私、生まれて初めて、舎弟ができました────。
「ヌラリヒョンさん! 従者ってどう扱えば良いんですか!?」
天気の良い昼下がり、三島宿の飯屋。
遠野を実質治めている大妖怪に意見を求めた。
ヌラリヒョンさんはちらりと私の舎弟(?)を見やり、そして手元の蕎麦に視線を落として一口大に摘まむと、半分ほどつゆに浸して一気にすする。じっくりと味わった後、ようやく口を開いた。
「面倒事を押し付けると良い。簡単さ」
今度は桜エビと玉ねぎのかき揚げをぱりぱりと食べた。黄金色の衣が崩れる軽やかな音が食欲をそそる。お願いして私も天ぷらをつけてもらえば良かった。
「ちょっと! 仕えることには了承したけど小間使いにならないからね!」
この黒づくめのチャンバラ少年は、人生初の従者であるモモタロウくん。きび団子ではなく殴り合い(?)によって主従関係を結んだ。と言っても、私自身は家来なんて望んでおらず、目が覚めた時にはそういう話になっていただけである。
「モモタロウくんって、何ができるの? 斬る以外」
「何かは出来るよ」
「料理は?」
「焼くことでしょ。出来るに決まってるじゃん」
料理を『焼く』と表現することは……そういうことだ。
「洗濯は……他人にされたくないから却下で」
「……洗濯ならまだ出来たのに」
と、呟いたのが聞こえた。
「じゃあ布団敷くのは?」
「馬鹿にしてる? 斬るよ?」
はいはい。
腰の長刀に手をやるモモタロウくんに頷いてやった。
丸腰の私がこんな態度を取れるのは、ひとえに私の特異な体質のお陰だ。あらゆる武器・術が私には通じない。と言っても万能な能力ではないのだが今は置いておいて。
「モモタロウくんに頼めることって全然ないね」
「そんなことないでしょ!! 何でも言いなよ!!」
自分から小間使いになろうとするとは、なんと殊勝な。
「誰も斬り殺さないでくれるならそれだけで良いよ」
私がモモタロウくんに求めることは”禁止“だ。アイデンティティであろう鬼殺しをさせない。その為の主従制度。
「ふうん。君は目の前で鬼が誰かを襲ってても気にしないんだ?」
演技がかった言い方で私を詰る所、ほんと可愛くない。私も吐き捨てた。
「そうは言ってないでしょ。斬らずに人助けしてよ。峰打ちとか」
「簡単に言ってくれるね。峰打ちって僕だからこそ出来るんだよ?」
ただ刃を逆にして斬るだけじゃないの?
「いいよ。やってあげる。そこに立って」
そう言って立ち上がるがここは飯屋である。まだ客は多い。
「お、何かやるのか」
「なんだなんだ。痴情のもつれか」
モモタロウくんが刀を抜くと、周囲の客たちがやいのやいのと騒ぎ始めた。抜刀に恐怖を持たない胆力は現代人から見ると異常だ。だがまあ、楽しそうにしているのならばと一旦箸を置き、言われた通りモモタロウくんの目の前に立った。
彼はいつも通り刀を正眼に構え、次の瞬間刀が鞘に収められた。遅れて私の胴体が横に薙がれ「死」を自覚した。全身の力が抜け膝から崩れていく。
「……血。ない」
私の腹からは腸も蕎麦も出ていなかった。だが胴体は「痛かった」はず。いやいや待て待て、それならどうしてオートガードが発動しなかった。
ヌラリヒョンさんを見上げると「ほう」と心底感心していて、代わりにモモタロウくんが答えてくれた。
「君に当たる直前に刃を返したんだよ。そして服を撫でた。でも肌に傷はないでしょ」
公衆の面前ながら私はジャージを捲って自分の腹部をじっくりと見たが白い線一つついていなかった。言う通り撫でつけただけなのだろう。たったそれだけの事なのに、私は「斬られた」「死んだ」と誤認した。
「あんたすげえな!」
「いいもん見せてもらった!」
界貨が机に小さな山を作った。帯刀が珍しくない八百万界でもこれが妙技である事の証明だ。
改めて、彼の技術はバケモノだと感じた。
「ま、こんな面倒なことせず叩きつければ良いんだよ。試す?」
「それ死ぬやつでしょ」
「うん。死ぬ」
殺してどうする……。「死ぬ」が子供の背伸びした脅し文句ではなく、本当なのが末恐ろしい。モモタロウくんから刀そのものを奪わなければ。
「刀だけは渡さないから」
私の視線に気づいてか、彼は刀を鞘に収めて身体で隠した。大切なものなのだろう。刀は侍の命だと聞くぐらいだ。
「取る気はないよ。重くて運べないし」
椅子に座って再び箸を持つとモモタロウくんも着席した。食後のお茶をすすって小さく息を吐いている。
主従の関係になって、少しだけモモタロウくんは大人しくなった。鬼に関することは相変わらずだが、嫌味は減ったしヌラリヒョンさん含む妖への罵倒もほぼなくなった。あの殴り合いは無駄ではなかったのだろう。私は傷ひとつない頬を撫でた。
「そういえば、目的地の山ってさっきから見えるアレで良いんですか?」
ヌラリヒョンさんは頷いた。
「左様。霊峰富士。儂らが目指す場所だ」
飯屋の窓からでも見える大きな山。嘘くさいほど綺麗な青山が現代で『富士山』と親しまれるそれだ。上部の部分が小麦粉を落としたように真っ白なのは、今が五月入りたてで雪が溶けていないからだそうだ。例年だと数日もすると冠雪の模様が大きく変化し、まだら模様になってしまうんだとか。私たちは良い時期に富士山を見る事が出来た。
「目指すって頂上ですか?」
私はぼんやりと湧いていた疑問をぶつけた。ヌラリヒョンさんは唇を弓なりにして、
「そうだ」
と目尻を下げて言った。
「はあ⁉ 嘘でしょ! 嘘ですよね⁉」
「嘘だとも」
「なんだ。脅かさないで下さいよ……」
「山頂までは登らぬ」
……山頂……まで……は……?
「楽勝じゃん。良かったね」
モモタロウくんのどっちともつかない笑みに、私は顔をひきつらせた。
「どの道で行くの? このまま南?」
「いいや北からの順路のつもりだ」
「ふうん。でもあっちは深い樹林でしょ?
二人はどんどん話を進めていく。私は不安を抱えたまま、蕎麦の上にいつの間にか乗っていたいも天を齧った。
何故富士登山なのか。
八百万界では富士山は周辺含めて神聖なものとされ、特に頂上は神々の住まう場所として畏れられている。
そこに神族に近い性質を持っているかもしれない私が行けば何かが判るかもしれない。
それに、一度濃度の濃い神域に行く事で私の体調が安定するのではないか。という、場当たり的ツアーだ。
確かに江戸を出たあたりから体調は芳しくない。微熱や咳、けだるさ等とるにたらない小さな不調が続いている。オジゾウサマから貰ったお菓子を食べてようやく普通になれるのは、”普通”ではない。
私は産まれてこの方ずっと、ただの人だと思っていた。
八百万界の人々を見て異世界の人は違うなあと遠目に見ていた。それがまさか私の方が特異だったとは。自分のことなので私の正体を知りたいが怖くもある。
「そう硬くなることはない。ただの物見遊山さ。ニホンでは登山の習慣はないのか?」
「ありますよ。まさに富士登山は大人気でゾロゾロ列を成して行くようです」
「へー、そっちの山とこっちのは結構似てるの?」
「細部は判らないけど全く同じだと思うよ」
ふうんとモモタロウくんは不思議そうな顔をした。私も同じく不思議に思っている。
日本と同じ地形の八百万界。八百万界がベースで日本があるのか、はたまた逆なのか。それとも途中分岐した並行世界なのか。それともやっぱり長い夢か。
「其方の為の提案だ。その其方が嫌と言うならば他の方法を考えよう」
「お気遣いありがとうございます。正直ちょっと不安ですけど、やってみないと判りませんもんね」
「徒歩の延長だよ。少し行ったら休むか戻ればいいんだから」
モモタロウくんもこう言ってくれているし、あまり考えすぎず気楽に構えよう。
「頑張ります」
残りの蕎麦を一気にすすった。
飯屋を出て、私たちは他の店を巡った。ここからは木々が密集する道なき道を行くことになる。何かあっても人里には戻れないので入念な準備が必要だ。特に食料と医療品は荷物が増えても多めに持っていかなければならない。私は何度も自分の荷物を確認していた。
「歩きながら見るくらいなら一度止まりなよ」
「うーん」
生返事をしながら、自分の体調がどう傾くだろうかと医療品とにらめっこしていた。
「っすみません」
すれ違いざまに女性とぶつかり反射的に頭を下げた。
「大変申し訳御座いません! お怪我はありませんか?」
「はい、大丈夫です。こちらこそ前を見ていなくてごめんなさい」
私よりも背の低い女性が、胸に手をやり頬を緩めて安堵する様子に目を奪われた。
「あの」
「すみません。私急いでいるものでして、失礼させて頂きます」
光沢のある長い髪が太陽光に照らされるだけで思わず見とれた。
「綺麗でしたね」
と感嘆が零れた。
「随分上等な着物だったな」
「洗練された足運びだったね」
ん?
「髪の話だったんですが……」
みんな見る所バラバラなんだな。
「でも目元だけ面を被ってたのが奇妙だよね。後ろめたいことでもしてるんじゃない?」
偏見が過ぎる。でも、接した私もそこは気になった。八百万界ではオシャレなのかもしれないが、目の位置に穴の開いていない面を被った女性は少々不気味だった。女性が浮世離れした清らかさを漂わせていた分際立っていた。
「他人のことなどもう良いではないか」
ヌラリヒョンさんがそう言って、その話題は終わった。
そして富士山の北側へ回るのだが────。
「あのー……。限界なんですが」
「音をあげるの早すぎでしょ。登山口にも到達してないのに」
そう言ったって辛いのは辛い。さっきから倒木はあるし、石はあるし、苔で滑るしで靴が悲鳴を上げている。八百万界に来てから二足は履き潰したが、これもそろそろ寿命だろう。
「本当に緑が深いですね……遭難しそう」
伸びた草に突かれながら歩いていると、異世界に紛れ込んでしまったようだ。今までも自然が深い場所は沢山あった。東北なんてそうだ。街道を逸れるとすぐに四つ足達のテリトリーとなり、私の居場所ではなくなっていた。
だがここは、それとはまた違う雰囲気だ。背中が薄ら寒くて肌がチリつく。見ようと目に力を入れずとも多くの生物たちが自然の中で蠢いていているのが判る。懸命に草を踏み歩く私たちを嘲笑う。お呼びではないと。興味がないと一瞥すらくれないものもいる。神の領域と言われているのがよく判る。自然にとって私たちは矮小でとるに足らないものなのだ。
歩くほどに不安になる。ここは私如きが踏み入れてはいけないのではないか。ばちが当たるんじゃないか。
先導する大きな背中を縋るように見たが、当然気づくはずがない。普段何も言わずとも気づいてもらえるからと調子に乗っているのだ。だからこうしてすぐ縋ろうとしてしまう。
「どうしたの?」
まさかのモモタロウくんに気遣われてどきりとした。
「あ。いや。怖いなって」
「さっきから嫌な感じはあるかもね」
それだけ言ってモモタロウくんは黙り込んだ。ざくざく進む。私もまたざくざく歩いた。
「怖い……と?」
不思議そうにヌラリヒョンさんが復唱した。
「だって馬鹿にしてくるんですもん。みんなこぞって」
「僕が舐められてるって? この一帯伐採しようか?」
「しないでいい!」
伐採発言に小さな神々は飛び上がった。植物に由来する者たちばかりなのだろう。
「神々に囲まれながらも其方にとってあまり良いものではないのか?」
「少なくともオジゾウサマのお菓子を食べた時のような温かい感覚はないです」
すると前触れなく手を繋がれた。大きな手が私を掴んだ瞬間にびくりと震え、思わず手を引っ込めかけたが戻した。拒否反応を示してしまったことが恥ずかしく申し訳なかった。
どうして私は。折角。なんで……。
「身体の方はどうだ。……それとも儂が寄らぬ方が良いか?」
「い、いえ……」
手を繋がれているのに不思議と安心する。
本当だ。
嘘じゃない。
さっきは間違っただけ。
このひとは”大丈夫なひと“なんだから。私は指先に少し力を込めた。
「このままがいいです」
微笑んだヌラリヒョンさんを見て私は胸を撫で下ろした。少しだけ高鳴る胸に浸っていると面白くなさそうな顔をするモモタロウくんが見えて、しまったと思った。
「……何。僕はこれからこの鬱陶しい光景を見続けろって?」
「じゃあモモタロウくんも繋ぐ?」
「絶対に嫌だね」
「知ってる。でも傍にはいてね」
「なんで僕が」
と、言いつつもいてくれるのはありがたい。得体の知れない神族よりも、私を知ってくれるひとが傍にいる方がよっぽど身体も調子が良い。
二人がいてくれることに感謝しながら、私たちは神々が守る領域へと深く深く踏み込んでいった。
樹林を抜けると点在する明かりが見え始め、無事集落へと辿り着いた。住民は当然神族ばかりであったが、人と妖と正体不明の人物(私)を快く歓迎してくれた。登山者が多いので来訪者には慣れているのだとか。宿もあったのだが残念な事に満室だった。代わりに食物を快く分けてくれるなんて至れり尽くせりである。
「これだけ貰ったら十分。じゃ僕は野宿だから」
「では」
ヌラリヒョンさんが私を連れようと目を向けた時、私は首を横に振った。
「私も野宿で」
二人は驚いていた。
「判った。また朝に」
と言って、ヌラリヒョンさんはさっさと行ってしまった。
「まだ間に合うから行ってきなよ」
「私がついて行ったって良いでしょ。一応、主なんだから」
としばし睨み合っていた私たち。
「……はいはい。でも煩くしたら斬るからね」
と言って、諦めてくれた。
野宿は嫌いとはいえ慣れるだけの回数はこなした。火だってすぐに起こせる。火打ち石と火に由来する小さな生物──多分神さま──の手を借りればすぐだ。
村人から分けて頂いたものは野菜や獣肉で焼けば食べられるものばかりだった。焼く以外の選択肢が私たちには最初からないので非常にありがたい。
「本当に良かったの。ヌラリヒョンさんと離れて」
「そっちが言ったんでしょ。私がヌラリヒョンさんにベッタリしすぎだって」
謎のきのこを食べる。しいたけ・しめじ・えのき・まいたけ・エリンギくらいしか判らなかった私も、今では名前は知らずとも食べられるきのこを判別出来るようになった。私だって、少しは逞しくなっている。絶対にヌラリヒョンさんの手を借りないといけないわけじゃない。
「偶には離れようって思っただけ」
モモタロウくんが小さな魚を食べて言った。
「いいかもね」
ぼそっと。
「息が詰まるよ。ずっと。君みたいなのといると」
ずんと腹に重いものがぶつかるような痛みが響いた。常に頭に漂う「私なんかといて嫌じゃないだろうか」という不安が穴から噴き出してくる。二人は仕方なく私といるだけ。進んでいるわけじゃない。私なんて……。
何も言えなくなっていると、モモタロウくんが苛立って言った。
「さっきだって、なんでさっさと言わなかったの。……ヌラリヒョンさんにだよ。怖いって言いたいならそう言えばいいのに」
ああ、あれか。
「恥ずかしいでしょ。それにあの時は上手く言葉に出来なかったし……」
不安でいる私を判って欲しかった。そして隣を歩きたかった。
今までなら躊躇いながらも言っていたのかもしれない。けれど今は二人ではなく、三人だ。
モモタロウくんの目の前でヌラリヒョンさんに弱音を吐くなんて、恥ずかしいし情けないし、なにか言われるのも嫌だ。それに一応私、仮にも主なのだから弱さを見せないようにしないと。
「あっそ。恥ずかしいだけなら別にいいよ」
冷ややかな返答に私は苛立った。
「別にいいって、何?」
私に言えというくせ、自分だけ言わないのは筋が通らない。ここは私が折れる方が楽なのだが、さっきの発言はなかなかに傷ついたのでじーっと見てやった。すると向こうが根負けした。
「……前に僕が言った事を気にしてるなら、気にしなくてもいいんじゃない……?」
あさっての方を向いて言った。
多分、私がヌラリヒョンさんに媚びているとか無理して合わせていると言った事を指しているのだろう。
言われた時は頭に血がのぼるくらい腹立たしかったが、今はもうどうでもいいことだ。
「良いんだよ。これで。いつか離れる時が来るんだから」
望み通りに答えたつもりだったがしんと静まり返ってしまった。気まずさを紛らわせる為、近場の湧き水で身体の汚れを落としていくと次第に落ち着いてきた。就寝準備を終えた私が先に横になった。
今日はいくら横に目をやってもヌラリヒョンさんはいない。
私の視線に気づいた時はわざわざ寝返りを打って顔を見せてくれる。そうすると私は恥ずかしいような安堵するような気持ちになって、改めて「おやすみなさい」と言って瞼を閉じるのだ。
────寂しい。
日本では一人寝が当たり前だったのに。でも一応モモタロウくんはいるし本当の一人ではない。彼はあれからずっと刀を抱えたまま座っている。日中平気そうに見えたが疲れているのかもしれない。ぼんやりと眺めていると目が合った。
「……君さ、ニホンってところではどんな生活してたの?」
突然そんなことを言われ、戸惑いつつも答えた。
「朝起きて学校行って帰って寝るだけ」
「ガッコウって足利学校みたいなこと?」
足利学校はまた少し違うような……?
「寺子屋ってここある?」
「あー、そろばんね」
もう少し詳しく学校の事を伝えた。「へえ」といつものようにつれない返事ではあったが表情は柔らかで、少しでも私がいた世界に興味を持ってもらえたのが思いのほか嬉しかった。
「じゃあ八百万界に来て良かったんじゃない? 自分の力が活かせるんだからさ」
「そうだね」
本当にそうだろうか。
どうしてあの時遠野で目覚めたのだろう。
何度起きても八百万界にいるのだろう。
でも今は、すぐに帰りたいという気持ちはない。
帰れば一人の日々に戻ってしまう。日中の学校ではあちらこちらに人がいてそれなりに刺激があって騒々しいが、私は傍観者でしかない。
この世界は痛いし疲れるし苦しいけれど、不思議と楽しい。殴り合うほど誰かに自分をぶつけるなんてなかった。寝る前に会話をすることもない。
ここでは各自で画面を注視することはないし、テレビから流れるものを半強制的に聞かされることもない。
何もないから、他人に関わって暇を潰す。
「そろそろ寝るね。交代の時起きられなくなっちゃうから。おやすみ」
「おやすみ」
モモタロウくんの妙に優しい声が心地良くて、冷える身体が少し温くなった。目を閉じるとすぐに眠りに落ちた。
朝。ヌラリヒョンさんが泊まった集落へ行って合流した。
「ふわあ……おはよーございます」
「僕の方が寝てないってのに眠そうにするのやめてくれない?」
「だって出るんだもん……」
見張りの交代時間になってもなかなか起きなかったらしく、モモタロウくんは長めに見張りをしてくれたんだとか。
「早速だが其方らに話がある」
道のほとりにある石や倒木の上にそれぞれ座った。
「どうやら最近地熱が上昇しているらしい。噴火するという話だ」
「「えええ!?」」
モモタロウくんも私と同じように声を上げた。
「儂には感じられぬが、地面に触れるだけでも判るそうだ」
私とモモタロウくんは同時に手をべったりとつけた。
「何も判らないよ」
「めちゃくちゃ拍動してる!!」
神経を研ぎ澄まし、振動の発生地を指先で探ってみるとそれは富士山の頂上の方角だった。
「噴火……するのかも、冗談じゃなくて」
「なら一旦江戸方向に戻ろう」
モモタロウくんはすくっと立ち上がった。
「噴火って止められないんですか?」
「止められるわけないでしょ」
「いやある。山の神の娘であるコノハナサクヤは富士山の祭神であり火難の神とされる。コノハナサクヤの力をもってすれば噴火は抑えられる」
「じゃあさっさとなんとかしてもらってよ」
モモタロウくんはもう一度座った。
「コノハナサクヤが行方不明らしい」
「はあっ!?」
もう一度立ち上がった。って、騒がしいなあ!
だが、そのお陰で私は冷静さを保ったまま、ヌラリヒョンさんの話が聞ける。
「姉のイワナガヒメは『姉はどこかへ行ってしまった』と錯乱しているらしい。周囲ではそもそもイワナガヒメが原因ではないかとも言われているそうだ。妹のコノハナサクヤを妬んでいたから、とな」
姉妹の諍いで火山の噴火を促せるなんてスケールが大きすぎる。
これが神族────
「コノハナサクヤの外見は、菖蒲色の長い髪を後ろで一つに縛り、頭には花飾りと黒い布飾り。着物は多くの花があしらわれ、帯には笛、腰に鼓を差している小柄な女神だ」
私は二人を順に見た。モモタロウくんも鏡のような動きをしている。
「……それって、君がぶつかったひとじゃない?」
「やっぱり……? ヌラリヒョンさんはどう思います?」
「儂も聞けば聞くほど似ているような気がしてな」
急いでいる様子だったがあのひとはどこへ行ったんだっけ。
「行方不明なんですよね……?」
「ちょっと。探すとか馬鹿な事言わないよね?」
今までテレビやネットのニュースで、散々台風や地震、津波等の災害を見てきた。報道陣が提供する映像は悲惨なものばかりで、そのくせ人間が殆ど映り込んでいないのでまるで映画のセットのような歪さがあった。状況が落ち着き、人の口から災害が語られるようになってようやく、本当の惨劇を知る。
涙ながらに語る出来事を嘘とは思っていない。だが想像を超えた現実は虚像と変わらず想像がつかない。
そして今、自分が噴火に巻き込まれようとしている実感が持てなかった。
「コノハナサクヤさんを見かけた所を通るくらいは良くない?」
「まあそれくらいなら。どうせ通るしね」
一刻も早くこの場から遠ざかりたさげな言いぶりだ。
……噴火するのだから当たり前か。
「ヌラリヒョンさんは噴火の経験ってあります……?」
「数度くらいはな」
私は一度だってないよ。
「遠野の北西にある岩手山が噴火した頃には江戸でも火付けの大火事があって、」
「それ長くなるやつだから後にして」
ばっさりと切るモモタロウくん。心なしかヌラリヒョンさんがしゅんとしてしまった。
「それよりその噴火ってすぐ起きそうなの? 猶予があるなら、このまま西へ行くのも良いと思う。噴火で東に戻れなくなるとしても、君たち二人くらいなら住まわせても良いし……」
住む?
「モモタロウくんの家があるの?」
「……まあね。…………一応。…………」
歯切れは悪いが頷いている。だがこの申し出はとてもありがたい。家が拠点ならば寝床と食事の心配をしなくて済む。それに、モモタロウくんがどんなところで生活しているのか興味がある。
「残念だが猶予はない。……この地で産まれし神々が言うのだ。信憑性は高いとみて良いだろう」
「ないってどれくらいのこと言ってるの」
「一週間だ。遅くともな。早ければ明日にでも噴火すると言っておった」
その言葉を聞かされたモモタロウくんは完全に固まってしまった。私はやはり現実味がなくぼんやりとしてしまう。
「どうしてヌラリヒョンさんは落ち着いていられるんです……?」
観客のように他人事。私たちは富士山の裾にいて、逃げる最中に噴火するのが判っているのに。それに噴火の体験があるなら、その怖さも身をもって知っているはず。
私の疑問にヌラリヒョンさんはけろりと答えた。
「儂には移動手段がある。ほれ、其方を乗せてやったろう?」
「乗る? ……あああ!!! 百鬼夜行!!」
「御名答」
空路ならばどんな悪路も障害にならず、また目的地まで最短距離を突っ切る事が出来る。
「じゃあ、何日か探せそうですね」
と言うと、モモタロウくんがぎょっと私を見た。
「……もしかして君、噴火が何か判っていないとか?」
「知ってるよ!!」
「だったらどうして」
得体の知れないものを見たように言うので、説明してやった。
「コノハナサクヤさんを見つけて沈静化すれば被害はないでしょ?」
意外にもモモタロウくんは微妙な顔をした。そして心底呆れていた。
「あのねえ……この辺に住んでるのって神ばっかりなの。噴火したところで死ぬような奴らじゃないわけ」
「死なないから大丈夫ってこと?」
「……噴火なんて手に負えないって。なんでそういう当たり前のこと判んないかな」
あのモモタロウくんが自然災害は無理とはなからお手上げなのが少し不思議だった。
これが日本ならば私だってパニックになる大衆に揉まれながら我先にと脱出していることだろう。自然災害に人間が適うはずがないと経験がなくとも刷り込まれている。
しかし八百万界は違う。現代社会でも正確に出来ない噴火予測が出来ている。しかも沈静化の手段まであるというのだ。駄目押しに逃げの百鬼夜行。ここまで揃っているなら何も心配要らない。
「大丈夫だって。一日二日探す手伝いくらい出来るよ。ね、ヌラリヒョンさん」
これまた渋い顔をしていた。今日の私は大分ずれているようだ。
「速度があるとはいえ無傷と限らぬ。率いた妖をむざむざ殺すような真似は承認しかねる」
言われて気づかされたが、百鬼夜行のスピードと噴火のスピードでは後者の方が速いのだろう。そうすれば構成する妖たちに火山弾や火山れきが飛んできてしまう。それは私も望むところではない。
「すみません、考えが足りませんでした。本当にすみませんでした」
「構わぬよ。若者は無鉄砲が取り得だからな」
「僕は若者でも落ち着きがあるから。こんなのと一緒にしないで」
ねえ。ちょっと。
「こういう時ヌラリヒョンさんだったらどうしますか?」
ヌラリヒョンさんは微笑んだ。
それだけ。
何も言いはしない。
私に決めろと言うのだろうか。今日のおやつを何にするか決めるのとはわけが違うのに。
「……判んないですよ。全然。だから聞いてるのに……」
嫌なプレッシャーを与えないで欲しい。八百万界も判っていない私に命のかかった選択をさせるのは無謀すぎる。こういう時こそ年長者が言ってくれれば全部従うのに。
「迷うことないよ。まずは戻ろう。いいね?」
モモタロウくんの提案に頷くとヌラリヒョンさんは相変わらず笑みを浮かべていた。
私たちは戻る先々で姉妹の話を聞いた。
「コノハナサクヤ様はお美しい方だ。桜のように可憐で儚げな女神様」
「イワナガヒメ様は凛々しいお方だ。剣を振るう姿がまた美しい」
「仲の良い姉妹で羨ましいくらいだ」
聞けば称賛の声ばかり。
これがヌラリヒョンさんの話術にかかると、
「……ここだけの話、イワナガヒメ様はコノハナサクヤ様に好きな男をとられてな」
「そもそも二人で嫁いだのにイワナガヒメ様だけ追い返されて」
「よっぽど酷かったんだろうよ。……器量よしとは言えないだろう、あの顔だぞ」
「不器用で何も出来やしないから剣の鍛錬を始めたんだ。偶然才があったから良いものの」
「反面コノハナサクヤ様は笛がお上手で、機織りも上手い。料理の腕も相当なものらしいぞ」
「イワナガヒメ様が見初められなかったせいで、俺たち人族には永劫の命が与えられなかった。全く。何をしてくれるんだか……」
姉妹の情報を聞けば聞くほど私もモモタロウくんも口数が減った。
「血族とはそういうものだ」
と、ヌラリヒョンさんは私達を諭した。
モモタロウくんは何も言わなかったが多分、私と同じような気分の悪さを感じていた。一番近い親族である姉妹がこうも比べられるなんて可哀想だ。こうやって好き勝手に噂されて、イワナガヒメさんはどんな気持ちだろう。比較に使われるコノハナサクヤさんは。
嫌な話ばかりで探す気も段々と失せてきた。今日は宿に泊まってゆっくり風呂に浸かりたい。
「ヌラリヒョンさん、今夜はどうしますか?」
「はいはい。今日は安くとも宿に泊まろう」
「やった!」
二日連続で入浴出来ない事が嫌いなのを知っているヌラリヒョンさんは望み通りの答えをくれた。
風呂だけはどうも駄目なのだ。どうしても汚い自分が気になってしまう。全裸への抵抗さえなくなれば真昼間に川にドボン出来て楽なのだろうが、なかなか意識が変えられない。
「またそうやって甘やかす……。まあ今夜は僕も宿でいいや」
モモタロウくんは深く息を吐いた。
私たちは疲れていた。止めどなく耳に入る悪口と称賛に。
「でも寝てる間に噴火したらどうしよう」
「嫌なこと言わないでよ。馬鹿なの?」
「ははっ。その時は三人まとめて火砕流の下だろうさ」
呑気な事を言いながら、日が高くともこの辺で宿を決めるつもりで歩いていた。
ぼんやりと辺りを見回していると、藤色の髪の毛が視界で揺れた。
進行方向とは逆に向かっている。
「やっぱ二人は先に行って! 私のことはほっといて良いから!!」
「あ、ちょっと!」
私の大声が引き金になり女性が走り出してしまった。このままでは見逃してしまう。
私も全速力で走り、こいのぼりのように流れている後ろ髪を追いかける。華奢な女の子と思っていたが、ひ弱な現代人よりよっぽど体力があってなかなか追いつけない。
だがこちらも丸一日歩く生活を数ヵ月続けている甲斐あってまだまだ足は動く。
なにくそと走っていると、突然頭頂部に激痛が走った。
頭を押さえていると胸ぐらを掴まれ、モモタロウくんの般若のような形相が飛び込んできた。
「……」
いつもならポンポン飛び出す罵倒がやってこない。そもそも何に怒っているかが判らず私は目を逸らした。
「……言うこと、ないの? 僕に」
何を?
「…………。ほんと君、余計な事は言うくせに……」
苦虫を噛み潰したような顔をして言う。
「じゃあ、本当に一人で良いんだね」
モモタロウくんの確認に対し、私は真摯に考えた。
今、富士山は噴火しようとしている。だったらまずは二人だけでもこの地から遠ざけるのが良い。
八百万界で一人になるのはまだまだ不安だ。丸腰の挙句常識もない。でもだからといって、二人を巻き込んで良いものではないことは確かだ。
「うん!」
私は力強く頷いた。
「へぶっ!」
同時にチョップが脳天に落下し、耳の奥がキーンと鳴った。
「
呆気に取られていると、後からのっそり追ってきたヌラリヒョンさんが言った。
「例え一人であろうと、ひとの上に立った以上導く義務が生じる。導くにはまず日頃から己の心を示さねばならぬのだよ」
私よりも遙かに貫禄ある立ち姿で言うのだ。
「其方の望みはなんだ」
逆光で私を見下ろすヌラリヒョンさんに私は、今思っている事を吐き出した。
「コノハナサクヤさんを追いかける。捕まえて噴火を止めてもらう」
「うむ。大変よくできました」
雰囲気にそぐわない笑顔を浮かべて私の事を立たせてくれた。
「僕もついて行くよ。本当に危ない時、君を止める人間が必要でしょ」
「そういう事だ。其方はすぐに他人を捨て置こうとするなあ」
不思議だった。
どうして私の行動が無謀と判ってついてくるのか。
モモタロウくんは噴火に抵抗するのは無理だと言ってたじゃん。
ヌラリヒョンさんだって引き連れた妖に怪我させたくないって言ってたじゃん。
二人はこのまま富士山から離れることが一番なのに。
「ぼんやりしない。コノハナサクヤさんを見失うでしょ」
考えるのは後だ。
走る私にモモタロウくんが並走する。
「そもそも本当にコノハナサクヤだったの?」
「多分そう! だって見えた! あんな凄いひとなら噴火なんて止められる!」
彼女のオーラは眩かった。村に住む神々とは違って目が眩むような光を放っていた。
身体から溢れ出す生命力が常軌を逸していた。あれが凡庸な神であるはずがない。
「
なに……?
一瞬の事だった。モモタロウくんが全速力の私たちよりも更に加速して行ったのは。
その圧倒的身体能力でコノハナサクヤさんをあっさりと捕まえてしまった。
「いや! 乱暴はおやめ下さい!」
喚きながらコノハナサクヤさんがモモタロウくんに急接近し、離れた時には掴んだ手が抜けていた。
「っ!?」
驚愕の形相ながらもモモタロウくんは冷静に後ろの刀を抜き、コノハナサクヤさんへと刀を振り抜いた。
しかしそれは華麗に避けられてしまう。だがその背後にはヌラリヒョンさんがいた。今までずっと気配を消し続けていたのだ。後ろ手にして地面に抑えつけた。
「荒っぽくてすまぬ。話をさせてくれ」
「嫌ですわ! 暴漢と話すことなどありません!」
自分より上背のあるヌラリヒョンさん相手にも怯まず、押しのけようとしている。
僅かにヌラリヒョンさんの身体が浮くのを見て私は慌てて叫んだ。
「コノハナサクヤさん! 富士山の噴火を止めて下さい! お願いします!!」
即座に土下座をしたお陰か「あら……?」ときょとんとして動きを止めた。
「あっ……でも……今は出来かねますわ」
「あなたしかいないって聞いたんです!! お願い致します!!」
額を土につけて頼んだが、彼女は困ったように、
「お助けしたい気持ちがないわけではないのです。ですが私の心は変わりません」
とはっきり言うのだった。
「何か理由があるなら言って下さい。力になりますから! なんでもしますから!」
助ける気は多少あるならばと精一杯感情に訴えた。
彼女は黙ってしまったが、口元は時折ぴくりと動いていて何やら逡巡しているようだった。
この時には逃げる様子は一切見せなくなっていて、ヌラリヒョンさんは彼女の上から退いていた。
「……どうして、私をコノハナサクヤと思ったのですか」
「なんか輝いてたから」
肘で小突かれ「もっとマシなこと言えないの。これだと君ヤバイ奴だよ」と言われた。
「……そうですよね。あの子の美しさは仮面如きでは抑えられないのでしょうね……」
あの子?
「お引き取り下さい」
斬り捨てるように冷たい声だった。
「帰れるわけないでしょ。君が噴火を止めなきゃどれだけ被害が出ると思ってるの。それとも神族は他の種族がどれだけ死んでもどうでもいいわけ?」
この詰りには顔を曇らせたように見えた。
「私もその事は胸を痛めています。同じ神族であっても火や土の神は無事ですが、植物や湖の神は消滅してしまうでしょうから」
ならば富士山の噴火は防ぐべきだ。
人族にとっても。
妖族にとっても。
神族にとっても。
多くの命の行く末が、今目の前にいる、コノハナサクヤさんの手にかかっている。
噴火を望まない彼女が躊躇う理由は判らないが、なんとしてでも首を縦に振らせなければならない。
理由を聞きだすのか? それとも下げ切った頭を更に下げるのか?
どうする……どうする……!
「コノハナサクヤよ、ならば勝負といこう」
「なんで!?」
悩む私を他所にヌラリヒョンさんはとんでもない事を言い出した。
「神とは己の為に力を振るう。他の為に振るうならばそれなりの理由が必要なのだ。手っ取り早いのが、己の力を示して捻じ伏せることだ」
いやいやでもでもでも。
「相手は女の子なんですよ! 怪我したらどうするんですか!」
「神は妖や人よりも丈夫だ。心配することはない」
「しますよ! あなただって嫌ですよね? 傷なんてついたら」
「私は構いません。易々と負けるほどか弱いつもりはございませんので」
嘘でしょ……。
久しぶりに感じる八百万界の蛮族感に気が遠くなった。
「ならばその笛を構えると良い」
「笛ですよ? 刀や剣とどう戦えと!?」
「出来るよ。特殊な素材で作られた笛が奏でる音色は相手を苦しめ狂わせるからね」
えぐいなあ……。
「いいえ。笛など必要ありません」
彼女が懐から取り出したのは護身用と思われる
「じゃ、僕が行ってあげるよ」
モモタロウくんが前に出た。
二人の背丈はそれほど変わらないが、得物の長さが圧倒的に異なり有利なのはモモタロウくんだろう。加えて数多の斬り合いで培ってきた高すぎる殺人スキル。勝負は目に見ている。
だが相手は神族だ。日本最大級の火山の噴火を止められる常軌を逸した力の持ち主。
もしかすると……もしかする……?
「いきます」
コノハナサクヤさんが先に前に出た。長物相手には懐に入り込んで無効化するのがフィクションでの定番だ。
だがここは八百万界。
モモタロウくんは懐剣が達するよりも速く刃を当てて弾いた。ぽとんと呆気なく地面に懐剣が落ち、勝負は終わった。
「楽士じゃこんなもんか。少しは期待してたのに」
コノハナサクヤさんは綺麗な着物が汚れる事も構わず、地に膝をつき歯を食いしばっていた。仮面で目元や眉が見えない分その様相はとても目を引いた。
「負けたのだから従ってもらうぞ」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
二人がどんどん話を進めてしまうので、私は一度待ったをかけた。
コノハナサクヤさんの前にしゃがんで目を合わせる。
「私たちはただ噴火を止めたいだけなんです。でもだからといって無理やりというのは気が進みません。だから出来ない理由を教えて下さい。あなたの力になりたいんです」
コノハナサクヤさんは私をじっと見やると、ゆっくりと立ち上がり膝の土汚れを落とした。
「……鎮静化にはイワナガヒメが必要です。私だけでは駄目なのです」
「じゃあ」
「会いたくありません」
私たち三人に向かってきっぱりと言った。
「じゃあイワナガヒメさんに協力を頼みます。それであの、イワナガヒメさんってどんな方ですか?」
「コノハナサクヤとは正反対の、見るに堪えない醜い神……ですわ。もう見たくなどありません」
可憐な女神が姉妹の容姿を貶す姿は実に醜かった。けれどそれは見下して言うというより、苦しそうにしているように見えた。
「負けたのだからイワナガヒメの判別くらいはしてもらう」
「嫌です! あの子を見なければならないではありませんか!」
ヌラリヒョンさんの言葉に子供のようにいやいやと首を振った。
噂されていた通り、この姉妹は不仲なのかもしれない。
コノハナサクヤさんは褒められてばかりだったが、それも思う所があるのかもしれない。
それは判るけれども。
「お願いです! あなただけが頼りなんです! ちょっとだけ手伝って下さい! じゃないとあなただって噴火に巻き込まれてしまいますよ! それに住み慣れた場所が火山灰で埋まるのって悲しくないですか?」
お願いします、ともう一度頭を下げた。それに二人も続いたのは意外だった。
けれどありがたい。どうか私たちの気持ちが伝わりますように。
「……判りました。私も神としての責務がありますし、勝負も見事でした。イワナガヒメに会う事は出来ませんがお連れすることは致しましょう」
熱意が少しでも伝わったのか、渋々ながらも折れてくれた。ごめんなさい。
「ありがとうございます! コノハナサクヤさん!」
「その名はおやめ下さい。民が混乱してしまいますので」
失踪中だから余計な騒ぎを招いてしまうか。
「じゃあ、なんて呼べば良いですか?」
「ではコケムスメとお呼び下さい」
なんで苔娘……? 八百万界のセンスは全く意味が判らない。だが自己申告なのだから呼んで良いのだろう。
「判りました。コケムスメさん、よろしくお願いしますね!」
「……はい」
小さな唇が遠慮がちに弓なりになった。奥ゆかしい微笑みに高貴さが漂っていて身分の差を感じた。
「……コケムスメさんって、綺麗な笑い方しますね」
「へっ! い、いやですわ! そんなことありませんよ」
仮面で顔の半分が隠れていても赤くなっている事が判る。イワナガヒメさんの事がなければ、接しやすいかもしれない。
「ほら、時間無いんだから行くよ!」
少なくとも私の子分(仮)よりは。
「お待ち下さい、逆方向ですわ。イワナガヒメは
「曖昧な」
「別れてから数日経っているので……。もう一つの候補は日向の国高千穂です」
「日向!?」
モモタロウくんとヌラリヒョンさんが同時に驚いた。
「あの、日向ってどこですか? 遠いんですか?」
「八百万界の端の方だよ。下関から海を渡った先の
下関はフグで有名な山口県、その先は福岡県で……って、関門海峡!? じゃあ日向って九州にあるの!?
「日向に行っている間にここは溶岩と火山灰で埋まっているだろうね」
わあ……。
「とにかく行きましょうか。その
コケムスメさんの指は南を指した。三島宿よりもっと南。伊豆の方か。
「一日くらいで着きますよ」
まあまあだ。それなら噴火にも間に合うだろう。
宿で休むつもりだったが、予定を大きく変え出来るだけ南への距離を稼ぐ事にした私たち。
一人パーティーが増えてもやることは同じ。道なりにず~っと歩くだけ。
私は流れる景色を見ているだけで常に楽しいと思えるような文化的な人間ではない。スマホを眺める事も出来ない八百万界では暇潰しといえば雑談だ。
「コケムスメさんは普段何をされているんですか?」
「わ、私ですか?」
「他に誰がいるの」
と、冷たくつっこむモモタロウくん。慣れると何ともないが、初めてだと委縮するだろう。
あーあ、コケムスメさんが挙動不審になってしまった。
「えっ、あっ。私。……さ、最近だと家事を主に。あとは剣、いえ、なんでもありません!」
「君が剣を齧っているのは知ってる。足運びでバレバレだよ」
耳が赤くなっていった。剣術の鍛錬とはそんなに恥ずかしいものなのだろうか。
「実戦があれじゃあね」
「おっしゃる通り。私もまだまだですわ」
苦笑している。
「でも凄いですね。家事も出来てその上剣も使えるなんて」
「あ、いえ、家事の方はその……得意ではなくって」
「謙遜なんていいですって。どんな得意料理はなんですか!」
「え、ええ。えっと……」
わくわく。
「お、お刺身、かしら……」
「すっごい! 魚捌けるんですね! 凄い!」
海が近いから魚を食べる事が多いのだろう。今日の夕ご飯が楽しみである。
距離を稼ぐ都合上、今夜は宿ではなく野宿だ。でも人のご飯が食べられるという楽しみがあるならわくわくするものだ。
────夜。
「きゃああああああああああ」
絶叫の主は私ではない。モモタロウくんでもヌラリヒョンさんでもない。
「いけませんわ! あっ、あっ、ああああああ!!」
魚って簡単に炭になるんだなあ。などとぼんやり眺めていた。
魚を捕るまでは良かったのだ。
それが調理に入ってから様子がおかしくなり、三枚にでも下ろすのかと思えばぶつ切りを始め、火の中に放り込んで叫んだ。
あ、このひとも料理出来ないタイプだ。と哀れな姿になった食材を見て思った。
このパーティ、料理出来るひとに縁が無い。
「すみませんすみません! 私、本当にお料理とか、お掃除とかお裁縫とかお洗濯とか、細かいものが苦手なんです!」
それって家事全部では?
ついいつものノリで突っ込みそうになったが、申し訳ないと何度も頭を下げる彼女にそんな事は言えなかった。
「大丈夫大丈夫。ここにいる全員誰も出来ないので」
「……はう」
顔を両手で覆っている。
「家事出来なくたって生きていけるでしょ」
そうだそうだ!
私はモモタロウくんに同意する。
「ですが、お淑やかで家を守れる方が良くはありませんか?」
「他人に守られてる前提でしょそれ。守るひとがいなかったらどうするわけ?」
私にまでグサグサくるな……。
「僕は自分で獲物振り回せる方が良いと思うけど。自分の身を自分で守るなんて当然でしょ」
「あなたは? あなたもそうお思いですか!?」
私!?
「武器でも家事でも、自分に出来ない事が出来る人はみんな凄いと思います。出来なくても生きていけるのは同意しますけど」
「……そうですか?」
「ヌラリヒョンさんは?」
「一人が長いのでな。だが強いて言うなら家の事を任せられる者がいると助かるだろうな」
「へえ……」
出来た方が良いんだ……そっか……じゃあ私も家事をしっかり覚えた方が、
「痛っ!」
「ああ、刀が滑った」
「滑るわけないでしょ!」
鞘で突かれたりしながらも和やかに食事を終えた。
その後は入浴代わりに水場を利用して身体を拭いていくのだが、今夜はコケムスメさんが一緒なので安心だ。いつもは一人なので獣に襲われたらどうしようかと心配しながらなのだ。
私たちは背中合わせで汚れを落としていく。
「……あの……おひとりで、辛いことはありませんか?」
「何の事です?」
唐突な問いに聞き返す。
「女性一人でいる事です。不自由もあるでしょうし。それに、よよ、嫁入り前ですし? 殿方との距離が近いというのは……。だって就寝も、と、共寝じゃないですか!」
「待って下さい! 寝るって言っても蒲団は(基本的に)別ですし、危ない事だって全然ないですよ!」
コケムスメさんが言っていることはよく判る。今でこそあまり気にしないが、ヌラリヒョンさんと共に生活する際に『はしたない』と感じていた。でもそんな事言っていたら生活は成り立たないし、旅だって出来ない。
ヌラリヒョンさんと過ごして、そういう事をしないひとだという信頼は築けている。モモタロウくんはそもそも私がそういう対象にするなんて絶対にないという自信だ。
八百万界は男女の考えが日本とは違う。
男だからこう。
女だからこう。
性別で分ける事が少ないのは種族で性差が簡単に覆るからだろう。この世界の性別とは身体の分類としての使い方の方が比重が大きい。
だからコケムスメさんがモラルの話をするのは、日本っぽくて懐かしさすら覚える。
「私たちはそれぞれ目的があって偶々行動を共にしているだけです」
「ならもしも、旅の間に好きな方が出来ても、変わらずお二人といられますか? 仲を疑われるかもしれませんよ……?」
「大丈夫ですよ」
そんな稀有なひとがいたとして、どうせ結ばれない。
────住む世界が違う。
それが急におかしくなって、思わず声を漏らして笑った。
「そう、ですか。そういうもの、……そうなのかしら?」
考え事が始まったようなので干渉はせず、汗を拭う事に集中した。
見張りの順番はいつもさっさと決まる。私とコケムスメさんは後半なので先に仮眠する。
荒れた地面と、ヌラリヒョンさんが上等と評したコケムスメさんの着物を見比べた。
「あ、私の替えの着物があるのでそれ敷きましょう! 少しは汚れずに済みます!」
早速荷物の奥底を探ろうとすると止められた。
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですわ。私、頑丈なんです」
「頑丈って言ったって身体が冷えるでしょう。か弱い女の子にそんなことさせられませんよ」
するとみるみる浮かない様子になってしまった。
「結構です。お気持ちだけで」
そう言って身体を丸めて地面に転んでしまった。何が悪かったのかさっぱり判らない。
気まずい空気の中、背を向けて私もまた眠った。
次に起きた時は朝かと思えば夜だった。二度寝しようとしたが身体を揺らされ拒まれた。
「申し訳ございません。気持ちよさそうに寝ているのに」
見張りの時間か。交代要員の多い今日は短時間で済むからありがたい。
「大丈夫です。順番ですから。おやすみなさい」
「おやすみなさいまし」
コケムスメさんが横になったことを確認したら見張りに入る。
私の見張りは二人とは違う。一帯に息づく矮小な生命達に働きかけ、怪しいもの、不浄なものがいたら知らせるように命令する。私は索敵範囲が広い。が、外敵へ対処することは出来ないので大急ぎで誰かを起こす必要があるのが難点だ。
いつだったか悪霊がテクテク歩いている時は心臓が潰れるかと……。
「あの。少しお話ししてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ?」
なんだろう。
「あの、お連れのお二人はモモタロウ様にヌラリヒョン様ですよね? あなただけがどうしても名前が会話に出てこなくて、どうお呼びすれば良いかと……」
「ああ……」
ヌラリヒョンさんはいつも、私を其方と呼ぶ。あとは話の流れとか、肩を叩かれたり、目が合うことでなんとなく私に対するものだと判る。
モモタロウくんは基本的には君と言う。偶に
それもこれも、私に名前がないせいだ。一応ナナシと仮称しているが、ヌラリヒョンさんは一度だって呼んだことがないし、モモタロウくんは主従になってからは言わない。
名前のない生活もこの二、三ヵ月で慣れた。
「私には名前がないんです。”ナナシ“という仮名を使うか、君とかあなたとか、好きに呼んで下さい」
コケムスメさんは顔を伏せた。
「名前が、ない……?」
「はい」
元気に肯定したら寧ろ空気が冷えてしまった。
「神は、名が己を表します。名に縛られると言い換えても良いでしょう。失礼ですが、そもそものお名前がないというのは、どういう心境なのですか?」
正確には名前が無いわけではない。──という名前がちゃんとある。
この世界での相性が悪くて発声が不可能なだけ。誰かが名乗らせてくれないだけ。
私は私のはず。
「名前があっても呼ばれなければ存在しないのと同じです。今は二人が毎日私に目を向けて話しかけてくれます。だから名前がない事は全然悲しくないですよ」
コケムスメさんは何度か頷いた。納得はしてもらえたようだ。
「言いにくい事を教えて下さりありがとうございました。それと大変申し訳ございませんでした」
「ああ、全然気にしないで下さい」
寝入る邪魔にならないよう、その後は黙って夜の森を見つめていた。パチパチと弾ける火の音を聞いていると、掠れた声が隣から聞こえた。
「私の事、お話し致します」
私はコケムスメさんを見ないようにして頷いた。
「喧嘩、したんです」
「お姉さんと?」
「……相手が羨ましくて、妬ましくて、その日はついに口にしてしまったんです。ずっと我慢していたことが口から溢れてきて何もかもぶつけていました」
大きな溜息が聞こえた。
「早く謝罪すべきなのは存じています。なのに、ずるい、と言う言葉がもたげてきて。私の理性を溶かしていくんです」
それは私にも身に覚えがあった。
「私もよく他人を羨んだり恨んだりしますよ。平気な振りをしているけれどいつも拗ねていて。比べる事に意味がないと判っているのにやめられそうにありません」
普通の家族が欲しかった。
なんて、どうにかなるものじゃない。コケムスメさんのそれもきっと、どうにもならない事なのだろう。
「こんな私を誰もが責めているように思えてこの仮面を着けたんです。これを着けていると存在感がなくなるので。だからあなたにぶつかった時、二度目に見つけられた時とても驚きました」
ヌラリヒョンさんと一緒にいるから存在の薄さには慣れているのかも?
「でもお陰で少し諦められたんです。これ以上逃げるのは止そうと」
「あ、いや、それは、その。……大変申し訳ございませんでした!!」
斬りかかったり。
抑え込んだり。
土下座で押し切ろうとしたり。
「いいえ。いいんです。だって私、神ですもの。全てが自分の思い通りにならないことは承知していますわ」
「え、神様なのに?」
神族は自由気ままな者達の集まり、と聞いていたのだが。
「神族は人の身では達する事の出来ない領域に産まれながらに立っています。強大な力を振るう姿を人々は自由と見たのでしょうね。でも実は制約はちゃんとあるんですよ。神同士であったり、人や妖との取り決めだったり。本当に自由に振舞えば高位の神以外全員死滅してしまいますわ」
ああ……。確かに、そう言われると……。
そもそも今いるこの大地も神様が作ったものだろうし、壊すのだって簡単だろう。
「強力な神というものは、信仰や畏れを自身に集めています。でもそれは、人や妖、他の神がいなければ、信じて尊ばれることも、畏れられることも出来ないのですよ。私たちは、あなたたちのような方々がいるからこそ、神でいられるのです」
神による講義を聞いて全てが腑に落ちた。
人と妖と神。
この三種族成り立ち、均衡を保っているのはそれぞれの種族がいなければ存在しないからだ。
妖も神も、他人の感情や思考によって強さを得る性質がある。畏れ、怒り、縋り、嘆くのはひ弱な人族だ。人族の感情が存在としての力になるからこそ、人族の人口が一番多いのだ。
「民に対する感謝もありますので、求めに応じることを嫌とは思わないんですよ。ただ、偶には放っておいて欲しい時もある、ということですわ」
「すみません……」
姉妹でゴタゴタしている時に身勝手なことを言って本当に申し訳なかった。すると、コケムスメさんが少し笑って、
「いいえ。良いんです。こうして、会ったばかりの方々と寝食を共にするという貴重な体験をさせて頂いていますから」
弾む声を聞き、改めて私たちはこの一時を共に過ごしているのだと実感した。
「国津神の一神として、必ず会いに行きます。でも出来れば、一緒に会って下さいね……?」
「勿論です! 私だけでなく、三人で行きますから! 何があっても一緒にいます!」
コケムスメさんを見て、興奮気味に言った。
すると暫く間があいて、食い気味で言った事を後悔した。でも杞憂だった。
「……約束、ですよ?」
「約束です!」
コケムスメさんの唇のたおやかさに、綺麗なひとだと思った。
「山を越えたら海ですか……」
右手に見えるのは駿河湾だ。遠野を出てからしょっちゅう海を見ているが、日本が島国である事を思い出させてくれる。海の向こうに見える陸地もまた静岡県。確か焼津だ。地名に「焼」が入るなんてなかなか物騒である。
「ここには沢山の魚たちがいるんですよ。ウミガメもよく来てくれて」
ふふとコケムスメさんは笑った。
「皆さんは桜エビを召しあがりましたか? 今の時期が食べ頃ですから機会があればお召し上がりください」
「あ! ヌラリヒョンさん食べてましたよね! 天ぷら!」
「ここの桜エビは有名でな。一度は食べようと思っておったのだよ」
さっすが!
「其方にも一つやろうと思っていたのに全部腹に収めてしまってな。代わりに芋の天ぷらを置いておいた」
お腹いっぱいなのかと思ったら、そういう事だったのか。
「君たちいっつも観光気分だよね」
呆れて声でモモタロウくんは言った。
「あら? お三方は旅行中ではないのですか?」
う、うーん。なんて言おう。と、悩んでいる間にモモタロウくんが答えた。
「僕たちは悪霊を倒して回っている。最終的に、八百万界を救うためにね」
他人に言われると恥ずかしいな。馬鹿馬鹿しくて。
モモタロウくんもわざわざ言わなくて良いのに。引かれちゃうよ絶対。
「まあ、それは素晴らしい心掛けですね!」
予想外の反応。
「悪霊はこの辺りでも苦労しています。見つけ次第倒してはいますが、いつまでこの生活が続くのやら……皆不安がっています」
やっぱり悪霊はどこでも人々の生活を乱しているんだ。
「ですが負けてなどいられません。私も鍛錬を重ね、千でも万でも倒しませんとね!」
とても力強い言葉だ。
神さまにこんなこと言われたら、きっと人々の不安も消し飛んでいくだろう。
「鍛錬っていうけど普段何してるのさ」
「力仕事を少々。俵や家畜を運ぶのなんて大得意なんですよ」
俵は六十キロ、牛なら八百キロとか。もしかしたら鶏の話かもしれないが。
「あ、でも……今は……」
顔を沈ませて言うと、そこで会話が途切れた。
四人の足音と衣擦れと武器や鎧の金属音だけの時間が長くなればなるほど、次の話題を出す事が難しくなる。なにか、この空気を打破する話題は……。
「……あーあ。何処かに剣でも落ちてないかな」
ないでしょ。てか、何を言い出すのかと思えば。
「あったあった」
なんて世界だ……。
ぽいっと、刃が少し欠けた剣をコケムスメさんに投げると、あわあわしながらもしっかりと柄を握った。
「構えて。君さ、もうちょっと頑張って欲しいんだよね。骨のある奴いなくてこっちは退屈してるんだからさ」
モモタロウくんは自身の刀を抜いて肩を叩いた。
そんな挑発的な態度に、コケムスメさんが拾ったばかりの剣を構えた。
「君から来なよ。どうせ、僕の方が強いから」
「……その胸お借りいたします。いざ」
鋭い突きがモモタロウくん目掛けて飛んでいった。しかし、モモタロウくんは刃の側面でこれを受ける。
「やっぱり小刀は短過ぎたね」
受けた切っ先を流して斬りかかるが、コケムスメさんはすんでのところで避けた。はらりと斬られた髪が土の上に落ちる前にコケムスメさんが次の斬撃を放つ。
主としては「道の真ん中で何してんの!」と、止めるべきなのかもしれない。モモタロウくんの斬撃を受けきれず、コケムスメさんが地に膝をつけている。なのに二人のやり取りを黙って見続けてしまうのは、コケムスメさんが楽しそうだからだ。打たれても避けられても、何度も何度も向かっていく。
……凄いなあ。
二人は声を上げて笑っている。凶器を使ったじゃれ合い。
私には入れない世界だ。
うら寂しさを感じていると肩を突かれ、振り返るとヌラリヒョンさんだった。手招きをされ、流木を指され、隣に座ると引っ張られて膝の上に座らされた。
なんでどうしてなんでひえええ!?
背中やお尻や足で感じるヌラリヒョンさんの感覚に私の体温は一気に上昇した。
「二人とも夢中で儂らには気づいておらぬようだな」
様子を確かめたくても、今は私の方が緊急事態である。それなのに耳元で囁かれる。
「あれは本当にコノハナサクヤと思うか?」
男性特有の低音が耳に撫でて飛び上がりそうになったが、その内容に止まった。
なんてことはない、内緒話だ。
……なあんだ……ただの内緒話かあ…………。
その為にわざわざ膝の上に乗せたのだ。多分私の影で自分が見えにくくなるからとか、そういう理由なんだろう。面白くない。心底がっかりした。
どうせずっと機会を窺っていたのだろう。私は感覚が鋭いようだし彼女と二人きりの機会も多かったから話を聞きたくて。
必要とされるのは嬉しいが内心複雑である。仕方ないので望み通り私の見解を伝えた。
「彼女はコノハナサクヤです」
断言した。
「姉妹の事情は他人には判りませんから、前情報と違ってもおかしくはありません」
尤もらしい事を言ったが、彼女はコノハナサクヤさんではなく、”イワナガヒメさん“だろう。夜話していてそう思った。
他にも剣の才があること、家事が絶望的なこと等、周辺住民に聞いたイワナガヒメさんの特徴と完全合致する。
多分モモタロウくんも判っているだろう。言わないだけで。
ここでの彼女は、コノハナサクヤさんだ。
いや、コケムスメさんだ。
それでいい。
「其方が言うなら信じよう」
ヌラリヒョンさんはそう言って二人の斬り合いを眺めているようだった。
私は少しずつ揺らいでいた。
信じると言われたのに、私は嘘を吐いたままで良いのだろうか。
いや。コケムスメさんが隠したいのならば言うべきではない。
でも実のところは、期待が裏切られた腹いせかもしれない。
何かある時ばかり距離を詰めてくるのは、少し、ずるいよ……。
「いい汗かきましたわ」
砂で汚れた着物のコケムスメさんは声を弾ませてとても嬉しそうだ。
「反応も勘も良いのに身体がついてきてないのは勿体ないけど、今後は楽しみだね」
「モモタロウ様は素晴らしい技術の持ち主ですわ。これなら刀剣の神とも対等に渡り合えるはずです」
「へー、刀剣の神って誰?」
「刀剣の神格化はフツヌシ様ですわ」
あれ。どこかで聞いた名前だ。
「国津神最強というとタケミナカタ様を指す方がいますね。天津神ならタケミカヅチ様とか……剣だとヤマトタケル様も相当だと聞いております。イザナギ様も……?」
タケミカヅチも知っている。どうしてだろう。
「へえ。じゃあそいつらを片っ端から斬れば僕が八百万界で最強だって知らしめることが出来るね」
そんな事を得意げに言うのを聞きながら、私たちは再び歩き出した。
今回は少し隊列が変わっていた。
「雑。剣の奴等ってなんで削ごうとしないの?」
「モモタロウ様は細かすぎますわ。大抵のものは叩けば潰れて下さるんですよ?」
剣と刀の話であーでもない、こーでもないと話している。
剣士と言えばヌラリヒョンさんがそうだが、戦いのことはあまり興味がないらしく話をしない。一方モモタロウくんはいかに無駄なく斬るか、多人数相手に効率よくやる為にはどう動くのがベストかしょっちゅう考えている。そして平民の私は武器については一切知識なし。
コケムスメさんは『強くありたい』という気持ちが強く、向上心が高いからかモモタロウくんとの融和性が高く剣術談義も楽しそうだ。
「随分明るくなったな」
モモタロウくんと笑いあうコケムスメさんを見て、ヌラリヒョンさんが言った。
「そうですね」
私はそれに同意した。
「こうして其方と二人で話すのも久しいような気がするな」
「そうですね」
宿も今は三人一部屋で、私とモモタロウくんが大体言い合いをしている。何を言っても良いだろうと雑な扱いをしているせいか、結果的に会話が多くなるのだ。反面、ヌラリヒョンさんは口数が減った。私たちを眺めるばかりで。
「最近、どうですか?」
「うん? 其方が見たままだが」
「そうじゃなくて……」
元々何を考えているのか判らないのに、もっと離れてしまいそう。
「私はヌラリヒョンさんのことが知りたいんですっ」
羞恥心を抑えつけて言った言葉に、ヌラリヒョンさんは優しく笑った。
「年寄りの長話を所望するとは其方も物好きだな。良いだろう。たっぷり聞かせよう」
他の妖族の話、昔話、他にも色々聞いた。
長い命を生きるヌラリヒョンさんの話の引き出しは多くいつ聞いても楽しい。
私は束の間の会話を謳歌し、時に海に現れたウミガメやシュモクザメに驚き、目的地である
山頂付近にむき出しの岩と小さな建物が見える。それが
「つ……つ……い………た……」
絶壁の上に私たちはいる。少し首を伸ばすと約百メートルに下には海がある。足を滑らせたらそのままドボンだ。
「肝心のイワナガヒメはどこ。まさか空振りなんて言わないでよ」
少し息の上がったモモタロウくんがコケムスメさんに言うと、コケムスメさんは岩山の頂点から海を見渡していた。海風が藤色の髪の毛を撫でる中、彼女は顔の仮面を取った。本紫の双眸が私たちを見下ろす。
「サクヤちゃん!!」
大声にドキッとすると神社から桃色の長い髪をした仮面の女性が現れた。
「姉様……」
彼女は私たちなど見えていないように、コケムスメさんに向かって叫んだ。
「返して! 私の身体を返して下さい!! 姉様!!!」
◇解説という名の小ネタ
・「焼津」
ヤマトタケルが蝦夷討伐に向かっていた途中、賊に騙され草むらの中で四方に火を放たれて焼き殺されそうになった。
しかし天叢雲剣で草を薙ぎ払い、向かい火をつけて事なきを得た。
そこから天叢雲剣は草薙剣と呼ばれるようになった。
……と、アメノムラクモがクサナギノツルギに進化した場所です(雑)
「ヤキツ」から、焼津(やいづ)になったらしいです。
焼津は万葉集(奈良時代)にも書かれているというのだから、とっても古い地名なんですね。
話の筋には全く関係ないのですが、神話好きもこのジャンルにはいると思うのでちょろっと出しました。
・「靴」
履き潰した云々の話が途中ありました。
これは樹海の本を読んで書いてあったことを取り入れました。
スニーカーで樹海は駄目なんだと。すぐにボロボロになるらしくて。
それだけ足場が悪いのだと想像してもらいたくて挿入しました。
・「樹海」
本当は樹海をがっつり書くつもりが、話の都合上全部なしになりました。
うぅ……。
富士山の周囲が全部樹海で全部自殺の名所、……ではないです!
そして所謂『樹海』の傍にはあの、超有名テーマパーク「富士急ハイランド」があります!!
夢は壊れましたか? 私は壊れました。
樹海に夢を見過ぎていました……。
そんなあなたに「樹海考」(著者:村田らむ)
この本の最初はまさに夢を壊すようなことが書かれています。
ですが「最後のコンビニ」の話になってから、雰囲気が変わります。
……あなたが期待した樹海がきっとあります(ダイマ)
・「桜エビ」
国内では駿河湾でしか獲れない「海の宝石」。
全然食べないので特に感想はないです。
……えーっと、給食に出ていたオキアミのふりかけは好きでした。(オキアミはエビではない)
・「峰打ち」
レファレンス協同データベースより。色々書いてある。
あと、第二次世界大戦で殺人表現が規制された事から産まれた表現。と、刀剣ワールドより
この世界は和風ファンタジーなので、私に都合の悪いことは全部ファンタジーでなんとかします。
・「コノハナサクヤ(中身イワナガヒメ)がモモタロウに対して行った事」
掴まれたコノハナサクヤがモモタロウに近づき、拘束が取れたこと。
これは合気道です。
多分あの子たちは出来そうな気がして。護身術的に。
(2021.10.26)