしょ」

 会話の内容はどうでもいい。隙を作らない為の手段に過ぎない。ヌラリヒョンさんに話しかけられたら、私はきっといつものようなお喋りは出来ないだろう。私のマシンガントークをモモタロウくんが冷たく捌いてくれたお陰で、この店は乗り切ることが出来た。

 お茶した後は目的地へとひたすらに歩いた。富士山から二百キロくらい離れて、私を知る者は減少し堂々と街道を歩けるようになったのでよく進んだ。道中はモモタロウくんの隣をキープし、ヌラリヒョンさんよりも先に行くことで、顔を見ることを回避した。
 態度悪いかな、嫌な気にさせてるかな。
 考えなかったわけではないが、ふと目が合って顔が赤くなっていくのを見られる方が怖かった。
 街道を歩いていたので、宿は迷わず旅籠屋を選んだ。いつも通り三人で一部屋をとり、基本的にはモモタロウくんと一緒に過ごすようにした。ヌラリヒョンさんに話しかけられることもあったが、出来るだけ襖や土壁を見て、普段通りの返しが出来ていたと思う。

「あ、僕外行ってくる。丁子油受け取り忘れてた」

 入浴を終えたというのに、モモタロウくんは用事で外へと出て行った。部屋には同じく風呂上がりの私とヌラリヒョンさんの二人きり。

「今日は山道でなくて良かったなあ」

 なにげなく投げられた言葉にも、私の頬はじんわりと熱くなった。

「はい。今日は足がとっても楽でした」
「それによくひとを見られただろう」

 歩いている時に周囲のひとを見る余裕なんてなかった。頭の中はヌラリヒョンさんで埋め尽くされていて。

「えっと……。あ、武器が多かった?」
「見える武器の数は変わらぬよ。ただ武芸者は多かった。わざわざ実力を隠して旅人を装った者がな」

 全然気づいていなかった。このひとの挙動ばかり着目していたが、オダノブナガに会いに行くなら周囲を見るべきだったと今更ながら反省した。

「……すみません」
「いいや。其方はそれが良い。ゆるり旅の方が楽しいだろう?」

 返事をする為に顔を上げると、柔らかな笑みが浮かんでいて、私はうっかり目を奪われた。
 普段あまり意識をしないが、整った顔をしているのだ。ただそこにあるだけで見惚れてもおかしくないのに、それに占いの結果が貼りついて、私は一気に限界を超えた。

「あ、あの! 私もちょっと行ってきます。えっと、そう! 今日お風呂で会ったひとに貰う物があって」
「随分急だな……相判った。ついでに言うが、其方は外には出ぬようにな」

 私は頷いた。でも、言う事は聞かなかった。
 履物を引っかけて、薄ら寒い外へ出て行き、誰もいない闇の中で好きなだけどきどきした。日中ずっと抑え込んでいたものが間欠泉の如く噴き出してくる。

 あのヌラリヒョンさんとくっつくって。占い師はそう言ったのだ。つまり付き合うって。あのひとと恋人になるって。
 まるで想像がつかないし、余計に気まずくならないように想像しないようにしていた。もう誰もいない今だからあれやこれやを考えられる。

 どんな善行を積めば、あんなに立派なひとと、しかも三桁以上年上のひととお付き合いなんて流れになるんだろうか。私が好きですと言って、良いよなんて色よい返事を返すだろうか、返すものか、けれど占いでは返すと言う。いったいどういうことだ。
 確かに、ヌラリヒョンさんにはお世話になっていて、生活も、路銀も、なんなら身体まで世話されている。明言はしないまでも、入院の際には全部の世話をしてくれたことを示唆されている。これは他人の範疇を超えている。間違いない。

 でもでもでもでも! あれは単に私が親なしで、旅の仲間だから仕方なくしてくれたことだ。百パーセントの善意であって下心なんて全くない。……と思っていたけれど、本当の所は違っていたのだろうか。ほんのちょっぴりの愛情は持っていてくれて助けてくれたんだろうか。私は今までのやり取りから、近所の子供として見られていると思っていたのに、それが間違いだった?
 手を繋ぐのもお父さんみたいなんて思ってたのは、私が鈍感で〝そういうこと〟に気づいていなかったとか!?
 もしかして、不安だからと添い寝してくれるのって、普通じゃない……? もっとイチャイチャしないといけなかった!?

 ヌラリヒョンさんが彼氏の間柄だと仮定して、今までのアレコレをシュミレーションしていくと、不思議と嫌だと思わなかった。今だって共に過ごすことが嫌ではなく、触れ合いも寧ろ嬉しいくらいだ。私は今まで心の壁が厚いタイプだと思っていたが撤回する。たった三ヵ月程度生活を密にした相手に、もうその気になっている。なんならこのまま結婚生活まで想像の幅を広げられる。
 私は寒さをものともせず、自分を可愛がってくれるヌラリヒョンさんの妄想を爆発させた。





(2022.06.22)