第35話-嫌忌アンバランス

「─その首、手折ってやりたい。


私は、ずっと憎み続けていた。
神に愛された幼子を。

『人間』と言う、数ある種族の中でも貧弱な部類に属しながらも、神に次ぐ強大な力を得た少女。
私が焦がれて止まない、絶対的な力をひょんなことから入手してしまった。
それなのに、身体の貧弱さ故、幼き精神故に行使しきれていない。
それが私の精神を逆撫でする。

憎しみは呪いにも似た呪縛となり、私はこの少女が持つ力に取り憑かれていった。
目を潰すほどに眩く白光に、私の関心全てを絡めとられてしまった。
そして私は、必ず、娘の力をねじ伏せ、奪ってやると自分自身に誓いを立てた。

そのために殺意や怒りといった感情を一旦静め、娘の力の行使の鍛錬に力を貸した。
幸い魔界には殺して良い的や雑魚が多い。
奴等を適当な甘言で誘い、娘には戦闘技術を習得させ、神の力そのものに慣れさせた。
ただ上達は遅い。奴は命を刈り取ることに恐怖心があり罪悪感を覚えている。

馬鹿馬鹿しい感情だ。人間とは何故こうも愚かなのか。
たかが魔族の生命に気を払うなど、考えられない。
だから私はこの娘が気に食わないのだ。
こんな甘い考え持つ人間に劣る魔族の自分なんぞ耐えられない。
いっそ一思いに殺してしまおう、何度も思った。
しかし一時の感情に流され、計画を破綻させるわけにはいかない。
だから、ただただ耐えた。だが、それにも限界がある。

よって、私は頃合を見て行動を起こすことにした。

特殊な能力を持つ者でなければ自分も、相手にも傷を一つつけることなくねじ伏せることが出来る程に娘が上達した頃が良いと見た。
しかし、やっかいな問題があった。
娘は本気を出さないのだ。腹立たしいことに。
理解しているのだろう。自分の方が優位に立っている事を。
だから必ず加減をする。当人は全力であると主張するが、全然生温い。

そんな娘に本気を出させる条件。
それは奴の感情を煽ること。これも一筋縄ではいかないのだ。
娘は少々我慢強く、怒りを感じたからと言って早々に手を出す輩ではなかった。

どうしたものかと考えあぐねていたが、絶好の機会が訪れた。
娘が意気消沈する今だ。
平常時でない娘ならきっと、煽れば本気で殺しにかかると予想した。
そこをねじ伏せればいい。それで私は小娘よりも上であると証明できる。



──そのはずだった。
それが、娘の異常思考によって私の計画は狂った。



私はつい最近、娘と死神の関係性を調べるために、奴が丁度身につけていた首輪に魔力を込めた。
逸れに対し死神が怒り狂うのは想像に難くないので、保険として私と娘の生命の糸を繋いだ。
娘が死ねば私が。私が死ねば娘が。
虫唾が走る運命共同体。

しかし、致し方あるまい。まだ私は死神には及ばないのだから。
この屈辱を耐えることで、奴と娘の何らかの情報が手に入るのならば、
神の片割れを滅する手がかりが得られるのならば、その価値はある。

奴等の生活は異常だった。
一見すると一般的な家庭に酷似した生活。しかしそれは茶番。
死神という奴は気持ちの悪い輩で、料簡が非常に狭い。
ジャックから話は聞いていたが、「」という人間の少女に対する入れ込みようは半端ではなかった。

神である身の癖に、触れれば容易く壊れてしまう人間へ執着していた。囚われていた。
娘が同じ人間と関われば嫉妬し、それが男であれば憎んだ。
湧き上がる感情は『黒神』でありながら破壊ではなく、少女の身体への情欲に変換された。
神にも性欲は存在するのかと、いささか意外であった。
しかし、それも日を重ねればその行為の目的が見えてきた。

これも一種の破壊行動なのだ。自覚があるかは不明だが。
現に娘との関係は少しずつ崩れていった。
娘の心には黒神は束縛者として君臨していき、そんな黒神を娘は消し始めた。
心の内に広がる黒神の領土が少しずつ侵されていく。死神が嫌うMZDが生み出した生物どもに。
死神が破壊しか行えないというのは、真実だった。


あの二人の関係と言うものは、大体把握できた。
もう一つ。魔力を注入することで知りたいことがあった。
神の力と魔力は混ぜることが可能か、否か。

時間をかけてゆっくりと、娘の中に我が魔力を溶け込ませる。
これで、娘の力を私が手に入れた時のためのサンプルが出来る。
人の身体を壊さぬために、私は時間をたっぷりかけた。
そして、そろそろ、注入し終える。そんな時だ。

愚娘の怒りを誘うことが出来た。
予想通り、娘は私に対して容赦ない攻撃を浴びせるようになった。
それなのに、あの娘。最後に何をしたと思う。
──自害だ。自害を選択したのだ。しかも私を巻き込んで。

その時丁度魔力の注入が終了し、間一髪で私と娘の生命の繋がりが途絶えた。
娘があの首輪を外そうと、破壊しようと、私も、そして娘も無に帰ることはない。
間一髪のところであった。

首輪の破壊に全力を注ぎこんだ娘は、ぷつりと意識が途絶えた。







意識を引き戻す作業に名は有効であるとわかっていても、この娘の名何ぞ呼びたくない。
なぜ魔族の私がこんなことを。弱い人間如きのために。

確かにこの娘は使える。この上なく便利な道具だ。
しかし、使用は決して容易くない。
奴の力は感情によって効果が左右されるため、この私が、人間の子供の感情を窺う羽目になる。
得られるその先の利益のため、そう言い聞かせて娘の望みを偶には叶えた。
毎度毎度してやりはしない。そこまで堕ちる気は毛頭ない。

「ヴィル……?」

ようやく、手のかかる娘が目を覚ました。

「愚か者。私を巻き込んで死のうとは何と勝手な」
「しぬ?」

視点が定まっていない。どうやらまた意識が戻ってきていないようだ。
全く、人間の子供と言うものは、何故こうも脆いものか。



私はまた、嫌々ながらも娘の名を呼んだ。
自分の名前に反応してか、娘は私の首に両手を伸ばした。
この人間はいつか殺す相手、力を根こそぎ奪う対象だ────。

「あったかぁい」

私の腕の中に収まった娘はそう言って私に擦り寄った。
温かいはずがない。私は魔族となった時に体温を失ったのだから。
この女は頭だけでなく感覚までも狂ったか。
それとも本当にそう思っているのか。
奴に流れる私の魔力と私に流れている魔力が反応しあっている可能性は無きにしも非ず。

私は試しに娘の首を片手で鷲掴みにした。
脈動する薄い皮膚。血と共に流れる我が魔力。
いっそ、絞めてやりたい。

「ヴィル……」

娘は微笑む。何故。自身の首を掴まれていると言うのに。
私は手袋を着用し、娘に直接は触れないようにしている。
それなのに、大量の魔力が娘から私に流れていく。
いったい何故だ。何故このような状況で私を好意的に思える。
私は娘を殺そうと画策している。娘から見て敵だというのに。
今だって私は殺気を抑えてはいないのだ。
この娘、馬鹿なのか。

「……」

愚かなのは、本当にこの娘なのだろうか。
何故、私はこの娘を殺してしまわないのだ。
強すぎる力を持つ娘は部下には向かない。ならば敵に回る前に殺すべきだ。
このまま奴の首をへし折ればいい。ほんの少し力を込めれば事は終わる。

「ヴィル、どうして、くび、さわるの?」

指が一定以上動かない。私は何がしたいのか。

「私の勝手だろう」
「そっかー」

無防備すぎる娘の姿を見ていると気が削がれる。
私が娘を始末出来ない原因はこれだろう。
暗殺者の私の前でも何時だってそのか弱い身体を晒す。
わざわざ隙を見る必要は無い。機会は四六時中ある。
いつでも殺せると判りきった人間をわざわざ今殺さなくてもいいだろう。
そんな、余裕からだ。殺さないのは。

「娘、起きろ。落とすぞ」
「もうおきてる」

視点がゆらゆらと泳いでいながら、何を言うか。
仕方が無い。魔力の供給も兼ねてこのまま会話を続ける。

「結局貴様は何なのだと思う?」
「なにって?」
「貴様の正体だ」

平常より更に知能が衰えている今話す内容ではない。
しかし、もしこの女が何か情報を隠していた場合、それについて零す可能性があるのは今だ。

「わかんなーい」

……殺すのも、今だ。

「……あのね、私、ひとつおもったの。
 MZDがあたらしくつくったのが、私なのかなって。えへ。ないかな?」
「可能性はある」

なんだ、少しはまともに考えられているじゃないか。

「ヴィルにいったら、ばかにされるとおもってたんだー」
「で、その仮説に至るまでに何を考えた」
「生きてるものが嫌いな黒ちゃんがね、私と一緒にいるの、へんだなって。
 それに、かみさまのちからをつかえること、考えたらね、
 MZDが新たに創った人型のいきものなのかなって。
 ほら、ヴィルや黒ちゃんも見た目は人間だけど、ほんとはちがうでしょ」

今までで一番筋が通っている。娘もこの調子でもっと頭を使えば良いのだ。
他人の力を借りるばかりではなく。自身で考えるように。
力があるだけでは足りない。強さには頭も必要なのだ。

「貴様にしては考えたものだ。しかし、これを見てもその仮設を維持できるか」

私は入手していた紙を娘に見せた。文字は魔界の言葉であるため人間の娘は判らない。
しかし、添付されている写真はこの娘でも判るはずだ。

「……これ、私だ。今"視てる"けど、私で間違いないよ」
「これが暗殺者の中で出回っていた。報酬も私好みだ」

娘は力を使って確かめてから断言した。
と言うことは、本当にこの写真の女は娘に間違いない。

「ヴィルがすき……すき、……すき、このむ」

この女、頭がおかしくなったか。

「……わかった。この依頼をした人は、お金持ちなんだ。
 ヴィルが好きなくらい、報酬が高いんだもんね」

なんだ。考えていたのか。
しかし一々声に出す必要はなかろうに。これだから知能の低い生物は。

「私が死んで嬉しいと思う人……。誰だろう……」

少し悩んで、娘は答えた。

「……どっちだと思う?身内か、それとも赤の他人か」
「さあな」

身内だろう。

何故なら依頼主が提供する情報にある、ターゲットの名前がこの娘のものではないからだ。
人間のコミュニティで娘と関わった者、ポップンパーティーの参加者はこの娘を『』という名で認識している。神達もそうだ。
勿論この娘が真名と通り名をわける習慣がある可能性はある。
しかし、そんなものがあれば、娘と黒神の二人きりの間で使われていただろう。
私はここ暫く二人の生活を監視していたが一切そのようなことはなかった。

すると『』という名以外で呼ぶ者は神ども以前より関わっていた可能性が高い。
一つの可能性。それが、娘の身内、または血縁者であること。
娘は一切血縁者との関わりが無い。
神が娘の一族を知らないはずが無いのに会わせないのは。
没していたとしても何も情報を教えないのは。

ある程度、想像がつく。

「私、あいにいく。そうすれば、あたらしいことわかるよね」
「ああ。そうだろうな」

事態はいったいどう転ぶだろうか。











「ごめんくださーい」

は自分の身長の何倍もある門の前で大声をあげた。
インターフォンを探したのだが、見つからなかったのだ。
かわりに監視カメラを発見したので、その前で手を振り、誰かに気付いてもらうことを祈った。

「こんにちはー。このお屋敷の方に会いたいんですけどー」

いくらが叫ぼうと、全く反応は無い。
どうしたものかと、が踵を返した時だった。

「……おかえりなさいませ、エリカ様」

使用人は言った。主人たちが待っていると。
は静かに頷き、使用人の案内を素直に受けた。
門から屋敷までは遠く、は使用人が運転する車に乗っていく。
の心は複雑だった。

こんなに大きな家が本当の私の家なのかという驚き。
何故私を殺そうとしているのだろうという嘆き。
何を見ようとも一切思い出せないという悲しみ。
知らない名前で呼ばれることへの違和感。

「どうぞ」

使用人は応接間にを通した。豪華絢爛な造りをしている。
惜しげもなく財を投じて造られたのは、ここだけではないだろう。
は周囲を観察しては、遠い目で屋敷を眺めていた。

「あの、私」
「主人が参ります。少々お待ち下さいませ」

ぴしゃりと言い放つと、そのまま使用人は退室した。
しかし、は気付いている。
この部屋の入り口には何人もの人間が待機しており、部屋に設置されたカメラで自分が執拗に見られていることを。 
緊張する気持ちを抑え何があっても冷静にいられるようにと、は努めていた。

物音が鳴る。は視線を投げた。

「久しいですね。エリカ」

硬い表情をした青年がに声をかけた。
会釈をすると、青年はの向かいに座る。

「今まで何処へいたのですか?」
「教えて下さい。私は、いったい誰なのですか」

青年は少し目を見開いたが、すぐに硬い表情に戻る。

「なるほど」
「お願いします。教えて下さい」

一つ長い息を吐くと、青年が話し出した。

「貴女は、この家の娘です。最も貴女の母親は違いますがね」
「ああ、だから暗殺者に私のことを依頼したのですね」

勢いよく扉が開けられ、武装した者たちが一斉に雪崩れ込み、に銃口を向けた。

「殺そうとするのは構いません。ですが、私という人間のことを教えて下さい。
 特に、この家を出た時のことを」
「……いいだろう」

怯まずにはいられない状況で一切恐れを見せないに、誰もが恐怖した。

「エリカは、父と、母の姉から生まれた子供だ。
 一応私達の兄弟と言うことにはなる。
 よくある話だが、父はお前を大層気に入っていたのだ。
 遺産もまさかお前に殆どが渡ることになろうとはな」

は青年の指が震えているのを見つけた。

「父が死んでお前は逃亡した。そして行方をくらました。
 そして、今日私の前に姿を現した。何故……お前は」

青年は顎を震わせ、を指した。

「お前は、どうして、当時の姿のままなんだ!!」

周囲の引き金が一斉に引かれた。室内に溢れる大量の硝煙での姿は見えなくなる。

「いい加減にしろ!あの時大人しく死んでいれば良かったんだ!
 それなのに、俺達の前に現れやがって!それも父の次は、神だと。
 男に擦り寄る能力をしっかり受け継ぎやがって!!」

青年は顔を真っ赤にして叫ぶと、周囲の男の一人が部屋の端へ連れ出した。
すると、一瞬で硝煙が消える。ソファーには、先程と変わらないの姿。

「大体理解しました。有難う御座います」

は立ち上がり深々と礼をする。その足元には潰れた銃弾が散乱していた。

「私、ここに戻る気はありません。今は別の名で新たな生活を送っていますから。
 だから、その、お金?はあなたが受け取って下さい。
 あ、でも、私達とおっしゃってましたから、多分他にもご兄弟がいらっしゃるのかな。
 だったらその方たちと分けて下さい」
「そんな簡単な問題じゃない!!お前が生きている限り駄目なんだよ!!」
「そう言われたって、私もそんな理由で死にたくないですよ。
 では、失礼しますね」

用は済んだと、颯爽と扉に向かうに、誰かが小声で言った。

「化け物か」

それを鼻で笑いながら、は自分の兄弟であると言う青年をもう一度見た。

「さようなら。もう二度と会うことはないでしょう」

頭を深々と下げると青年の横を通り過ぎていく。
ほんの少しの間に理解できない光景が広がったせいで、誰もが少女に手をかける事を諦めた。
少女は人間ではない。ただの化け物。
自分たちの手に負えないやっかいな生物。

「なっ、ヴィル!?」

驚いた少女の身体がぐしゃりと歪んだ。
生温かい血がぴゅーぴゅー飛び出し、鋭い骨が身体から突き出していた。
一瞬の出来事だった。

「貴様らの依頼、確かに遂行したぞ」

仮面の男は笑った。











「ヴィルって、ちゃっかりしてるんだね」
「何を言う。貴様にも少しやったろう」
「まあ、暫く生活出来るくらいのお金は頂いたけどさー」

屋敷から帰った二人は優雅にティータイムを過ごしている。
依頼主は目の前での惨殺に恐怖したのか、告知していた謝礼よりも上乗せして請求してきたヴィルヘルムに素直に報酬を渡した。
先に城に転移していたが冗談半分で、自分のお陰で報酬を受け取れたのだから、少し分け前をと言うと、ヴィルヘルムは二つ返事でに分けてやった。

「信じたくなかったけど、あれが私のお兄ちゃんか……なんかショック」
「どうせ、何も感じなかったのだろう。貴様は始終心が揺れなかった」
「そうなの。顔も似てないし、なんだか信じられなかったの」
「魂も類似したところは無かった。血縁という話も、嘘か、それとも別人か」
「それはないよ。そう力が私に言ってるもん」

紅茶を静かに飲み、ソーサーに戻す。

「これで私が普通の人間だということはハッキリしたね。次考えなきゃ。
 ……ま、正直手詰まりだけどね。後は二人しか知らないと思うの」
「同感だな。しかし、奴等はどこにいる」
「探っても駄目だったよ。黒ちゃんだけでなく、MZDもいないの」
「世界は目に見えて変化は無い。と言うことは、双神は存在しているということだ」
「そうだったらいいんだけどね……」

目を伏せたはカップに残っていた紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。

「今日はいいや。疲れちゃったし。明日からまた頑張る!」

トレンチを出現させ、テーブルの茶器を片付けていく。
全てを乗せると、ヴィルヘルムに言った。

「じゃあね。私お風呂に入って寝るよ」
「待て」

キッチンの方へ歩いていくを、ヴィルヘルムは呼び止めた。
何用かと、は首を傾げた。

「何?」
「私の城にわざわざ置いてやってるのだ。働け」
「えー……」

面倒だと、は隠すことなく嫌な顔を見せた。

「五回。私の命令を聞くという発言は嘘だったのか?」
「……了解。じゃあこれで一回だからね」

約束を守る性質のはやむを得ないと、汚れても良いヴィルヘルム城のメイド服に着替えた。

「それで。何をお望みですか?御主人様」










「……なんでお風呂なの?私でも一人で入れるよ」
「貴族というものは他人を行使させるものだ。自分で行うなど、庶民がすること」
「……逆に手間がかかって面倒だと思うけど」

するりと、マントが床に落ちた。

「マントと上着とズボンは皺ついちゃいけないから、ハンガーだね。後は自分で脱いで」
「何を言っている」
「え……」

上着は良いとして、ズボンは恥ずかしいのでしたくないというのがの本音である。
いや、ズボンまではいい。その先だ。が躊躇っているのは。

「どうした」

の葛藤とは裏腹にヴィルヘルムは不遜な態度でを見下ろしている。
も腹を括った。

「ジッとしてて……」

上着を脱がすと、次にシャツを脱がした。
引き締まった身体がの目に飛び込んでくる
暗殺業を行っているというのに、綺麗な身体をしていて、ジャックとは大違いである。

は一呼吸置くと、ベルトに手をかけてズボンを下ろした。
下着の上からでもわかる、女性にはない、もの。
黒神と入浴を共にしたことがあるは、それを見たことが無いわけではない。
だか、至近距離で男性の象徴を感じる機会はなかった。

「早くしろ。私の体調が崩れたら貴様が身の回りの世話と、暗殺依頼をこなすのだぞ」
「判ってるよ!」

心の準備はまだまだ出来そうにないが、苛立ち始めているヴィルヘルムを見ると、
躊躇っている場合ではないと思った。
どうにでもなれと、は目を瞑って下着を下ろした。
くるりと身体を反転させ、怒鳴るようにヴィルヘルムに言う。

「出来た!早くお風呂入ってきなよ!」

とくとくと速く鳴り出した心臓を感じる。
壁には目に焼きついたヴィルヘルムの身体がくっきりと浮かび上がってきて、の鼓動は止まらない。

「何を言う、貴様もこい」

心臓はよりいっそう、跳ねた。
思考が停止するの首根っこを掴み、ヴィルヘルムはずんずんと歩いていく。
は待ってと何度も訴えながらも、水で濡れた床で滑らぬように努めた。

「どうした」
「は、ずかしくないの?」
「何を恥ずべきことがある」
「そ、そう……」

ヴィルヘルムは広々とした浴槽に入り、はその後ろで待機している。
今はヴィルヘルムの後姿しか見えない。
とは言え、一度湧き上がってしまった羞恥心はなかなか消えることがなく、
煩わしい感情を振り払うためには一つ息を吐いた。

「娘、ぼやぼやするな」
「はいはい。なんですか」

背後三十センチのところまで近づいた。手を差し出される。
なんだろうと思い、はその手に手を伸ばした。

「っふぇあ!?」

浴室に大きな水音が響いた。その後すぐ、息を噴出したが水面から顔を出した。
上から下まで余すことなく、びっしょりと濡れている。

「何するの!」
「その邪魔くさい衣服を脱げ。湯が穢れる」
「……はぁ?!」

脱げというのは、ヴィルヘルムの目の前で全てを露わにしろということか。
黒神やMZDなら躊躇いは無いが、相手はヴィルヘルムである。
何をされるのか見当もつかない。もしも、最近の黒神が行っていたような行為をされるのならば。
は恐怖していた。まさかヴィルヘルムにまで身体をまさぐられ、口付けを強要され、好き勝手に弄ばれるのかと。

「早くしろ。恐怖は不要だ」

人間の感情が判るヴィルヘルムにはの抱く恐れは筒抜けだ。
信用していいかは分からないが、ヴィルヘルム自身は恐怖する必要がないと言っている。
気は進まない。何かあれば力を使って逃亡すればいいと、はゆっくりと身に纏う衣服を脱いでいき、浴槽の外へと置いていった。
顎まで湯につかり、身体を小さく折り畳んで腕は胸の辺りに待機させた。

「なかなか乙なものだ」

ヴィルヘルムは薄く笑った。それが何であるのか判らないは、
何か動きがあればすぐに逃亡をと、ヴィルヘルムの挙動に注意を払った。
しかし、待てども待てども、ヴィルヘルムは何も動かない。
焦れたは直接本人に尋ねた。

「あの……何が楽しいの……。ヴィル、絶対にこういうの嫌がりそうなのに」
「それだけの価値が貴様の魂にはある」

は納得した。ヴィルヘルムが見ているのは自分ではない。
揺らめく白光の自身の魂であると。

「……あの人が言ってた。美味しそうに見える?」
「美味であろうな」

魔族と悪魔の感覚は理解できない。魂とは命そのものであるのに、味がどうとは。
だが、自身も他の生物の命を刈り取り、糧とすることを考えれば、人間も魔族も同じだ。
ヴィルヘルムが今行う行為とは、豚や牛と共に湯船に浸かり、それを見ながら美味しそうだなと思っているようなものだ。
そのように考えると、ヴィルヘルムの感覚はやはり理解できないと、は思った。

「な、何?」

ふいに近づいたヴィルヘルムに、は身体を背けた。

「ジッとしていろ」

ヴィルヘルムは怯えるの肩に指を滑らす。

「っや、触らないで!」
「死神と一緒にするな」

どこまで知っているのだろうと恐怖した。
黒神がに行った行為は後ろめたく、はしたないものだと思っていたので、それをヴィルヘルムに知られることは、恥ずかしいことだった。
そんなの不安をよそに、ヴィルヘルムはの身体に指を滑らせていく。

「……何がしたいの?」
「貴様の魂と私の魔力の混合具合を確かめている」
「え!?何それ?!」
「現時点で問題は見られない。
 しかし……本来ならば拒否反応が起きるものだというのに、貴様には何も起こらないのだな」
「……私の知らないところで、そういう危ないことやめてよ」
「何の問題もないのだから、構うまい」
「構うよ……」

は発言を諦めた。何を言おうと馬耳東風。
気が済むまで魂と魔力の混合具合とやらを確かめさせてやろうと思った。

「っ」

触れられることはくすぐったいし、恥ずかしい。
加えて普段と違い、何も纏わぬヴィルヘルムがすぐ目の前にいる。
平常心を大きく揺さぶられる状況ではあったが、は天井の水滴を数えることで気を紛らわせた。

ヴィルヘルムは黒神とは違い、淡々と肌に触れていくとやがて離れていった。

「出る」

ヴィルヘルムが湯船から出るところから目を逸らしているに小さな魔術が飛んできた。
軽く叩かれた程度の痛みがの額に広がる。

「ぐずぐずするな。貴様もだ」
「私、まだ出なくて良いよ!」

裸体のヴィルヘルムは目に毒であるので、先に出て欲しかったのだ。

「ふざけた事を。使用人の仕事を全うしろ」
「全うって……」

何をしろというのだろう。







「え、えー……。本当にするの?」
「当たり前だ」

頭が痛い。以前ヴィルヘルムの下で使用人生活をしていた時はこんなことなかった。
入浴に関することで世話をさせられたことなど一度も無かったのだ。
それなのに、何故今日はこんなことをしなければならないのだろう。

「で、でも」
「早くしろ」
「……わかりました」

は躊躇いがちにヴィルヘルムの身体に触れた。
直接手で触れると、無駄な肉が一切無く引き締まった筋肉質の身体をはっきりと知ることが出来た。
は何も感じないようにと自分に言い聞かせ、さっさとヴィルヘルムの身体を洗っていった。
背中から始まり、手、足、そして、正面へ。

「えっとさ、大体したし、後は自分でしてもらえないかな?」
「何故?」

羞恥心というものが備わっていないのか。
は自分の感覚を理解してくれないヴィルヘルムに呆れかえる。
正面だってしたくなかったのだ。
視線をずらせば、見たくないものが目に入るから。
雄雄しく反り立つものなんて、は恐怖の対象でしかない。
それくらいは自分で綺麗にすればいいじゃないかと思っても、
ヴィルヘルム本人は何も気にしていないようで、嫌がるのことを訝しげに思っている。

「……恥ずかしくないの?」
「羞恥を感じる必要がどこにある」

怒っているわけではなく、不思議そうにを見ている。
だんだんと、は自分の頭がおかしいのかと思い始めた
所詮身体の一部にしか過ぎないのだ。ただ女性には無いだけで。
ちょっと見た目が可愛いものではないだけだ。

「あの……痛かったらごめんね。あの!優しく、する、から……」

覚悟を決めたとはいえ、恥ずかしさを捨てきれないは目を瞑ってそれに手を伸ばした。
暗闇の中で手探っているため、なかなか目標に達せない
ここか、そこか、どこだ。
このままでは一生触れられないと、は薄目を開けた。

「ヴィル?」

そこにヴィルヘルムはいなかった。











遅すぎる。と、出てすぐには怒られた。
自分で感じた時間よりも、実際は長い時間が過ぎていたらしい。
小言は言われたが、触れたくないものに触れずに済んだのではほっとした。

「はぁ」

自分の入浴を終え自室に帰ってきたはベッドに身体を投げ出すと大きな溜息を吐いた。
今日は大して動いていないと言うのにひどく疲れた。
目を瞑ると今日の出来事が思い出される。


血の繋がった家族にとって、は、必要な人間ではなかった。
殺したいほど邪魔な存在であるということを教えられた。
生家というものは、もっと懐かしいような気持ちのいい感情が生じるものかと思ったがそれは大きな間違い。
記憶の無いには何の感情も湧いてこず、血の繋がりがある者もただ他人にしか思えなかった。


少しは気になっていた自分の家族。もうきっと彼らのことを思い出すことはない。
あれはにとっても必要な人間ではない。
にとって、家族とも呼べる人とは、やはり黒神とMZDである。

は強烈に黒神との触れ合いを所望した。
落ち込んだ時、悲しい時にを励まし支えてきたのは、いつだって黒神だった。
でも、その黒神も、今はどこにいるのか判らない。

嗚咽は出ずとも、涙はさめざめと流れてくる。
は頭の中で繰り返し、いつも傍にいてくれる人の名を呼んだ。
MZDほど強固な太いものではないが、も黒神と繋がっている。
運よく届いてくれないかと、は何度も何度も黒神を呼んだ。
しかし、何の反応も返ってこなかった。

「会いたい。……会いたいよっ」


いつどんな時でもを探し当てる黒神は、を迎えには来ない。
沢山の小言が今では懐かしかった。





「だから!駄目だっていつも言ってるだろ!」

「……今何時であるか言葉に出して言ってみろ。短針も正確に読み取れ」

「怪我がなくて良かった。……本当に心配したんだぞ」

「……反省したか?じゃ、一緒に食べよう。お腹すいたろ」










どきりとして、は飛び上がった。

「何して……」

突如部屋の中に現れたヴィルヘルムに、見られぬように急いで涙を拭った。その最中。
ヴィルヘルムは、を押し倒した。

「っ、えあ!?」
「ジッとしていろ」

何故だか判らないが、ヴィルヘルムはの頭を撫でた。
目の前にいるのが、本当にヴィルヘルムなのか疑わしい。
傷つけ、壊すばかりの指がまた、の髪を梳いていく。
被り物のないヴィルヘルムの鋭い瞳が、容赦なくを射抜いている。
今にも獲物を喰らおうせんばかりであるのに、その手は何時までたっても喉笛を裂かない。

「どうして、そんなに優しいの」
「……魔族に、優しさというものは存在しない」
「じゃあ、どんな利益を見込んでいるの?」
「貴様に教える必要はない」

判らない。ヴィルヘルムのことが。
気を許しても良いのだろうか。こんなに信用できない人を。
駄目だ。そんなこと。
魔族だから信用できないのではない。
ヴィルヘルムだから信用できないのだ。


誰かに今自分が思う全てを話したい。そして受け入れて欲しい。
そんなことをしてくれる相手は、一人しかいない。





────黒ちゃん、会いたいよ。




(12/11/26)