二度目の夜を駆ける 七話-畿内-


   1

「ご要望の物、急いで仕入れましたよ」

 月明かりに照らされるは黒の塊。目を凝らすとほっそりとした黒の着物が立っていて、両手で鎧通よろいどおしをモモタロウへと差し出していた。
 鎧通よろいどおしとは身幅が狭く、刃が厚い、頑丈な短刀のことを指す。敵の鎧の隙間から刺し貫く為に用いられる両刃造である。

「軽量ということでしたが、お望みのものかと」

 店主から短刀を受け取ったモモタロウは手首だけで上下に振った。

「まあそうだね。五寸(約15cm)なんて短すぎるけど、これくらいじゃないと持ってくれなさそうだから」

 普段使用している長刀とは全く違う、携帯に適した長さ、重さである。

「一度お試しになりますか」

 店主の手や顔がぴりぴりと裂け、中からは爬虫類に似た硬質な皮膚が現れた。口は大きく引き裂かれ、吊り上がった笹のような目がモモタロウを見下ろす。

「但し一度だけですよ。二度はご勘弁を。一日に失える命は一度までですので」

 モモタロウはじっと短刀を見た。僅かな光の中でも蝋色塗りされた鞘は鏡のように映した。

「いや。いいよ」

 鍔がなく引っかかりのない短刀を太刀紐に差し込んだ。不安定だが宿までならば問題ない。

「言ったでしょ。未使用のものが欲しいって。一度でも血に濡れた物はいらない」
「私としては構いませんよ。死ぬのもなかなか骨が折れるものなので。ですが」
「なら良いでしょ」

 少なからぬ金を店主に押し付けた。被虐趣味に付き合う気はない。

「……承知致しました」

 店主はみるみる人の形に戻り、代金を両手でしっかりと受け取った。


 宿へ戻る道すがら、モモタロウは考えていた。

あるじさんにどうにか押し付けないと)

 武器がなくとも生きられる世界にいた主は、武器を見ると度々「うわ」と小さく声を漏らす。無意識なのだろう。武器に守られながら、武器が敵を屠る光景をちぐはぐな顔で眺めている。他人事のような素振りに苛立つことが多かったが、回数を重ねると慣れるもので矯正の熱は収まっていった。

 今回主に武器を用意したのは護身用だ。形だけでも武器を所持していれば、危険から逃れることもあるだろうと、モモタロウが考えた主への贈物だった。受け取らせるにはどうすれば良いか。溜息を吐きながら頭を捻る。
 宿に到着し、一先ず主の枕元に置き、明日の朝驚いたところを押し付ける方針に定めた。靴をしまい、階段を上がっていると耳に絡みつく声に顔をしかめた。旅の宿では時折あることだ。非日常に酔いしれて他人の身体を貪り、果てる。馬鹿馬鹿しい。モモタロウはしかめ面で部屋へ向かう。ところが、声は歩を進める度に大きくなる。

(隣の部屋? 最悪。襖叩いても許されるよね)

 じわじわと湧き上がる怒りは恐らく、不安を塗りつぶす為の偽りであった。モモタロウは自室の前に立つ。ここが一番、声が聞こえる。か細い声が淫靡な調べを奏でていた。脳裏に過ったのは当然、主と呼ぶ少女と胡散臭い妖がまぐわう姿。
 このまま静かに去ろう。二人には自分が入れない秘め事がある。蚊帳の外である自分が立ち入るものではないと。だが足は床に縫い付けられて動けない。
 モモタロウは息を止め、足先で襖を蹴り開けると、三つある蒲団の一つに妖の上に跨る女がいた。月光で妖しく唇が光る。

あるじさん……)

 それを、モモタロウはすかさず斬った。鰻のようにくねらせた身体が真っ直ぐ斬られ、ずるりと落ちると妖の顔が現れた。

「……手間をかけさせた」
「本当にね」

 ヌラリヒョンは額に薄く浮かんだ汗を拭った。備え付けの浴衣の襟は大きく開き、古傷が見えている。
 少女の顔が張り付いた肉片はモモタロウに向かって、うふふと笑うと、身体と血痕が蒸発して消えていった。

「種の混じった匂いを放つ娘だからと反応が遅れた」

 髪を掻き上げながらヌラリヒョンは大きく息を吐いた。普段とはまた違う顔、成熟しきった男の姿であった。

(迫られてその気になっただけじゃないの)

 襟の影、肌に咲いた鬱血たちに心がさざめく。規律のない者だと下に見ていたが、恐れを抱いた。井の中の蛙と痛感させられた。

「敵は人族だ」

 モモタロウはむっとした。先程斬った者は明らかに人ではなかった。

「確証あるの?」
「その為に偽者と肌を合わせた。妖を遣わせようとその前に誰と接触したかは大体判る」

 言葉に詰まった。モモタロウには情報の為に女と寝るような発想はない。経験の無さが瞬く間に頬に紅を垂らした。だがヌラリヒョンにはどうでも良いことだった。

「ここに来るまでにあの娘を見たか?」

 弾けたようにモモタロウはもう一度階下へ行き、宿の者を叩き起こした。寝ぼけ眼の主人に「連れの女の子を見なかった!?」と肩を揺らして問いただすが「確か、外へ行っていたな」と言うので、靴箱を確認したが、靴はあった。しかし客用の下駄が一組なかった。

「あったか?」

 羽織を肩にかけたヌラリヒョンが下りてきた。

「ない! ちゃんと面倒見てなよ!」
「外へ行くなと言った。勝手に動かれたものに手なんぞあるものか」

 むしゃくしたモモタロウは全てを斬り刻みたくなった。
 主の様子がおかしなことには気づいていた。妙に距離が近い。離れればその分近づいてくる。服を掴んで縋るところが哀れで、出来るだけ付き合ってやった。ヌラリヒョンと何かあったのだろうとは接するうちに気づいた。

「君があの子に何か言ったんじゃないの? 避けられるようなことしたんでしょ!」
「いや」

 すぐさまヌラリヒョンは否定した。

「儂に覚えはない。あるとしたら、ミコシニュウドウが吹き込んだか、占い師の方か」

 占い師は怪しい妖であったが、怪しくない占い師などそもそもいないので気に留めていなかった。

「占い師斬ってくる」
「待て待て。娘を探すのが先決だろう。手分けをして探すぞ。良いな?」
「わ、判った」

 子供に言い聞かすような口ぶりに手綱を握られた気分であったが、正当性は向こうにあるので指示された地域を探し回った。しかし、主の姿はどこにもなかった。

「馬鹿でしょ。すぐ勝手にほっつき歩いて!」

 夜間に出歩く者は少なく、目撃者はいない。

「痕跡が少なすぎる。随分練った計画のようだな」

 モモタロウは不格好に吊った短刀に触れた。どうして、間に合わなかったのか。

「すぐに殺されることはなかろう。儂に偽物を寄こしたくらいだ、利用する気があるなら猶予はある」

 淡々と告げるヌラリヒョンに噛み付こうと顔を見た時だった。普段とは異なる張り詰めた表情に驚いた。

「へえ。今回は焦ってるんだ? 富士山の時は何もしなかったくせに」

 ヌラリヒョンは鼻で笑った。その目は憐れんでいた。

「……判ってる。ただの八つ当たり」

 主がいないことがひどく心を乱す。この世界には大勢の悪がいる。そういう不届き者たちをモモタロウは消していた。そんな塵たちが主を蹂躙しようとしている。許せない。

「暫く忙しくなる。迷子の子猫を早く迎えにいくぞ」

 それは違う。主を迎えに行くのではない。主の平穏を害した者を斬りに行くのだ。

(絶対に殺してやる)
 

   2


「おはよございます」

 誰の返事も返ってこない。今朝は私が一番だ。普段ならモモタロウくんが……と思っている間に、むくりと身体が起きた。

「モモタロウくんおはよ。先に着替えて大丈夫?」
「好きにすれば」

 ヌラリヒョンさんはまだ寝ているようで、そちらは気にしなくて良さそうだ。私は浴衣の帯を解いた。枕元に着替えのジャージがない。辺りに放ったままだったろうかと見回すと、モモタロウくんと目が合った。急いで襟の合わせを握る。

「もう少し待っててよ……。すぐ終わらせるから」

 不躾にこちらを見つめるモモタロウくんに注意した。

「ごめん。ぼうっとしてた」

 これも珍しい。モモタロウくんは朝にはとても強いのに。

「もしかして調子悪い? お医者さんに診てもらう?」
「そんなのじゃない」

 無理していないならいいのだが。
 浴衣から腕を抜こうとすると、またまたモモタロウくんと目が合った。今度ばかりは語気を強めた。

「少しくらい待ってよ」
「あ。うん」

 身体が反対を向くまで最後まで確認した。
 いくらなんでも様子がおかしい。今日は無理をしないように監視し、面倒をみてあげないと。私は主なのだから。
 結局ジャージは見つからなかったので宿の人から古い着物を譲ってもらった。慣れない着物で階下へ向かう途中、ふと階段の狭さが気になった。続いて壁、天井。来た時と建物の構造が違う。いや、建物そのものが違うのではないだろうか。

「ヌラリヒョンさん、ここってこんなとこでしたっけ? なんか前に似たようなとこ泊まりましたっけ?」

 まさか宿の内装を一切覚えていないとは口が裂けても言えない。誤魔化しながら尋ねた。

「ああ、また記憶が抜け落ちていたのだな」

 え!? なにそれ。また!?

「最初泊ってた宿は火事になったんだよ。その後悪霊もやってきて、また君が訳の分からない力を使って倒れたんだよ」

 ああ最近よくある……。

「じゃあ二人が運んでくれたんだ」
「そういうこと。感謝してよね」
「ヌラリヒョンさん、ありがとうございます」
「ちょっと! 僕は?」

 私はいつも周囲に迷惑ばかりかけている。イワナガヒメさんの時もそうだが、もっと慎重に立ち回るべきだ。気をつけないと。
 しかし私も不測の事態に慣れてきたものだ。火事と聞かされてもなんとも思わない。命があればそれで良い。
 用意された朝食は、白米とみそ汁と香の物。スタンダードな献立だ。朝からエネルギーが必要なのでご飯は多めに頂く。ヌラリヒョンさんは高齢でも一般的な成人男性くらいの量を食べ、モモタロウくんは小柄にしてはよく食べる。だが今日の二人は少し食が細いように思えた。モモタロウくんに尋ねた。

「急いでないんだから今日はここで休んでも良いんじゃない?」
「君に心配されるようなことないけど」

 いつも通り冷たくあしらわれる。弱点を晒すのが嫌いなタイプだからあまり深入りしない。ヌラリヒョンさんに目をやると僅かに目元を緩ませた。占い師の言葉を思い出して、私は恥ずかしさに目を逸らした。二人の事は見守るだけに留めておこう。

 今日も今日とて街道を歩いていると、路肩の石に桑名宿と刻まれているのに気づいた。

「桑名宿!? 夜の間に随分進んだんですね。大変だったでしょう」

 鳴海宿の次が宮宿で、その次が桑名宿である。日本でいう三重県に突入している。

「火事騒ぎで其方に野次馬の目が集まってしまったのでな。人目を避ける為に夜のうちに進んでおいたのだよ」
「重ね重ねすみません」

 あのひとの声を聞くだけで赤くなる顔を隠すように、私は地面を見ながら謝った。

「ならばそうだな……少し寄り道をさせてもらって手打ちとしようか」
「良いですよ。どこですか?」

 ヌラリヒョンさんは笑うだけだった。

「ねえどこだと思う?」

 モモタロウくんに尋ねると「興味ない」と一蹴されてしまった。刺々しいのは昨夜の私が鬱陶しかったのと、火事回りで疲れているのかもしれない。
 その日は一日中大人しくしていた。多少の雑談は交わしたが黙々と歩いた。少し息苦しかったが迷惑をかけた身では耐えるだけだ。
 だから今夜も旅籠屋に泊まれることは嬉しかった。宿内は個人行動となるので、居づらい時には丁度良いのだ。部屋に着いて、火事で減った荷物を足元にぽとぽと下ろして畳に寝転んだ。じわじわと身体に疲労が回ってくる。慣れない靴のせいで足も痛い。
 ……やっぱりこのままだらだら過ごそうかな。動く気が一気になくなってしまった。

「え。何!?」

 投げ出した手に触れてきたのは、生身の手だった。見るとヌラリヒョンさんがすぐ脇に座っていた。手を繋ぐことは偶にあるが、わざわざ手袋を外してくれたことは数えるほどしかない。

「……なにかあるんですか」

 喜びよりも警戒心を抱いた。距離を詰めてくる時は良いことばかりではない。

「儂も少々疲れてな。……駄目か?」
「だ。めじゃない。です」

 ……ずるい。そういう言い方をされると、なんでも許してしまう。こんな私で、少しでも役立つならば応えたいと思うのは当然ではないか。そもそも、触れられることが嬉しいのに。
 こうなると気がかりなのはモモタロウくんだ。嫌な顔をしていないだろうか。
 ────あれ。してない。
 機嫌を損ねずに済んだのに、不思議と寂しかった。
 入浴を済ませて部屋に戻ると、行燈の薄暗い中にヌラリヒョンさんがいた。

「今日は随分早いんですね。変なお客さんでもいましたか?」

 夜はぼんやりしがちなヌラリヒョンさんにはそれ以上話しかけず、髪のもつれをとりながら乾かした。ごわついていて指通りが良くない。手入れを行っていないのだから仕方がないとはいえ、気になりだすと止まらない。というのも、最近はミコシニュウドウさんや、イワナガヒメさん、コノハナサクヤさん等の綺麗な方々と接する機会があったからだ。美人にばかりに会っていると、自分がまだまだ野暮ったい子供だと思い知らされる。
 どうすればあのひとたちにみたいに綺麗になれるんだろう。彼女と会うまでに少しはマシな自分になっていたいが。
 髪を乾かし終え、小さく溜息をつくと、途端に身体が窮屈になった。抱きしめられていて、ぎょっとした。

「……あの、どうしました?」

 何も言わない。私はじっと反応を待った。離れた部屋から旅客の楽しそうな声が聞こえる。
 ヌラリヒョンさんの息がうなじにかかる。火照った身体がぴりついて飛び上がった。口早に言う。

「なになに、なんです!? なんなんです!?」

 大きな手がお腹をまあるく撫でた。小さく悲鳴を上げながらお腹はへこませた。

「駄目! せめて何か言って下さいよ! ねえってば!」

 もぞもぞと抵抗するうちに体勢が崩れていった。毛羽立った畳が腕を引っ掻いた。天井に大きな妖の影が映る。
 ────これ、まさか、押し倒されてる……?

「……ヌラリヒョンさん?」

 返事はなく、ただ私の上にいてじっとこちらを見つめていた。まるで私の奥底を見通そうとするように。

「あ……」

 ぞくりと背筋が震えて鳥肌が立った。私は無意識に身体の前に腕を呼び寄せた。少しでも距離が欲しかった。

「其方は、儂をどう思う。田舎の爺では物足りぬだろうか」
「そんなことないです! お、おじいさんとか普段意識してないし田舎がどうとか私は全然気にしてないし物足りないとかそんないつもお世話になってばかりで甘えてばかりというか安心感しかないというかえっとえとてっとええ」
「なら良かった」

 柔和な笑みを張り付けて私の肩を掴んだ。
 私は思わずモモタロウくんを探した。
 ……いない。

「払っておいた。これなら其方も安心できるだろう?」

 モモタロウくんには話が通っている。
 でもそれって、私たちが何をしたか、モモタロウくんは知っちゃってるってことだよね。それ、どんな顔して会えばいいの? 二対一に戻ったら、モモタロウくん嫌じゃないかな。軽率な行動をとるなって見放されないかな。……寂しい思いさせないかな?
 私の心配をよそに、旅客が着回してくったりとした浴衣が肩から滑らされていく。鎖骨が露わになってすぐにその手を掴んだ。反射だった。

「これでは可愛がってやれぬなあ」

 私の拒絶を強引に押しのけ、小さな山形やまなりが二つ露わになった。行燈のぼんやりとした明かりの中でも真っ直ぐそこに手が伸びた。

「若いな。指に絡みついてくる」

 節の太い指が何度も折れ曲がってそこを掴んだ。それも楽しそうに。
 それを見て私、寒気がした。何が楽しいのか意味が判らない。というか気持ち悪い。ただのセクハラおじさんとしか思えなかった。心底ダサい。こんなのを気持ちが良いと思えるのだろうか、普通のひとは。

「ん。ヌラリヒョンさん」

 身体を捩って、やんわりと嫌がる素振りを見せた。

「そうされると儂も本気にさせられる」

 うっわぁきっついなあ。
 もう何を言われても、気色が悪いとしか思えない。

「ごめん。生理だった。今思い出した」

 整合性とか考えていられない。さっさと退けて欲しかった。

「出来ぬわけではあるまいよ」

 腰のあたりから頭のてっぺんまで、鳥肌がさざ波のように現れた。そんな状態で谷間に顔を埋められると鬱陶しくてしょうがない。何度揉みしだかれようとも顔がひくつく。気持ち悪い。

「私は嫌です。万全の時にね。またね」

 膝を立てて身体を押しのけると、寝間着を正しながら部屋から逃げ出した。

「あら。お嬢ちゃんどうしたんだい」

 階下では宿の奥さんが蝋燭の心許ない明かりで作業をしていた。

「体力が有り余ってて……。ちょっと暇してます」
「なら丁度いい。ちょっとこっちで運んでくれないかい?」

 成り行きで、昼間届いた米袋を蔵まで運ぶ羽目になった。とても軽作業とは思えない重さではあったが、思考を塗り潰してくれて丁度良かった。

「ありがとね。明日、アンタのは米多めにしとくよ」
「やった。ありがとうございます。ではまた明日。おやすみなさい」

 作業を終え、奥へ引っ込む奥さんを見送り終わると、途端に頬が下がった。
 私、多分、夢見てた。
 ヌラリヒョンさんなら無条件で許せると思っていた。現実とは残酷だ。私みたいな子供に欲情している姿に見損なってしまった。しかも生理だって言っても強行するなんて、必死すぎてかっこ悪いとさえ思った。それだけしたいと思っていることかもしれないが、がっつくヌラリヒョンさんには幻滅してしまった。
 そういえば私を好きかどうか聞かされてない。私も言っていない。そういうところも今思うと嫌だ。
 選んでくれるなら真剣に私を指名してほしい。
 子供っぽい考えかもしれないが、そこは明確にして欲しかった。
 愛情が失せるものだとしても、一時くらいは愛を心底信じさせてくれたってバチは当たらないだろう。

 ほとぼりが冷めた頃に部屋へ戻るとヌラリヒョンさんは寝ていて、私はそろりと自分の蒲団に入った。今日はヌラリヒョンさんの寝顔を見る気になれない。代わりにモモタロウくんを見たが何の感情も湧かなかった。
 諦めて天井を向いて一人で寝た。
 普段ならすとんと瞼が落ちるのだが、目が冴えて落ち着かない。二人を起こさないよう静かに宿を出て入口で夜を眺める。

 この先、どうしよう。まさか三人部屋が嫌になる日が来るなんて思いもしなかった。今更蒲団の位置を変えるのも怪しい。そして何より気まずい。どうして、急に私のこと押し倒したのか。口にしないのを良いことに好き勝手文句を言った。

 そうしていると、ふいに腕をひっかいたのはお守りだった。帯に括りつけていたもので、遠野から持ち歩いている胡散臭いお守りだ。鞄や服へしょっちゅう付け替えているが、まじまじと眺めるのは久しぶりである。ヌラリヒョンさんが念を込めたらしいのでご利益は期待できない。遠野のひとたちからすると神様に等しい存在なのだろうが、あのひとは根っからの妖だ。

 頼れる大人で、自由の象徴だった。とんでもなく大きな理想を描いていたのだろう。だからヌラリヒョンさんが私に触れてきた時、心をくすぐるようなことがなくてがっかりした。でもはっきりした。
 私は、ヌラリヒョンさんのことを好きじゃない。好きだけれど。そうじゃない。
 気づいてしまって寂しくもある。
 これが恋であったならば、素敵だったのに。

 気分が重い中、足音に振り返るとヌラリヒョンさんだった。よりにもよって、今一番見たくないひと。

「夜風も過ぎれば身体に毒だ。あまり長くならぬようにな」

 それだけ言って静かに帰って行く。私は、その妖たちのいない背中を眺め続けた。こういう気遣いにはいつも救わ、

「……? …………!?」

 嘘、でしょ……?
 ……どうしよう。
 私、今更、気づいたの。
 やだ。なんで。
 でもだめ。叫んではいけない。耐えないと。
 息を潜めて、即座に状況を整理する。

 ────ヌラリヒョンさんは偽物だ。

 まさかそんなはずがないと言いたいところだが、あれはそもそも妖ですらない。彼にはいつも気配の薄い弱い妖がくっついている。誰の目にも見えないし、ヌラリヒョンさん自身も意識しなければ判らない。でも私はしょっちゅう見ていた。なのに気づかなかった。鈍感にも程がある。
 このタイミングで、片方のみが偽物なわけがない。モモタロウくんを調べないと。

 彼はいつも誰かの恨みを背負っている。遠野で見た黒いもやと同種の念だ。私は部屋に戻って、モモタロウくんの枕元に座った。寝顔はいつもと変わらず、大量の恨みに囲まれている。普段と変わらないように思えるが、今やとことん調べなければ気が済まない。

 だが今日の所は蒲団に横になった。今出来ることはない。偽物と偽物疑惑の間で寝るなんて無理だろうと思ったが、案外平気だった。目的が明快で落ち着いていたからかもしれない。朝はすぐだった。
 今朝はモモタロウくんが最初に起床し、外で稽古をしていた。食事も普段通り食べていて、おかしな様子はない。だったらと、二人きりになったタイミングで仕掛けた。

「私、ヌラリヒョンさんのこと、もっと頼って良いかな……?」


 こう言うと基本的には嫌がるのだ。

「駄目に決まってるでしょ。あるじなんだからしっかりしなよ」
「そうだよね……。ごめん。ちょっと気が緩んでた」
「いつも緩んでるけど、いつ締まるわけ?」

 うん。この嫌味な感じはモモタロウくん。
 けれど、このことはそこまで嫌味を言わない。少しだけ同情もしてくれる。前は言い過ぎたと、負い目を感じているらしいから。

「余計な事は考えず、君は君のすべきことをしなよ」
「うん。出来るだけ頑張る」
「出来るだけ、ねえ……」

 毒舌の重ねがけ。
 確定だ。この人はモモタロウくんじゃない。
 これが術によるものなのか、夢なのか。私は見極める手段を持たない。
 普段一緒にいる人が偽物にすり替わるなんて、八百万界はなんでもありすぎじゃないだろうか。驚きと呆れが一緒になってため息となった。
 ふと。私は気づいた。

 あの夜、私を抱こうとしたヌラリヒョンさんが偽物であることに。初めて触れてきたのが得体の知れない存在なんて。
 今になってくしゃくしゃに泣きたくなった。そして、後悔した。偽物と見抜けない鈍感さを呪った。悔しくてたまらないが、今は余計な波風は立たせないように自制する。

 だが私というやつは、演技が下手だった。
 歩いている最中、ヌラリヒョンに手を引かれそうになったら身体ごと避けてしまった。偽物と判ってからは、別の意味で顔を合わせられなくなっていた。心が受け付けない。

「……ごめんなさい」
「……昨夜はすまなかった」

 これだけなら誤魔化せただろうに、モモタロウくんとも距離をとってしまった。

「なに? あれだけで怒ってるの?」
「怒るよ。モモタロウくんは容赦ないんだもん。そんなんじゃ人に嫌われるからね!」

 よりにもよって昨日とは異なり、二人がよく話しかけてきた。その度に私はそつなく答えようとして、そっけない態度になったり、言い淀んでみたり、対応としては最悪だった。
 しつこいくらいに話しかける二人から逃れたくて、私はとうとう発狂した。

「二人には女の子の気持ちなんてわかるわけないじゃん、馬鹿!!!!」

 罵倒と同時に走った。全速力で。最初から逃げていれば良かったのだ。
 桑名宿で目覚めたということは、二人は後ろにいるのかもしれない。どうにかして合流を。妖族ならヌラリヒョンさんに気づくかも。手当たり次第に聞いていけば見つかる可能性は高、

「いっ!」

 頭を地面へ押さえつけられ、腕も後ろに回されて固められてしまった。

「やっぱバレちまったってわけだな」

 視界の端に知らない男性が二人いた。

「ここでは目立つ。運べ」
「へいへい」

 担ぎ上げられた。指先一つ動かない。

「不審な動きをすれば殺す。貴様の弱点は既に把握しているからな」

 並んだ町屋のうちの一軒へ裏から入った。空家だ。私は無造作に転がされた。

「気付かなきゃあ楽だったのにな。気づいたのは俺? それとも向こう?」

 私を運んだ黄土色の髪の男性が、己ともう一方を指差した。
 これはどうすればいいのだろう。黙って逆上されては困る。出方を見る為にも素直に答えた。

「ヌラリヒョンさんが先で、その後モモタロウくん……です」
「だとよ。へへーん俺の勝ちぃ!」
「黙れ」

 色素の薄い黒髪の男性がぴしゃりと言った。

「へへっ。師匠、俺に負けたからって悔しがンなって」

 ケラケラ笑って睨まれていた。「おっと。すまねぇ」と黄土色の男性が謝った。
 ……二人は師弟関係。
 小さな情報を拾っていく。まだ私は生きることを諦めていない。

「なあ。テメェはなんで自分がこうなってるか判ってっか?」

 私は首を振った。

「だってよ」

 黒髪の男性は頷いた。

「まあ聞けよ。なにも俺たちはテメェの命が欲しいわけじゃねぇンだ。テメェがこのまま大人しく従ってくれるなら何もしねぇ」
「信じないのは自由だ。しかし、我々を出し抜こうと考えないことだ。貴様に選択肢はない」

 確かに。二人を出し抜いて、私をさらったのだから手練れに違いない。
 今の二人は物売りのような服装で、小振りな烏帽子、筒袖に括袴、脚絆をつけている。さっきまでヌラリヒョンさんやモモタロウくんだったのに。これは変身……狸が化けたようなことだろうか。だが妖や神の気配がない。人っぽい気がする。

「さらった目的は何ですか」
「依頼主から直接聞け。俺たちに権限はない」 

 他にも敵がいる。彼らはただの引率役。
 目的は不明。私に用があるのだろうが。

「うっし! じゃあ行くぞ。テメェもそれでいいな」
「……はい」

 選択肢なんてないくせ、いいな? なんて聞かないで欲しい。
 偽物と発覚するという一大イベントがあったというのに、私たちは再び歩いていくことになった。変化というと、前後に二人が位置していて、逃亡を防がれているくらい。
 こんなのからどうやって逃げよう。

「なあ」

 前を歩いていた気さくな方の男性に話しかけられた。

「テメェはよ、何なんだ?」
「何って……」

 正解が判らない。

「総大将に鬼斬りだろ? よくいられるな」
「まあ」

 一緒にいたら判るが二人は結構普通だ。甘いものが好きだし、下らない喧嘩するし、三人でだらっと部屋で大の字になることもある。

「俺の鬼斬りはどうだった? 結構似てたと思わねぇ? いちいち話しかけないでよね、とかさあ!」

 声が似ている。というよりそのものだ。

「とてもよく似ていました。声に違和感はないです」

 持ち上げるつもりはなかったが嬉しそうにしていた。
 やはりヌラリヒョンさんに扮していたのは黒髪の方。押し倒してきた……触ってきたのは……。

「おい」

 後方の声に身体に緊張が走った。

「いやいや。それじゃ駄目だろ。三太夫ちゃんよ」

 太夫って遊女じゃないか。でも男性だ。それとも……え、女性? それならそれで心的ダメージは少なくて済むが。

「そういや自己紹介がまだだったな。俺は佐助。つまんねー名前だろ? 暫くは旅の連れだ。仲良くやろうぜ」
「私……ナナシです」
「よろしくぅ!」

 握手を求められたが拒否した。

「人並みの警戒心はあんだな」

 彼は怒らなかった。多分私のことはどうでもいいのだ。依頼人の所へ連れていければ。

「けど良いのか? 俺らの機嫌損ねたらバッサリ首斬り落とすぜ?」
「生存したまま連れて行くことも条件の一つなのではないでしょうか。こんな回りくどいことまでして」

 強気に返すと目を細めて笑っていた。

「ああ、そうだ。だが五体満足である必要はねぇ。あんま生意気言ってると腕の一本くらい……」

 私の腕を掴もうとする。嫌だ。触られたくない。
 身を抱いて避けると金属音がして、見ると佐助さんの手にはクナイがあった。

「……武器が通じねぇのはマジだな。こりゃ骨が折れるぜ」

 安全装置が働いて助かった。クナイを使うなんて。……クナイ?

「佐助さんって忍者だったんですね」

 突如佐助さんが殴られた。無表情の三太夫さんに。しかし雰囲気はしっかり怒っている。

「いやいや師匠! 変装した時点ってバレてるって! 人族で変装つったら大抵のヤツが忍だって判るって!」
「ここにはそんな常識が……」

 もう一度殴られていた。

「いやもうテメェは黙ってろって! これじゃ任務終了前に俺が殺される!」

 縋られると性格的に強く出られない。

「ごめんなさい……。静かにしてます」

 佐助さんはすっかり疲れた顔をしていた。少し面白い。

「お。ちょっとは元気出たか」

 しまった。顔に出てた。

「別に。さらわれて元気なんて出ないです……」

 モモタロウくんみたいな嫌味を返すと、ぽんぽんと頭を撫でられた。少し痛い。

「まあまあ。細けぇことは気にすンな。はりきって行こうぜ」

 なんだか調子、狂うなあ……。
 誘拐するなら車に押し込めて、目隠し耳栓で拘束するのが普通な気がする。車がないなら、馬や術を使ってさっさと運ぼうとならないだろうか。二人が追ってくることは想定済みだろうに。

「佐助さん。ちょっと聞いていいですか?」
「答えられるもんならな」
「私を送り届けたいんですよね? だったらもっと早く目的地に向かうべきでは? このペースで良いんですか?」
「ぺえす?」
「この歩速度で問題ありませんか? ってことです」
「そりゃ速い方が好都合だが、今でも問題ねぇよ」

 この場合二通り考えられる。追われても返り討ちに出来るか、それとも既に……。

「雇い主ってどんな方なんですか? 駄目なら駄目で良いです。でも教えてくれた方が少しは緊張が和らぐかなって、それだけで」
「黙秘する」

 後ろの三太夫さんが冷たく答えた。

「……てわけだ。雇い主や目的地については諦めな」

 粘っても言わなさそうだ。

「けど、テメェも暇だろ? 俺たちの質問に答えるなら、少しくらい答えてやってもいいぜ」

 望むところだ。

「お願いします」
「何処から来た」

 と、すかさず三太夫さんが尋ねた。

「ちなみに嘘はなしな。吐いた途端ドカンとくる術はしこんでるぜ」

 心臓がぎゅっと締め付けられた。明るい口調だが倫理観が崩壊している。モモタロウくんと同じタイプだ。大抵のことでは死なない私もそんな術まで防げるかは判らない。ここは正直に。

「日本という国です」
「何故来た」
「気づいたら八百万界に……。だからどうやってここに来たのか、戻り方も判りません」
「大陸か」
「多分違います。なんか……似てるので。日本と八百万界。場所は違うのに、地形が殆ど同じで……」

 並行世界なのか、夢なのか。って、どう説明すればいいやら。

「ふうん。似た奴が三人いるように、似た界も二つや三つあるってことかぁ?」

 佐助さんが唸り、三太夫さんは黙っていた。私の話を聞いて、嘘吐きだと怒ることはないようだ。

「あの、質問とは違うのですが、休憩って良いですか?」
「駄目だ」

 三太夫さんはすぐ拒否したが、

「いや、良いんじゃねぇの。自分で歩かせた方がこっちも楽だし」
「……抜かるなよ」

 三太夫さんの姿が消えた。なるほど忍っぽい。

「あそこなんて丁度良いだろ。休もうぜ」

 木陰で二人、座った。着物の裾が開きすぎないようにしながら下駄を脱いだ。指の間がズキズキする。

「足貸しな」

 嫌だ。
 なのにもう佐助さんがしゃがんでスタンバイしているので、足袋を脱いで足先を向けた。

「この程度か。なら」

 懐から小さな壺を取り出し、軟膏のようなものを塗ってくれた。

「……さらうなら、いつもの服と靴も持ってきて欲しかったです」
「贅沢言うなって。こちとらヤベー二人からさらってんだぞ」

 あの夜、面倒で備え付けの靴をひっかけていたのが運の尽き。サンダルであれば多少はマシだったものを。

「綺麗な足してんな」

 褒められていないのは判った。

「貴族か? でなけりゃ、こんな傷も日焼けもないこたねぇだろ?」

 この世界は、子供ですら汗水たらして働いている。私の年齢なら家庭の切り盛りをしていて、身体はぼろぼろだろう。

「……日本ではこれが普通です」
「随分こことは違うんだな」

 終わり、と言った。

「もう少しだけ休んだら行くぞ。いいな?」
「ありがとうございました」

 佐助さんも小さい頃からあくせく働いていたんだろうか。どうして忍になったんだろう。なんでこんなことしているんだろう。少し、そんなことが気になった。
 正体を知って残念な事はいくつかあるが、その一つが野宿になった事である。敵の襲撃に備えてと言っていた。

「え!? 本当に私、ずっと寝てて良いんですか! 朝まで!?」

 思ってもみなかった言葉に、私は二人の顔を交互に見た。
 佐助さんは呆れたように言った。

「いやいや。捕虜に見張らすわけねぇだろ。逃げる隙与えてどうすンだよ」

 あ。

「なんか調子狂うんだよな……。平和ボケしてるっつーの? よくここまで生きてこられたな」

 モモタロウくんにもよく言われる。

「とにかくテメェはしっかり体力回復してな」
「ありがとうございます」

 一晩中寝られるなんて嬉しい。中途半端に起きると日中の疲れがしっかり取れなくて次の日が辛いのだ。明日は元気でいられそう。

「……礼は違うんじゃねぇの?」

 再び佐助さんは呆れていた。

「変なヤツだな」

 歯を見せて笑っていた。私もつられて笑った。








「師匠。ぐっすりだ」

 佐助と三太夫は少女の両側にいた。少女は心身の疲労故か何をされても起きる様子はない。

「道中も術を仕込んだ様子はねぇ。身体も特別不審な所はねぇよ。風呂の時にも見たけどガワは人だったじゃねえか」

 着物を脱がし身体の隅々まで目を通し、触れて確認していた。少女は傷もなければ術刻印もなく、恐ろしいまでに一般的な女の身体をしていた。

「何かあるはずだ。力の秘密を探らねば、足元をすくわれるぞ」

 女は人であり妖であり、時折神であった。気の流れもその都度変わる。
 八百万界には三種族いるが、その殆どが成長過程において種族が変わる事がない。例外的に種族が変わる者もいるが、数時間や一日で種族が変化する者は耳にした事が無かった。

 何より二人が頭を悩ませていたのは武器が通じない鉄壁の防御だった。少女に拷問は効かない。他にも何かあるのかもしれない。その懸念から二人は少女に術を使うことも、徒歩以外の移動手段も出来ずにいた。忍にとって少女は相性が悪い。打開策を欲していた。

「もういいだろ」

 佐助ははだけた着物をかけた。

「情でも沸いたか。馬鹿者め」
「沸いてねぇって」
「間抜けを晒して警戒心を解いたまでは良かったがな。……やはり俺とサイゾウで対象との距離を変えたのは正解だった。これも女の能力に違いない」
「俺は必ず任務を遂行する。けど後はただ連れて行くだけなんだから余計な事するこたねぇって……」

 三太夫は目を閉じて溜息を吐いた。

「もういい。引き続きサイゾウは女を懐柔しろ」
「了解。……師匠、もし俺の方が取り込まれたら」
「息の根は止めてやる。安心しろ」
「さっすが師匠。頼りになるぜ」
 佐助は笑いながらすやすやと寝続ける少女の着物を手早く直した。







 佐助さんと三太夫さんに連行される日々も慣れてきた。痛い目に合わされることはないし、嫌味を言われることもない。誘拐犯ではあるが私自身をどうこうする気はないようなので、私も普段通りの精神状態を保てていた。
 それに佐助さんは明るい方で、話していて飽きがこない。八百万界各地の話は足の疲れを忘れさせた。なんだかんだ楽しく過ごせている。
 それでも私は、早く二人の所へ帰りたい気持ちに変わりはなかった。

「佐助さん。二人も私と連れて行くのは駄目なんですか?」
「なんだよ、まだ気にしてんのか」
「当たり前じゃないですか! 私が依頼主さんの為に何かをすればいいんでしょう? しますよ、します。だから二人と会わせて下さい!」

 私はちゃんと言う事を聞いている。この先も聞く。邪魔なんてしない。
 だから私の心の平穏を保障して欲しい。本物の無事を確かめさせてよ。

「そんなに他の奴が良いのかよ」

 不満げに佐助さんは言った。当然疑問が生じた。

「……佐助さんと私は、誘拐犯と捕虜的な関係ですよね?」

 何故驚いた顔してるのだろう。

「そうだ。そうだよな……悪ぃ」
「い、いえ。謝らなくても」

 ストックホルム症候群──という現象がある。それは同じ空間・時間を共有した被害者が加害者に好意や信頼を抱く事である。その逆がリマ症候群で、犯人が人質に親近感を抱く現象である。
 まさかとは思うが、佐助さんはリマ症候群に陥ってしまったのだろうか。忍なのに。
 私もよく考えるとおかしな気がする。どうして誘拐犯とこうして和やかに話しているんだろう。
 私たち、二人とも変じゃないだろうか。

「……なぁ、ナナシってさ、ニホンじゃどんな生活してたんだ?」

 話題の変更は私も願ったり叶ったりだ。しかしここで日本の話か。
 探りを入れてきていると考えるのが普通だが、そんな感じではなかった。純粋な興味のように思えた。だって、名前を呼んでくれたから。私は条件を付けた。

「佐助さんのことを教えてくれるなら、考えても良いですよ」

 立場を弁えろと痛めつけられることを承知で挑発した。

「……判った。けど俺が話せることなんてこんなもんだからな」

 まさか乗ってくるとは想定外だ。親指と人差し指で示す大きさは一センチくらいしかないとはいえ。

「良いですよ。じゃあ私もこれくらい話します」

 佐助さんより小さくした。

「もう一声! なあ、頼むって」

 誘拐犯が懇願する姿が面白かった。

「判りました。良いですよ」
「おっしゃあ!」

 ガッツポーズまでして喜んでいる。不思議だ。ま、いっか。
 日本で十数年生きたお陰で、話題に困らない。今まで、自分は話すのが苦手な方だと思っていたのに、ここでは何を話しても喜ばれ、次は何かと急かされる。求められるのが気持ち良かった。
 佐助さんも例外ではなく嬉しそうに聞いてくれた。そして少しだけ彼のことを教えてくれた。

「忍ってのは金で動くからな。前まではサナダユキムラ様に仕えてた」
「真田幸村ですか!?」
「知ってんのか? 流石ユキムラ様はすげぇや」

 日本の真田幸村しか知らないが余計な事は言わない。

「最高の主だった。忍は主を選べねぇからな……あれは本当に運が良かった。良い経験にもなった」
「こんな方に雇われたいって希望はあるんですか?」
「そりゃ俺の力を最大限生かしてくれるヤツだろ。俺たちに主義はねぇ。あるのは技のみだ。だったら戦場がねぇと俺たちは腐っちまう」

 忍と知っているが、私は佐助さんがどんな技を使うのか知らない。悪霊に遭遇した時も小さなクナイだけで瞬殺していた。三太夫さんに関しては武器の一つも見ていない。多分だが、手の内を見せないようにしている。忍とは傭兵であり、戦いのプロなのだろう。

「……戦う相手は人でなくても良いですか?」
「妖でも神でも負ける気はしねぇぜ」

 相手を選ばない。てことは、私が今考えていることも実現するかも……。

「もしも、私がいーっぱいお金持ってたら、佐助さんを雇えますか?」
「ま、まあ、そうなるな……けど! 俺の術は安くねぇぞ」
「じゃあ……あっちの人は」

 指を指された三太夫さんは、私の存在などないかのようにすまし顔をしていた。

「師匠の情報は一切出さねぇ」

 きっぱりと言われた。きっと、佐助さんよりお高いのだろう。

「じゃあ、たった今、佐助さんだけ買います。それで私について下さい」

 私の荷物は全て二人の所にある。価値あるものは全てそこなので、今すぐ払う事は出来ない。なので、寝返ってくれると良いな程度のものだ。
 案の定、佐助さんは断った。

「悪ぃが今回は出来ねぇ。師匠と敵同士ってのは、そそるもんがあるんだけどな」
「忍が早々買収に応じると思うな。阿呆め」

 駄目か。
 私もここまでに色々考えていた。何故さらわれたのか。身代金ではない。私の特異体質を利用するなら何物も通さない盾としてでも、能力解明の人体実験でも、そこそこ利用用途があるだろう。きっと富士山の件で噂が広まったせいで変なひとに見初められた。

 なんでこんなことになってしまったんだ。

 私はただ普通に暮らしている人たちが怖い悪霊に怯えないようになればいいって。そんな小さな気持ちを抱いたところから始まった。
 悪霊に関係なく、この世界は優しくない。日本と同じ。もしかしたら日本よりもずっと残虐で醜いのだろう。
 いくら夢だからって、こんな世界を守る必要なんて────…………
 視界がふいにぼやけた。またいつものが来たか。

「……二人とも人族ですね」

 まだ意識はある。私は気合で踏みとどまった。

「妖族や神族が多い所へ行かせて下さい。でないと足手纏いになる」
「理由は」

 どんな時でも、三太夫さんは上から見下ろしてくる。

「私、種族満遍なく接していないと駄目なんです。前も倒れて意識なくて吐いて死にかけました」
「却下だ」

 ムカツク。

「じゃあ佐助さんを貸して下さい。逃亡出来ないように一緒にいれば良いですよね。なんならずっと手を握ってくれて良いです」

 人を何とも思っていない、傷だらけのビー玉みたいな目と睨み合った。

「……やれ」

 よし。上の許可は取れた。

「俺が!? マジ!?」

 戸惑っていた佐助さんに頭を目一杯下げた。

「お願いします。人助けだと思って!」
「忍ってそういうもんじゃねぇんだけどな」

 そんなことを呟きながらも、佐助さんは近くの町へ連れて行ってくれた。おぶった状態で。

「え。嫌です……それなら辛くても自分で歩く」
「急いでんだろ? だったら好き嫌いしてる場合じゃねぇだろ?」

 嫌がる私に正論を打ち返し、私はありがたいような申し訳ないような気持ちで運んでもらった。忍は隠密のイメージで、多分足は速いのだろうと思ってはいたが桁違いだった。これきっと馬いらない。

「うわぁ……。ここ神様いっぱいですね! なのに妖怪もいっぱい! 凄い所知ってるんですね!」
「そりゃ俺ってば忍だしぃ?」

 種族同士でぶつかり合いはないのだろうか、なんて勝手な心配してしまうくらい、活気に溢れていた。良くも悪くも。
 尾張よりも武装したひとが多い。店は多く、露天がずらりと並んでいるのだから経済的にも豊かだろう。この豊かさは戦の特需じゃないだろうか。ヌラリヒョンさんに聞いて答え合わせをしたいのだがいない。

「あの。なんだか怖いひと多いです?」

 通行人に聞かれても怒られないようにぼかした。

「そうか? 神や妖なんてこんなもんじゃねぇの」
「ふうん。そういうもんですか」

 嘘だ。
 今まで妖も神も沢山見てきた。どこも悪霊がいなければ穏やかなもので、物々しい雰囲気の町なんてなかった。ここが特殊だ。きっと、オダノブナガが関わっている。この辺りも戦になるんじゃないだろうか。どこと戦う気だ。

「ちょっと店見ても良いです?」
「良いぜ。師匠の許可もあるから気にすんな」

 ごめんね……。

 私はあたりの店を巡りながら、こっそりと手紙を書いていた。宿で使えそうなものを拝借しておいて正解だった。どんな時も盗みは良くないが、緊急事態と目を瞑る。ヌラリヒョンさんを知らなかったらきっと、私はこんな時でも善人を貫いてもがいてた。
 そうして各店の雰囲気を確認していったが、丁度良さそうな露天商を見つけた。

「へえ。使い古しの武器も売れるんですねぇ……」
「物が良いだろ? だから良いんだ。って嬢ちゃんは興味ねぇか!」

 そんな物を仕入れるとしたら戦場だろう。死体から拾えばタダで手に入る。モモタロウくんの嫌いなタイプだ。

「しばらくはここで売るんですか?」
「三ヵ月くらい前からずっとここでやってるよ。今のところ撤退は考えてねぇな」

 暫くいる妖族。それも丁度頭に角がある。なら。

「舐めた真似してくれるじゃねぇの」

 私が店主の脇に転がそうとしていた紙をひったくって、佐助さんは中を読んだ。

「苛々してるからって斬ってまわっちゃ駄目だよ。か」

 何の動作もなく、手紙が燃え上がった。店主が怯んだ。

「たかがこれで? と思ってンだろうが、当然だろ。何仕込まれたか判ったもんじゃねぇからな」

 厳しい。たかが手紙でこうなるのか。

「テメェももう少し頭使えって。師匠なら指潰してるぞ」
「すみません……」

 謝罪をしても呆れが終わらない。

「次はねぇからな。……頼むから俺に拷問させねぇでくれって」
「すみません……」

 困り顔で言う事が、拷問だなんて壁を感じた。仲良く話せてもそれは一面に過ぎないのだろう。なまじモモタロウくんとやっていけているせいで認識が甘くなっていた。忍なんて関わるもんじゃない。

「……お、アレなんて良いんじゃね? チンドン屋のヤツら神族だろ!」

 人だかりへと私を連れて行く。いつの間にか手を繋がれてた。あれは本気ではなかったのだが、まあ仕方ない。これ以上怪しまれては、本命の仕掛けがバレてしまう。


「こんなに身体が軽いの久しぶりです! 富士山以来!」

 町の通行人に手当たり次第に話しかけていると、私でも輪の中に入ることが出来た。気兼ねなく話せる他人は気分を晴れやかなものにしてくれた。
 佐助さんは嬉しそうな顔をしていた。不思議。自分のことじゃないのに。そう思っていたのが筒抜けだったのか教えてくれた。

「ナナシがそうやってっと、俺も悪い気がしねぇんだ」

 変なの。でもお陰で私もこんな状況でも辛くない。……あの人は相変わらず苦手だけど

「おい。さっさとしろ」

 ほらこれ。
 時間だと言って現れた三太夫さんの冷たさは氷のようだ。何日か行動を共にしたが怖い以外の情報はない。得体の知れない人。

「やっべ。早く行こうぜ。競走な!」
「え!? むりむりだって速ぁ!?」

 佐助さんの目にも留まらぬダッシュをトタトタ追いかけていく。疲れるけれど楽しい。
 その日も残念ながら野宿で、後は寝るだけだった私を佐助さんが呼び出した。

「どうしたんです?」
「いや。ちょっと聞いてもらいてぇことがあって」

 夜の山で、佐助さんが私用にと明かりを灯してくれている。所詮小さな火なので遠くまでは見えないが、三太夫さんはいない。
 佐助さんは真面目な顔をして言った。

「俺、ホントはサイゾウって言うんだ。佐助はいけすかねえ氷野郎の名前を拝借してな。呼ばれるとむかむかしてくるんだよな」

 だったら偽名を変えたらどうだろうか。

「一回呼んでくれ」

 緊張が走った。名前を呼ぶだけなのに。この人のせいだ。真剣な顔して言うから、私にうつったんだ。

「……。さ。……サイ、ゾウさん」

 サイゾウさん。佐助さんよりもずっとしっくりくる。

「……ははっ。なんかしっくりこねえな。違えや」

 寂しそうだった。私とは逆の感想を言いながら。
 不安になってもう一度勧誘した。

「サイゾウさん、本当に私についてくれないんですか?」
「駄目だ。というか、無理だ」
「本当に?」
「駄目だ」
「本当に本当にほんとーに?」
「絶対だ」

 頑なでちっとも折れる気配がない。サイゾウさんとは仲良くなれそうな気がしているのは私だけかもしれない。この一方通行感。嫌だな。この感覚、嫌い。

「まあ、ナナシといるのは嫌じゃねぇんだ。全然尊敬してねぇけど、暇しなさそうだしな」

 さらっと悪く言われた。

「富士山の噴火と江戸の半壊。あれに関わってんだろ?」

 ……。

「戦は忍の華。厄介事に巻き込まれる体質は忍的にはアリだ」

 顔を引き締めて言った。

「けど俺は、欲を言うなら気に入ったヤツをかしらにしたい」

 三太夫さんの言い分は正しかった。お金をちらつかせれば引き入れられると考えるのは失礼だ。やっていることは誘拐犯でも、彼らなりの信念があるのだ。身近にもいる。正義に準じ、鬼を殺す事に躊躇いのない連続殺人鬼。
 こんな熱を見せられてはもう雇おうなんて言えない。すっかり諦めがついた。だが気分は清々しい。

「なにつまんねぇ顔してンだよ」

 サイゾウさんは歯を見せて笑っている。

「いいぜ。爆炎のサイゾウがナナシを主にしてやるよ」
「……え!? 本当!?」

 嘘じゃないの!?

「ほんとほんと」
「じゃあ、わた────」



「この任務が終わってもテメェが生きてたら。……だけどな」






(2022.07.31)